ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

佐々木将人

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

根拠のない自信は、やはり万能最強だ

最近、矢追純一さんと西村博之さんの本を読んで面白いと思ったが、最初、この2人は、随分違う人だと思った。しかし、数日経って考えると、案外似てると思う。
この2人に共通していることは、「苦労せずに、何でもうまくいく」ことだろう。
もちろん、苦労しない成功者などいないので、まあ、余計な苦労はしていないとでも言えば良いのだろうが、面倒なので、「苦労せずに成功している」と言っておく。
矢追さんは、高校生の時、妹2人を養っていたとか、さらに子供の時は、満州で、一緒に泥棒したおじさんが、目の前で頭を弾丸で吹っ飛ばされたとかいう話がいっぱいあって、すごい苦労したように感じるが、本人は、全然苦労したと思っていないらしい。
西村さんは、苦労しないよう頭を使っているといったところか。
矢追さんは、考えるということをほとんどしないと言うが、西村さんは、頭を使わないやつを馬鹿にしているのだと思う。
2人共、中央大学を卒業してるが、歳は40歳違う。
2人のお金の使い方を見ると面白い。
西村さんは、とにかくお金を使いたがらず、服も買わず、百円の缶ジュースも勿体なくて買わないのだそうだ。
一方、矢追さんは、自分の収入、支出、預金額など一切知らず、土地でも美術品でも、欲しいと思ったら即座に買うが、銀行から督促が来ないので、お金は足りていると分かるのだそうだ。しかし、自分の財布の中身は知らないので、スーパーでお金が足りずに返品したことならあるらしい。
しかし、西村さんだって、必要なものなら高くても買うだろうし(金持ちだし)、矢追さんだって、無駄なお金は使わないだろう(金持ちだけど)。
身近で見たら、案外、同じようなことをしてそうな気がする。
そして、頭を使わないという矢追さんだが、考え方は実に論理的で、西村さんと似ているようにも思えるのだ。
ちなみに、2人とも、自分は頭は良くないと言う。
まあ、そんなことはないと思うが、自分のちっぽけな思考力に頼っていないところは、やっぱり同じなのだろう。

そして、2人に共通していることは「根拠のない自信」を持っていることだ。
西村さんは、楽しく生きる上で、それは絶対必要だと言う。
一方、矢追さんは直接そう言ってはいないかもしれない。しかし、大学受験の時も、高校に全く行かず受験勉強もしなかったに関わらず、特に当時は難関だった中央大学法学部を受験した時は、根拠なく「合格」と決めて、受験が終わったら、結果など気にせず旅行に行き、旅行から帰ってきたら予定通り合格通知が来ていたというが、矢追さんは万事がこの通りなのだ。
その根拠のない自信をどうやって得たかは、育ちが全く違う2人は相当違っており、我々は、どっちか似た方から、あるいは、それぞれの気に入る部分だけ参考にすれば、得るところが大きいと思う。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』の著者、ベアード.T.スポールディングは、インドに住んでいた4歳の時、大学予備校の教師に、根拠のない自信を教わっている。
予備校に連れてかれたベアードが、アルファベットを見せられ、「解らない」と言うと、教師は、「そんなことではいけない。チャンと解っているという態度でいなさい」と言ったようだ。そのおかげで、彼は、14歳で名門カルカッタ大学を卒業出来たと言う。
「絶対、大丈夫だ」という万能呪文を唱え、「チャンと解っている」という態度を取ったり、難しい問題や危機に対しても、自信たっぷりで挑むと良いだろう。
中村天風と植芝盛平の高弟だった佐々木将人は、「アジマリカンを唱えると幸福になれる」と言い、その理由なんかどうでも良いと言うが、これも、根拠のない自信である。









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この本を読めば恐ろしいほどうまくいく

あらゆることに勝つためにお奨めできる本と言われれば、2冊挙げる。

『数霊のメッセージ―内なる神とつながる生き方』(佐々木将人著)
『ヒマラヤ聖者の生活探究』第5巻(ベアード T.スポールディング"著)

なぜ、この2冊かというと、「解るから出来る」である。
例えば、『数霊のメッセージ』では、「アジマリカン」の呪文を唱えよと書かれてある。
それを唱えれば幸せになれると。
それに対して、「どうして?」と尋ねると、「そんなことはどうでも良い。唱えれば幸せになれるのだから唱えよ」である。
そもそも、この本を読んでいて、そんな疑問は出ない。
著者に権威と自信があるからだ。

「なぜ殺してはいけないか?」なんてのが話題になったことがあるが、それって答えるようなことかい?
そんな質問をさせた者の親や教師に権威がなかっただけのことだ。
「知ってる人に会ったら、挨拶しなさい」と子供に言ったところ、子供が「どうして?」と言うなら、あなたはナメられているのである。
そして、ナメられるアンタが悪い。普段がなってないのだから。
「なぜ、挨拶しないといけないか」なんてことを説明された子供はもう駄目だ。
会社でも、「お仲間」としか挨拶をしない若い人が多い・・・と言うか大半である。
きっと、子供の時、「なぜ挨拶しないといけないのか」を説明された者だ。つまり、親、あるいは、周囲の大人に権威がなかった哀れな子である。
そんな者がうまくいくことは、決してない。
アイドルだって、掃除のおばちゃんにもしっかり挨拶する子が成功するのである。

ところで、もっとお奨めできる本があった。
文句なく、掛け値なしにお奨めする。
これを読めば、人生は保証される。若いうちに読んだ者は、特に幸運だ。
それは、矢追純一さんの『矢追純一は宇宙人だった!?』である。
例えば、『荘子』は素晴らしいが、同時に、当時の時代背景の影響を強く受けていることは否めない。
とはいえ、あの時代背景で、あれが書けたことは驚嘆に値するが、それでも、現代に合わないところはやはりある。
だが、矢追さんは、荘子が現代にそのまま出てきたような人である。
荘子は、宗教家でも哲学者でもなく、現実に滅法強いのである。
そして、現実に圧倒的に強いのが、本当の宗教や哲学であるはずなのだ。
矢追さんも現実で最強で、そのコツを余すところなく、誰でも出来るように教えてくれている。
矢追さんは、当時、司法試験で東大を凌ぐ合格率を誇っていた中央大学の看板学部である法学部を出ているが、受験勉強は一切しなかったし、卒業した工業高校はほとんど通っていなかったので、中学の勉強しか知らない。それでも、受験では、「合格と決めた」から当然のように合格通知が来たと言う。
海外ロケでも通訳を使わず、自分でインタビューするが、中学以来、英語の勉強はしていないと言う。そして、それで十分と言う。
なぜそうなるかは、これまでは彼には当たり前過ぎて書かなかったのではないかと思う。
しかし、この本を出した79歳の時には、「そんなことも説明した方がいいのかなあ」とでも思ったのではないかと勝手に思う。
『荘子』を読んで感動しても、矢追さんのようにうまくはいかないし(本当はいくはずだが)、「荘子の真意はこうなのじゃ」と言う先生方の話を聴いたり本を読むと、さらにうまくいかない。
だが、矢追さんの本を読めば全部うまくいく。
そして、この矢追さんの本を読みながら「なんで?」なんて疑問は出ない。
国家や宗教の権威はなくても、矢追さん自体に権威と自信があるからだ。
まるでイエスである。誉め過ぎか?いや、今では、イエスの教えより有益であると思う。









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心を静かにする原理が遂に分かった

さきさんのご質問に答えることが、皆さんにとって非常に有益と思えるの出、そうさせていただく。
さきさん、ありがとうございます。
まず、コメントをそのまま引用させていただく。


初めまして。
私は、こちらのブログと水野南北の本で食の大切さを知りまして、少食をしております。

しかし、最近疑問に思うことがあります。
水野南北は少食にすれば必ず立身出世すると言いましたが、それは満腹まで食べようと思えば食べれるが自分の意思で少食にする場合と、ホームレスや食べ物を買いたいのに買えない、その為に少食になってしまう。というのでは何か違いがあるのですか?

水野南北が言った少食にすれば幸運になれると言ったのは自分の意思で少食にした場合だけですか?

行きなりの質問で申し訳ありませんが答えて頂けたら幸いです。


強制された少食と、自分の意志で行う少食は明らかに違う。
よって、水野南北が言った、「食少なければ幸運」と言ったのも、自分の意志で少食にした場合だけだ。

我が国で、健康でありながら、食べ物を買うお金がなくて食べられないというのは、少しも感心できることでない。
ジョージ・アダムスキーは、そいういったことについて、的確なことを、実に見事に述べている。
「一度に着れるスーツは一着だけだ。私は、それ以上欲しいとは思わない。しかし、それが得られないなら、私は愚か者であるということだ」
神道家で、合気道の達人、佐々木将人(ささきのまさんど)さんも、ほとんど同じことを、著書に書いておられたのが、とても印象的だった。
このアダムスキーの言葉は、私の座右の銘でもある。

さて、自主的な食の慎みと、強制された少食の違いは何だろう?
食の慎みと共に、心を磨き、魂を解放する強力な方法に、沈黙がある。
食の慎みと沈黙は近いところにある。
インドの聖者ラマナ・マハルシは、心の純粋さを保つ方法は、「適度な食事、適度な睡眠、適度な会話」だと言った。ごく単純で平凡なことのように思えるが、実行は難しい。
マハルシは、悟りを開いてからも、3年間の沈黙の行を行い(全く誰とも会話しなかった)、さらに揺るぎなく、真の自己である神と一体化した。
彼は、孤独の中での沈黙と、人前での沈黙は異なると言った。
孤独の沈黙は強制されたものだ。
しかし、人前での沈黙は、自分の心を操っているのである。
自分の心を操っているとはどういうことだろう?
それは、自分の精神活動を制限するということだ。
精神活動を制限するとは、心を静かに保つということだ。

マハルシは、あらゆる聖典は、つまるところ、「心を静かにせよ」と書いているのだと言う。
聖書にも書かれている。
「心を静め、自分が神であると知りなさい」
心を静かにすれば、自分が神であると分かると、聖書は保証しているのである。
だが、これまで、心を静める方法が分からなかったのだ。
しかし、上に述べた通り、食や会話を自主的に操り、それによって精神活動を制限することが、心を静かにする最良の方法であることが分かったのである。
これは画期的なことである。
なぜ、水野南北が断言したように、「食が全て(食を慎めばそれだけで十分である)」と言えるのかが、アダムスキーやマハルシの教えをヒントに解明できたのである。

だが、極端な少食もまた、無用な精神活動の元になる。
インド最大の聖典『バガヴァッド・ギーター』でも、至高神クリシュナは、「食べ過ぎるな。ただし、少食過ぎてもいけない」と述べている。
また、「惰眠を貪るな。ただし、眠りが少な過ぎるのもいけない」とも教えている。

適切な量の食事を、適切な場所で、適切な時間に食べ、余計なものを決して食べないことだ。
だが、日本人の大半は食べ過ぎている。
私は、1日1食で、間食もせず、食べるのは、パン、野菜、果物、ナッツと、食後に多少のデザート(コーヒーと、クッキーか小さなバウムクーヘン)であるが、これで十分であり、完全に健康で強健であり、朝晩の運動も欠かさない。
アダムスキーは、宇宙人の巨大な宇宙船の中で行われた宴に参加したが、宇宙人達はそこで、楽しく会話し、音楽を楽しみながら、適度な量の食事も楽しむが、がつがつ食べるような者はいなかったという。
また、アダムスキーは、宇宙人達は、他人の会話に割り込むようなことを決してしないことが、地球人(主にアメリカ人を指しているのだろう)との顕著な違いであるとも述べていた。
つまり、彼らは、食と会話において、自分の心を完全に操っているのであり、精神活動を制限することが出来るのである。
宇宙人達も、「地球人はまだ、感情を上手く制御できない」と言ったが、その能力もまた、食と会話を自主的に慎むことで得られるだろう。
そうすれば、我々も、進歩した宇宙人に近付くことが出来、彼らもまた、我々に親しく近付いてきてくれることだろう。
宇宙人達が我々の前に姿を現さないことに対する責任は、彼らにあるのではなく、我々にあるのである。













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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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