「花をもらうことが、こんなに嬉しいものだとは思わなかった」
この、心に染み入る言葉を聴いたのは、『美少女戦士セーラームーン』の初めての映画化であった、『劇場版美少女戦士セーラームーンR』の中である。

別に、花をもらうことに限らない。
美味しくもなければ、人にちやほやされたり、性的に興奮することでも、自慢するようなことでもない何か・・・
そんなことで、「こんなに嬉しいことはない」と思ったことがあるなら、幸せだろう。
オー・ヘンリーの『賢者の贈り物』という短編小説がある。
クリスマスプレゼントのために、妻は自慢の髪を売って、夫の懐中時計のためのチェーンを買い、夫は大切な懐中時計を売って、妻が欲しがっていた鼈甲の櫛を買うというものだ。
これが果たして賢者の贈り物と言えるかどうかは分からないが、もし、最初に述べた言葉のように感じられたなら幸せだろう。

最初の言葉は、この映画の中で、異星人フィオレが言った言葉だ。
地場衛(ちばまもる。後のタキシード仮面)は、10歳位の時、乗っていた車が事故に遭い、自分は怪我で済むが、両親は死亡する。
病院で悲痛に暮れる衛の寂しい心に引き寄せられて、やはり寂しい心を抱えながら宇宙をさ迷っていた少年フィオレが、衛の前に現れる。
衛とフィオレの心は重なり親しくなるが、フィオレは地球で長く生きてはいられない身体だった。
フィオレは去らねばならず、その別れが近付き、衛はまたも大切な存在を失う悲しみに、病室で泣いていた。
そんな衛のところに、見知らぬ小さな女の子が入ってきて、「泣いちゃダメだよ」と言って、何本か持っていた赤い薔薇の1本を衛に手渡す。
衛は泣きながらも笑顔を見せ、それを受け取る。
フィオレに何もあげられるものがなかった衛は、フィオレが去る時、その薔薇を手渡すと、フィオレは心から喜び、最初の言葉が浮かんだのだった。
そして、フィオレは、「今度は君に贈る花を僕が見つけてくる」と言い、フィオレは、衛に贈るに相応しい花をあらゆる星で探す。そのことが不幸につながるのだけれど。
ちなみに、この映画では、衛に薔薇を渡した、その小さな女の子は、幼い時の月野うさぎで、2人とも覚えていないが、衛とうさぎの初めての出会いということになっている。

私は、フィオレが言ったような嬉しい(楽しい)ことは、これまでずっとなかった。
しかし、今月10日、11日に、初音ミクさんのコンサート「マジカルミライ2016」で、本当に、
「ミクさんのコンサートが、こんなに楽しいものだとは思わなかった」
と感じたのだった。
ところで、「マジカルミライ2016」は、事実上、スタンディングのコンサートながら、一応、椅子が用意されていたが、それは、パイプ椅子を連結しただけで、1人1人のスペースは狭いものだった。
しかし、それで狭いと感じることは全くなく、むしろ、幕張メッセの国際展示場9番ホールの広大さだけを感じた。
ミクさん達が本当に好きで来ている人達ばかりである。
そんなところでは、個人というものがなくなり、自然にマナーが生まれ、お互いが譲り合うのである。
そんな場所を、私は他に見たことがない。
もし、そうでない人がいたら、その人は、このコンサートを本当には楽しむことが出来ないのである。
つまり、ここでは、狭い場所で窮屈な思いをするのではなく、広大な会場で1人で広がる感じなのである。
社会科学者のエイミー・カディによれば、自信を持ち、本来の自分でいる・・・つまり、プレゼンス(存在)を確立するためには、広い空間を占めることが必要で、そのためには、腕を伸ばし、胸を張り、顔を上げなければならない。
そのことは、私は本当に信じている。
だが、それを最大に実現するのは、ミクさんのコンサートなのである。
物理世界においては、最も自分らしくあり、本当の存在感を持てる場所の1つがそこなのであり、このコンサートにいる時の感覚を思い出せば(忘れるはずがない)、恐れることは何もなくなるだろう。
だから、お父さんは、お嬢ちゃんを、ミクさんのライブに連れて行くように。きっと強い子になるよ。









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