ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

吉本隆明

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

凡人に極められる分野は1つだけ

幸福な一生にしたければ、自分が好きで得意なこと・・・出来れば、三度の飯より好きなことを見つけ、それに邁進することだ。
出来れば、早いうちにそんなものを見つけ、1万時間もやれば、「1万時間の法則」が大体正しいと思うので、プロになれる。
そして、プロの中でも、所詮、長い時間を費やした者が抜きん出る。

ところで、では、コンピュータープログラミングはどうかというと、注意しないといけないことがある。
コンピュータープログラミングと言ったところで、分野が多いし、近年、ますます多くなってきた。
OSやコンパイラなどを作る基本システム分野、通信分野、グラフィック分野、統計分野、シミュレーション分野、企業システム分野、AI・・・そのいずれにも、さらに、小さくはない専門分野がある。
IT業界で、上位者として楽しく仕事をしている人は、ある程度は何かの分野に特化している。
私のように、あれこれ手を出してきた者は中途半端になる。
どの一分野も、生涯をかけても、なかなか究極までは到達しないので、やはり、いずれは(ただし、あまり遅くなく)専門分野を決めた方が良い。

アインシュタインは学生時代、数学と物理学のどちらの研究者になろうか迷ったらしいが、数学は、その一分野でも一生をかけて足りないと思ったことが、物理学を選んだ1つの要因であったらしい。
それでも、世の中には、ロジャー・ペンローズのような数学者にして物理学者という凄い人もいるし、数学に強い物理学者も多い。
だが、アインシュタインがそうなのだが、湯川秀樹も数学はあまり強くなかったらしい。
しかし、そのように、物理学に特化したから、2人は大成功したのかもしれない。
大谷翔平さんも、ピッチャーかバッターかのどちらかに特化した方が良いと思う。
また、ピッチャーの中でも、野茂英雄さんは、ほとんど、ストレートかフォークしか投げなかったという。
それどころか、ナックルボールを磨きに磨いて、それ一本で名投手になったメジャーリーガーもいて、考えてみたら、それは楽しいことだと思うのだ。
バッターでも、ホームランしか狙わなかった落合博満さんや、単打を重視したイチローも、やはり、特化を狙ったことが良かったように思う。

言うまでもなく、「俺は酒の道一本」だとか、グルメ道に血道を上げるとか、色の道一筋というのは、まあ、99%以上は悲惨な結果になる。
エドガー・アラン・ポーは、確かに酒が入る度に筆も冴えたらしいが、彼は普通の人ではない。
しかし、この大天才も、酒のために40歳で貧困の中で病死している。
しかも、その2年前、エドガーが24歳の時に13歳で結婚したヴァージニアも結核で死んでいる。
まして、凡人である我々は、ある程度は快楽を避け、節制に励むべきだし、快楽の誘惑に勝てるだけの充実感を得られるものを見つけることが大切だ。
思うに、ポーは天才過ぎて割と簡単に成功出来たので、余裕があり過ぎたことが災いしたのだろう。

とにかく、「自分の専門は何か」に対し、1秒で答えられないなら、迷い多い人生になりかねない。
その問いに対し、まさか「酒飲み」とか「ただのゲーマー」とは答えられない。
そして、長年続けてきたことに価値があれば、望まなくてもお金は入って来るだろう。
けれども、何も特別なことを続けてこなかったら、寂しい晩年になる。
元マイクロソフト日本法人の社長だった成毛眞さんは、著書の中で、既に歳を取っていてもいいから、定年までに何かで1万時間やることを薦めていた。確かに、歳を取っている場合、やり直しがきかないので、真剣にならざるを得ないが、危機感を感じて真剣に考えれば、良い道が見つかるものだ。
ところで、何かに一途に取り組んでいるとして、「これをやっていて、本当に食えるようになるのか」ということは、私ならあまり考えない。
日本を代表する思想家の吉本隆明さんは、「物書きになりたいなら、とにかく毎日書け。書けなくても書こうとはしろ。それで10年やれば必ずモノになる」と書かれていたが、それが本当かどうかは分からない。
だが、スティーブ・ジョブズが、スタンフォード大学での有名な講演で言ったように、信じるしかないのである。
結論。
好きなことを見つけ、それで身を立てられると信じ、粘ることだ。
そのためには、やはり、いつも言う通り、アファーメーションが大いに力になるはずだ。








悪魔にズタズタにされないために

我々は、自分が理不尽な目に遭うことを恐れている。
簡単な例で言えば、有力者に殴られたので警察に訴えたが、相手は有力者で警察の上部とつながっているので、警察に相手にされないばかりか、長い間粘り強く訴えたら、逆に自分が名誉棄損で訴えられ、こっちは即座に刑務所に送られた・・・みたいな話だ。

我々は、この世に正義があることを信じたいのである。
赤穂浪士の討ち入りの話が人気があるのも、そのためである。
理不尽に切腹させられた浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の仇を、臣下の大石内蔵助(おおいしくらのすけ)が取って、主君の無念を晴らすという話を信じたいのだ。
今回のアメリカ大統領選挙で、一般民衆の多くがトランプ大統領に味方するのは、もちろん、正義のためというのもあるが、トランプ大統領側の言い分が全く認められない理不尽に対する恐怖心があるのだと思う。

あまり壮大なお話ではなく、身近に感じられるお話の例として、こんな時代劇の話がある。
ある30代の武士は、主君に嫌われていて、毎日いじめられて辛い目に遭っていたが、家族のためにも耐えていた。
しかし、主君は、その武士の妻が気に入り、ついに連れ去ってしまう。
これまでの恨みも重なり、遂に武士もキレるが、田舎でもあり、訴えるところもないので、主君に直接、抗議文を送ったが、主君は、「それは謀反だ」として、「〇〇月〇〇日に取り押さえに行く」と通達した。
その武士には家来はいないので、自分と、年老いた父の二人が鎧を着て、主君の家来の数十名の精鋭を迎え撃つが、当然、一瞬で叩きのめされ連行され、拷問的な刑罰の末、処刑される。
いやあ、そんな目には遭いたくないものだ(笑)。

日本を代表する思想家であった吉本隆明氏は、学校の中にもある、正義が通用しない理不尽・・・例えば、教師によって理不尽な目に遭わされることについて、
「社会の理不尽は、学校や教師によるものとは比較にならない。だから、学校で鍛えておかないと社会でやっていけない」
として、教師を反面教師と捉えることを勧めていた。
まあ、それも一理あるが、私の個人的な考えでは、社会はまだ正義が通用するところがあるが、学校こそ、全く不法な悪の巣窟であると思う。

だが、いずれにせよ、邪悪な悪魔のなすがままにされてはならない。
そのためには力が必要だ。
敵はいつ攻撃をしかけてくるか分からない。
しかし、力があれば、「この程度はどうということはない」と涼しい顔をしつつ、致命傷を避けることが出来る。
では、どうすれば力が得られるかというと、そんなものはなくても、神様に守ってもらえば良い。
敵と同じ種類の力を持ち、その力で対抗したところで、必ずしも勝つとは限らないし、勝っても被害を受けるものだ。
だが、聖書には書かれている。
「神があなたの代わりに戦ってくれる」
と。
こう言うと、宗教的な妄想と言われるかもしれないが、厳しい状況にある者こそ、経験的に、これが確かと知っている。
リン・ウッド弁護士が、極めてヤバい状況で、聖書の言葉を盛んに引用するのも、そのためだ。
トランプ大統領の愛読書である、ノーマン・ヴィンセント・ピールの著書『積極的考え方の力』の最後に、「なぜ神の力を求めないのか?」と書かれている。
大統領が不屈であるのは、ピールに学んだことが大きいのであると思う。








諦めた方が良い人達

以前、テレビで、こんなものを見たことがある。
「自称歌手」の50代とか60代の人達を集めたのだが、彼らは全く売れておらず、それでも、明日の成功を夢見て頑張っているといったものだったと思う。
もちろん、絶対に可能性がないとは言えないかもしれないが、まず、間違いなく、彼らにスポットライトが当たる日は来ないだろう。
イギリスの歌手スーザン・ボイルのような例もあるが、彼女は賭け値なしに歌が素晴らしいのである。

また、プロサッカー選手になる夢を持つ青年がいたが、もう30歳近くで、どこかの企業のサッカーチームにでも入っているのかもしれないが、そこで特に注目されてる訳でもないようだ。
彼もまた、希望が叶う可能性は、ほぼゼロだ。

しかし、彼らは夢を捨てる気はないようだ。
なぜ、そんな人達がいるのだろう?
割と話は簡単で、彼らは、夢を叶えるために注ぎ込んだ時間が少な過ぎたのだ。
十分な時間を注いでいれば、見極めと、それに伴う諦めもつき易い。
しかし、そうでなく、余裕があるから、自分にはまだ伸びしろがあると勘違いしてしまうのだ。
プロのスポーツ選手や、プロの歌手でも、それほど長時間練習しないという人もいるかもしれない。
だが、そんな人達は、何か特別な才能があるというよりは、日常生活そのものがトレーニングになっている場合が多いのだと思う。
有名な陸上選手には、道を歩く時にも、競技のトレーニングになるような歩き方をする者は少なくないだろう。
ギミック(意図的なキャラクター設定)かもしれないが、昔、手で顔や胃袋を締め上げる「クロー攻撃」という技を必殺技としていたプロレスラーが、常に野球ボールを持ち歩き、握力を鍛えていたといった話があったが、それと似たことを本当にやっているスポーツ選手は沢山いるだろう。
スーザン・ボイルだって、長年に渡ってレッスンは欠かさなかったはずだ。

高い目標であれば、少なくとも、毎日欠かさない訓練が10年は必要と思う。
そして、本当に事情があって、訓練が出来ない日があるにしても、出来ない訳でもないのに訓練を休むことが、月に2度もあれば、プロになることは不可能だ。
逆に言えば、1日の訓練はそれほどハードでなくても、継続すれば高い目標を達成することもある。
作家の村上春樹さんは、学生時代、毎日、必ず原稿用紙10枚書いたが、それ以上は書かなかったという。
思想家の吉本隆明さんは、著書に、「物書きになりたければ、10年、毎日書けば必ずモノになる」と書かれていたが、1日中書けとは言っておらず、「書けなくても書こうと思え」と言われていることから考えると、やはり、量というよりは、休まず継続することが大切そうだ。

言っては悪いが、最初に取り上げた、プロの歌手になり損ねた人達(その時点でだが)は、才能や容姿以前に、やはり、毎日欠かさず練習することがなかったのではと思う。
さっきも述べたが、それをやっていれば、駄目でも諦めがついたはずである。
そういえば、私も、超能力者を目指していると言いながら、毎日訓練していない。だから、いまだ大師でないのだろう。








息子や娘に本当に価値あるものを残した人達

偉い哲学者、思想家、教育家の息子や娘は、大抵駄目だ。
いや、偉い人の息子や娘はと言うべきか。
だから、偉い人の偉そうな教えなんて真面目に聞くと馬鹿を見る。

例外としては、精神科医のミルトン・エリクソンと、思想家の吉本隆明氏がいる。
エリクソンは、普通の医者なら一生かかっても治らない疾患を一瞬で治したが、彼の高校教師の娘も、不良学生を一瞬で更生させたし、それどころか、高校生の時には、学園のヒーローを電話1本で落とした。父親の能力をそっくり受け継いでいるのだ。
吉本隆明氏の娘は、作家の吉本ばななさんと漫画家のハルノ宵子さんで、父、隆明は、自分の子供達が、ぼーっとしてたら、それを大切とし、日本最高の思想家である自ら、買い物かごを持って、妻の命を受けた子供達の代わりに買い物に行った。

ぼーっとする大切さは、画家の足立幸子氏や、UFO研究家の矢追純一氏、物理学者の保江邦夫氏らが、著書の中で散々述べていると思うが、少なくとも、吉本氏は、自分の子供達にも実践させたのだから偉い。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』の中で、宇宙の原理に対する理解が深まってきたアメリカの探検隊は、目の前で自分達の仕事が自動的に「出来上がっていく」のを見た。
エリクソンは、仕事の山を前に意識を失うと、目が醒めた時には仕事が片付いていた。
いずれも、ある意味、ぼーっとしていたのだ。
ぼーっとすることを教えることが出来る親が、真に優れた親である。
さあ、みんな、ぼーっとしよう。
だが、容易いことではないぞ。








本当の謙虚さ

子供の時、徳川家康や宮本武蔵など、昔の人を描いた映画やテレビドラマを見ていて、
「こんな昔の人のことが、なんで、こんなに詳しく分かっているのだろう?」
と不思議に思ったことがある。
子供らしいと言えば子供らしいのだが、大人でも、そんな疑問を持った方が良いかもしれない。
改めて言えば、そんな映画やドラマは、想像と言うよりは、ほとんど空想なのであり、妄想と言っても悪くはないほどなのだ。

映画やドラマよりはマシなような気もするのが書籍である。
評伝なら、それなりに客観性を持たせているような気がするが、それすら、著者の個人的想像の部分が非常に大きく、その人物のことを描いていると言うより、著者の個人的な思想の中に、「歴史的事実かもしれないことが、ちょっぴり書かれている」くらいに思えば良いのだと思う。
しかし、それが悪いかと言うと、評伝著者が優れている場合は、あくまで、その著者の思想が素晴らしいだけなのだが、そう悪いものではない。
逆に言えば、著者の思想が下らないと、歴史上のどんな偉人も貶められてしまうのである。

吉本隆明は優れた人であると私は思う。
まあ、彼の『共同幻想論』は読めたものではなかったが、それは、読んだ当時、『古事記』や『遠野物語』、あるいは、フロイト心理学の知識がなかったせいもあり、そろそろ読んでも良いかと思う。
そして、彼の、親鸞について書いた『今に生きる親鸞』はとても良かったと思う。
彼の親鸞伝について、著書の中で痛烈な批判をしていた人がいたが、私には、その本(吉本隆明の親鸞伝を批判した本)の方が、いかにも個人的主張だらけで、ずっと下らなく感じた。まあ、それも私の主観ではあるのだが。

吉本隆明と私の親鸞の捉え方は異なっていた。
吉本は、親鸞は「善いことはしてはいけない」と教えたとしているが、私の解釈では、親鸞は、「善いことをする必要はない」と教えたのだと思っている。
法然に関しても、やや違ってて、吉本は、法然は「善いことをするのは、悪くはない」と言ったとしいているが、私は、法然に関しては「善いことはしようと思わない方が善い」と言ったのだと思っている。

ただ、親鸞に関し、「悪いことをしようと思わなくて良い」は共通の見解と思う。
親鸞の時代、馬鹿な男が、積極的に悪いことをするのが良いと誤解して、実際、悪いことをしていたのだが、親鸞は、
「悪いことをするのは構わないが、薬があるからといって毒を飲む必要はない」と、それが愚かしい考えであることを、やや遠回しに述べている。
だが、親鸞が「善いことをしてはいけない」とまで言ったというのは、私は違和感を感じた。

しかし、吉本が正しいのだと思うようになった。
親鸞は「善いことをしてはいけない」と教えたに違いない。
おそらく、「善いことをしようと思ってはならない」と言った方が正確なのかもしれないが、「善いことをしてはならない」と言いきった方が、親鸞の教えを鋭く感じ取れる。
つまり、善いことをしようなんて思ううちはまだ、自分というもの・・・自分の愚かさが解っていないのだ。
お前(私のこと)ごときに善いことが出来るなどと、片腹痛いのである。
つまり、謙虚さが全く足りないということだ。
もちろん、「私に善いことは出来ない」と自覚しても、それで謙虚な訳ではないが、救いようのない傲慢さからは、少しは離れることが出来ているのだろう。

では、人に親切にしたり、思いやったりはしてはならないかと言うと、そうではない。
そうではないが、そういう行いは、自分の心が善いからするのではなく、あくまで縁とか因縁で、させられるだけである。
私も善いことはする方だが(笑)、それが純粋に相手のためを思ってやっていることは・・・まずない。
自己満足や、評判の獲得等の自分の利益のためであり、客観的に見れば、なんともあざとい(あくどい)もので、我ながら顔をしかめたくもなる。
まあ、その中には稀に、「妙に善い行い」もあるが、それは、初音ミクさんや天使がそうさせてくれたのだろう。それは悪い気分ではない。

善いことはしない。
ただ、コスパが高いからという計算が働いて、せいぜい善行も行う。
それで心が痛むなら、念仏を唱えれば救いもあるだろう。

本日正午から、初音ミクさんのライブ「マジカルミライ2019」の「チケットぴあ プレイガイド最速先行」(チケット抽選)が始まる。
どの席でも良いから、ミクさんのお誕生日(8月31日)の土曜夜のチケットが欲しい。
皆さんも、自分が行きたい日で忘れずに応募するように。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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