コピックという、日本のトゥーマーカープロダクツが開発し、世界中に出荷されているカラーマーカー(絵を描くペン)がある。
私は使ったことがないし、あまり知らないのだが、色が358色あるというから、358本のペンがあるということと思う。
その色を混合して色を作ったり、ペン先を変えたりと多様な使い方が出来るようだ。
昨日は、このコピックを使う人気急上昇中の若き絵師、優樹ユキさんの個展に行って来た。
あまり広くはなかったが、入口のカーテン、壁などに飾られたドライフラワーの色や配置など、細かく工夫された、なかなかの雰囲気の会場で、絵のスペースに一歩踏み込むと不思議な異次元空間だった。
★優樹ユキ個展「淡雪と宝石」会場

最近はデジタル画材で描くイラストレーターが多いが、優樹さんのコピックで描いた絵を見ると、改めてアナログ画の凄さを感じる。
一見すると、デジタルで描いたと思う人も多いと思う。
微妙で細かいグラデーションは「デジタルならでは」と思ったら、なんと、手描きで、しかも、手描きの味わいとも言える塗りムラがないのだから。
だが、そういった名人芸と思われるものとは別次元の美がある。

まあ、そこらへんは私に解説が出来るはずがないが、アナログ画は、基本、直しが効かないことが、絵全体にデジタルには出せない何かが現れるのだと思う。
直しが効かないことでは、コピック画、特に、優樹さんの徹底的に精妙な絵では特にそうなのだと思う。
油絵はまだ、削って直すのは普通で、名画でもX線で調べたら、元々は全く違う構図であったことが分かって驚くこともあるという。
あのピカソも、晩年盛んに描いた版画は、とにかく頻繁に修正し、最初に描いたものと全く別の絵になってしまったものも珍しくないようだ(池田満寿夫さんによれば、直す前の方が良い場合も多いらしいが)。
絶対直せそうにない彫刻すら、時によっては彫り直し、予定より小さな作品になったことを知っているのは作者だけ・・・なんてことをプロの彫刻家に教えてもらったこともある。
とはいえ、アナログ画はデジタルのように「みだりに」直すことは出来ない。特に、先程も述べたように、コピックの精密画は。

修正が効かないことは、退路を断たざるを得ないことだ。とは言っても、結果を人間である描き手が必ずしもコントロール出来る訳ではなく(おそらく、描き手本人にも結果が分からない部分が多いと思う)、運任せというのとは違うだろうが、神の意思に委ねるようなところはあるのではないかと思う。デジタルだって、本当に優れた描き手であれば、普通の人が想像するよりも、自意識でコントロールしない部分が大きいと思う。
横尾忠則さんが、「芸術とは天の美を地上に降ろすことで、描き手の自分は神の道具だ」といったことを言われていたと思うが、そんな言葉からも、優れた絵は、人間の自意識で創るのではなく、神というか高次の意識との合作であるのだと思う。

いや、絵とか芸術だけでなく、あらゆることがそうである。
誰だったか忘れたが、高名な芸術家が、人間の営みの全てが芸術だと言っていたが、全くそうであることが、少し分かったと思う。
私がやっているようなコンピュータープログラミングだって、頭で考える・・・つまり、自意識が全てをコントロールしているように思えても、案外にそうではないかもしれない。
実際、「プログラミングは、科学か、芸術か、職人芸か?」という議論はあり、超一流プログラマーの中には「間違いなく芸術」と断言する者もいる。
これは、「頭で考えるところと、高次の意識の導きを受けるところがあり、ある意味、自分と神との合作である」ということなのだと思う。

ところで、優樹さんの絵を見て、昨日ここで書いた「1万時間の法則」を痛感する。
高度な能力を発揮するには、1万時間の訓練が必要という不変の法則である。
優樹さんは、ものごころついた時から絵が好きでずっと描いていたというから、まだ22歳になったばかりとはいえ、1万時間に達しているのは確実である。

昨日、展示されていた絵の中で、最も淡い感じがする「真珠」と題された絵がとても気に入った。
清純さに輝く少女の絵だが、原画を直接見ないとなかなか分からないオーラ(なんて言葉でまとめるのは好きではないが)がある。
退路を断って描くコピック画の危うさが、絵の少女に乗り移っているようにも感じる。
その原画を購入させていただいた。
真珠
■『真珠』展示会場で撮影(簡易な撮影は許可されていた)■
ただ、この展示会に誘ってくれたコピック使いのM君(彼もコンクールで入賞するような腕前だ)も、この絵が好きだったのでその場でプレゼントした。きっと、一生大事にしてくれるだろう。
★優樹ユキさんのHP