ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

古事記

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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聖典のすゝめ

真言を、より楽しく、快適に唱え、ひいては、早く願いを叶えるために、関連の聖典を1つ読んでおくと良いと思う。
聖典の多くは、本来、子供でも読めるほど易しいもので、それに、おとぎ話のようで面白いものだ。まあ、難しく翻訳したい先生がいるから、少し困るのであるが、聖なる書は、誰でも簡単に読めてしかるべきものである。

主に、念仏と、観世音菩薩について述べる。

念仏の場合、元々、法然の『選択本願念仏集』と、親鸞の弟子、唯円が親鸞の教えを書いた『歎異抄』があり、特に、『歎異抄』は短くて読み易いので、これ1冊でも十分である。
ただ、念仏の場合、『浄土三部経』と呼ばれる、『無量寿経(大無量寿経)』『観無量寿経』『阿弥陀経』の3つが、根本聖典になっている。
(龍樹の『十住毘婆沙論』を挙げる人もいるだろうが、これも、主に『観無量寿経』を元にしている)
この中で、私は、『観無量寿経』をお勧めする。
理由は、短くて、おとぎ話のようで面白いということもあるが、阿弥陀仏や観世音菩薩、それに、勢至菩薩について、釈迦が詳しく、素晴らしい説明をしてくれているので、念仏を唱える時に、良いイメージが持てるからである。
尚、念仏というのは、一般的には「南無阿弥陀仏」であるが、本来は、仏を念じることで、そのためには、名を呼ぶことが最も自然なのである。
だから、特に、「南無阿弥陀仏」でなくても、「阿弥陀」「阿弥陀仏」と唱えても良い。好きなら、サンスクリット語で「アミターバ」と唱えても良い。
また、阿弥陀如来真言である「オン、アミリタ、テイセイ(テイゼイ)、カラウン」も同じと考えて良いと思う。
私は、「阿弥陀仏」と唱えることが多い。そして、その際、『観無量寿経』に書かれた、釈迦が語る阿弥陀仏の印象が微かに心にあり、これが実に良いのである。
私も、『観無量寿経』を、それほど熱心に読み込んではいないが、それでも十分と思う。
また、『観無量寿経』を読むと、阿弥陀仏や観世音菩薩の名がどれほど貴く、その名を唱えることが、どれほど威力があることかも分かるのである。

次に、観世音菩薩の名を唱えることに関しては、『法華経』の25章『観音経』を読むことをお勧めする。
『法華経』全体は長いが、『観音経』だけなら短い。
『観音経』には、観世音菩薩が、どれほど凄い力を持っているかだけでなく、観世音菩薩が、想像も出来ないほど偉い仏(呼び名上は菩薩だが)であるかが釈迦によって語られており、やはり、観世音菩薩の名を唱える時に、わずかでも、その印象があると、やる気が違ってくる。
観世音菩薩の名の唱え方は、「南無観世音菩薩」「観世音菩薩」だが、好きなら、サンスクリット語で「アヴァローキテーシュヴァラ」と唱えても良いし、「観音様」でも良いと思う。
また、観世音菩薩の真言である「オン、アロリキャ、ソワカ」も良い。
ところで、般若心経の呪文、
「ギャテイ、ギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテイ、ボウジ、ソワカ」(中国語)
「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」(サンスクリット語)
は、観世音菩薩を讃える意味が大きいので、これを唱える時も、観世音菩薩の印象があるのは、やはり良いと思う。
(中国語、サンスクリット語、いずれを唱えても良く、効果も同じである)

必ずと言うわけではないが、長いものではないので、おとぎ話でも楽しむように、『観無量寿経』や『観音経』を読むと、大きな利益があると思う。
願い事が叶い過ぎて恐くなるかもしれない(笑)。

尚、イエスの名を唱える場合は『新約聖書』の『福音書』を、クリシュナの名を唱えるなら『バガヴァッド・ギーター』を読むと良いだろう。
天照大神の名を唱えるなら、『古事記』の上巻だけでも読んでおくと良いと思う。
ちなみに、私は、『古事記』では、大国主神(おおくにぬしのかみ)と火遠理命(ほおりのみこと)のファンであることを明かしておく(笑)。












真言の謎

昔、スウェーデンに、エマニュエル・スウェーデンボルグ(スウェーデンボリ。1688~1772)という万能の天才がいた。
彼は、科学技術、政治、芸術、霊界研究などと共に、聖書の解釈にも力を入れたが、聖書に関する、彼の、ある指摘が興味深い。
それは、アダムとイヴが楽園を追放された後、カインとアベルという兄弟が生まれるが、カインはアベルを殺し、アダム達のところからも追放される。
ところが、カインは、自分が他所の土地の者に殺されることを恐れた。
もし、アダムとイヴが唯一、神に作られた人間なら、他に人間がいるのはおかしなことになる。
つまり、全ての人間がアダムとイブの子孫ではないということだ。
このことを、特に、スウェーデンボルグは指摘したのである。

では、日本ではどうかというと、同じなのだ。
天皇家に関しては、一番元の先祖は、イザナギ、イザナミであり、イザナギが最後に生んだアマテラスオホミカミ(天照大神)の子孫が天皇である。
ところが、アマテラスオホミカミの弟スサノウが高天原を追放されて地上に降りた時、地上には、地上の神である国津神(くにつかみ)がいた。
ただ、国津神は、イザナギ、イザナギが生んだ、沢山の神々や、その子孫であると思われるので、いたとしても不思議はない。
ところが、『古事記』では、人間の起源が分からないのである。
ギリシャ神話では、プロメテウスが土から作ったものにゼウスが息で命を吹き込んで人間が出来たことになっていて、これが一番分かり易い。

だが、聖書でも、古事記でも、記述されていないが、神は、いろいろな場所で人間を作ったのだと思われる。
すると、我々一般人は、神の直系の子孫ではないということになる。
ただ、神の生命は込められて持っているのだ。
聖書でもギリシャ神話でも、人間の生命は、神が息とともに吹き込んだものである。
『古事記』では、そのような記述はないが、息によってかどうかはともかく、神の生命を人間に与えたことは間違いない。

仏教は、神は登場するが、神は、ただ、ずっと昔から存在している貴いものとして扱われている。
そして、人間が仏(仏陀、如来)になることが仏教の主題である。
仏、神、人間の起源ははっきり述べられていないが、やはり、最初に神がいて、神が人間を作ったのだろう。その人間には、やはり、神の生命が入っている。
その人間が、神のような存在になれば、それが仏なのであるが、いったん人間になってから神に戻った者を仏というのだと思われる。
そして、そんな、人間の経験を持つ神である仏が特別扱いされている。
神にとって、いったん、人間になること、あるいは、神の生命が人間に入って生きることに意味があるのだ。
ただ、人間に入った神は、力を大きく失うので、自由自在ではなく、苦労をする。
そこで、人間が、神の力を取り戻す手段が設定されているのである。
それが真言であるが、真言の基本は念仏なのである。
念仏とは、本来、阿弥陀如来(阿弥陀仏。阿弥陀。アミターバ)の名を唱えることだ。
そして、他の仏の名を唱えたり、阿弥陀や他の仏を讃える言葉(これが、各仏・菩薩の真言だ)にも、それに近い力があり、それらは全て真言である。
なぜ真言に力があるのかというと、簡単に言えば(簡単に言うしかないが)、真言の中に、人間が神の力を回復させるプログラムが組み込まれているからだ。
そんなわけで、念仏や、真言や、様々な仏・菩薩の名(この名自体が真言であるが)を唱えるほど、神の力を取り戻せるのである。
仏教は、人間が神の力を取り戻す直接的な方法が述べられている点が特殊で、本来、分かり易く、有り難いものである。

ところで、経緯は分からないが、般若心経の呪文という特別なものが人間に与えられている。
般若心経の呪文は、念仏のような真言とは、やや機能が異なるが、ダイレクトに神の力が発動する特殊な呪文、あるいは、真言である。
よって、これを唱えると、特に、保護の力が強く、安全である。
その呪文は、サンスクリット語では、
「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」
で、中国語に音写されたものが、
「ギャテイ、ギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテイ、ボウジ、ソワカ」
であるが、どちらも威力は同じだし、正直、少々言葉が違っても調整されて、間違いなく力が発揮される仕組みはある。それは、多くの聖者や研究者が確認していることである。
人間が、神の力を取り戻す、実践可能な簡単な方法は、真言だけである。
他にも方法はあるが、有効ではあっても、効果は少ないのである。
よって、真言を大いに唱えるべきで、その中で、般若心経の呪文は、この世において直接的な効果が高いので、唱えることをお勧めする。








鮮やかなまでに巧妙な真言の仕組み

昔から多くの人が知っている伝説には大きな力がある。
それは単に、長く語り伝えられた知恵や教訓であるからだけでなく、多くの人間がそれについて想い、考え、意識することで、人々の集合意識の中に生命力を蓄えてきたからだ。
フロイトは認めなかったが、ユングは、意識には、個人の意識だけでなく、全ての人が共有する集合無意識があり、人間は皆、集合無意識でつながっていると考えていた。
集合無意識の存在を前提にしないと説明出来ない現象は沢山あり、ユングは著書の中で、本当は、フロイトも集合無意識を認めていたはずだという確信を示していた。

長く多くの人が聞き、話し、想った神話やおとぎ話といった伝説は、集合無意識の中で確固とした存在となり、その生命力は強く、人々や、さらには、現象にまで影響を与える。
物質や物質世界は人間の心が作り出す・・・少なくとも影響を与えることは、科学的にも確かである。

ただ、よく知られていることを悪用され、宗教は支配者の洗脳支配のために使わることが多く、集合無為意識の中で負のエネルギーになっている場合がある。
ところが、面白い・・・と言うべきではないかもしれないが、支配者が利用するのは、新しい宗教なのである。
つまり、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は皆、共通して、旧約聖書を聖典とするが、支配者が、旧約聖書を民衆の洗脳に使うことは、あまりない。
その理由は簡単で、読めば分かるが、旧約聖書は意味が分かり難く、洗脳支配に利用し難いのだ。
洗脳というものは、誰でも簡単に分かる話を使うしかないのである。
だが、新しい預言者(イエスやモーセなど)によって語られたことが書かれた新約聖書やコーランは、支配者に都合の良い解釈を押し付け易く、洗脳に使われてしまったのである。
そこにいくと、確かに、旧約聖書を探求するユダヤ教信者は、洗脳され難いという特徴がある。
そして・・・むしろ、ユダヤ教徒の中の一部の頭の良い人間達が、世界を洗脳支配したのである。

さて、洗脳論が目的ではないので、よく知られた伝説には力があるという話に戻る。
我々は、支配者によって捻じ曲げられた部分をうまく避けて、伝説の力を利用すれば、大きな利益を得る。
そして、それは難しくない。
ただ、庶民の最後の武器である真言によって、簡単に行えるのである。
よく知られた伝説と言えば、やはり、宗教が関係し、各宗教の信仰者は、キリスト教が33%、イスラム教が20%、ヒンズー教が13%、仏教が5.9%、ユダヤ教が0.2%であるが、信仰者の数が決定的な問題ではない。
例えば、ユダヤ教信仰者が0.2%と言っても、旧約聖書の利用率で言えば、キリスト教やイスラム教の53%が入るのである。
その中の、良い伝承を使えば良いのである。
旧約聖書の格言などには、支配者に利用されなかったものが沢山あるが、例えば、「心を静め、自分が神であると知れ」などは、支配者に利用する方法はなく、力ある言葉であるが、使う者は少ない。
神道となると、信仰者は世界的に見れば極めてわずかで、その典拠となる『古事記』や『日本書紀』となると、世界においては無に等しい。その上、神道は明治政府に悪用された歴史もあるが、実は、神道の根幹は、民衆の集合無意識の中に、深く、ピュア(純粋)な形で息づいているのである。
例えば、『古事記』の神が、支配者に味方した話など全くなく、神は神として、自由に考え、行動しているという伝説は守られているのである。
ここらは、ギリシャ神話も同じだ。
そして、『古事記』も『ギリシャ神話』も、あるいは、『旧約聖書』も。最初から、洗脳支配に利用されないように作られていたフシがあり、これらには、古代の叡智や、ひょっとしたら、宇宙人の善意の協力も感じるのである。
だから、「アマテラスオホミカミ」という神の名を真言として唱えれば、集合無意識に潜むエネルギーが、良い形で味方してくれる。
念仏となると、むしろ、支配者に弾圧されながら、真摯な僧や民衆の中で生き続けたのであり、集合無意識の中でのエネルギーの純粋さ、強さは、もし、視覚化出来るなら、実に巨大で美しく眩いものであり、これを真面目に唱える者に恵を与えないはずがない。
そして、こういったことは、優れた真言全般について言えるが、特に、昔も今も、民衆に人気の高い観世音菩薩の真言、あるいは、観世音菩薩が主役の『般若心経』や『十句観音経』の力は非常に大きいのである。
だから、「南無観世音菩薩」とか「オン、アロリキャ、ソワカ」、あるいは、「観音様」と唱えるだけで、ものごとは良い方向に流れ出し、数多く唱えれば奇跡も起こる。
修験者は、数多く般若心経や般若心経の呪文を唱えることで、神通力を得た者が多いと言われる。
尚、般若心経は、呪文のみを唱えるべきと言う研究者がいるが、私もそれに賛同している。
また、神仏の名、真言、聖典の言葉には、宇宙意識と通じるまでになっている場合が多く、それらを真言として数多く唱えることで、至高の力が味方してくれる可能性がある。
自分が良い印象を感じる真言・・・早い話が、好きな真言を選び、たゆまず唱えれば、それで間違いないのである。












子供向けのものが最高傑作になる

アメリカ人のポール.J.マイヤーという人が開発したSMIという自己開発プログラムがある。
録音された朗読を聞く形式で、昔はアナログ・レコード、そして、テープ、CDと変化してきた。
かなり高価であり、有名な経営者が広く愛用していたし、今もしているのだと思う。
私の知人だった(故人)、私よりずっと年長の事業家も、SMIの愛用者だったが、ある時、面白いことがあった。
その事業家が、子供向けのSMIを購入したのであるが、彼は、「私はこれを聞き、他はもう何もいらないと思った」と言うのである。
つまり、大人向けのSMIより良いという意味と思う。

子供向けに作ったものが、予期せぬ傑作になることがある。
例えば、鈴木三重吉は『古事記』を子供向けにした『古事記物語』を1920年(大正9年)に出したが、これが今でもロングセラーを続け、大人にも愛読されている。
易しい言葉使いでありながら、気品がある素晴らしい文章であると思う。
また、『古事記』の冒頭の神の名や、イザナギ、イザナミが作った国々の名前は、重要ではあるが、それを延々と書かれると、そこで挫折する大人もいると思うが、この『古事記物語』では、そうならないよう配慮されている。
余計な部分を除いたことで、本質が見え易い。
何よりも、子供に対する細やかで親切な気遣いが、この『古事記物語』を素晴らしい傑作にしたのだと私は思う。

子供向けの場合、自ずと、高度な思考力を要求しない文章になるが、それにより、著者の方も余計な我の考えを持ち込まないことが、結果、自然に良いものになるのだと思う。
デカルトは『方法序説』を、12歳の子供でも理解出来るように書いたというが、おそらく、日本語の翻訳が難し過ぎるのだろう。すっかり難解になってしまい、本来の『方法序説』の良さを失ってしまっているのではないかと思う。
とはいえ、元が良いので、なるべく易しい訳のものを読めば得るものがあると思う。
(下に、英訳からの翻訳(元はフランス語)のものを紹介するが、これが分かり易くて良いと思う)
美少女は、元が良いので下手な化粧やお洒落をしても、やはり良いのと同じである(笑)。

時々、「せっかく良い本なのに、こんなに難しく書いては、読もうとしない人が多いし、読んでも誤解される」と思う本がある。
本当に賢い人は、分かり易く言ったり書いたりするものである。
もちろん、利益のために、中身のない・・・それどころか大嘘でありながら、面白くて分かり易い話をする者が多いのは確かにけしからんが、思いやりを持って易しい表現をすることは大切と思う。

ところで、真言という、唱えれば、災難を遠ざけ、幸運を引き寄せる言葉があるが、子供には、どんな真言を教えれば良いだろう?
私の愛用の阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」や、観世音菩薩真言「オン、アロリキャ、ソワカ」では、ちょっと覚え難いかもしれない。
「南無阿弥陀仏」は良いのだが、現代では葬式臭過ぎるし(笑)。
私は、子供の時、なぜか「ナムサン(南無三)」という言葉をよく使っていた。何かの漫画の影響かもしれない。
アニメの『一休さん』の一休もよく使っていたようだが、私は、それは知らない。
「南無三」とは、Wikipediaによれば、
「仏教で南無三宝(なむさんぽう)の略。三宝とは仏、法、僧のこと。咄嗟の危難に対して助けを乞うまじないとして使用されることもある。」
という意味らしいが、私は、そんな意味は全く知らなかった。
しかし、効果は抜群だったので愛用していたし、「これがあれば大丈夫」という心の支えにはなったと思う。
(梶原一騎氏原作の、キックボクサー沢村忠氏の伝記漫画『キック魂』で、沢村忠氏がよく「南無三」と言う)
「サムハラ」という言葉も霊験あらたかであるらしい。
「サムハラ」とは、「サンバラ」や「シャンバラ」という言葉から来ているとも言われるが、誰もよく分からないようだ。
また、やはり私が子供の時、私の一学年下で小学5年生の、今思えば天使のような美少女が、「アマテラス」という言葉を頭の中で言うのだと教えてくれたことがあるが、「俺には勿体なくて使えない」と思ったものである(笑)。








自分に相応しい富のイメージを得る

昔は、富をイメージし易かった。
大昔、富のという概念が出来たばかりの頃は、その富のイメージは、家畜の数、農地の広さ、奴隷や兵士の数だった。
想像力が強い者は、壮大な農地や牛や羊の群れ、そして、農園で自分のために働く大勢の奴隷や、出来るだけ多くの兵士を思い描くことで、それらを得ることが出来た。
やがて貨幣経済になり、金や銀が富のイメージで、日本文化が花開いた江戸時代には、小判と千両箱が最良の富のイメージだった。
その江戸時代なら、沢山の小判や千両箱を、そして、百年ほど前までは、札束を思い描けば金持ちになれた。

では、今は何が富の象徴かというと、ドナルド・トランプの場合は不動産だったが、これはやや古いし、誰にでも縁のあることではないが、やはり、良い富のイメージである。
IT時代になると、最初の頃は情報を集め、操作することだったし、やがて、情報をうまく管理することが富になることが分かった。
ただし、情豪をエネルギーや物質に変換出来るように管理しないといけない。
ゴミのような情報も、使い方次第で富になるのであるが、ここらは専門的な話になる。
このようなこと(情報を富に変換する)は、基本は、初期のマイクロソフト(あるいはロータス)と今のグーグルでも同じだが、情報収集とその管理方法が飛躍的に進歩したのだ。

このような中で、現在は、どんなふうに富をイメージすれば良いだろう。
人間はイメージ出来ないものを得ることは出来ない。

ゲーム好きでイメージ力のある者なら、現実空間の中に、「クレジット」というステイタスバーが出現している様子を想像し、そのステイタスが大きくなった様子をビジュアライズすれば良いだろう。
ただ、この場合でも、潜在意識の力を発動させるためには、心の純粋さ、強さ、安定性といったものが必要である。
20~30年ほど前から、魔法とゲームを組み合わせたようなゲームやアニメ作品がよくあるが、あれは製作者のイメージを表したもので、これらの製作者はやはり金持ちである。
では、ゲームをやることが現実世界でのステイタスを向上させる役に立つかというと、役に立つが、それには、質の高いゲームをしなければならない。
実をいえば、ゲームと潜在能力との関連性は、大学などの研究機関や、営利企業の事業のための目的でも、かなり研究されている。
そして、優秀な事業家の中には、ゲームプレイヤーも増えているのである。
とはいえ、これは単に、現在のゲームがイメージの媒体として優れているというだけで、必ずしもゲームである必要はないし、また、逆に、ゲームがイメージ力を損なう場合も多いのである。

一般的には、イメージの宝庫と言える優れた文学を読むことは、やはり良いだろう。
聖書、ギリシャ神話、ラーマーヤナやマハーバーラタ(バガヴァッド・ギーターを含む)、古事記、法華経や観無量寿経などは、宇宙にも匹敵する超イメージ空間が込められている。
そして、本来、科学は、それらを解き明かすために役に立つはずのものだが、現代の科学の扱い方では、かえって、それらのイメージを崩壊させている。
そこで、例えば、古事記を丁寧に、あまり何も考えずに読むと良い。
お好みによっては、ギリシャ神話でも聖書でも良い。
ちなみに、ギリシャ神話では、格調高い、ホメロス、ウェルギリウスなどが良いが、読み易さを考え、ヘシオドスの『神統記』、それに、著者不明だが『ホメロス讃歌』や、その中の『四つのギリシャ神話』が良いと思う。
ただし、それらを文学として楽しむだけでなく、現実の力に変換する思想やイメージを得なければならない。
それで言えば、ネヴィル・ゴダードの『新装版 世界はどうしたってあなたの意のまま』を手掛かりに、聖書読むことがお薦め出来ると思う。聖書は実は科学的な書物である。
また、どう言っても、日本人には古事記であるかもしれない。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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