ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

半神

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

さらば武蔵

愛とは何かは、私には一生解りそうにないが、愛と言えば、萩尾望都さんの超傑作漫画『半神』をいつも思い出す。
シャム双生児の姉妹の話だが、栄養のほとんどは妹の方に行く構造になってしまっていて、妹は天使のように可愛い美少女だったが、姉は老婆のようで、髪もほとんど生えない。
しかし、その天使のような妹は知能が低く、姉が全ての面倒を見なくてはならない。
ところが、実は、妹に回ってしまう栄養を吸収しているのは姉の方だったが、成長と共に、2人分の栄養の吸収は不可能になり、手術して切り離さないと2人とも死んでしまうが、切り離せば、自分で栄養を吸収出来ない妹は死んでしまう。
姉は手術を選び、幸い、それは成功して、自分だけ生き延びただけでなく、栄養を自分のものに出来るし、双子なのだから、自分も天使のような美少女になり、青春を満喫する。
そして姉は、自分が見捨てた、老婆のようになって死んだ妹のことを、こう言う。
「愛よりも深く愛していた。憎しみもかなわぬほど憎んでいた」

もっとも、私に言わせれば、姉のこの想いは、「後ろめたさ」だ。
妹に対する負い目は、どうしようと拭えない。
そして、これほど劇的でなくても、誰でも、そんな相手はいるに違いない。
では、そんな後ろめたさのある我々はどうすれば良いか?
せめて、立派な人間であろうとすることだ。
どうも、人間の愛というものは、実は、そこにしかないと私には思えてならない。
それ以外の、愛らしきものは全て、偽物の愛である。

8歳の娘を虐待死させた父親がいるが、あの父親がもし、娘に対する後ろめたさを感じ、立派な人間でいようとしたなら、それは、これまでは無かったはずの、娘への愛を持ったことになる。
ただ、そうなれば、この父親は生きていけないだろう。
まあ、それは、ほとんどあり得ないだろうが、万一、そんなことになったなら、それは「愛は世界を救う」などと口先で言う者より、よほど愛を持っているのだと思う。

吉行淳之助が、紳士とは、過去の恥ずかしい行いに対し、首がきゅっとすくむ者である・・・みたいなことを書いていたが、私はそれを読んだ中学生の時に、妙に納得したものだった。
恥ずかしい行いをしたことのない者は地球上の人間の中にいない。
しかし、それに対し、首がすくむ・・・つまり、本当に恥ずかしいと思う者が、本当の紳士であり、淑女だ。
この首がすくむ、本当に恥ずかしいという想いは、やはり、後ろめたさから来るはずだ。
では、「吾、ことにおいて後悔せず」と言った宮本武蔵は紳士ではない。
まあ、彼の場合、紳士なんてやってたら生きられなかったということもあるのだろうが、やっぱり彼は紳士じゃあないのだ。
紳士は、無理に剣豪になどならないものだ。
武蔵は、どんな汚い手を使ってでも勝つことを選ぶ者で、紳士でも騎士でもなかったし、間違いなく、武士でもなかった。

だが、そんな武蔵も、ひょっとしたら、過去に卑怯な手で葬った敵達への後ろめたさからか、生き延びる秘訣を『五輪書』にまとめ、後の人の手引きとした。
まあ、「不意をつけ」「むかつかせろ」などと書かれたそれを、学ぶべきかどうかは解らぬがね。
あの通りにして勝っても、まともな人間なら後ろめたさを感じるだろうし、それが一生の負い目になる。
生きていれば、嫌でも負い目は背負うのだから、わざわざそれを作ることはあるまい。
不意をつく必要も、むかつかせる必要も、もう無いのだ。
武蔵よ、やすらかに眠れ。









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最大の賛辞、最上の想い

政木和三さん(2002年没)が生きておられた時のことだが、私は大阪大学名誉教授のNさんに、
「政木和三さんをご存知ですか?」
と尋ねてみた。
政木さんも大阪大学に勤務されていたことを思い出したのだ。
すると、Nさんは、「政木は親友だ」と言う。
しかし、Nさんは、何かを考え込む時の焦点の合わない目をしながら、だが、落ち着いたしっかりした声で言った。
「俺は政木の言うことは半分以上信じていないと思う。だが、政木は嘘を言う男じゃない」
当時の私は分からなかったが、これほどの信頼を表す言葉を、私は、後にも先にも聴いたことがない。

最近、時々書いているが、人間は信じることはできない。
疑わないことができるだけである。
Nさんは、「政木は嘘を言う男じゃない」という言葉で、信じてはいないが、決して疑っていないことを、はっきり表明したのだ。
しかも、「半分以上信じていない」だけだと敢えて言うのは、人間の限界を超えているかもしれない。
政木さんに対する、これ以上の賛辞はないと思う。

宗教の信者は、教祖のことを、みだりに、「私は尊師様を信じています」と言う。
それは大嘘である。
彼は、教団の権威、教祖の力(まやかしだが)、教団に所属する自分の価値に執着しているだけである。
自分には、他に何もないからである。
一頃、ある新興宗教に高学歴な信者が多いことが話題になったが、それらの信者達も同じである。
世間では頭が良いとか、優秀とか言われていても、彼らは、自分には何もないので、教団や教祖に執着していたのである。
それは、子供の時から、試験の成績や学歴などという、大して価値のないものを大層なものと思い込まされてきた哀れな末路であった。
宗教の信者は、教団や教祖に対し、本当は疑いを沢山持っているが、疑うことが許されないのである。
優等生が、学校や教師や試験や受験を疑うことが許されないのも同じである。

愛と憎も、信と疑に似ている。
「愛しています」と言っても、それは嘘である。
人間にできることは、憎まないことだけだ。
人間には、愛する力はない。
しかし、憎しみを捨てる力はあるのだ。
なぜなら、人間には、愛することはできなくても、憎むことはできるからだ。
愛はたやすく憎しみに変わると言う。
そうではない。
人間の愛は、憎しみが愛の仮面をつけたものに過ぎないのだ。
最初から憎しみだったのが、ばれただけのことである。

萩尾望都さんの15ページの傑作漫画『半神』で、最後に、16歳の美少女ユーシーは、妹のユージーのことを想ってこう言う。

愛よりももっと深く 愛していたよ おまえを
憎しみもかなわぬほどに 憎んでいたよ おまえを
わたしに重なる 影・・・
わたしの 神・・・
~『半神』(萩尾望都著。小学館文庫)より~

彼女は妹を徹底して憎んでいた。
だが、その憎しみは消え去った。
その時、彼女は、自分の中にある愛に気付いた。
それが神であった。
読み始めて10年ほど経って、やっと分かった。
今月、久々に、この『半神』の舞台が、韓国と東京で上演されるようである。
詳しくは、下のリンクをご参照願いたい。現時点で、チケットはまだ購入可能なようである。
◆ 「半神」 東京芸術劇場









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沈黙こそが愛である

今でも、アメリカ人と日本人では、愛情表現の積極性や派手さは相当な違いがある。
よくは分からないが、アメリカでは、夫婦が毎日面と向かって「アイラブユー」と言ってキスをするのは普通なのかもしれない。
日本人もかなり西洋化したと思われているだろうが、まだまだ、そういったことはほとんど考えられない。
ところが、おかしなことに、それほど愛情をしっかり示すアメリカ人が、離婚率では、日本をはるかに上回っているのだ。
そして、日本人も、愛情を形に表すようになるほど、離婚率は高くなっているように思うのである。
面白いものであると思う。

『エル・カザド』というアニメで、こんな話があった。
あるマフィアの大ボスが、高齢と病気で死ぬ時、ベッドの脇には息子が付いていた。
息子と言っても、浮浪児だった時に、大ボスの車から盗みを働こうとしていたところを捕まったのだが、それが、大ボスの気紛れからか、引き取られて大ボスの屋敷に住むことになったのだった。それが、いつか、大ボスの息子として、ファミリーのナンバー2にまでなっていた。
とはいえ、その息子サンチェスは、大ボスに可愛がられたことは一度もなかった。
しかし、サンチェスは、大ボスに引き取られる前は、食べることもできず、ずっと空腹を抱えていたのだから、毎日3食食べられれば、それで天国だと思い、満足していた。
ところが、死んだ大ボスの寝衣の上着に何か入っているのに気付き、サンチェスが手を入れて取り出すと、それは、安物のガイコツのキーホルダーだった。
それを見て、サンチェスは驚き息を詰まらせた。
それは、サンチェスが子供の時、一度だけ、大ボスの誕生日にプレゼントしたものだった。
その時、大ボスは少しも嬉しそうでなかったので、サンチェスは、てっきり、捨ててしまったと思っていたのだが、大ボスは死の瞬間まで、それを肌身離さずにいたのだ。

サンチェスが、そのガイコツのキーホルダーをプレゼントした以外は、どちらも、相手に対して愛情を形で示したことは一度もなかったに違いない。
そして、お互い、相手が自分のことを好きではないだろうと思っていただろう。
いや、それどころか、自分も相手のことを好きではないと思っていたに違いないのだ。
しかし、それは、表の心でのことで、心の奥では、やはりお互いを愛していたのだ。

形として、豊かに愛情表現をする時は、決して深くは愛していないのだ。
そして、沈黙の中にこそ、本当の愛がある。
表面的には憎みあっていても、実際には愛し合っていることすらある。
いや、愛していなければ、憎むことなどないかもしれない。

萩尾望都さんの15ページの漫画『半神』で、最後に16歳の美少女ユージーはこう言う。
「愛よりももっと深く愛していたよおまえを。憎しみもかなわぬほどに憎んでいたよおまえを」
これほどの作品を見ることはそうはないと思う。この作品は、舞台として136回公演され、10万人以上が見たと言われている。

初音ミクの『VOiCE』という歌に、こんな歌詞がある。

今何してるの、何したいの 俺はここだ
メッセージ伝えるよ 愛してる
~初音ミク『VOiCE』(作詞、作曲、編曲:ラヴリーP)より~

このメッセージは、沈黙によって捧げられたものに違いない。









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AとMに秘められた力

自分を愛することが出来ない者は成功できないという話を聞いたことがある。
しかし、私は、自分が好きだという者はあまり信用しない。
自分を本当に愛しているなら、きっと自分を憎んでいるのだ。
私も、以前は自分が好きだった。だが、今は、自分の息の根を止めてやりたいと思うことの方が多い。

自分を憎みつつ、自分を愛するようになるだろう。
他人に関してだってそうだよ。
本当に誰かを愛しているなら、むしろ、その相手を憎んでいるのだ。

愛よりも もっと深く愛していたよ おまえを
憎しみもかなわぬほどに 憎んでいたよ おまえを
~萩尾望都『半神』より~

自分を憎むからこそ、自分を愛するようになるのだ。
浅ましく愚かな自分を哀れむようになる。
だが、自分で自分を救えない。
その苦しみの中で、いたるところに、慈悲に満ちた大きな存在がいることを信じるようになる。
そんな至高の存在を、人類は昔から、神とか仏と呼んできた。
確かに存在するが、目に見えず、耳に聴こえず、触っても指に感じない。
だから、それを、ただ、「在るもの」と言ったのだ。
エゴーエイミ、エゴ・スム、アハン、I AMなどが、全て「我あり」という意味で、神を意味する。
オーム、道(タウ)、アーメン、阿吽(あうん)なんてのも、多分、同じようなところから来ているのだ。
これらの言葉全てが、よく似ているのは偶然ではない。
日本の天(あめ)というのも同じで、天照大神(アマテラスオオミカミ)の名はとても尊いものになっている。
阿弥陀仏(原語はアミターバ)もそうで、やはり、AとMの音から成っている。

至高の存在を愛するようになれば、自分がそれと溶け合い、1つになる。それが秘教の究極だ。
ただ、人は、形の無いものに心を向け難いので、昔から、神や仏を考えたのであるが、それには、AとMの音を持たせ、決して、ただの仮想のものではないものにした。
古代インドでは、宇宙に響く究極の音はAUM(オーム)だと言ったが、現代とは比較にならない直観を持つ聖者にはそれが分かるのだ。
キリスト教徒は「アーメン」と言って神やその代理人イエスを崇めた。「アーメン」とは、「あなた(神)の意志の通りに」という意味だ。
我が国、特に、江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠は、天照大神を崇める上に崇めた。
道綽(どうしゃく)、善導、法然、親鸞は、阿弥陀如来を心から信じ、その名を呼ぶだけで良いと言い、そのための行いが「南無阿弥陀仏」(我、心より阿弥陀如来を信じ、全て委ねる)という念仏である。
全て、AとMの音からなる聖なるマントラである。
自己への憎しみを、これらの言葉の中に投げ込むのだ。
すると、心の中のアルケミストが、心を黄金色に変換し、神の心と解け合わせる。これが、本当の錬金術(アルケミー)であり、中国でいう煉丹術である。
AとMの神を愛すれば、それと1つのものである自己を本当に愛するだろう。その時、すでにあなたは人ではない。いうならば、ヒトなのだ。









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至高者と1つになる方法

神、あるいは、万物と一体化した神秘体験は、様々な言い方がされてきた。
作家のロマン・ロランは「大洋感情」と言い、心理学者のマズローは「至高体験」と言う。
夏目漱石は「天賓」、岡本太郎は「爆発」だ。
エマーソンは、「自分の魂の中に、神の魂が流れ込んでくる瞬間」と哲学者で詩人らしい、素晴らしい表現をした。
ドストエフスキーは直接には表現せず、「その5分と引き換えに人生を差し出しても良い」とまで言う。
バーナード・ショー、エリオットらも、作品の中で美しく描いているようだ。

どれもきっと同じ体験であるが、シンプルだが、最も的確な表現をしたのは、アイルランドの詩聖W.B.イェイツではないかと思う。
それは、「エクスタシー」だ。エクスタシーとは、忘我という意味で、無我と同じだが、万物の中に自己が溶け込んで消滅した様子がよく分かる。イェイツは、芸術の目的はエクスタシだと言った。

さて、では、どうすれば、こんな神との一体化を体験できるのだろう?
だが、上にあげた天才達も、皆、分からないのだ。
マズローは、学者らしく、実験的にある程度の傾向は掴んだかもしれないし、彼と親交のあった英国の作家コリン・ウィルソンは、これがライフ・ワークなのだから、様々な方法を膨大な著書で述べている。しかし、IQ197の天才心理学者と、25歳で文壇の寵児になった世界的作家には悪いが、彼らもまた、よく分かっていないのだと思う。

イェイツもまた、分からないとしながらも、憎むのを止めた時に、それがよく起こると言った。
彼は、神との一体化を度々体験したと同時に、よく憎んだということだろう。こういった、決して聖人ではない、心に歪みや抑圧、あるいは、狂気を持つ芸術家の言うことは、案外に我々凡人にとって参考になる。
イェイツは言う。人は愛することは出来ない。なぜなら、愛とは神の領域だからだ。
その通りだ。我々が言う愛なんて、単なる、執着、欲望、エゴであろう。
だが、イェイツは、憎むことを止めることは出来るという。なぜなら、憎しみは人の領域だから、自分で支配できる可能性があるのだ。

萩尾望都さんが、わずか15ページの傑作漫画『半神』では、16歳の美しい少女が、妹をこの上なく愛すると同時に、この上なく憎んでいたことに気付いていた。
最大に憎んでいたからこそ、その憎しみが消えた時に、神のものであるはずの愛が現れたのかもしれない。

だが、人は、ただ1つ、愛することができるものがある。
イェイツにとっては、とんだパラドックスかもしれないが、人は、神を愛することだけは出来るのだ。
イェイツがなぜそれに気付かなかったかというと、おそらく、彼が、オスカー・ワイルドやニーチェの影響で、反キリスト思想を持っていたからだ。
イエスは、人にとって最も大切なことは神を愛することだと言ったのである。
ラーマクリシュナは、あらゆる宗教を学んだ末、全ての宗教は同じと悟った。そして、どんなやり方でもいいから、神を愛しさえすれば良いと言った。
ラーマクリシュナは、一切の聖典の類を重視しなかったというが、『バガヴァッド・ギーター』だけは神の本当の言葉だとして重んじたという。『バガヴァッド・ギーター』の中で、ラーマクリシュナがその名を借りたクリシュナの教えは、つまるところ、至高神である自分(クリシュナ)を愛せよということだ。
ラマナ・マハルシも、本で学ぶことには否定的なことを言うこともあったが、誰かが、「時々、バガヴァッド・ギーターを読むべきでしょうか?」と尋ねると、「いつもがよい」と答えている。
そして、浄土仏教の経典である『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』においては、釈迦は、最高の仏である阿弥陀如来を褒め称えよと説くが、これは即ち、至高者である阿弥陀如来を愛せよということに他ならない。
神と呼ぶか、仏と呼ぶか、あるいは、別の言い方をするかは自由であるが、至高者の存在を認識し、それを信頼し、自己を明け渡す時、即ち、真に愛する時、我々は、愛したそれと一体になる。それは、間違いのないことであると思う。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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