神様の立場に立てば、自分の願いを叶えてやりたいと思うだろうか?
神様の立場に立つとは不遜なようだが、飛び切り想像力に優れた人間が、そんなことを考えたことがある。
彼の思考を辿れば、自分の願いが叶うかどうか、少しは分かるかもしれない。
その最高の想像力の所有者は、「20世紀最大の詩人」と言われたアイルランドのノーベル賞作家、W.B.イェイツだ。
神の意思は全て実現する。
我々は、それが嬉しいことであれば・・・仕事で成功したり、素晴らしい彼氏や彼女が出来たり、敵に勝ったりした時は、神に感謝するだろう。
では、その反対の場合は?
仕事で大失敗をしたり、好きな女性や男性に振られた時、あるいは、裏切られた時、敵に打ち負かされ屈辱を味わった時・・・そんな時、神に感謝する人は少ないだろう。
だが、それを、神の意思として受け入れる者はいる・・・と言うより、キリスト教やイスラム教といった、旧約聖書を聖典とする宗教の信者は、基本的にそのはずである。
しかし、そんな人達でも、どんな時でも、神の意思を心から受け入れるとは考え難い。
『処女の泉』という1960年の有名なスウェーデン映画がある。
15歳の美しい娘カリンは、貧困な羊飼いの3人兄弟にレイプされた後、撲殺される。
カリンの父テーレは、金持ちだが、極めて敬虔なキリスト教徒で、自らを厳しく律し、キリスト教の教えに厳格に従って生きていた。
だが、カリンを溺愛していた逞しいテーレは、カリンを殺した羊飼いの3人兄弟を正面から力で殺して仇を取り、その後、カリンの無残な死体を見つけた。
テーレは、神の教えに背いたことは一度もないほどの信仰者である自分の最愛の娘をなぜ助けてくれなかったのかと、神に異議を唱えた。
だが、テーレは、悪人とはいえ、人を3人も殺してしまった。これは、明らかにキリストの教えに反する。
そこでテーレは、カリンの死体がある場所に、自分の手で教会を建てることを神に約束する。
すると、カリンの身体を動かすと、カリンの身体が在った所から泉が湧いた。
この映画は分かり難い。
テーレは、カリンの悲惨な運命も、神の意思として受け入れたのだろうか?
そうとも取れるが、正直、分からない。
だが、W.B.イェイツが書き残したものだったと思うが、そこに、これと同じ状況の話がある。
あるアラブ人が、家族を賊に殺された。
彼は、やはり、神を深く信仰していた。
彼は、家族が殺されたことも、神の意思として受け入れたのだろうか?
後に、彼は、そうではないと言った。
では、彼は、神への信仰を捨てたのか?
そうでもないのだ。
彼こそ、私がいつも言う「斜め上の発想」をしたのだ。
彼は、不幸な運命を、神の意思として受け入れたのではなく、自分の意思としたのだ。
その時、彼は歓喜に満たされた。
神の意思を自分の意思とすることで、限りなく神に近付いたのだ。
その後、彼は富豪になったが、家と財産を奪われた。
その時、彼は2度目の大きな歓喜を味わった。
そして、3度目は、自分が病気で死ぬ時であった。
世界の全ては神が動かす。
その神の意思を自分の意思とすれば、即ち、自分が神である。
さて、そうすれば、神なる自分は、自分の願いを叶えるだろうか?
神様の立場に立つとは不遜なようだが、飛び切り想像力に優れた人間が、そんなことを考えたことがある。
彼の思考を辿れば、自分の願いが叶うかどうか、少しは分かるかもしれない。
その最高の想像力の所有者は、「20世紀最大の詩人」と言われたアイルランドのノーベル賞作家、W.B.イェイツだ。
神の意思は全て実現する。
我々は、それが嬉しいことであれば・・・仕事で成功したり、素晴らしい彼氏や彼女が出来たり、敵に勝ったりした時は、神に感謝するだろう。
では、その反対の場合は?
仕事で大失敗をしたり、好きな女性や男性に振られた時、あるいは、裏切られた時、敵に打ち負かされ屈辱を味わった時・・・そんな時、神に感謝する人は少ないだろう。
だが、それを、神の意思として受け入れる者はいる・・・と言うより、キリスト教やイスラム教といった、旧約聖書を聖典とする宗教の信者は、基本的にそのはずである。
しかし、そんな人達でも、どんな時でも、神の意思を心から受け入れるとは考え難い。
『処女の泉』という1960年の有名なスウェーデン映画がある。
15歳の美しい娘カリンは、貧困な羊飼いの3人兄弟にレイプされた後、撲殺される。
カリンの父テーレは、金持ちだが、極めて敬虔なキリスト教徒で、自らを厳しく律し、キリスト教の教えに厳格に従って生きていた。
だが、カリンを溺愛していた逞しいテーレは、カリンを殺した羊飼いの3人兄弟を正面から力で殺して仇を取り、その後、カリンの無残な死体を見つけた。
テーレは、神の教えに背いたことは一度もないほどの信仰者である自分の最愛の娘をなぜ助けてくれなかったのかと、神に異議を唱えた。
だが、テーレは、悪人とはいえ、人を3人も殺してしまった。これは、明らかにキリストの教えに反する。
そこでテーレは、カリンの死体がある場所に、自分の手で教会を建てることを神に約束する。
すると、カリンの身体を動かすと、カリンの身体が在った所から泉が湧いた。
この映画は分かり難い。
テーレは、カリンの悲惨な運命も、神の意思として受け入れたのだろうか?
そうとも取れるが、正直、分からない。
だが、W.B.イェイツが書き残したものだったと思うが、そこに、これと同じ状況の話がある。
あるアラブ人が、家族を賊に殺された。
彼は、やはり、神を深く信仰していた。
彼は、家族が殺されたことも、神の意思として受け入れたのだろうか?
後に、彼は、そうではないと言った。
では、彼は、神への信仰を捨てたのか?
そうでもないのだ。
彼こそ、私がいつも言う「斜め上の発想」をしたのだ。
彼は、不幸な運命を、神の意思として受け入れたのではなく、自分の意思としたのだ。
その時、彼は歓喜に満たされた。
神の意思を自分の意思とすることで、限りなく神に近付いたのだ。
その後、彼は富豪になったが、家と財産を奪われた。
その時、彼は2度目の大きな歓喜を味わった。
そして、3度目は、自分が病気で死ぬ時であった。
世界の全ては神が動かす。
その神の意思を自分の意思とすれば、即ち、自分が神である。
さて、そうすれば、神なる自分は、自分の願いを叶えるだろうか?