大衆は、昔から、有名人のスキャンダルが大好きだ。
有名人は、たとえ「おかしな人」を売り物にしているようなタレントであっても、いざ問題を起こすと、真面目な顔で「社会人として未熟でした」と謝罪しなければならないように、そんな連中だって、実は立派な人間であるということが有名人の前提である。ましてや、政治や宗教の偉い人、大事業家、いわゆる大物俳優、大物歌手であれば、人格者でなければならないし、彼らもそんな人間を演じている。
つまり、スキャンダルの面白さは、表向きの立派な人間という顔が泥にまみれるということであり、公的な立派さと実際のギャップという訳だ。
もちろん、誰しも欠点はあるが、スキャンダルを報道する者も、それを楽しむ者も、自分のことは棚に上げるし、自分は凡人で収入も少ないということが免罪符になっているとしているのだろう。勝手なものである。
いや、有名人のスキャンダルは、常人には有り得ない凄いものが多いと言う人もいると思うが、それは、常人は、金や権威の点でそれをやれないからで、そういった世俗の力があれば、私なら確実にやっていると思うようなものが圧倒的という気がするのである。
ところで、有名人のスキャンダルを楽しめるのは、いわゆる大人だ。
ある程度純粋な若者なら、面白いよりもがっかりするし、子供のように純粋ならショックを受けて人間不信になりかねない。
有名人に限らず、立派であると信じていた人が、実はそうでないと分かった時も同じだ。
尊敬していた父親に愛人がいたとかの深刻なものでなくても、母親が立派なお菓子を隠して自分だけ食べていたということを知ってしまう子供なんて案外に多いが、そんな時は、普段、母親が立派なことを言っているほど、人間不信に陥る度合いも高くなる場合がある。これも一種のスキャンダルだ。
いかめしい顔をしているような人は、それなりに尊敬されていることが多い。だが、いかめしい顔をした宗教の偉い人なんて、みんな性的変態である。だって、そんな引け目でもない限り、人はいかめしい顔なんて出来ないものだよ。つまり、いかめしい顔をした人は、みんな変態もしくは逸脱者と思って間違いない。そう理解していれば、いざという時のショックも少ないではないかな。
一応断っておくが、人は誰でも、大なり小なり、変態で逸脱者だ。
平坂読さんの小説『僕は友達が少ない』で、ヒロインの三日月夜空(高校2年生の美少女)は、友達がいないのでエア友達(エアギターの友達版)を創り、その同姓の友達に「トモちゃん」と名前を付けていたが、「トモちゃんは、可愛くて、優しくて、頭が良くて、運動神経が抜群で・・・」と褒めちぎった後、「そして、絶対に裏切らないのだ」と言うところが、実にピュア(純粋)だ。
夜空のような人がいるなら、実は、人間に対して、夢を持ち過ぎているのだろう。だが、それは間違いでもあるが、ある意味、正しいことでもある。小我としての自分に夢を持ってはいけないが、真の自分は予想をはるかに超えている。
一番の問題は、スキャンダルを起こす者も、それを楽しむ者も、それを知ってショックを受ける者も、みんな、自分とは何かが分かっていない。それは、本当の自分を知らないということだ。
真の自分を知っている者は、スキャンダルになるような行為にさしたる興味は無いし、他人のスキャンダルを、面白いとも思わず、ショックも受けない。
スキャンダラスな行いに惹かれるのは誰か、スキャンダルを喜んでいるのは誰か、スキャンダルにショックを受けているのは誰か?
それを野放しにせず、追い詰めれば、それは消え、真の自己が輝く。いかめしい顔は不要になる。それが原理である。
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有名人は、たとえ「おかしな人」を売り物にしているようなタレントであっても、いざ問題を起こすと、真面目な顔で「社会人として未熟でした」と謝罪しなければならないように、そんな連中だって、実は立派な人間であるということが有名人の前提である。ましてや、政治や宗教の偉い人、大事業家、いわゆる大物俳優、大物歌手であれば、人格者でなければならないし、彼らもそんな人間を演じている。
つまり、スキャンダルの面白さは、表向きの立派な人間という顔が泥にまみれるということであり、公的な立派さと実際のギャップという訳だ。
もちろん、誰しも欠点はあるが、スキャンダルを報道する者も、それを楽しむ者も、自分のことは棚に上げるし、自分は凡人で収入も少ないということが免罪符になっているとしているのだろう。勝手なものである。
いや、有名人のスキャンダルは、常人には有り得ない凄いものが多いと言う人もいると思うが、それは、常人は、金や権威の点でそれをやれないからで、そういった世俗の力があれば、私なら確実にやっていると思うようなものが圧倒的という気がするのである。
ところで、有名人のスキャンダルを楽しめるのは、いわゆる大人だ。
ある程度純粋な若者なら、面白いよりもがっかりするし、子供のように純粋ならショックを受けて人間不信になりかねない。
有名人に限らず、立派であると信じていた人が、実はそうでないと分かった時も同じだ。
尊敬していた父親に愛人がいたとかの深刻なものでなくても、母親が立派なお菓子を隠して自分だけ食べていたということを知ってしまう子供なんて案外に多いが、そんな時は、普段、母親が立派なことを言っているほど、人間不信に陥る度合いも高くなる場合がある。これも一種のスキャンダルだ。
いかめしい顔をしているような人は、それなりに尊敬されていることが多い。だが、いかめしい顔をした宗教の偉い人なんて、みんな性的変態である。だって、そんな引け目でもない限り、人はいかめしい顔なんて出来ないものだよ。つまり、いかめしい顔をした人は、みんな変態もしくは逸脱者と思って間違いない。そう理解していれば、いざという時のショックも少ないではないかな。
一応断っておくが、人は誰でも、大なり小なり、変態で逸脱者だ。
平坂読さんの小説『僕は友達が少ない』で、ヒロインの三日月夜空(高校2年生の美少女)は、友達がいないのでエア友達(エアギターの友達版)を創り、その同姓の友達に「トモちゃん」と名前を付けていたが、「トモちゃんは、可愛くて、優しくて、頭が良くて、運動神経が抜群で・・・」と褒めちぎった後、「そして、絶対に裏切らないのだ」と言うところが、実にピュア(純粋)だ。
夜空のような人がいるなら、実は、人間に対して、夢を持ち過ぎているのだろう。だが、それは間違いでもあるが、ある意味、正しいことでもある。小我としての自分に夢を持ってはいけないが、真の自分は予想をはるかに超えている。
一番の問題は、スキャンダルを起こす者も、それを楽しむ者も、それを知ってショックを受ける者も、みんな、自分とは何かが分かっていない。それは、本当の自分を知らないということだ。
真の自分を知っている者は、スキャンダルになるような行為にさしたる興味は無いし、他人のスキャンダルを、面白いとも思わず、ショックも受けない。
スキャンダラスな行いに惹かれるのは誰か、スキャンダルを喜んでいるのは誰か、スキャンダルにショックを受けているのは誰か?
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