仏の古い字である「佛」は、「人でないもの」といった意味になるらしい。
つまり、人でなければ仏だ。
人は心なのだから、人の心以外は仏なのである。
では、心は仏ではないかというと、それは違う。
沸騰の「沸」は、水が沸き立って水蒸気になったものと考えられる。
心と仏の関係は、水と水蒸気の関係と同じだ。
人の心が希薄になったものが仏である。
フロー状態という、没頭し、自己意識がなくなり、時間がなくなる意識状態を示す心理学用語がある。
フローは、至高体験とも言われる。
至高体験は、大洋感情という、自分が万物と一体化したような没我の状態と同じだ。
つまり、忘我、没我となった心が仏である。
そのような心を、無心、即ち、心で無いと言うのだから面白い。
無心こそ本当の心であり、これが仏である。
道教で、無為こそ本当の行為だというのと似ている。
道元も、仏教の本質を、自己を忘れることと言ったのだと思う。
それが分かれば、仏教が分かったと言えるのだと思う。
「南無阿弥陀仏」という念仏は、万物に宿り、同時に、自分の真の心である阿弥陀仏に呼びかける言葉だ。
阿弥陀仏とは、無限の光、即ち、無限の知恵という意味で、同時に、無限の生命という意味だ。
即ち、阿弥陀仏とは、やはり、万物に宿り、同時に、自分の真の心である仏のことなのである。
多分、一休さんが言ったのだと思うが、仏は、万物に宿る火のようなものだ。
そして、一休さんは、念仏を唱えることは、鉄と鉄を打ち合わせるようなもので、仏という火が火花として現れるようなものだと言ったのだ。
物質現象の火花と違い、仏が現れるのであるから、何も恐れることはない。
別に、「南無阿弥陀仏」という言葉に呪的な効果があるのではなく、この言葉は、自分の真の心に呼びかけているのである。
心だけが仏でないのだが、心だけが、仏に呼びかけ、顕現させることが出来るのである。
だから、「南無阿弥陀仏」を唱えた時は、無限の力を呼び起こしているのだが、普通の人は、念仏を唱えても、出現した仏の方を見ていない。
科学的に言っても、「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀仏(無限の力)に南無(全てをまかせる)という、全く正しい宣言になる。
太古の人が理解し、未来の賢い人類が再び取り戻すべき英知が、この言葉に凝縮されている。
それが分かれば、「南無阿弥陀仏」を唱えれば、即、至高の力と一体化し、全知万能になるのである。
もちろん、理屈の上では、「南無阿弥陀仏」と言わず、「私の真の心よ」と言っても同じであるが、「がんばります」と言葉で言ったら本当はがんばらないように、人間というのは、理屈と感情が一体化しないのである。
だが、「あなた(好きな人)のためにがんばります」と思えば、言葉と感情がぴたりと一致する。
「南無阿弥陀仏」という念仏は、そんな情緒を重んじた言葉なのである。
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つまり、人でなければ仏だ。
人は心なのだから、人の心以外は仏なのである。
では、心は仏ではないかというと、それは違う。
沸騰の「沸」は、水が沸き立って水蒸気になったものと考えられる。
心と仏の関係は、水と水蒸気の関係と同じだ。
人の心が希薄になったものが仏である。
フロー状態という、没頭し、自己意識がなくなり、時間がなくなる意識状態を示す心理学用語がある。
フローは、至高体験とも言われる。
至高体験は、大洋感情という、自分が万物と一体化したような没我の状態と同じだ。
つまり、忘我、没我となった心が仏である。
そのような心を、無心、即ち、心で無いと言うのだから面白い。
無心こそ本当の心であり、これが仏である。
道教で、無為こそ本当の行為だというのと似ている。
道元も、仏教の本質を、自己を忘れることと言ったのだと思う。
それが分かれば、仏教が分かったと言えるのだと思う。
「南無阿弥陀仏」という念仏は、万物に宿り、同時に、自分の真の心である阿弥陀仏に呼びかける言葉だ。
阿弥陀仏とは、無限の光、即ち、無限の知恵という意味で、同時に、無限の生命という意味だ。
即ち、阿弥陀仏とは、やはり、万物に宿り、同時に、自分の真の心である仏のことなのである。
多分、一休さんが言ったのだと思うが、仏は、万物に宿る火のようなものだ。
そして、一休さんは、念仏を唱えることは、鉄と鉄を打ち合わせるようなもので、仏という火が火花として現れるようなものだと言ったのだ。
物質現象の火花と違い、仏が現れるのであるから、何も恐れることはない。
別に、「南無阿弥陀仏」という言葉に呪的な効果があるのではなく、この言葉は、自分の真の心に呼びかけているのである。
心だけが仏でないのだが、心だけが、仏に呼びかけ、顕現させることが出来るのである。
だから、「南無阿弥陀仏」を唱えた時は、無限の力を呼び起こしているのだが、普通の人は、念仏を唱えても、出現した仏の方を見ていない。
科学的に言っても、「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀仏(無限の力)に南無(全てをまかせる)という、全く正しい宣言になる。
太古の人が理解し、未来の賢い人類が再び取り戻すべき英知が、この言葉に凝縮されている。
それが分かれば、「南無阿弥陀仏」を唱えれば、即、至高の力と一体化し、全知万能になるのである。
もちろん、理屈の上では、「南無阿弥陀仏」と言わず、「私の真の心よ」と言っても同じであるが、「がんばります」と言葉で言ったら本当はがんばらないように、人間というのは、理屈と感情が一体化しないのである。
だが、「あなた(好きな人)のためにがんばります」と思えば、言葉と感情がぴたりと一致する。
「南無阿弥陀仏」という念仏は、そんな情緒を重んじた言葉なのである。
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