ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

修行

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

外道の修行

自分は何者かと言う場合、何かの修行者だと言うのが良い。
楽器演奏、絵画、武術、プログラミング、仏道・・・、あるいは、誰も知らない、普通の人は想像も出来ないようなことの修行者である。
何の修行者か、コロコロ変わっている間は強くない。
もちろん、例えば、空手をやっているが、参考のために柔道をやるように、いくつかのことをやるのは良いことだが、本質では、1つのことの修行者であるべきである。

昨日も取り上げた、イタリア映画『怒りの荒野』では、私生児で掃除が仕事の貧しくて惨めな境遇のスコットが、毎日壊れた銃で射撃の練習をしていたように。
壊れた銃だから、当然、本当の射撃は出来ないが、毎日、銃を丁寧に扱って慣れていると、何かは身につく。
イタリアやブラジルなど、サッカーが盛んな国では、サッカーに強くなりたい子は、出来るだけ長い時間、サッカーボールに触れるようにである。

物凄く高尚だったり、誰が見ても立派なことでの修行が出来る者もいる。
例えば、ピアノ演奏とか科学とかいったものだ。
だが、あるヤクザは、喧嘩が強くないといけないが、武術を習得する金も時間も根性もなかったので、自分で工夫した、脚折りキックだけを徹底して磨き上げたが、それで恐れられるようになった。
私は、どっちかというと、そういうのが好きだ。下々の者だからね。
昔の有名な漫画『愛と誠』で、特に印象的に覚えているのが、私生児の高原由紀は、幼い時からずっと悲惨な境遇で育ち、女子少年院でもいじめられていたが、ナイフ投げの修行に打ち込み、それが百発百中になった時、誰からも恐れられるボスになった。主人公の1人で、由紀とは敵の関係だった「孤高のワル」太賀誠も、由紀の、そのことだけは誉めていいた。
私も、そういったものが一番好きなのだ。外れた下々の者だからね。
一流の映画だったと思うが、スリを志す青年が、スリの名人に教わったスリの修行を毎日熱心に行う場面があった。
私は、こういうのが大好きだ。不吉で世の中に見捨てられたような者だからね。

大山倍達は立派な空手家だと私は確信するが、彼のようにはなれなくても、彼が、「空手は目潰しと金的攻撃があるから地上最強なのである」と正直、あるいは、誠実に言い、アメリカでプロレスラーと戦うために、毎日、懸命に目潰しと金蹴りの練習をした部分だけ切り取って修行することなら誰でも出来る。
全く人に言えない外道な修行かもしれないが、やっぱり私はそういうのが好きなのである。全く私も外道(邪道。邪悪な者の意)だからだ。

身の程を知れ。そして、生きるために、そんな自分にあった修行をすることだ。
私はプログラミングの修行もしたが、あまりに外道なもので、ついでの修行になってしまい、大したことのないプログラマーになってしまったが、これからの人は、もっと熱心にやってもらえば良い。
プログラマーは決して高尚な仕事ではなく、ブルーカラーの1つだと思っているが、これが出来れば、一生食べていける。
超能力の修行だって、毎日黙々とやれば、ちゃんと成果が出る。
高尚に属する人は・・・まあ、がんばってくれたまえ(笑)。
『サウンド・オブ・ミュージック』のモデルになったトラップ家の娘の1人は、指揮者のカラヤンと学校で同級生だったらしいが、カラヤンはやっぱり、練習の虫だったそうだ。
あんな偉大な人でも、虫の時代があったのだ。









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何十年でも何百万回でも繰り返す

高い目標を達成したり、難しい問題を解決したり、心からの願いを叶えるためには、心が強くなければならない。
どうすれば心が強くなるかというと、それは修行しかない。
では、修行とは何かというと、繰り返しである。
・・・なんてことを、何度言っても、「どうすれば心が強くなるのですか?」と聞いてくる者はいる。
地味に繰り返すことが出来ない、いや、したくないだけの者だ。
それでいて、願いが叶わないだの、嫌な状況が改善出来ないだのと愚痴を言う。

虚心に、淡々と、しかし、丁寧に繰り返す。
何万回、何十万回と。
願いが叶わない?
それは、何十万回と繰り返さなかっただけだ。

ある有名な作家は、若い時に、文豪の作品を、ひたすらタイプして写していたらしい。
一文字一文字のタイプが繰り返しということになる。
それを果てなく繰り返したのだろう。
一文字一文字を丁寧にね。
1冊や2冊タイプしただけで、どうなるものでもない。
少なくとも数十冊。そして、お気に入りの作品は何度も。
同じ作品を2回タイプしたのは2冊と数え、百冊タイプするくらいの覚悟があれば良いのではと思う。
そんなことが出来る者を若いと言うのだ。
歳を取ると、そんなことは出来ない。
年齢が若くても、出来なければ年寄りだし、年齢が高くても、出来るなら若い。
その意味で、若さは可能性だ。
それが出来ない者は、歳が若くても可能性はない。
出来るなら百歳でも可能性は無限だ。

『バガヴァッド・ギーター』を百回読んで、心がまだグラグラするなら、さらに百回読むと良いだろう。
その人には、百回では足りなかったのだ。
そして、二百回で駄目なら、さらに、百回だ。
腕振り運動でも、満足ある成果を上げるためには、毎日欠かさず千回を10年やれば良い。
まあ、当たり前に10年続くような心構えになれば、数ヶ月でかなりの進歩があるが、最初からそれを期待してはならない。

ある、特異な能力を発揮する子供がいた。
その子は、ごく幼い時から、寝る前に服をたたむということを繰り返していたらしい。
きっと、親がそうするのを見て、真似したのだろう。
それを、数年に渡って、ほとんど1日も欠かさずやっているのだ。
木枯し紋次郎は、風に乗ったように歩くと書かれていたが、それも、夜明けと共に出発し、暗くなるまで歩くことを十数年繰り返したからだろう。
私の歩き方も人間ではないが、毎晩のスクワットを、たかだか5年続けているだけである。
法然のように、1日数万回の念仏を何十年も繰り返せば、いかなる苦難にも耐え、真の満足を得ることが出来るに違いない。それを極楽往生と言うのだろう。









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未来の預言に触れる

自分にとって、ちょっと辛いと感じる修行を続けていて、はっきり分かったことがある。
それは、「苦しい鍛錬が、結局は一番楽なのだ」ということだ。
簡単な理屈だ。
例えば、普通の人が、合計で良いから、毎日腕立て伏せを100回やったり、これはという本を毎日1時間読むと決めても、「今日はやりたくないなあ」という日もあると思う。
しかし、その時、弱い自分に打ち勝って、必ず行うということを1年も続ければ、間違いなく、自信が生まれる。
ほとんどの人は、自信が欲しいと思っているし、自信がなくて悩んでいるはずなのに、その切望する自信が、こうやって得られるのである。
つまり、自信なんてのは、克己(自分に打ち勝つこと)によってしか得られないのだ。
これは重要なことだが、自信とは、意思の力で心や欲望を支配出来ることと等しいのである。
逆に、心や欲望に支配される者は自信がないのである。
ならば、怠惰な心に打ち勝って行う修行が、自信をもたらさないはずがない。

修行は、あまりに厳しいものもいけないが、楽なものでは駄目である。
目安としては、「かなり厳しいかな」と思う程度のものになるだろう。
そして、無理そうなことでも、やれば、案外出来るものであるし、それを成し遂げることで、より大きな自信と力が得られるのである。

また、いつも言うが、修行は、あくまで自主的にやるものであり、誰かに、「これをしろ」と言われてやるものではない。
もちろん、人にやれと言われたことであっても、それを自分が納得してやるのなら、自主的にやるのと何ら違わない。
特に若い時は、相手が信頼に足る人物である場合には、「やれ」と言われたことをやるのも手である。
言うまでもなく、師匠と決めた相手が言うことであれば無条件にやらなければならないし、それが出来ないなら、その師匠から離れるしかない。

厳しい修行に励んでいると、シンクロニシティ(共時性。意味のある偶然の一致)がよく起こり、セレンディピティ(偶然の幸運を得ること)も起こりそうな気がするのである。
きっと、幸運の女神は、神への向上のために努力を続ける者に微笑むのだと思う。
成功哲学も何もない。
真理は純粋にして明晰だ。

★マジカルミライ2016関係
幕張メッセでの、初音ミクさんのコンサート「マジカルミライ2016」まで、いよいよ、後12日と迫った。
軍服とサーベルの用意も整い(嘘です)、準備は着々と進めているが、大変なご苦労をしていただいているコンサートスタッフの方々に感謝すると共に、地球にとって重要なこのイベントは、宇宙を味方にするはずだと信じているのである。
他の星の方々も観客の中におられるはずで、あなたの隣の人は、もしかしたら、遠い星から、ミクさんに会いに来られた異星人かもしれないのである。
見分け方がある訳ではないが、おそらく、感じることが出来ると思う。
高度に進化した惑星でも、ミクさんはとても愛されていて、熱烈なファンが多いと知らされている。

台風の影響で、公式グッズの配送が遅れているのは残念ではあるが、台風なら仕方のないことだし、こういったことも肯定的に考えれば、心の波動が向上するだろう。
そして、関係する方々のご苦労を労いたいと思うのである。
私は、10日(土曜日)に新幹線で関西から出てきて、その日の夜と、翌日の昼の公演に参加する。
土曜夜は、後ろの端の方の席だが、これはこれで面白そうだし、また、日曜昼公演はBブロック最前列のようだ。
たとえ後ろの方の席の時でも、ミクさんの、「こんにちはー」や「こんばんはー」の挨拶には元気良く応え、「次が最後の曲です」では、全力で「えええええええ!!!!」と返すことを忘れずにいよう。
アンコールを求める時も、皆様、力の出し惜しみはやめようではないか。

本日、初音ミクさんを描いた浮世絵の木版画「歌姫東海道 初音未来」が、早くも届いた。
あらゆる手間を惜しまずに作られたものだけが持つ発光に触れると、不思議なことが起きる。
1/1000秒の間に絵の中に入り込み、そこで見た、風の神に、楽しそうに、美しい着物姿を見せるミクさんは、風のようであり、水のようであり、太陽のようであり、あるいは、未来の預言のようである。
神と人が和していた時代の風景は、全てが調和し、自分もその中の一部になる。
とても懐かしい感覚である。









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どんな下らないことでも良いから修行すべきである

つまるところ、人間は何か1つ、修行をしなければならない。
だが、ジョギングや仕事というのは修行ではない。
修行とは、世間的には意味のないものだ。
世間的に意味があるもの・・・腕立て伏せ、掃除、食事、育児、読書、介護などは修行ではない。
趣味も修行ではない。
ただし、世間的には意味があったり、趣味に入るようなことでも、表現がやや難しいが、魂を込めてやるなら、それは修行である。
逆に言えば、瞑想や祈祷など、本来は修行に入るものであっても、義務的、形式的に行い、魂が入っていないなら、それは修行ではない。

ここで、大切なことが分かったことになる。
それは、どれほど下らないことであろうと、魂を込めてやるならそれは立派な修行であり、霊的向上をもたらすということだ。
仕事であっても、利益を捨てる訳にはいかないが、それ(利益)を第一と考えず、お客様を喜ばせることを最重要なこととして、魂込めてやるなら、それはやはり立派な修行なのである。

例えば、何かの本に、素晴らしいとされる修行が紹介されているとする。
ところが、その本の著者は大嘘つきで、書いた本人が、そんな修行に効果なんてあるはずがないと思っているとする。
しかし、そうであっても、その修行が自分や自分以外の人やモノに害を与えるものでない限り、魂込めてやれば、素晴らしい修行になるのである。

ところが、座禅をやっていて、禅病になったりする人がいるらしい。
悟ってやろう、優れた精神を得てやろうと張り切ってやっているのだが、かえって精神に異常を起こしたり、病気になってしまったりである。
早い話が、やり過ぎなのである。
修行とは、できるだけ無目的でやるのが良く、理想的には何も求めずにやるものなのである。
度を超して熱心にやるというのは、欲望が強過ぎるのである。
「悟りを開いてやろう」とやたらと思うのは、悟りを開けば何か得をすると思っているのであって、それなら、それは修行ではなく営利行為である。

新渡戸稲造は、若い時だったが、自分も何か1つ修行をしなければならないと思い、いろいろ考えた末に、毎朝、頭から水を被る、いわゆる、水ごりをすることにしたらしい。
もちっとマシなものを思いつかなかったのかと思うが、もちろん、これも魂込めてやるなら、素晴らしい修行であり、霊的向上をもたらすのである。
新渡戸が修行をやりたいと思ったきっかけは、武士の時代のあるエピソードである。
それは、こんなものだ。
優れた武士が、ある町人に目を留める。
その町人の目付き、立ち居振る舞い、ただ者ではないと感じたのだ。
そこで、武士は町人に、「お前は何者か?」と問うが、町人は、自分はただの町人であり、何者でもないと答える。
しかし、武士が、「わしは人を見る眼力はあるつもりだ。お前がただ者でないことは明白だ」と迫ると、町人は困っていたが、「私が他の者と違うところは・・・」と話し始める。
この町人は、子供の頃からひどく臆病で、それを少しでも直したいと思い、夕刻になると、必ず墓地に1人で行っているのだった。
それがもう、何十年にも及んでいるのだろう。
「臆病を少しでも直したい」という、現実的な目的ではあったが、「効果がなくてもともと」という気持ちと、臆病者が日暮れに墓地に行くのであるから、自然、気合も入り、それが、魂を込めることにつながったのだろう。
こうして、墓地に行くことがこの町人にとっての優れた修行になったのである。
もしかしたら、既に、この町人は臆病を克服しているのかもしれないが、それでも、墓地に行くことで、魂が入るのだと思う。

魂さえ込められるのであれば、それが世の中で最も下らないことであっても構わないのである。
ゲーテは、「最も下らないことでも、何もしないよりマシ」と言ったが、ゲーテは怠惰を戒めるつもりであったのだろうが、魂を込めるなら、マシどころか、どんな聖者がやったのとも等しい修行なのである。

ところで、何度も書いたが「魂を込める」とはどういうことであろうか?
いや、説明など余計だと思うが、1つ言えば、心がなるべく無になってやることが、魂を込めることである。
だから、「これをやれば儲かる」とか「これをやれば良いことがある」と心で思いながらやることは、良い修行ではない。
だが、自分を喜ばせることではなく、他人を喜ばせることであれば、何も見返りを求めない限り、心は無になるので修行と言える。
この場合は、無私という言い方がぴったりくるが、無私も、心が無である状態である。

腕振り運動は、優れた修行になり得るものである。
もちろん、「病気を治したい」とか、何かの願いを叶えたくてやっても構わないのだが、やる時は淡々と、ただ数を数えることだけに集中すれば、心は無になる。
そして、「腕振り運動で病気を治すんだ」という思いも、持っても良いが、持ち過ぎてもいけない。
「治ればラッキーだが、それは私の決めることではないので、神にまかせる」と思って、ただやっていれば、案外に早く治るのである。
それどころか、「病気が治るというのは諦めた。ただ腕振り運動をやろう」と思ったら、そう思っただけで治ってしまうこともあるのである。
これが、政木和三さんがよく言われていた、「欲望を捨てれば不可能はなくなる」ということと思う。
確かに、修行をすれば、結果として、世の中に大きな影響を及ぼせる力も獲得できるだろうし、ひょっとしたら、超能力まで身につくかもしれない。
しかし、せめて、修行をやっている間は、そんなことは忘れることだ。
尚、特別な修行の時間を取れなくても、思い出す度に、腹に力を入れる、肛門を引き締める、額に意識を集中させる・・・などでも、立派な修行になる。
呪文を常に唱えるのは、向上の早い修行である。
だが、世の中には、どうしても修行ができない者がいる。
そんな人には、どうにも救いようのない哀れな者も少なくはない。
しかし、修行する限り、そんなことには決してならず、それどころか、どこまでも高く飛べる力を持てる。
人間は、何か1つ、どんな下らないことでも良いから修行すべきである。









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運気を確実に上げる修行のやり方

一時期、人気のあった女性霊能力者だったが、いつからか、全く聞かなくなり、悪い噂を見るようになったという人がいる。
もしかしたら、怪しい、あるいは、イカサマ霊能力者だったのかもしれないが、その人の著書に救われたことがある。
どんな怪しい人でも、本を沢山書いたり、指導的な立場にあるような人は、どこかに正しいところがあるものなのだ。
聖者と言われているような人だって、近くにいたら、ひどくいやったらしい人も多いと思う。
欠点のない人間はいないし、美点のない人間もいないのだ。

私が、社会人1年目で、フルコミッション(完全歩合制)のセールスという、怪しい仕事をしていて、どうにも行き詰って、苦しんでいた時に、その人の本を読んだのだ。
そこに、どうにもならないような悪い状況になった時に、運気を上げる方法が書いてあった。
つまりは、修行をしろということであるが、その内容が良かった。
まず、無理な修行をしてはならない。
そんな修行は、所詮、続かない。
そこで、ちょっとシンドイなと思う程度のことでいいから、絶対に1日も欠かさずやれというものだった。
さて、私は何をやったかだが、実は覚えていないのだが、おそらく、聖書を毎日読むとか、スクワットと腕立伏せを毎日やるとか、そういったことを何か1つやったと思う。
そして、その通りにやれば、1~2ヶ月もすれば、見る見る状況が改善されたのだ。
効果はテキメンであった訳だ。

私は、その本を読んだ時に思い出したことがあった。
私が名前ばかりの大学生だった時、アルバイト先で、40歳くらいのおばさんに、何かの時に、こんな話を聞いた。
そのおばさんの知り合いの男性は、どんなに酔っ払って帰ってきても、必ず1時間読書をするのだという。
私は、そのことをずっと忘れられずに覚えているが、その男性も、上で述べたような修行をしっかりとやっていたということなのだ。
そして、やはり、その男性は、非常に立派な人であるらしいが、当然であると思う。
エドガー・ケイシーは生涯に渡り、毎朝、必ず聖書を読んでいたらしい。それで彼が偉大な霊能力者になったのであろうと思う。

私も最近、ちょっと悪い状態が続いており、修行ができていなかったことに気付いたので、やはり、今からちゃんとやろうと思う。
やることは、悪いことでさえなければ、本当に何でも良いのだ。
ちょっとシンドイと思うことを、1年365日、雨が降ろうが、槍が降ろうが、絶対にやるのだ。
それで、運勢は上がり、向かうところ敵なしになることは、まあ、間違いない。
よろしかったら、一緒に修行に励もうではないか。









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・ソフトウェア開発技術者
・サイコパス
・初音ミクさんを愛す


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