ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

即興詩人

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

美の女神との一体感

昨日、私は幼稚園の時、自分の上空を飛んでいる旅客機に乗っている人達と一生会うことはないことを悲しく思ったという話を書いた。
そして、その想いは誤解で、その飛行機の乗客達に会っていることが明確に分かって安心したということも述べた。
しかし、実は、私は、十数年前から、飛行機の乗客達のことより、もっと心残りなことがあった。

有名な童話作家であるハンス・クリスチャン・アンデルセンは、作家・詩人として成功した後、ヨーロッパ中を広く旅行していた。
成功したと言っても、今のような著作権とか印税とかいったものはなく、作家としての収入は知れていたが、作品の評価により、デンマーク国家から生涯年金を得ることが出来た(大した額ではないが)ので、働く必要がなかった。
それで、アンデルセンは、ヨーロッパ中を放浪の旅をしていたのだが、鉄道や客船などはあったらしいが、快適な旅や宿泊が出来る時代では全くなかったはずだ。
それでも、アンデルセンは旅をせずにいられなかったのだ。なぜかは分からないが。

それで、アンデルセンがスペインに行った時、おそらく、生涯忘れられない出会いがあった。
それは、神殿の石段に座っていた、粗末な服を着た、貧しい黒い髪の少女だ。
彼女の歳は11歳くらいだが、アンデルセンは、彼女を美の女神の化身とまで書いている。
それほどの美少女だったが、彼女は盲目だった。
アンデルセンは、『即興詩人』という小説で、その少女をモデルにしたララという名の、やはり盲目で貧しいが絶世の美少女を登場させ、自分を投影した主人公に、彼女に銀貨の施しをさせている。
アンデルセン自身は、あの少女に施しをすることが出来なかったのだ。

お姫様
AIアート75
「お姫様」
Kay


私は、アンデルセンの自伝で、その少女のことを読んだ後、彼女がその後、どんな生涯を送ったのかという想いが、頭を離れなくなった。
もちろん、それはさっぱり分からないことだし、何の記録も残っていないだろう。
だが、私は、あの旅客機の乗客のこと以上に、彼女のことが分からないことを理不尽に感じた。
「そんな馬鹿な!」である。
だが、やはり、彼女のことも分かったのだ。
彼女を構成していた電子は全て、私を構成している電子でもあるのだから。

ひろさちや氏の本に書かれていたが、ソクラテスの身体を構成したことがある原子を、我々は皆、10万個程度は持っていると、科学者が計算したことがあるらしい。
しかし、そんなものとはレベルが違う。
ララのモデルになった少女を構成していた電子と私を構成している電子は、そっくり同じなのだ。
なぜなら、この宇宙に電子は1個しかなく、その電子は、過去、現在、未来を通して同じものだからだ。
そして、電子はタイムトラベルする。
だから、今でも、私は彼女と一心同体である。
それが分かって、私は安心することが出来たのである。

尚、『即興詩人』を森鴎外訳で読むことはお奨めしない。
彼の格調高い文語訳は、私にはさっぱり読解出来なかった。
よほど文語に慣れた人でない限り、避けた方が良いと思う。








IQが低くても出来る世界の消し方

この世界は幻だという話は珍しいものではない。
古代の神秘思想から現代の量子力学においても、そう言える根拠を示せそうだが、そもそも、「幻(まぼろし)」とは何かと言うと、辞書によれば、「感覚の錯覚によって、実際は存在しないのに存在するように見えるもの」で、対義語は「現(うつつ)」である。

つまり、世界が幻であるなら、それは「世界は感覚の錯覚によって、存在するように見えるが、実は存在しない」ということになる。
実に、その通りだ(笑)。
しかし、そんな言い方では、「だから何?」ってことになる。
それで、私は、この世界は想像世界だと言う。
あなたは、自分が王様である世界や、スポーツのスーパースターである世界を想像出来るが、そんな想像世界と、現実世界だと感じている世界は全く同等で、単に、現実世界と思っている世界にリアリティ(現実感)を感じているだけだ。

この世界が幻だと言われて、ちょっと嬉しいのは、この世界が苦しい世界だと感じている人だ。
そして、おそらく、大半の人がそうではないかと思う。
そりゃ、可愛い彼女が出来たばかりなら、この世はハッピーかもしれないが、そんな楽しさはすぐに消える。
徳川家康が、「人生は重い荷を背負って昇る坂道のようなもの」と言ったらしいが、あまりに的確な表現で笑える(笑)。
何を笑えるかというと、日本最大のコンカラー(征服者。勝者)である家康が、そんなことを言ったのだから、「人生とは辛いものだ」ということになる。

で、私は昨日、この世界の現実感を弱くする方法を述べた。
それにより、現実の辛さは減少し、同じ理論を逆に使えば、楽しい想像世界の現実感を増し、ついには、その楽しい世界を現実化する。
あれも難しい方法ではないが、もっと簡単な方法があり、しかも、よく使われていた。
というのは、今もだが、昔から大国、強国の多くでは、庶民は搾取され、夢も希望もないことがよくあった。
そんな庶民は、この世は幻だとでも思わないとやっていけないが、頭が悪い者も沢山いるので、馬鹿でも、この世が幻だと認識できる方法が必要だったのだ。
日本でも『閑吟集』に、有名な唄、
「何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」
(真面目くさっても仕方なだろ。この世は夢だ、ただ狂え)
というものがある。
「そうであればいいなあ」ということだろうが、それを実感出来る簡単な方法が必要で、実は宗教の目的も、それが大きい。だから宗教は流行るのだ。
しかし、一番簡単な方法は「薄目をする」ことだ。
だから、ある大国では、昔から、庶民は皆、薄目をする癖がある。
また、画家のムンクは、薄目をすれば、この世界が幻だと実感出来ることに気付き、作品を、薄目をした時に見えた映像として描き、人々は、それが分からなくても、無意識で彼の作品に惹き込まれた。

ところが、コリン・ウィルソンが見つけたのだが、ある研究者が薄目の研究をした末、とんでもないことが分かってしまった。
それが、この世界も想像世界だったということだ。
今では、量子力学の研究範囲として考えることも出来るかもしれないが、当時、量子力学はあったかもしれないが、あまり知られていない時代だったと思う。また、量子力学なんて、大抵の人には理解出来ない(物理学者ファインマンによれば誰にも理解出来ない)のだから、こちらの薄目の研究の方がありがたい。

薄目をしていると、この世界が自分の想像であることが分かる。
すると、この世界のリアリティが消えていく。
さらに、そうすると、この世界を自由に想像し創造出来るようになる。
目が見えないヘレン・ケラーは、ごく若い時に、そんなことに気付いていた。
耳も聞こえない彼女の「想像世界」は、我々のものとはかなり異なるが、むしろ、世界と精神がダイレクトにつながり、ある意味、我々より「ものが見えた」。
アンデルセンは、スペイン旅行中に出逢った、盲目の11歳くらいの少女に深い感銘を受け、「美の化身」とまで呼んで畏怖し、『即興詩人』の中で、ララという名で登場させた。
しかし、それは、アンデルセンも気付いていなかったが、単に、その盲目の少女が美少女だったからではなく、彼女から伝わって来る意識の高度さを、精神性が優れていたアンデルセンが感じたのである。

我々は、ヘレン・ケラーや、ララのモデルの少女や、アンデルセンに敵わない。
だが、薄目で世界を見れば、少し意識を引き上げることが出来る。
ただし、「現状肯定。過去オール善」という想いで見れば。
だから、どんな時も、「完璧」と言う癖をつけておけば、引き寄せは容易いのである。








名もない人々の物語

私は子供の時、雑誌に載っていた、「フランスの片田舎で見かけた少女」というスナップ写真に見入っていた。
この人は、どんなふうに育ち、この写真が撮られた頃は、どんな生活をしていたのだろう?
そんなことを考えると、想像が果てなく広がる。
もう10年以上、前の写真という。
では、この人は、この後、どんな人生を送っているのだろう?
今は、どうしているのだろう?
私は、1日中でも考えていられそうだった。
私は、その写真の少女の人生の物語を考えていたのだ。

作家の小川洋子さんが、30年前の日航機墜落事故に関する、当時の本を見た時、その頃のことだから、その本には、犠牲者の方々の、氏名、年齢、住んでいる地域、なぜその飛行機に乗ったかなどが、淡々と書かれていて、それを見ていると、1日中でも読んでいられたという。
やはり、その一人一人に人生の物語があるのだということを感じていたと、述べられていた。

人間の一生の物語は、なんと荘厳で凄いものだろう?
そう思わないだろうか?

アンデルセンの自伝の中の、彼がイタリア旅行をした時のことが、とても印象的だった。
彼は、日本では徳川12代将軍あたりの時代に、ヨーロッパの様々な国を、全くの私的に、鉄道や馬車や客船などで旅行していたのだ。
アンデルセンは、イタリアのペストゥームのギリシャ神殿で、石段に座った、黒髪に青いスミレの花を差した盲目の少女に出逢う。
ボロをまとった貧しい少女であったが、そのあまりの美しさに、アンデルセンは、「美の女神の化身のようであった」と記している。
アンデルセンは、後に、『即興詩人』という小説を書いた時、この少女をモデルにした、ララという名の、やはり盲目の絶世の美少女を登場させている。
年齢も、「11歳より多くはなし」と、あの少女を忠実に再現していたようだった。
そして、私は、10年以上も考えているのだ。
あの少女が、どんなふうに生まれ、育ち、そして、あの時、どんな生活をしていたのだろうか?
そして、その後、どんな人生を送ったのだろうかということを。
おそらく、あまり良い人生を送ることはできなかっただろう。
とても苦しい人生だった可能性が高い。
だが、転生した次の生では幸福になれただろうか?
そんなことばかり考えている。
それは、あの、美の女神の化身のような少女の物語である。

そんなことを考えていると、私は、人間の人生の値打ち、人間の魂の値打ちを、しみじみと感じるのである。
また、一人一人の人間の尊さを想うのである。
そして、我々は皆、自分の人生の物語を自分で創っているのである。
そいういったことを忘れてはならないと思う。









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アンデルセンの童話が生まれた秘密

20世紀最大の詩人と言われたアイルランドの詩人・劇作家のW.B.イェイツは「神秘を信じない者は想像力に欠けている」と言ったが、私は、同じことなのだろうが、「神秘を受け入れない者は心が鈍い」のだと思う。
そして、人は粗雑なものにばなかり関心を向けると、心が鈍くなって、精妙なことが分からなくなる。つまり、神秘を信じなくなるのだ。

こんなことがあった。
私が小学1年生の時、学校から1人で帰宅している途中に、不意に雨が降ってきた。私は傘などは持っておらず、慌てたというより悲しい気持ちになった。何か嫌なことがあった時に、加えて悪いことが起こると、そんな気分にもなる。
その時、見知らぬ1人のお姉さんがどこからともなく現れて、「こちらに来なさい」といって、持っていた傘に入れてくれた。
当時は、大人のお姉さんに見えたが、おそらく小学6年生くらいだ。なんとも物静かな落ち着いたお姉さんだった。高価なというのではないが、とてもきちんとした服を着ていて、およそ、学校に行くのに着るものではなく、やや古風な感じすらした。実際、彼女はランドセルなどは背負っていなかった。
その後、数年にわたって、何度か彼女を見た。
私が家から外に出た時、すっと立っているのだった。
私は、精神的に落ち着きのない子で、せかせかしていていた。それに、友達がいなくて、いつも1人遊びをしていたので、自然、自分の手元ばかり見る癖があった。それで、彼女の方をあまり見なかったのだが、たまに彼女を見ると、、彼女は黙って静かに私を見ていた。

萩尾望都さんの漫画で、ある男性が、少年の時、やはり、時々、見知らぬ女性を見た話をするのだが、彼は、それは自分の死んだ母親の幽霊だったと言った。
幽霊とは、死者がこの世に残したアストラルボディの残留物・・・早い話が、残りかすのようなもので、本人そのものではない。
しかし、私が見たのは、そのような存在ではなかった。

私が高校3年生の時、午後4時頃、帰宅するために駅のプラットホームに立っていると、線路を挟んだ向こうのホームに、1人の11歳くらいの少女が立っていて、こっちを見ていた。私は、時間が停止して風景が変わるのを感じた。彼女だった。やはり、とてもきちんとした服を着て、靴もそうだと気が付いた。
長い美しい髪をした、ノーブル(高貴)な顔立ちの、信じられないほどの美少女だった。
私は、状況を受け入れていて、自然に彼女とテレパシーで会話をした。
その時、彼女が言ったことが、彼女が天使であることを証明していた。
人間には言えないことだからだ。
彼女はこう言ったのだ。
「あなたにはもう逢えないが、いつでも共にいる」
人間の観念では全く矛盾した言葉だ。
イエスは、人々と別れる時に、ただ、「いつでもあなた達と共にいる」と言った。
しかし、それは、人々を混乱させないためにそう言ったのであり、本当は、彼女と同じように言うべきだったのかもしれない。
あえて説明するなら、自我が消滅した時に、私達がいつも一体だということが分かるでしょうという意味だ。
だから、彼女は、自我としての私には逢えないが、真我の私ともいつも一緒にあるのだ。
子供がよく天使を見るのは、まだ自我が確立しておらず、それが希薄だからだ。
いい年をして自我が確立していない者を幼稚だと言うが、それは違う。彼らは、幼稚な自我を確立しているのだ。
幼稚な自我は柔らかく湿っている。しかし、鍛えられた自我は、硬く渇いているので、何かのきっかけで火が付けば、簡単に燃えて消えてしまう。だが、鍛えられていない幼い自我ほど、しつこく、なかなか消えない。だから、メルヘンチックな人が必ずしも天使に逢える訳ではない。

アンデルセンは、イタリアを旅行していた時、ペストゥームのギリシャ神殿で、石段に座った、黒髪に青いスミレの花を差した盲目の少女に逢う。
彼女はほとんど子供だったが、あまりに美しく、アンデルセンは美の化身か生ける彫像とまで言っている。
彼女は貧しく、ボロをまとっていた。
しかし、アンデルセンは施しを与えるのを忘れた。いや、与える気が起きなかったのだ。
そのことについて、ちょっと説明させていただく。
アンデルセンは、小説『即興詩人』の中で、その少女をモデルにした、ララという名の、やはり貧しい盲目の美少女を登場させている。
森鴎外の格調高い文語訳には、ララは、「11歳より多くはなし」とある。
アンデルセンは自らを投影した主人公アントニオには、自分の時とは違い、彼女に銀貨を施させる。しかし、アントニオが彼女の額にキスをすると、彼女は怯えて飛び出して行ってしまう。
アンデルセンは暗に、あのイタリアの少女に、施しを与えたり触れるべきでないことを述べたのだろう。
なぜなら、あの少女は天使だからだ。
アンデルセンは、彼女によって、美の世界からの天啓を得たと述べている。
その後、アンデルセンが至高の童話を書けたのは、実に、そのおかげであるのだ。
アンデルセンの作品には、天使が、そして、彼女を通して神が関わっているのである。









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美の化身

あなたも、誰かのことが気になって仕方がないということがあると思う。
私は、もう10年以上前からだが、とても気になっている人がいる。

アンデルセンの小説に『即興詩人』というものがある。
原語は、アンデルセンの母国語であるデンマーク語で書かれているが、ドイツ語訳を森鴎外が荘厳な文語に翻訳した。
それは名訳の誉れ高いが、読んでみたところ、私にはさっぱり理解できなかった。
私は、別に文語が嫌いな訳ではないが、これには、さっぱり歯が立たなかった。無論、私の文語を読む能力が無いためだ。
アンデルセンが1833年から1834年のイタリア旅行の間に構想をまとめ、1835年に出版されると、大変な人気を博した。もっとも、印税も著作権もない時代で、アンデルセンが大金を掴んだ訳でもなかったが。
『即興詩人』は、アントニオという詩人の青年が、イタリア各地を遍歴するお話であるが、その中で、アントニオが盲目の美少女ララに出会う場面がある。
ララは美少女といっても、絶世の美少女だった。年齢は、「11歳より多くはなし」とある。素直に、「せいぜい11歳」と書けば良いような気もするが・・・
ララにはモデルがいた。
アンデルセンがペストゥーム(日本ではパエストゥムと呼ばれる、イタリア南部カンパーニア州にある古代ギリシャ・ローマ遺跡)に行った時に出逢った、貧しい盲目の少女である。

身にはぼろをこそまとえ、その美しさは美の化身か、生ける彫像かと思われるばかりであった。
(中略)
ちょうど美の世界からの天啓を受けたように私の心は深い感銘に満たされ、娘に金をほどこしてやることがどうしてもできなかった。
それどころか私はふしぎにも敬虔な気持に打たれてたたずんでしまった。神殿の階段(きざはし)の上に、野生のいちじくの間にすわっている彼女の姿は、あたかもこの神殿の女神かとも思われた。
~『アンデルセン自伝』(大畑末吉訳。岩波文庫)より~

アンデルセンは、彼女がララのモデルであることを明かしている。
私は、10年以上前に、アンデルセンの自伝を読んで、この盲目の少女のことを知って以来、彼女がどんな運命を歩んだのだろうか、ずっと考えているのだ。
彼女は確かに存在して生きていたのだ。そう思うと、彼女の姿が、私の心にはっきりと現れてくる。全てが鮮やかに浮かび、彼女の息づかいまで聴こえるのである。
私が知らないだけで、彼女は確かにある人生を送ったのである。
私には、この少女が、身体的には身近な誰にも増して現実に感じる。それで、私は、自分が確かに身体ではないと分かるのだ。
私は、アダムスキーが、宇宙人の巨大な宇宙船の中で見た、神の姿の絵を見たいと思っていた。18歳くらいの、男性とも女性とも言えない肖像画であったが、そのあまりの美しさに、アダムスキーは呆然となって、しばらくの間、我を忘れてしまったと言う。金星の絶世の美女は、この絵を仰いでいるので、自分達は年を取ることが無いと言った。
最近になって、その絵と、この盲目の美少女が私の中で重なってきた。
彼女は、少女ではあったが、ほんの子供で、その意味では、男でも女でもないだろう。
ああ、この少女の姿を仰げば良いのだと気付いたのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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