ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

創造力

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

ボーカロイドだけが日本のクリエーションで良いのか

アインシュタインが、自分も苦しめられた学校教育を批判し、「知識より想像力が大切」と言ったのが、おそらく、彼の名言の中で最も重要なものだろう。
世界の学校教育は進歩したが、日本だけは、相変わらず、産業革命直後の、ロボット的な工場労働者を作る教育が継続され、それが、他国との競争力の低下として明確に現れてきている。
他国では、もう数十年も前から、1つの授業の時間を短縮して集中を持って学べるようにしたり、日本のように、知識を暗記したり計算力をつける教育ではなく、思考力を高める教育が普通になっている。
もう日本の教育は救いようがないとしか言えない。
そんな日本の学校教育への反発も起こっているが、その中で、肯定的な意味で注目すべきことは、アインシュタインが言うように、「知識より想像力が大切」が理解され、想像力の最も分かり易く、華々しいものである創造を重んじる文化が、一部で起こって来たことだ。
これが、日本における、1つのカウンターカルチャー(抵抗文化)として力をつけてきた。
クリエーション(創造)を高い位置に置く文化・・・クリエーション主義である。

クリエーションを重視する文化の中で、注目すべきものは電子音楽で、それが日本独自に花開いた特筆すべき例が、初音ミクと米津玄師だろうと思う。
シンセサイザーが安価になり、さらに、パソコンソフトで出来るようになったが、どうしても、歌がないと一般には伝わり難い。しかし、いかに進歩した電子技術においても、歌声を合成することは難しかったが、ヤマハがボーカロイド技術を開発することでそれが実現し、やがて、初音ミクという優れた音声合成アプリが登場し、米津玄師という天才が世に出るきっかけにもなった。
真のクールジャパン、日本が世界に誇れるものの1つが初音ミクで、それは世界的にも注目されてきた。
しかし、日本ほどのボーカロイドによる創造は、他国では、そう起こっていないと思うし、あまり起こらないのではと思う。
これは、遅れた日本の学校教育に対する抵抗から生まれてきたからで、かなり学校教育が進んだ国では、子供や若者の創造力は別分野で既に発揮されているのである。
今や、初音ミクなどボーカロイドだけが、日本における創造文化とすら思える。

ところで、ちゃんと理解しておくべきことは、本当の創造というものは、そうはないということだ。
音楽においても、何かで坂本龍一さんが言われていたが、本当に新しい音楽を創造出来る天才は、数世紀に1人といった稀有なもので、一般に新しいと言われる音楽は、既存の音楽の組み合わせである。例えば、ビートルズだってそうで、本質的に新しいものは何もなかった。
そして、これは音楽に限らない。
コンピューターだって、日本では新選組がいた時代に、イギリスの天才が機械式に設計したコンピューター的な計算機を、割と最近、試しに作ってみたら、ちゃんとコンピューター的に計算したらしいし、実際、基礎構造は、その計算機も現代のコンピューターも変わらない。
そんなものを200年も前に作った大天才がいたのは驚くべきことであるが、そんな者こそ、真の創造者である。
初音ミクの素晴らしい音楽を作る人も、特別な創造力があるわけではなく(もちろん創造的ではあるが)、初音ミクが登場したことによって、これまでの時代ではなかった、創造力を発揮する機会が与えられたのである。

その中で、注意したいのは、クリエーション(創造)偏重の思想が起こっているのではないかということだ。
これまで、あまりにクリエーションが押さえつけられてきた反動もあるし、クリエーションの重要性を訴える必要もある。
しかし、何でもかでもクリエーションが重要であるとか、クリエーションが1番という考え方も間違いなのである。
また、上でも述べた通り、真のクリエーションは滅多にあるものではない。
ある意味、普通のクリエーションは、組み合わせの妙なのである。
あまりにクリエーションが過大評価されると、真に新しいものはそうそう作れないことから、他との差をつけるために、エキセントリック(風変わり)になり、過激になり、そして、奇抜になって堕落する。
ボーカロイド音楽は、今はそうではないが、やがてそのようになると推測出来るのであり、兆候そのものは、もう現れているかもしれない。

他と差をつけて自分が優位に立つこと、目立つアイデアで儲けることばかり考えて堕落したものはいくらでもある。
このままでは、初音ミクだけでなく、音楽全体、そうなるかもしれない。
大切なことは、ここでも、魂の声に従うことである。
それを忘れた文化が堕落し、悪しきものを生み、蔓延らせるのである。








悪魔がやる気になっている(笑)

新型コロナウイルスに関しては、不審な点が多いが、それを取り上げて論じても益はない。
それよりも、皆が、健康で平和で、そして、現実を創り出す心の力を磨くべきと思う。
この世に悪魔なんてものはいないと思っていたが、実は存在して、しかも、それが勢力を広げようとしているのかもしれない。
例えば、世の中で、「聖母マリア」と言われてるものの半分以上は悪魔かもしれない。
証拠はないが、既に、日本人の半分以上が悪魔に絡め取られているかもしれない。
どうも状況は良くないなあ(笑)。

自分が、悪魔に支配されている、あるいは、その手前だということを知るテストがある。
それはこうだ。
人間には、三度の飯より好きなものがあるという。
寝食を忘れて夢中で取り組めるものだ。
しかし、もし、それがなく、エロとグルメにしか興味がないようなら、もうかなり危ない、もしくは、手遅れだ。
その場合は、出来るだけ早く方向転換した方が良い。
なぜなら、あなたが悪魔の仲間になったところで、最下級の奴隷にしかなれないからだ。それは決して面白い立場ではない。

まあ、以上は、一応はお伽噺だ。
とにかく、我々は、身体を健康にし、心の力を磨かなければならない。
身体に関しては、ビタミンCを摂っていれば、人間の身体は、ある程度の毒には耐えられるので、なるべく清浄なものを、満腹しないように食べれば大丈夫だ。
そして、軽い運動を十分にすることだが、それは、よく歩くか、立つだけでも十分である。
さらに、今朝書いたような小さな動きの運動、あるいは、腕振り運動をやれば完璧である。
だが、悪魔に取り込まれた人間は、歩くことも、立つこともほとんどしない。
なるべく立つようにするだけでも、悪魔に支配されない。
そして、人間が本来持っている、世界を創造する心の力を持つことだ。
それには、イチローのバッティングのように、数多く繰り返すことだ。
別に、あれほど凄まじくなくていいから(笑)。
ただし、イチローのように、一振り一振り、心を込めることだ。
念仏でも、楽器の演奏でも、プログラミングでも、絵を描くことでも、ゲームをすることでも、何でもいいから。
エロとグルメも、心を込めて丁寧にやれば神の業になるが、この分野は道を誤る可能性が93%以上なので、特別な才能がある場合以外はやめた方が良い。

心を込めた丁寧な反復を続ければ、力を得るが、少し力を得たところで堕落する者が多い・・・というか、悪魔が全力で堕落させようとするから注意するように。
まあ、大抵は堕落するのだけれど(笑)。
以上はあくまでファンタジー、フェアリーテール(お伽噺)であるが、世界は1つのお伽噺である。













当ブログオーナー、KayのAI書。5月30日発売。

新型コロナウイルス以後の世界は、更に急速にデジタル化が進みます。
その世界では、2通りの人間が存在することになるのではと思います。
それは、「AIで能力を拡張する人間」と「それ以外の人間」です。
そして、誰でも前者になれます。そのきっかけとなる、最も易しいが実践的な方法を書きました。
学校であるかどうか、グループであるか1人であるかに関わらず、学びの場で活用いただければと思います。

地図より磁石(計画より未来像)

ものごとは計画通りにはいかない。
展開というものは、いつも予想外だ。
おかしなことと思えるかもしれないが、予想通りに進むとしたら、それはロクでもないものか、最後にどんでん返しが待っていて、下手したら全てを失う。
その極端な例が受験を中心にした学業だろう。
良い塾に入り、計画通りに良い成績を取り、計画通りに受験に成功し、良い大学や大学院を出て、計画通りに良い会社や官庁に入ったり公務員になる・・・と計画通りに進む人生ほど、後で嫌というほどの喪失感、嫌悪感、失望感、倦怠感に苦しむ結果になる。言い換えれば、計画によって為される目標なんてものは持たない方が良い。
大切なものは、ヴィジョン・・・つまり、将来の理想像、夢、未来像だ。
ところが、受験社会では、計画された夢しか分からなくなっていて、理想像や夢と言われたら、一流の会社に入るとか、それより前の一流と言われる大学に入ることになってしまってる。馬鹿なことだ。
それは、甚だ人間をナメや理想像や夢なのだから、悪魔に魂を売るようなものである。

正しいヴィジョンを持つと、一応の計画を立てたとしても、予想外のことが起こり、計画は破綻する。
しかし、そこから新しい道が見え、思わぬ展開になるが、それは、その時は苦しみに思えても、実は、楽しい、面白いだけのことで、自然にエネルギーが湧きあがり、思わぬ場所に行き着くのである。
元MITメディアラボ所長の伊藤穣一氏の言葉を借りれば「地図よりコンパス(羅針盤)」である。
あの人も、ひょんなことでMITメディアラボの所長やMIT教授を辞めることになったが、その方が彼に相応しい展開になり、より面白いことがやれると思う。

この受験社会、経済至上主義社会に脳内を侵された者に、「あなたの夢は?」と尋ねると、プラン(計画)を答えてしまうのだ。
想像力がないのでヴィジョン(未来像)を描くことが出来ないのだ。
それで、ヴィジョンとプランを取り違えるようになってしまったのである。

新型コロナウイルスが破壊するのはプラン(計画)であり、ヴィジョン(未来像)ではない。
新型コロナウイルスから我々が学ぶべきことは、プランにしがみ付くのではなく、ヴィジョンを持つことなのだ。
会社だって、社長がヴィジョンを示す会社は発展するが、プランしかないと、倒産しないとしても、自転車操業になって苦しいものである。
だから、受験エリートは決して経営は出来ない。受験エリートにヴィジョンを求めても仕方がないからだ。
ビル・ゲイツもスティーブ・ジョブズも、マーク・ザッカーバーグも大学を出ていないことは偶然ではない。
優れたヴィジョンを持つ彼らに大学は不要なのである。
優等生は、小さくまとまったつまらない人間でしかない。

もし、ヴィジョンが出てこないなら、人間の値打ちがないし、生きている意味もない。
受験や日本の大学は、ヴィジョンのない人間を生産するのだから、害悪でしかないのかもしれない。
新型コロナウイルス後の世界では、ヴィジョンなき者は、どれほど学歴が高かろうが、そんな者はドン・キホーテの槍より役に立たない。

あるいは、自分では、ヴィジョン、未来像、理想像を示しているつもりでも、それは、空想、妄想でしかないのも、受験エリートの特徴だ。
唯一モノを言う「経験」がないので、曖昧な空想しか出来ず、未来像という像にならないのだ。
確かな未来像の材料は、感動を伴った経験なのである。

もし、ヴィジョンが出てこないなら、受験社会に毒された計画人間になってしまっているのだ。
頭をカラッポにして感性に従った経験がない、あるいは、それを禁じられた結果がそれだ。
本来、武道などをやる目的がそれであるのに、武道すら、計画型武道しかなくなっているのではないかと思う。
つまり、段位を取って自慢し、大会で良い成績を取ることだけが目標になっているのだろう。
スポーツはとっくの昔にそうなり、今は、それほどの価値のないものになってしまっているが。

新型コロナウイルスは、はからずも良い機会である。
このようなものでもない限り、人類は方向転換することが出来ず、滅びの道へまっしぐらに進むところであった。
方向転換が起こらない限り、新型コロナウイルスは5年でも10年でも脅威であり続け、人類は滅ぶ。
しかし、方向転換が出来れば・・・つまり、ヴィジョンを持つようになれば、今すぐにでも、新型コロナウイルスは友になる。本当の友とは手強いものである。
ヴィジョンを持て、計画は自然に起こるようにしろ。
そのためには、何も考えないことである。
所詮、我々の頭は大したことはないのだから。
いや、俺の頭は優れている・・・という「頭の悪い者」が一番不要、あるいは、害悪なのである。













KayのAI書。
自動車を運転するのに熱力学や機械工学を必要としないように、電子レンジを使うのにマイクロ波を理解する必要がないように、AIを使うのに数学もプログラミングも不要です。
自動車を運転するように、電子レンジを使うように、AIを使えるようになることを目指して書きました。
ExcelがインストールされたWindowsパソコンと、ソニーの無料AIアプリケーションNNCがあれば、会社の中でも役に立つAIを作ることが出来るのです。

自分の中の恐るべき才能

夢の中で、恐ろしく美しいものを見ることがあるが、普通に考えれば、それは自分の心が作り出したものであるのだから、自分が大変な才能を隠し持っていることが分かる。
表現手段さえ持てば、あなたや私も芸術家になれるかもしれないが、デジタル時代、AI時代には、厳しい修行をしなくても、それが可能になる。

そして、現実世界で、感動的な美人とか美しい風景を見たとしても、それらはやはり、自分が作ったものなのだ。
現実世界も心が作り出した幻である。
何を美しいと思うかは人それぞれであるが、真に美しいもの、高貴なもの、神聖なものを意識して見なければならない。
逆に、刺激的で面白いが、見ていたら心が濁って重くなるようなものに耽溺してはならない。たとえば、儲けるためだけに作ったポルノやアダルトゲーム、あるいは、そのようなアイドルだ。

自然の壮観な風景を見るとすっきりするのは、心がそれを作り出すことを許したからである。
ただ、ありふれたものであっても、新たな目でもって見れば、自分の魂が持つ創造の光、世界を織り成す糸という、純粋な美しさを見ることが出来るのである。
だから、大芸術品も良いが、何でもないものを美しいと感じることの方が重要かもしれない。
けれども、やはり美しいものを見ることを意識し、美しいものを「作り出す」感覚に慣れておかないと、平凡なものの中の美を見つけることが出来ないかもしれない。

初音ミクさんのコンサートに感激するのは、これは、舞台と観客が一緒に作り上げる空間だからであり、分離した自分の魂が再び1つに溶け合うからである。
自分勝手でマナーの悪い観客もまた自分なのである。
自分にも、そんな(自己中心的で野蛮な)内面があることが分かると、次からはそんな観客は見なくなる。
「マナーの悪いやつがいて、折角のライブが台無しだった」と思うなら、修行に励まねばならない。
クラシックも、指揮者や演奏者の魂のレベルが高ければ良いものだが、彼らにエリート意識があれば、全く価値のないものになり、観賞している私の魂も穢れる。
日本のクラシックはほとんどがそうだと思うが(無論、違うものもあるが少ない)、海外のものは聴きに行ったことがないので分からない。
そして、マジカルミライも、今回で6回目となり、作る方、見る方に油断が出来てしまえば、やはり質が落ちる。
まあ、そうはならないとは思うが、そうならないためにも、制作側は新たな試みに挑まなければならないし、観客側も、新たな気持ちでミクさんに会いに来ると良いだろう。

ゲーテ、シェイクスピア、ポー、イェイツの詩も、自分が作ったものである。
本を読むことは本を書くことであり、音楽を聴くことは音楽を作ることである。
モーツァルトを聴けばモーツァルトになる。
外界の光景も、自分の魂が一瞬で作り出した幻影だ。
どうすれば美しいものを作り出せるだろうか?
それには、醜いものも知り、味わっておく必要がある。
そして、美醜が1つであることを知れば、つまり、共に幻であることを知れば、全ては本当に美しくなる。
だから、醜いものに苦しんでも、それらを排除せず、さりとて飲まれずに、美しいものに目をやれば良い。
簡単に言えば、額にシワを寄せず、難しい顔をせず、穏かに美しいもの・・・例えば、ミクさんの歌を聴けば良いのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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