ゲーテは、結局は「人格が全て」と言っていたのだと思う。
この人格は、道徳的であるといった意味ではない。
おそらく、「真直ぐで強い」という意味だろう。
しかし、結果として、人格の高い人は、道徳的で、前向きなのだ。

後ろ向きな人、不満の多い人、暗い人は、どうしたって駄目になるしかない。
そして、人格を向上させることは、自分でやるしかない。
人生を好転させるためには、人格向上以外にはなく、それは全て自分の責任だ。
甘ったれることは許されない。

人格を磨くためには、何か鍵を1つ持つ必要があるかもしれない。
ジェームズ・アレンの『原因と結果の法則』とか、サミュエル・スマイルズの『自助論』などは、確かに、そのための名著ではあるが、あまりに饒舌(多弁)、冗長(無駄が多い)だ。
中村天風の『幸福なる人生』も、素晴らしいところも多いが、独断的で害のある部分も少なくない。
もちろん、本は、あくまで参考であり、本当に役に立つ箇所は、一冊の中で、せいぜい1、2行だ。
本を読むなら、そんなことを分かって読むことが大切なのだと思う。

船井幸雄さんの本に書かれていた、「現状肯定、過去オール善」という言葉を見て、「おお!これだ!」と思ったことがあるが、親に食べさせてもらっている現状を肯定するニートを見て、「こりゃ駄目だ」と思ったことがある。
一見、立派そうだが、どこか欠けているのだ。
船井さんは、最後、難病で苦しんでおられた時、現状を肯定していたのだろうか?
彼の論では、現状は必然であるのだが、彼はそれを受け入れていたのだろうか?
どうも違うように思うのだ。

人格とは、現われとしては、確かに、「寛容」ということかもしれない。
マイケル・ジャクソンは、大変に寛容な人だったと聞く。
しかし、それが彼にストレスを与えていたのだと思う。
彼は、腰痛の治療を受けていたと聞いたが、それは本当かもしれないと思った。
最近はよく知られているが、腰痛はストレスから発生することが多いのである。
つまりね、無理に寛容であろうとすることは、無理があるのだ。

人間の本質は、元々が前向きである。
だが、後ろ向きにしようとする力が作用するのだ。
それと仮に悪魔と言うなら、悪魔に屈服するから後ろ向きになる。
こう言ったら、「私は悪魔に屈服して後ろ向きです」などと言ってくる馬鹿がいる。
そんな者には、勝手に後ろ向きでいろとしか言いようがない。

お悩み相談なんてものを開いたら、実に様々な相談が寄せられるだろう。
しかし、どんな相談でも、答はただ1つ、「甘ったれるな」なのだ。
(もちろん、それでは、職業としての相談業は成立しないが)
「親に虐待されている子供に、『甘ったれるな!』と言うのか?」
といった、極端なことを言う者もいるかもしれないし、確かに、これに類した、自分で解決するには、あまりに弱い場合も多いかもしれない。
だが、逆に言えば、あなたは、そんなに弱いのかということだ。
虐待された子供も、いつかは大人になる。
そんな時には、泣き言を言ったら、やっぱり、「甘ったれるな」としか言えないのだ。
テロリストが急に現れて銃を向けてきた時、「なんで私が」と言って泣き喚いてもどうにもならない。
たとえ可能性がほとんどなくても、自分で切り抜けるしかない。
いきなり神様にお願いしたって、助けてもらえるかどうかは分からない。
出来るところまでは、自分でやらなくてはならないのだ。
泣き喚き、神に助けを求める者達に、「甘ったれるな」以外に何と言えるだろう。
つまるところ、自分に対し、「甘ったれてはいないだろうか?」と問うてみるしかない。
辛いと感じている時は、やっぱり甘えているのだと思う。
きっと、神様は、甘ったれた人間に手を差し伸べるわけにはいかないのだろう。









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