ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

名人伝

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

貴族の特性

中島敦の『名人伝』の最後で、弓の名人は、「是と非の分を知らぬ」と言った。
善と悪の区別を知らないということだろう。
だが、美しいか美しくないかの区別がつかないとは言わなかった。

普遍的な善や悪はない。
それを決めるのは個人の観念だ。
美と醜も同じかもしれない。
しかし、善と悪は個人としても難しいが、美と醜は個人としてはシンプルだ。
だから、ものごとを善いか悪いかで判断するより、美しいか美しくないかで(あるいは、可愛いか可愛くないかで)判断する者の方が優れたことが出来るのである。

正しくなろうと思わない方が良い。
美しくなろうと思うことだ。
悪になるまいと思わない方が良い。
醜くはなるまいと思うことだ。

そして、ものの価値を決めるのは自分である。
自分が良いと言えば、それが普遍的な価値になる。
それが分かれば、世界の所有者と言え、世界の王であり、支配者であり、世界を自由に作り変えるだろう。
それには、まず、美の価値を知ることである。







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忘れることの不思議な力

最近の私は、ヒンズースクワットとヒンズープッシュアップに夢中だ。
※ヒンズースクワット、ヒンズープッシュアップは、プロレスラーが行うスクワット、腕立て伏せで、昔、来日した、インドの強豪レスラーだったダラ・シンが力道山に教え、今に至るもプロレス界に連綿と受け継がれている、究極のトレーニング。

毎晩、これをやることが楽しみでならない。
ヒンズースクワットは、連続で150回、あまり歩かなかった日は200回、休日は250回・・・と控え目に行うことで、必ず毎日出来るようにしている。
ヒンズープッシュアップは連続で30回で、これももっとやれるが、毎日続けるとなると、このくらいが私には丁度良い。
だが、体力の向上と共に、回数は増えていく。

ところで、ヒンズースクワット等は、かなり苦しい運動である。
しかも、部屋の中で一人、黙々と繰り返すのであるから、普通は、精神的にもやや辛いかもしれない。
だが、非常に良いところがある。
それは、やっている運動以外のことは全て忘れることが出来ることだ。
あなたは、忘れたいことがないだろうか?(あるに決まっている)

忘れることほど、人間にとって楽しいことはない。
ルイス・キャロルが、少女への手紙で、こんなことを書いていた。
「忘れるレッスンに通い始めました。仕事や自分の名前も忘れました。先生は、『月謝を払うのだけは忘れないで下さい』と言われましたが、先生のレッスンがあまりに素晴らしいので、それも忘れました。忘れることは楽しいことです」
とても面白い冗談ではあるが、きっと、キャロルの本音でもあるのだろう。

忘れることは、楽しいだけでなく、素晴らしいことだ。
中島敦の『名人伝』で、究極の弓の名人は、ある時、家の中で、ある道具を見て、「これは何だろう?見たことがある気はするが・・・」と思った。
なんと、それは弓だった。
弓の名人が弓のことを忘れたのだ。
それが、万有と一体化した、解脱した人間の在り様であると思う。

私の場合、腕振り運動では、余計なことを考えてしまう。
だが、ヒンズースクワットであれば、少し苦しいということもあり、運動に集中して、よそ事を考えずに済むのである。
腕振り運動で何も考えずに済むようになれば、これだけで良いのかもしれない。
だが、私にはまだ、ヒンズースクワットやヒンズープッシュアップが必要である。
もちろん、体力向上著しく、また、身体を活性化し、若返らせることが出来る。

尚、運動以外のことは忘れても、運動のことまで忘れてはならない。
小説・アニメの『灼眼のシャナ』で、悠二への想いに心乱れるシャナは、
「戦いが起こればいい。何も考えなくても済む戦いが」
と思い、実際に、マージョ・リー・ドーとの戦いになった。
しかし、シャナと一体化した魔神アラストールは驚く。
「(シャナは)常の戦い方を忘れている」
そして、シャナは敗北する。
彼女は、まだ、戦いを忘れても戦えるような進歩した段階・・・弓の名人が弓を忘れるような究極の達人ではない。
ピアノの真の達人は、ピアノを演奏することを忘れて、究極の演奏をする。
しかし、それまでは、ピアノ以外のことは忘れて、ピアノに熱中する必要がある。
ヒンズースクワットやヒンズープッシュアップだって、ちゃんと考えながら行い、よりよくやれるよう工夫しなければならない。









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エア訓練の驚くべき効果

リー・ヴァン・クリーフとジュリアーノ・ジェンマが共演したイタリア映画『怒りの荒野』で、ジェンマ演じるスコットは、馬小屋の中で、壊れた拳銃を使って、銃を抜き、構え、撃つという練習を熱心にやっていた。おそらく、毎日やっているのだろう。エア・ギターと同じ意味でのエア・ガンといったところである。
エア・ギターというのは、別にギターの練習の意味はない。ギターが上手くなりたければ、本当に演奏してみるしかない。
しかし、ギターが手に入らない状況では、エア・ギターもまた、ギターの練習である。
スコットは、毎日、エア・ガンを行い、ある時、本物の銃を手に入れた時は、即座に素晴らしい腕前を発揮できた。
果たして、そんなことがあるのかというと、それは、心の活性度合いとか、なり切り度の問題で、スコットのように、毎日、熱心にやっていれば、全く意味がない訳ではないだろう。

こんな実話がある。
ある若いビジネスマンが、自分が心から尊敬し、憧れる大物ビジネスマンの部屋とそっくりの部屋を自分のために作り、服や煙草も、その大物ビジネスマンのものと同じものにするなど、可能な限り、その大物ビジネスマンになり切った。
もちろん、この若いビジネスマンは、自分でもビジネスを熱心に行ったのであろうが、やがて、その大物と同レベルとまではいかないながら、相当なビジネスマンになったのだ。
彼がやったのは、エア・大物ビジネスマンといったところである。
この場合、その若いビジネスマンは、現実において大物ビジネスマンの真似をせず、空想でだけ、その大物ビジネスマンになり切るイメージ・トレーニングを行うという方法もあっただろうが、現実の要素を取り入れた方が効果的だと思ったのだろう。
よほどの想像力がある人間であれば、イメージ・トレーニングだけで大きな効果を上げられるかもしれないが、やはり、ある程度は実際にやってみた方が、より強い鮮明なシミュレーションが出来て、効果的なのかもしれない。

バスケットボールで、シュートの練習を、イメージ・トレーニングでやるというのは、効果が高く現れる選手と、さして効果がない選手とがあるらしい。
これも、想像力の差や、あるいは、やる気の問題であろう。やる気というのは、「こんなもんに意味があるのかい?」と疑いながらやるようでは、やる気にならないといったもので、その場合は、やはり効果は薄いだろう。
だが、シュートのイメージ・トレーニングも、実際のシュートの動きをすれば効果的になる場合が多いらしい。
これも、より気分が高まり、熱意も上がるからであろう。
さっきのビジネスマンの例を参考にすれば、憧れる選手のユニフォームや背番号を付けたり、ちょっとしたポーズを真似たりすれば、さらに気分や熱意が高まって、良い効果を引き出すこともあると思う。

そして、人間の精神の本当の力は計り知れないのである。
風邪をひいた人に、「特効薬だ」といって砂糖が入ったカプセルを飲ませると、実際に治るというプラシーボ効果については明らかに存在するし、それどころか、全ての薬はプラシーボなのだという医学者もいるほどだ。これまでの話の流れで言えば、エア・ドラッグである。
そして、フランスのルルドの泉水では、さほど多くはないとはいえ、一定数の奇跡的治癒が起こっているが、これこそが、気分やイメージが最大に高まったことによる精神の力なのである。

ジョン・レノンは、人々が平和をイメージすれば世界は平和になると信じていたのかもしれないが、それは、気分の高まり、熱意、想像力次第である。
イメージだけでなく、エア・平和というべき、何らかのシミュレーションを、実際に行うことも非常に効果的かもしれない。
そして、我々自身の問題でいうなら、解決したいこと、向上したいこと、成就したいことについて、イメージだけでなく、ある程度のエア訓練を取り入れることが効果的である。
そして、エア訓練・・・シミュレーションともいえるが、そんなことを普段から、様々なことでやってみることが、エア行為そのものの、イメージ力、実現力を高めることになるだろう。
私は、中学生の時、エア・ナイフ投げというものを熱心にやっていた。手に何も持たずにやっていたのだが、中島敦の『名人伝』の弓の名人が、弓を持たずに空の鳥を落とすというイメージもあったせいで、楽しくやっていた。ある時、実際にナイフでやってみたら、おそろしく上手くいくので、ちょっと恐くなったことがある。
これが、ピュアな想像力の力である。
あなたも、本気でエア訓練をやれば、効果は想像を超えるのである。









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エア修行のすすめ

エア・ギターというものをご存知と思う。
早い話が、「ギターを弾いているフリ」で、誰でもすぐに出来る。
ミュージシャンの中にも、「ギターが弾けない」からという理由で、ステージでエア・ギターを行う人もいる。
しかし、エア・ギターそのものを独立したものとして取り組み、高度なパフォーマンスを見せるアーティストもいる。
そして、近年では、エア・ギターの競技会も盛んで、1996年からは世界大会も実施されているが、実際にはギターが全く弾けないアーティストが優勝したこともある。

本来はエア・ボクシングと言っても良いと思われる一人で行うボクシングは、一般にはシャドー・ボクシングと呼ばれているが、シャドー・ボクシングの本当の効果は未知なものであると思うのだ。
そして、近年、国内では、エア・ボクシングの競技会も実施されるようになり、この競技に参加する人も増え、プロ化もされているようだ。おそらく、世界に広がるのではないかと私は思う。

脳科学者の茂木健一郎氏は、英語上達の重要な訓練として「エア・英会話」を挙げていたが、エア、つまり、仮想で行うことは、現実にも効果を現すのである。
いかなることに関しても、エア行為は上達、進歩に有益であるが、実は、想像以上の効果があるのである。
私は、ある高名な空手家が、実際に巻藁(藁で棒を巻いた、正拳などを打ちつける道具)やサンドバッグを叩く訓練をする者と、空突きをする者に分けてやらせたところ、空突きをしたグループの方が上達していたということを著書に書いているのを見たことがある。

エアー・XXXXXは、「ごっこ」とも言えるが、「ごっこ」は人間だけが行えるものであるだけでなく、人間の無限の可能性を示すものであることに気付いているだろうか?
『列子』や、中島敦の『名人伝』に登場する弓の名人は、手に何も持たないまま、弓矢を射る格好をするだけで、空を飛ぶ鳥が落ちて来る。
弓の名人は、訪ねて来た弓の名手に対し、「お前は、射の射は知っているが、不射の射を知らない」と言う。
これは、エア弓道を超えたサイコ(精神)弓道である。
神を目指す者は、これを、ただのお伽噺と捉えず、その深い意味を知るべきと思う。

仙道家の高藤聡一郎氏は、著書の中で、信憑性のある話として、ある不思議な老僧のことを取り上げている。
金槌で釘を打ち込むのも難しい堅い木に、その老僧は、指1本で軽く押さえるだけで釘を入れてしまった。
その僧に、どうやってやるのかと尋ねると、修行方法だけ教えてくれた。
その僧は、実は修行らしきことは全くしないのだが、瞑想中に、大木を地面から引き抜くことをずっと想像していたら、ある時、出来そうな気がして、実際にやってみたら出来たという。
次は、大岩を持ち上げることを想像してみたら、やはり出来た。
それで今は、山を持ち上げることを考えているのだという。
想像とはいえ、山を持ち上げるほどの者にとって、釘を指で差し込むことなど、あまりに容易いのである。
私も、想像で高い屋根に飛び上がる行をやっているが、やはり、驚くほど身軽になったのである。
また、国内でも、想像で滝行をすることを勧める霊能者もおり、僅かな日数、実際に滝に打たれるより、想像で毎日やった方が余程良いと言う。

私が常にお奨めしている、人を超える法は、腕振り運動や、心の微かな声の呪文であるが、このエア修行も、是非追加したい。
別にやらなくても良いが、やれば、超人になる速さや到達するレベルが高まることは間違いないだろう。
尚、ごく基本として行うべきこととしては、少食(極端なものではなく、満腹するまで食べて自分を甘やかさないこと)と、規則正しい生活(なるべく早い同じ時刻に起きる)がある。
基本だけですら確実に実施すれば、どう考えても駄目な人間に留まるはずはないのである。
まして、その上の、腕振り運動や、心の微かな声の呪文をやれば、人を超えるだろう。
そして、エア修行に励むことで超人になれる。
だが、まずはエア行為を楽しむと良いと思う。
『僕は友達が少ない』に登場する美少女、三日月夜空が、小鷹に出会うまでは頻繁に行っていた「エア友達」との会話は、実は彼女を特殊な存在に高めたことに注意しなければならない。









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「心を込めろ」なんて簡単に言う者はただの馬鹿である

「心を込める」という言葉があるが、これほど分からない言葉もない。
例えば、「心を込めた料理」と言うことがあるが、豪華でも心の込もっていない料理もあれば、ごく質素でも心が込められた料理もあるだろう。
我々は「心の込もったサービス」を求めるが、それは、本来は、単に「品質が高い」とか「上手い」サービスではないはずだ。
心の中では、「この下賎(身分の卑しいこと)の者が!」と思いながら、高品質なサービスをすることだってできるのだが、そんなサービスをされるのは嫌だろう。

「心を込めて挨拶しなさい」だの、「心を込めて掃除しろ」だの言う者は馬鹿に決まっている。
だって、心を込めるなんてものは強制されてできるものじゃないなんてことは「馬鹿でも分かる」ことじゃないか?

「愛しているよ」と女の子に言うと、彼女は「今の、心が込もってない」と文句を言う。
そりゃきみぃ、あんたが、心を込めて「愛してる」って言われるに値しないってだけのことじゃないのかね?

「心を込める」も「気持ちを込める」も同じだろう。
映画『燃えよドラゴン』で、少林寺の拳法の達人リーが、弟子の少年に稽古をつける場面があった。
「蹴ってみろ」
リーが弟子に命じると、弟子はリーに向かってハイキックを繰り出して見せる。
するとリーは、険しい顔で、少年を見下しながら、
「何だ今のは?」
と詰め寄る。
「気持ちを込めるんだ!もう一度!」
とリーに言われた少年は、あきらかに腹を立てた様子で、勢いを増したキックを出す。
するとリーは、より蔑んだ表情でまた弟子に詰め寄る。
「込めろと言ったのは『気持ち』だ。『怒り』じゃない」
そして、弟子に繰り返し、蹴りをやらせるが、その中に良い蹴りがあった。
そこでリーは、少し微笑み、
「どんな感じがした?」
と尋ねると、弟子は、「えーっと・・・」と考える。
すると、リーは少年の頭を手ではたき、
「考えるんじゃない!感じるんだ!」
と戒める。
西洋人から見れば、「東洋の神秘」とか「曖昧で訳の分からない東洋の問答」だ。
いや、今や、我々東洋人にとっても、ほとんど同じである。

どうだろう?
難しいだろう?
こんな難しいことを、いとも簡単なように、「心を込めろ」なんて言うのは、やっぱり馬鹿なことなんだ。

心の込もった行いとは、どんなものだろう?
それを荘子は「無為の為」と言ったのだ。
「行為の無い行為」という意味であるから、言葉の上では明らかに矛盾だ。
そして、「無為の為」なんて言われたって、分かりゃしない。
この「無為の為」を説明する「馬鹿な先生」は多い。
そんな「センセー」は、やれ、存在論だの、量子論だの、心理学だの難しいことを言って、無為を「説明した気になって」自己満足しているが、誰も分からない。
分からないのは、聞いている者が馬鹿だからとでも言いたげだが、言ってる本人が分かっていないだけのことなのだ。

だが、『荘子』を、「心を込めて」読むことは無理としても、「真面目に」読めばだんだん分かってくる。
いや、正しくは、「無心に」読めばだ。
いやいや、この「無心に」こそが、「心を込める」ってことなのだ。
心ってのは、込めちゃうと消えちゃうのだ。いや、消すことが込めることだ。

『列子』にも似た話があるが、中島敦の『名人伝』に、「無為の為」を示す良いものがある。
天下一の弓の名人を目指す男が、修行を積み、いよいよ師と対決したら、全く互角で勝負はつかずに終り、2人は抱き合ってお互いの技量を讃える。しかし、この時、師は不吉なことを言う。
「我らの技など、真の名人に比べれば児戯のごとし」
びっくりした弟子は、すぐに師に言われた真の名人を訪ねる。
天下一を熱望するこの男は、名人の前ですぐさま矢を射て、自慢の腕を披露する。
名人は、「まあ、そこそこはやるようじゃな」と言う。
そこで、名人は、彼を、崖のてっぺんの、ぐらぐらする岩の上で矢を射てみろと言う。
しかし、男はそこに立つと、恐くて、へたり込んでしまう。
そこで、名人が代わってそこに立ったが、名人は弓を持っていない。
しかし、名人が矢を射るふりをしただけで、鳥が空から落ちてきた。
あまりの技量の差を思い知り平伏する男に、名人は言う。
「お前は射の射は知っていても、不射の射は知らぬ」

法然は、念仏をひたすら数多く唱えることを薦めた。法然自身、1日6万回唱えたという。
しかし、弟子の親鸞は、心を込めてただ一度唱えさえすれば良いと言った。
法然は一応、親鸞のような考えを否定し、「私はそんなことは言っておらぬ」と戒めた。
やはり、「心を込めて念仏を唱えること」は難しい。
それなら、空念仏でも数多く唱えれば、その中で心が込もることもあろう。
法然や、そして、親鸞自身、そう考えたのかもしれないのだ。

本当に心を込めるとは、次のようなものだ。
あなたが本当に愛している人が目の前にいたとしよう。
あなたは、「愛している」と言ってはならない。
しかし、相手を見ていたら、自然に、「愛してる」という言葉が出てきたとする。
それが、心の込もった「愛している」だ。
心が込もった行為や言葉とは、自然に出てくる行為や言葉なのだ。
これを無為自然と言う。









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