ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

古事記

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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日本の伝統儀式の本質は「今今メソッド」である

日本古来からあるスポーツ(と言うのは適切ではないかもしれないが)で、よく知られているのは相撲くらいだが、プロフェッショナル相撲である大相撲は、試合だけではなく、様々な儀式や作法がある。
今や、それらの儀式や作法が何のために行われるのか知らない人がほとんどだろう。

華道、茶道にも様々な儀式や作法があり、特に茶道は、茶を飲むことそのものより、儀式や作法の方が重要と言える。
武家社会においても、茶道にどれだけ通じていて、どれだけ見事に儀式を行え、どれほど作法が見事であるかで武士の出世が大きく左右されるほど、茶道は重要視され、茶道の極意、秘伝、秘法が武士の名家に伝えられていたことが、たとえば、1986年の邦画『鑓の権三』(やりのごんざ)を見ると分かる。
だが、今の日本人が、茶の湯で茶を立てるのを見ても、やたらまどろっこしいことをやっているようにしか見えないところは、外国人観光客と似たようなもものである。むしろ、ごく新鮮な目で見る外国人の方が、茶道の美しさを感じるかもしれない。

だが、今や、相撲や弓道、そして、茶道、華道の儀式や作法が何のために行われているかは、その道にかなり関わっている者や、ひょっとしたら、師範的な人でさえ、分かっているのかどうか疑問である。
これらの儀式や作法は、神道的なものであることは想像が出来るが、その中でも「中今」に在ることも目指しているものだと私は確信する。
中今とは、辞書によれば抽象的な説明も書かれているが、単に「今、この一瞬」のことである。
中今こそ神の世界であり、武道や茶道などを通じ、神の世界に触れることが目的だが、目的を露骨に表に出すことはせず、あくまで、さげなく行うところが和の精神である。
今、「神の世界に触れる」と書いたが、これも真摯な表現を重んじる伝統に則ったもので、言って見れば「神と交流する」さらには「神になる」ということである。
では、神とは何かと言うと、『古事記』に登場する男神や女神ではなく、まるで一神教と誤解されそうな根本神とも言える宇宙意識である。
たとえば、江戸末期の神道家、黒住宗忠は天照大神を崇め祭っていたが、この天照大神も、『古事記』に登場する女神ではなく、宗忠は太陽神として扱っているように見えたが、やはり、根本神と考えて良いだろう。
ただ、『古事記』は、聖書と同じく象徴的に書かれているのであり、ただの歴史ではなく(歴史としては正しくない)、宇宙意識、あるいは、人間の本質的精神を描いたものである。

日本に伝わる伝統的儀式を行うことは、中今に潜入する優れた方法であるが、それらはほとんど専門家のためのものである。
しかし、普通の人も、専門家の儀式や作法の一部を借りることで、中今に入る手助けとすることが出来る。
それは、儀式や作法そのものではなく、その敬虔な様、優雅さ、静かで落ち着いた態度などである。
そして、それらのことは、万物に神が宿ると考えていれば、自然に出来ることである。

「今、この一瞬」に生きることは、個人の意識が宇宙意識にシンクロ(同調)し、その無限の知恵と力と一致する方法で、引き寄せのような実用的な力になり、今や、スピリチュアル界で「今今メソッド」などと呼ばれることもある。やや軽薄に感じるかもしれないが、一般人にとって、非常に良いものである。
万物に神が宿ると考えてあらゆるものを見れば、いつでも今今メソッドを行っていることになる。
神、つまり、宇宙意識に時間はなく、過去や未来はなく、ただ永遠の一瞬である「今」しかない。
幻想である過去や未来を妄想せず、あるいは、なるべく妄想せずに、今をしっかり捉えることで、我々は真の人でいられる。
そうなれば、結果として、人間は神のようなものとして在るのである。
つまり、俗っぽく聞こえるかもしれないが、引き寄せの力が自在になり、支配層が神を忘れた拙い社会になってきた中で、何も恐れず、安全、平安に過ごせるのである。








神話はこの世界(メタバース世界)の操作マニュアル

結局、引き寄せというのは、この世界であるメタバース(※)を動かすシステムの操作技術のことだ。
※メタバース・・・メタ(超)・ユニバース(宇宙)の略語。コンピューターが作る3次元仮想空間のことであり、我々が居る世界はメタバースと考えられる。

我々の多くが、閉塞感や不安を感じているのは、まず、この世界が物質世界であって、思うようにならないと信じているからだ。
そこで、この世界がメタバースであることや、それを動かすシステムの操作方法が分かれば、安心し、幸福を感じるだろう。
最初に言ったように、このメタバースシステムの操作技術が引き寄せだが、引き寄せは特権のある者しか出来ないことではなく、また、そのやり方は、別に隠されてもいない。
引き寄せの方法は、神話の中に明かされていて、実際、神話が消された国では誰も引き寄せが出来ない。
自分では聖書や古事記を読んだことがなくても、間接的に内容を知れば、ある程度の引き寄せは出来るが、あまりうまく出来ない。
また、聖書や古事記の誤った解釈を知ったら、やはり、引き寄せがうまく出来ない。

聖書や古事記は何なのかというと、霊界の話・・・つまり、上位メタバースの話で、我々の概念で言えば、精神世界の話だ。
あまりに個性的に書き換えられていない限り、読めば、知性ではなく、心で理解出来、何となく引き寄せが出来るようになる。
昔は、子供でも、いくらかの古事記の内容を大人に教えてもらったので、かなり引き寄せが出来た。
もちろん、キリスト教国では聖書がそれに相当する。
インドでは、『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』になるのだろう。
『ギリシャ神話』や『北欧神話』、それに、『アラビアンナイト』も、おそらく、そのようなものなのだろうと思う。

日本では、古事記は聖書のように宗教として扱われていないおかげで、余計な解釈を聞かされることがないことは良いことである。
読みさえすれば、知らず知らず引き寄せが出来るようになる。
昔はもっと、「古事記を読め」という人がいたが、今は滅多にいないし、古事記を読めば何が良いのかを言う人はさらに少ない。
古事記を読むことが良いことと理解している人も、何が良いのか理屈では説明し難いので、それは仕方ない。
しかし、やはり、古事記を読むのは、この世界というメタバースを動かしているシステムの操作技術の習得のためである。
他の国の神話を読むことも良いことである。
内容自体はだいたい同じなのだが、視点が異なるので、いろいろ読めば理解が深まるかもしれない。
しかし、中途半端にあれこれ手を出すと混乱してしまうことになるだろう。
とりあえず、自分の国のをしっかり読むと良いと思う。








自分にこんな名を付けよう

実をいうと、今回の記事を書いている途中、かなり書きあがったところで、久々に、間違えて全部消してしまった。
もちろん、記事復活のやり方は誰よりも知っているが、全て不能な状態であった。
これも何かの必然だろう。
そこで、昨日書いた、自分の理想とする姿を示す名を、自分の2つ目、3つ目の名にするという話を具体的にしよう。

西洋では、アポローンやヴィーナスといったギリシャ神話の神の名を持つ者は珍しくはない。
また、シンシアというよく聞く(?)名も、月の女神(本来は狩猟の女神)アルテミスの別名であるキュンティアの英語読みだ。
そして、ご存じのように、西洋では、1人の人間が多くの名を持つ国が多く、自然に、好ましい名を沢山持つことが出来る。

別に、役所に届けたり、公的に使う必要はなく、自分で「これは私の名」と承認すれば、それが自分の名になる。そのくらいの自律の心構えがなくてはならない。
野茂英雄という有名な野球の投手がいたが、やはり名付け人は、英雄(えいゆう)のような男になるよう願いを込めたのだと思う。
しかし、世間で使うことを考えれば、当然「ひでお」のような読み方になるが、我々は、英雄(えいゆう)のような男になりたければ、そのまま「英雄(えいゆう)」と付ければ良いのである。
『古事記』にも、英雄である神、可憐な女神などは多く、是非、自分の名とすれば良い。
ちなみに、私も「大国主(おおくにぬし)」とか「ホオリ」という名を持っている。大国主命(オオクニヌシノミコト)は博愛で知恵があり、ホオリノミコトは美男子だ。

世間で使われているような名にする必要は全くない。
例えば、あくまで分かり易くするために言うが、天使のような少女が好きになる男でありたいなら、名は「天使のような少女が好きになる男」で良いのでる。
1つくらいは、こんな長い名も良い。
「誰もがうっとりする美女」「天下一の美男子」など、もう何でもありだが、実際に、付けた名の通りになるのである。
仙人になりたいなら「仙人」という名にすれば良い。それで仙人になれるのである。
誰かに、「仙人」と呼ばれ、当たり前に「はい」と返事をする場面を想像したりなどで、その名を自分の心に焼き付けると、早く仙人になるだろう。
「大金持ち」「天才」「超人」「魔法使い」など、好ましい名前は沢山あり、いくつでも付けて良いのである。

エマーソンのエッセイ『歴史』の冒頭に付けられた詩の書き出しは「私は世界の所有者」だ。
このくらいの自信があることが好ましい。
さすが、アメリカ一の賢者である。
それなら、我々は。「世界」「宇宙」、あるいは、「世界の所有者」という名を持てば良いのである。
「キリスト」「ブッダ」、あるいは、お好みなら「ソクラテス」「プラトン」も良い。
「アインシュタイン」「シェイクスピア」「レンブラント」「モーツァルト」・・・全く良い。

ただ、沢山ある自分の名前を忘れるのはよくあることなので、何かに書いておくと良いだろう。








古事記を読むことはメリットだらけ

男性の場合を想定したのだと思うが、兵士が戦場で死ぬ時、意識があったら、必ず「お母さん」とか「ママ」とか言うらしい。
まあ、嘘である(笑)。
ただ、そんな話がまことしやかに言われる理由もある。
人間の自我の土台部分には、母親の性質がかなり組み込まれていて、母親の印象は決して忘れないものであることは確かだろう。
母親に育てられず、自我の土台に母親の色がないと、自我が不安定で苦しいものらしい。
それで、母親を知らない人は、いくつになっても、母親を探したい気持ちが強いことが多いのである。
ただし、本当の母親でなくても、とにかく、自我の土台に母親のパターンが入っていれば、それで良いらしい。
とはいえ、自分の母親が本当の母親ではないと知ると、自分の自我を偽物っぽく感じて、本当の母親を探したいと思う場合も多いようだ。

心理学者の岸田秀さんの本に、本当か嘘かは分からないが、面白いことが書かれていた。
三島由紀夫って人は、生まれてから母親から離されて育ち(お婆さんか誰かが育てた)、自我の土台に母親が組み込まれていないのだが、岸田さんが言うには、母親に育てられないと、自我自体がちゃんと構築されず、不完全になるのだそうだ。
そこで、三島はどうしたかというと、ある程度成長してから、独力で自我を構築し、結果、作り物の人工的で変な自我が出来たらしい(確かに三島は変人だ 笑)。
それでどうなったかというと、三島自体は優秀な部分も当然あるのだが、自衛隊員達に「君たちは武士だろう」と(本気で)言うなど、いかにも作り物の自我らしい発想をするのだそうだ。
三島は、「悩みがあれば腹筋をやれ」と言ったりもしたそうで、今でも、「人生の問題の99パーセントは筋トレで解決する」と言う人気のある人がいるが、そんなことを、ずっと昔に言ったようなのだ(笑)。
まあ、今も、そんな人が人気があるのも、下で述べるが、自我が不安定な人が多いからだと思う。

母親に育てられても、母親が本当に子育てが嫌で、「何で私がこんなことしなきゃいけないの」とか思っている場合は、やっぱり、子供の自我の土台がおかしくなる。
そして、今は、自我の土台がガタガタの人がひどく多い。
あなたもそうかもしれない。
その場合、三島のような変な自我を構築してはならない。
鎌田東二さんという哲学者・宗教学者がいるが、彼が、子供の時、ものすごく精神が不安定だったらしい。やはり、自我の土台がおかしかったのだろう。
しかし、彼は、『古事記』と『ギリシャ神話』を読んだら、精神が安定したと言う。つまり、それで、自我の土台がしっかりしたのだろう。
そりゃ、『古事記』にしろ『ギリシャ神話』にしろ、世界誕生の物語であると同時に、それがそのまま、1人の人間の誕生と成長の物語なのであり、子供のように、あまり理屈を考えずに読むと、素晴らしい効果がある。
で、鎌田さんは、子供の時は鬼が見えたのに、それが見えなくなり、天使が見えるようになった。学習塾の講師をやっていた時、小学5年生の女の子達の中に天使がいたのだそうだ。
これは、決して、ロリコンというのではなく(ロリコンかもしれないが 笑)、私も、小学1年生の時、クラスの中に天使がいたのを、はっきり覚えている。
私は、幼稚園の時に、『古事記』や、その他にも、いろいろな神話やおとぎ話に接する機会が多かったので、それが影響したのだろう。
尚、神話を読むと、当然のことなのだが、引き寄せの力も強くなり、私は、あまり実用的とは言えないことが多かったが、とんでもない奇跡を数多く起こしたのである。
その鎌田東二さんが書かれた『超訳 古事記』は本当にお奨めである。
ギリシャ神話であれば、『神統記』が最もお奨めだが、里中満智子さんの『マンガ・ギリシャ神話』が、ストーリーを把握し易く、しかも面白い。








十言の神呪(とことのかじり)の唱え方

最近、ほんの少しだが、「十言の神呪(とことのかじり)」を勧めることを続けて書いたが、理由があった。
「神呪」は古い字を使うと「神咒」で、今も、こちらを使う人もいるが、ここでは「神呪」を使う。
神呪は、普通は「しんじゅ」と読み、「まじない」といった意味である。真言と言っても良いと思う。

十言の神呪とは、「アマテラスオホミカミ」と唱えることである。
これにより、天照大神(アマテラスオホミカミ)の恵みを得られると言われている。
天照大神は古事記に登場する、天界である高天原(たかまがはら。たかあまはら)を統べる女神の名であるが、江戸末期の高名な神道家、黒住宗忠は、天照大神を、宇宙の根本神としての太陽神として尊崇していた。
私は、天照大神を、古事記の女神、根本神(太陽神)の両方の意味で捉えている。

十言の神呪は、先程も述べた通り、「アマテラスオホミカミ」と唱えることであるが、それでどんな恵みがあるのかというと、万能であり、制限はないと考える。
そこで、問題は、唱え方になろうと思う。
これに関しては、様々な人が様々に言うのだが、最近、動画サイトで見た(聞いた)ものが気になった。
その唱え方が広い認識になっているような気がする。
それは、男性が唱えていたこともあるが、こわい顔をして(真面目な顔と言うべきかもしれないが)、野太い大きな声で「あーまーてーらーすーおーほーみーかーみー」と、威風堂々、威圧的とも感じる雰囲気で、間延びさせて朗々と唱え、このように唱えるようにと、自信たっぷりに語っておられた。
だが、現実的に、そんな唱え方が可能だろうか?
誰もが、必ずしも防音効果が高い部屋を持っているわけではない。
そのように唱えたら、家の中はもちろん、家の外まで、その声が聞こえる場合も少なくはなく、聞く人によっては不快と感じることもあるに違いない。
そんなことに全く無頓着で、大きな声を出す人もいるが、それは決して正しいことではないと思う。
そして、そのような唱え方を、例えば、純情な少女が出来るだろうか?あるいは、似合うだろうか?
全く似合わない・・・というのは、私の個人的感覚だけとは思えない。
では、少女が唱えるべきものではないのだろうか?
まさか!むしろ、一番唱えていただきたい。

私が考える、一番、理想的な唱え方はこうだ。
心の中で、微(かす)かな声で、慎ましやかに、丁寧に「アマテラスオホミカミ」とゆっくり唱えるが、別に「あーまーてーらーすー・・・」などと間延びして唱えるのではない。
声に出して唱えるのも、もちろん良い。
その場合は、近くにいる人にも聞こえないくらい、微かな声で(実際には、ほとんど、あるいは全く声になっていない)、「アマテラスオホミカミ」と、やはりゆっくり、丁寧に唱えるのである。
これなら、少女が唱えてもピッタリであると思うし、誰が唱えても、最も敬虔(深く敬って態度をつつしむさま)であると思う。
この2つなら、いつでもどこでも唱えられる。
唱えるたびに穢れが祓われ、心の中の天照大神が輝くのを感じるのではないかと思う。
これらの唱え方であれば、欲望すら浄化され、希望や美しい願いに変わる。
そして、黒住宗忠が言うように、全て天照大神におまかせすれば、良い形で願いが叶う。
太陽神に不可能はないのだから。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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