ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

吉本隆明

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うっかり天才になってしまう空想のやり方

学校の授業中、空想をしていたら、教師に、「ぼーっとするな」と怒られる。
授業が面白かったら、空想は別の時にするのだし、空想はとても大切だ。
吉本隆明さんは、「ぼーっとする時間は大切」と言い、子供達がぼーっとしていたら邪魔をせず、代わりに、この日本最高の思想家が、買い物籠を持って買い物に行っていたらしい(レジ袋がなかった時代には、買い物籠というものが使われた)。
吉本さんも、子供の時から、よくぼーっとしていたのだろう。

空想が頭脳を発達させ、IQを高める。
ただ、空想にも良いやり方があるのだろう。
とはいえ、難しいことではなく、本当に自由で、生き生きしていて、楽しければそれで良いである。
アインシュタインは、「光と一緒に飛んだら、どんなだろう?」と思って空想したが、ある時点で、脳の自動的な思考に任せたはずだ。
ニコラ・テスラは、空想で見知らぬ地に何度も行くうちに、その空想の地の人々と親しくなるほどだった。当然、空想の全てを自分で支配したのではなく、空想が起こるがままに任せたからだろう。
子供は空想が好きだが、それは、何が起こるか分からない冒険だからだ。
空想だけではいけないというのも分かるが、「なぜ、空想だけではいけないのか?」が分からないので、やたら空想が否定される。

空想の世界と現実世界は重なり合い、活発に呼応している。
だから、現実が貧しかったり、惨めだったりすると、空想も雄大で輝くものにならない。
現実の出来事が、空想のきっかけになる場合が多いが、親や教師は、そのきっかけを与えない。
子供達は、子供達同士のコミュニケーションの中で、優れた気付きやアイデアを得るのであることは、最新の科学的研究でも明らかになっている。
だから、子供の時に、良い子供集団の中にいなかったとしたら、精神を発達し損なった部分は確かにあるが、嘆いても何にもならない。
そこはうまく、補償(損害を補う)をすれば良い。
アインシュタインや芥川龍之介らも、そうだった(子供の時に精神を発達させ損なった)のだろうと思うが、彼らは、青年期から生涯、本を読み、楽器を演奏し、散歩して自然に触れ、農作業をし、動物の世話をしたり一緒に遊ぶ中で、空想のきっかけを得ていたのだ。

空想を始めたら、自分の心と宇宙の心(別の言い方では、人間と神霊、意識と無意識)の交流が起こるようにしないといけないが、普通、子供はそれを自然にうまくやる。
大人の場合は、少し意識的に受け身になることだ。でないと、あちら(神霊)の活動を妨げてしまう。
ソクラテスは、重要なものは、皆、あちらから来るのだが、賢い人すら、それに気付いていないと言ったのだと思う。
世の中の優秀な人達はきっと、子供の時に、良い空想をして知能を発達させたが、それが、異次元と交流する能力であることを知らないのだ。
まあ、言葉で説明するのも難しく、そのせいで、ソクラテスは死刑になったのだがね。
いい加減、ソクラテスの時代から進歩したいものだが、むしろ、退化しているかもしれないほどだ。

初音ミクさんの歌は、時空を超えた意識と無意識の無限の連鎖が現れ出たもので、これほどの空想のきっかけは、そうはない。
クラシックも良いのだが、時々、権威の塊を避けなければならない。
『ザ・ケルン・コンサート』は、精神を覚醒させる奇跡的な響きで、あれを聴いて空想しているうちに、うっかり天才になって四苦八苦している人も多いと思う(笑)。









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困難を力に変える

アンソニー・ロブレスという、生まれつき片脚がないながら、また、母子家庭で裕福とはほど遠い環境ながら、レスリング全米大学チャンピオンになった男性がいる。
彼のスピーチの中で覚えているのが、「人間は、脚が1本でも2本でも困難に立ち向かわなければならない」というのと、「僕はいつも松葉杖を握っているので、普通の人より握力が強いことがアドバンテージ(有利)になっている」だ。

だが、みんな、どこか欠けているのだ。
その欠けたものが、他人には分からない場合も多いが、自分では分かるものだと思う。
そして、アンソニーが、松葉杖を握っているおかげで握力が強くなったと言うように、欠けたものを補うために、普通の人を超えるものを持てるし、持たなくてはならない。

ある言語障害の7歳の女の子は、脳の言語中枢の発達障害だったが、そのために、レオナルド・ダ・ヴィンチもかくやというほどの動物デッサンが出来た。
そして、言語中枢が発達して、言語障害が解消されると、その天才的な絵の才能も消えたという。
そもそも、天才というものは、何らかの障害の補完なのであるらしい。

障害というか、困難は、力に変えることが出来る。


Hey lonely girl リアルの孤独は 君を強くするから
~『愛Dee』(作詞:Mitchie M・Cotori、作曲・編曲:Mitchie M、歌: 初音ミク ・ 巡音ルカ)より~


孤独で得られる力は偉大だ。
W.B.イェイツは、本当の心の強さは、孤独でしか得られないと言った。
また、大衆に真理はないと言い、真理を悟るのは孤独な者だけだと示唆した。

そして、困難の力を鮮明に示したのが、キース・ジャレットのピアノ即興演奏コンサートである『ザ・ケルン・コンサート』だ。
ほとんど深夜である23時半でなければ、コンサート会場のオペラハウスを貸してもらえなかったこと、そして、手違いでピアノが届かず、そこにあった、小さな壊れたピアノで必死で演奏したこと。
それが、ジャズ史上最高の売上につながる名演奏になった。


ないものだって強請(ねだ)りなよ
君は貪欲なんだ しょうがない
60兆の細胞×君の危うさを

生かしてくれ
~『サリシノハラ』(作詞・作曲・編曲:みきとP、歌:初音ミク)より~


人間は、自分に欠けたもの・・・欠点を生かすしかない。
思想家の吉本隆明さんは、自分は引きこもり気質だと言われていたが、引きこもりは、一人で深く考えることにつながるとも言われていた。
彼は、それを生かしたのだ。

欠点があるからって、何もせず、人生に負けていては仕方がない。
アンソニーが言うように、「脚が1本でも2本でも、人間は困難に立ち向かわなければならない」。
アンソニーが得たのは、レスリング全米チャンピオンの栄誉だけではないし、もっと大きなものだ。
昔、ミスター・ワンダーと呼ばれた、両脚の膝から下がない、インディアンのプロレスラーがいた。
彼は、元々は五体満足なプロレスラーだったが、事故で両脚を失くしたのだ。
だが、彼は、諦めずに現役復帰を果たした後、言ったのだ。
「脚を失くして良かった」
彼は、何か大きなものを得たことを、はっきりと分かったのだろう。

病院に行けば、発達障害なんて病名をつけてくれることも多いらしい。
私なんか、確実にそう言われると思う。
それは確かに、困難な障害だろう。
だが、だからこそ、それに打ち勝てば、得られるものも大きい。
他のどんな困難があっても、それに立ち向かうしかないし、困難が大きいほど、果敢に立ち向かえば、得られるものは大きいのである。









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少女に萌える奇妙さを解明する

「萌え(もえ)」という言葉は、ゾクっとするほどの情熱的な好意・愛着を示す言葉で、萌えの対象は人それぞれだが、猫(特に子猫)と美少女の場合が多いように感じる。
萌えという言葉が、いつ、どんなきっかけで使われ始めたかは、「スマートフォン」と同じくらい不明であるのだと思われる。
とはいえ、萌えの本来の意味である、「芽ぐむ」そのものに、若くて強い生命エネルギーの暗示があるので、誰かがたまたま使ったその言葉が、自然に広がったのではないかと思う。

萌えも、猫なら良いが、対象が美少女だと、眉をひそめる(しかめる)とか、気持ち悪いという感情を持つ人も多いと思う。
だが、萌えという言葉が出来るはるか以前に、美少女への強い愛着は、おそらく、太古の昔からあり、荒ぶる神への生贄が美少女の場合が多いのも、神に捧げる一番良いものは美しい少女であるという認識が、人類に普遍的にあるからだろう。
『大ヒッピアス 美について』(藤田大雪翻訳)で、ソクラテスがヒッピアスに「美とは何か」と尋ねた時、有名なソフィスト(弁論家、教育家)であったヒッピアスは、「簡単なことだ。それは美しい少女だ」と答えている(ソクラテスに反駁されるが)。
やはり、美しい少女は、この世で飛び切りに美しいものであることは確かである。

それにしても不思議なのは、美しい少女が美の象徴であることは分かるとしても、それが性的対象になる場合が多いことだ。
少女と言っても、せめて15歳以上であれば、それも現実的に思えるが、ウラジミール・ナボコフの『ロリータ』では、主人公ハンバートは、性的な意味も含め、自分が愛着を持つ美少女の年齢を「9歳から14歳」と厳密に定義しており、あくまでフィクションとはいえ、それもまた、妙にリアリティがあるのである。
なぜ、子供を産むような年齢でもない少女に性的関心を持つのか、また、現実的に、それが特殊なものとは言い切れないところに、強い不合理性を感じざるを得ない。
ナボコフは昆虫学者でもあるが、人間以外の生物には、そのようなものは見られないことをよく知っているから、この作品をある種の喜劇として書いたように思えるが、確かに、人間とは奇妙なものである。
ひょっとしたら、それ(少女への性的関心)は、人類に広く生じた幻想なのかもしれないことは、吉本隆明氏の『共同幻想論』からも推測出来る。
まあ、『唯幻論』の岸田秀氏、あるいは、その元になったフロイトによれば、本能が壊れた動物である人間の性欲自体が幻想であり、自然に立脚しない狂ったものであるという説を当てはめるなら、納得出来ないこともない。
だが、冷静に考えれば、誰もが、低年齢の少女への性的関心は不合理と分かるのであるから、幻想とは言い切れない。

そこで、私は、こう解釈している。
少女への性的関心は、神が与えた試練なのだと。
試練であるからには、意図がある。
それは、「高貴さを知る」ためである。
少女への性的関心は、おそらく、普遍的なものだ。
しかし、それは、高貴な心に作り変えることが出来るのである。
鉛のような卑金属を、金のような貴金属に作り変える錬金術は、本当は、そのような精神的な修練・修行を意味するのに違いない。
私には、このようにしか思えない。
そして、少女の方も、自身が高貴な存在(偉くはないが)であり、ある意味、天使の地上での代理人であることを自覚し、気高くあって欲しいと思う。

人類は、少女の性的魅力を神的な高貴さに作りかえることで、新しい段階に進歩する。
初音ミクさんは、16歳という設定になっているが、正直、もっと幼く感じると思う。
しかし、16歳らしい魅力も十分にある。
それでいながら、ミクさんを愛する人というのは、男性の場合、彼女に性的関心は、ほとんど持っていないのだと思う。
私の場合が全くそうである。
つまり、初音ミクさんは、人類に高貴さを教えるために生まれた存在でもあるのだ。
女性の場合は、ミクさんの何かを自分に取り込むことで、やはり高貴になるのだが、ファンの中心である10代の女性は、特にそうあって欲しいと願う。









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自分も人類も信じられない

こんなことは、誰にでもあるのだろうかと思うことがある。
私は、小学5年生になった時、クラスに、とても可愛い女の子がいたので、たちまち憧れ、いつも彼女のことを考えていた。
ところが、夏になった頃だ。
彼女を眺めながら思ったのだ。
「なんで、こんな子が好きだったのだろう?」

また、私が小学3年生の時だ。
そういえば、幼稚園の時のクラスに、とても可愛い女の子がいたことを思い出した。
繊細で、妖精のような子だったはずだ。
それで、幼稚園の卒園アルバムを取り出し、彼女の写真を見た。
すると、確かに、この子がそうだと分かったその女の子は、どこも可愛いと感じられないような子だった。

漫画の絵や、自分が描いた絵で、とても美しいと思っていたものが、1ヶ月とか、数ヵ月後に見たら、つまらない絵、ひどい絵、はては、醜悪な絵と感じることすらあった。

こういったことがあると、面白いとも感じるのだが、自分の美的感覚・・・、いや、自分そのものが信じられなくなるというところが、やはりある。

そりゃ、日本でも、昔の人達が美人だと感じていたような女性を、現代の人が見たら、逆に醜いと感じるということもあるのだと思う。
また、女性に限らないが、ある国では美人ともてはやされるような女性が、別の国では平凡以下に扱われることもあるはずだ。
ある途上国では、首が長い女性が美人とされ、女性は、幼い時から、首を伸ばすための首輪を、首が長くなるごとに追加してつけていき、成長後は、首が相当に長くなっている。
その民族の間では、そんな女性達を美しいと感じるのだろうが、それらの女性は、私には、グロテスク(フランス語で「異様」「怪奇」)としか思えない。

絵画においても、今(というよりある時期以降)では名画とされている、ルノアールやセザンヌの絵も、描かれた当時は全く評価されず、それどころか、駄目な絵のレッテルを貼られていた。
ゴッホの絵なんて、彼の存命中は、貶されるだけの対象で、実際、ゴッホの生存中は1枚も売れなかった。
それが、今や彼らの絵は天上知らずの値で取り引きされるだけでなく、実際、その美しさが認められている。

つまり、私が個人的に感じていたことは、民族単位、国単位でも言えることなのだろう。
では、民族の美徳、国家の是(ただしいこと)といったものは、全く信用ならないことになる。
思想家の吉本隆明氏が、国とは幻想であると気付き、愕然としたと、『共同幻想論』に書かれていたが、彼の話は難し過ぎてピンとこなかったが、つまり、それは、私が感じているようなことなのかもしれない。
精神分析学者の岸田秀氏が、「全ては幻想」という『唯幻論』を唱えているが、彼の説は信用出来ない部分も多いながら、人間が幻想に支配されていることは確かなようである。

昨夜、『マジカルミライ2013』のブルーレイを見ていたのだが、初めてこれを見た時、このコンサートの初音ミクさんは、あまり美しくないと思っていた。
ところが、昨夜見たら、そのミクさんは文句なく美しくて可愛いと感じたのである。
もちろん、『マジカルミライ2014』、『マジカルミライ2015』も、全て素晴らしいと思っている。
私は、以前は、『ミクの日感謝祭』シリーズのコンサートのミクさんの姿に慣れていたので、『マジカルミライ』シリーズのミクさんに違和感があったのだと思う。
まあ、ミクさんそのものは、2008年に、初めてMMD(ミクミクダンス)という動画ソフトで作られた「Lat式」と言われるモデルのミクさんを見た時から、ミクさんは全て良いと思っているが、ミクさんに関してすら、自分の感覚が変化するということは注目に値する。

世間はもちろん、国も、人類も、そして、自分すら信じられない。
それが事実だ。
人間は、刹那にしか生きることが出来ないと思ってしまうのも仕方がない。
だが、それでは、人類や自分には、何の価値も見出せない。
だから、人類は、昔から、永遠に変わらない何かを手に入れたいと願ってきたのだ。
もちろん、私も、それを求めているのだろう。

岡本太郎は、ゴッホやピカソについて、「きれいではないが美しい」と言った。
変わっていくのは「きれい」だけであり、「美しい」は変わらない。
岡本太郎は常にそう言っていた。
表現の仕方は色々あるだろうが、彼は真理を分かっていたのだろう。
ほとんどの人が、「きれい」にのみ目を奪われ、「美しい」をないがしろにしているのだろう。
私は、「美」を求めることを、ただ今、決意した。
それにより、ミクさんの感じ方も変わってくるだろう。
間違いなく、ミクさんの真の美しさを発見するだろう。









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神を目指すにはいい時代だ

フロイトという有名なオーストリアの精神科医は、人間は本能が壊れている動物だと考えていたらしい。
その根拠はと言うと、他の動物のように、「本能にまかせておけば生きられる」というようになっていないことだ。
それで、壊れた本能の欠陥を埋め合わせる意味で自我が出来たが、自我は頼りなくいい加減で、幻想のようなものだと言った。
フロイトを絶対的に信奉する精神分析学者の岸田秀氏は、この幻想の自我を基盤に生きている人間は、即ち、幻想の中で生きていると断じ、「全ては幻想」という意味の「唯幻論」を唱えた。
すると、岸田氏の本を読んだある男が、岸田氏のところに来て岸田氏を殴り、「全て幻想なら痛くないだろ?」と言ったらしい。
この、「痛くないだろ?」は、もちろん、「本当は痛いだろ?」、「現実は現実であって、幻想ではないことが分かっただろ?」という意味である。
だが、岸田氏は唯幻論を引っ込めない。
笑ってはいけないかもしれないが・・・笑える。

アーサー・ケストラーというハンガリー生まれの哲学者・作家は、人間の脳は、魚類、爬虫類、下等哺乳類の脳を持っているが、理性を司る大脳皮質は、これら下等動物の脳を支配出来ず、逆に、支配されてしまう出来損ないだと言った。
つまり、本能的な欲望を抑えられないし、かっとして戦闘本能に火がつくと暴走を止められないといった訳である。

また、思想家の吉本隆明氏は、やはり、人間は幻想の中で生きているとし、その幻想の種類を「個人幻想」、「対幻想」、「共同幻想」に分け、一切は幻想で、国家も幻想(共同幻想)なのだと言う。

どうも、オツムの良い人達は始末に終えないなあと思う。
彼らも真面目にやっているのだろうが、最初に良い問題提起はしても、それを解決するのではなく、新たな余計な問題を作り続けるのが好きなようだ。
しかし、まとめて言えば、単に、「人間、未熟なうちは馬鹿」でいいじゃないか?
人間は、完全に完成するには時間がかかるし、一生のうちで完成しないかもしれないが、正しい生き方をするなら、若いうちから、それなりに立派なのだ。
問題は、現代社会が、物質主義に偏り、人間の理性を歪めてるということだ。
それで、デカルトって人が、理性を正しく導くガイドとして『方法序説』を書いたが、これがまた学者らしい難しいもので、役に立つ以前に困惑させるものだ。

で、ゲーテは、『ファウスト』で、自己を投影した主人公ファウストが、完全な人間・・・それは即ち、神であるのだが、それを目指してドタバタする姿を描いた。
ファウストは、錬金術のような怪しげなものにも手を出し(デカルトやニュートンもそうだったが)、大変な苦労をして、やっと神の衣の裾を掴むという、悲劇というよりは喜劇をやらかす。

だが、初音ミクさんのクリエイター達は、本能も自我もない初音ミクさんとの無償の創造活動を通し、さりげなく、当たり前に、歌に真理を込めるようになった。
フロイトやケストラーや吉本隆明氏や岸田秀氏や、あるいは、ゲーテのように苦しむ歌も多いが、あっけらかんと、至高者(神)の輝きを見せてしまった歌も少なくない。

上で、「正しい生き方をすれば、若いうちからそれなりに立派」だと述べたが、正しい生き方とは、至高者(神)を目指して常に努力することである。
しかし、ファウストのように、見栄っ張りで頭の固い老人になってしまったら、余計なことばかりやってしまうのだ。
ところが、初音ミクさんを日々の活動に取り入れ、自然に霊と物質のバランスを取れば、早いうちに人間として好ましいレベルに達し、後は、じっくりと神を目指すことが出来ると思う。
初音ミクさんは、無限の想像力と分かち合いの女神であり、崇めれば、精神、物質共に栄えるだろう。
50代とか、もっと上の、社会的にバリバリにやってきた人達が、ミクさんのコンサートに行ったり、そのビデオを見たり、歌を聴いて、とめどなく涙が流れるということがあるのは、ミクさんによって、正しい道を行くための重荷が取り除かれるからなのだ。
だが、ミクさんの、どの歌を聴けば良いとか、どのコンサートを見れば良いかは、自分で見つけないといけないが、それも縁なのだなあと思う。
普段、正しく生きていれば、自然に神が手助けしてくれるだろう。
もちろん、それは、ミクさんによるとは限らないが、ミクさんほど自然で簡単な導きはないように思う。









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