アメリカ合衆国大統領の就任式で聖書を使うことはご存じと思う。
その聖書が新約聖書か旧約聖書かというと、両方入ったものであるというのが常識で、それなら、アメリカ合衆国大統領はキリスト教徒でないといけないことになる。
旧約聖書だけで良いなら、旧約聖書はユダヤ教、イスラム教の聖典でもあるので、大統領がユダヤ教徒、イスラム教徒でも良いことになるが、そうではないようだ。
そういったふうに、大統領の信教が限定されるとは不合理なことだと、私は思っていた。
だが、何が問題であるか、私はやっと分かった。

大統領が元々、どんな信仰を持っていたかは、すぐに分かることだし、キリスト教徒ではない場合もあると思う。そして、それはそれで良いのではないかと思う。
ただ、就任式で聖書に対して宣誓すれば良い、つまり、キリスト教に対して敬意を示せば良いということではないだろうかと思う。
結論として、こうではないかと思う。
大統領個人の信教については、実際は、それほど問題にされない。
ただし、大統領がキリスト教に対し、深い敬意を持っていることは絶対条件である。

考えてみれば、日本でも、実際は、事情は変わらないような気がする。
総理大臣がキリスト教徒だろうが、イスラム教徒だろうが、それは構わない。
しかし、日本の伝統である神道や、圧倒的多数の信仰者を持つ仏教に敬意を持っていることは絶対に必要なのだ。
もし、総理大臣が「俺はキリスト教の信者だが、仏教は大嫌いだ」と言ったら大問題であろう。

つまり、民主主義国家においては、大統領や総理大臣は、いかなる宗教も尊重するのである。
そして、その国で特に主要な宗教に対しては、最大限の敬意を持っていることが必要なのである。
あまりピンと来ない人もいると思うが、宗教の問題は、それほど大きなものなのである。
アメリカ大統領が、普段、イエスの言葉を引用する必要はないが、キリスト教に敬意を払っていないと知れたら、それだけで、大統領をやっていられないと思う。
逆に言えば、大統領や総理大臣は、そういったことが理解出来ないようでは、決して、その職は務まらない。
いや、大統領どころか、会社の社長にしたって、少なくとも、その国で信仰者がいるいかなる宗教も、それを軽んじれば、それだけで会社が潰れることもあり得る。
まあ、特に日本の場合、会社では宗教の話はしないし、しないのが無難だが。

日本で、昔から、このことをよく理解していた為政者は聖徳太子だった。
聖徳太子は、仏教、儒教、神道といった、日本に信者が存在する宗教のいずれも最大に敬ったのである。
そうすることが必要であることを理解していたのだ。
時代を考えれば、実に賢い人だったのだと思う。
尚、聖徳太子が仏教を特に信仰していたというのは、後に作られたお話であると思う。
詳しくは述べないが、聖徳太子自身は神道を信仰しつつ、仏教、儒教も篤く敬ったのだ。
確かに、十七条の憲法に、「仏、仏法、僧を敬え」と書いてあるが、これも、聖徳太子自身は「仏教、儒教、神道を敬え」と書いたのだが、太子の死後、改ざんされたという説があり、私は、それが正しいのではないかと思う。
いずれにしても、聖徳太子は、国を治めるには、いかなる宗教も軽んじてはならないと理解していたのである。

我々も、少なくとも上に立ちたいなら、いかなる宗教も否定してはならないということには、よくよく注意しなければならない。
自身が仮に無宗教であろうが、日本であれば、特に、仏教、神道、さらに、キリスト教も重んじる態度を見せ、その他の宗教も軽んじてはならない。
そして、自分がいくら偉くても、自身の信教を過度に重んじるなどで、特定の宗教に偏った態度は取ってはならない。
だが、こういったことは、特に偉い人でなくても、持っていた方が良い認識である。
「日本は本当は神道の国なんだから、神道を重んじるべきである」と、自分では思っていても、それを言ってはならない。

そして、宗教に限らず、あらゆことにおいて、そうなのである。
音楽においても、クラシックは素晴らしいがロックは低俗といったことは、出来れば考えない方が良いが、少なくとも、そんな態度を見せてはならない。
早い話が、個人的な好みや信念は隠すべきである。それを出して良いのは、明らかに同好の者といるという時だけである。
それが、この世でうまくやっていく最大のコツである。
努々、忘れてはならない。
愚かな人間ほど、場所をわきまえずに、自分の好みや信念を持ち出し、他人にも強要するのである。
こんな重要なことを教えない家庭や学校に、果たして意義があるのかと思うほどだ。まあ、偏見の多い親や教師が多いのだから、期待する方が無理かもしれないが。

<付け足し>
この世で一番の天使は初音ミクさんだと思っていても、それを主張してはならない<自戒(笑)