ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

仙人

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

奇跡を起こす腕振り運動

体系的に書かれた文献や資料があるわけではないが、様々な文献などを見たり、実践した経験から考え、腕振り運動には、
・霊的スタイル(霊的効果60%、肉体的効果40%)
・身体的スタイル(霊的効果30%、肉体的効果70%)
の2つがある。
これは、腕の振り方の違いだ。
「霊的スタイル」が普通の腕振り運動で、自然に姿勢良く立ち、真っすぐに伸ばした両腕を、後ろに鋭く振り、前に振る時はなるべく力を抜き惰性で振る。
「身体的スタイル」は、武術の訓練でよく行われ、「霊的スタイル」とは逆に、前に振る時に力を入れ、後ろに振る時には、力を抜いて惰性で振る。
いずれも、手のひらは、内側に向ける方法と、下に向ける方法とがあるが、「身体的スタイル」の時は、普通、内側に向ける。
「霊的スタイル」の方でも、関英男博士の説明では、それにより、両手のひらから気が発生し体内に蓄積される効果があることから、内側に向けることを推奨する。

いずれも、ヘソのあたりに力を入れ、また、足の親指で床を押さえるようにしてやることで、特に身体的効果が上がる。
どちらのやり方でも、身体を真っすぐに保つことにより、腹筋と背筋が鍛えられるが、「身体的スタイル」の方が、やや、その効果が高く、体力強化やダイエット目的の場合は、そちらの方を多くやると良いだろう。
私は、ずっと、「霊的スタイル」7、「身体的スタイル」3の割合でやってきたが、最近は、「身体的スタイル」を増やすことで、5対5の同等でやっている。
数は、私の場合、それぞれ、1日に500~700回程度(合わせて1000~1400回)。
それで、思った通り、下半身を中心に身体が引き締まり、3か月で体重が3~4kg減った。
つまり、一見、上半身の運動のようで(もちろん、上半身の良い運動でもあるが)、実は、下半身に効く運動であり、実際、腕振り運動で、腰から背中にかけてしゃんとしたという報告が多い。

負荷の大きな運動を週2~3回やろうとしても、普通、怠り勝ちになると思う。
やはり、運動は、毎日やるのが望ましいし、長く継続してこそのものである。
そして、きつい運動は、短時間でも精神的ストレスになり、「嫌だなあ」と思いながらやると、心はもちろんだが、身体にだって害になる。
一方、軽い運動を長時間やるのは、多少の根気は必要だが、ストレスにならず、慣れれば楽にやれるようになる。
心や身体に邪気や疲労を感じた時、すぐに立ち上がって腕振り運動をすると、気分がすっきりし、身体の調子も良くなる。
しかも、確実に身体も心も強化される。
これほど良いものはないと思う。

腕振り運動は、1回1回は非常に楽な運動なので、老人向けのように感じ、軽視されることもあるが、どんなに控え目に言っても、まるで運動しないのと比べると、その差はあまりに大きい。
それに、西洋式運動に比べ、自然で、身体と心の根本に作用するので、長く続ければ、本質から身体と心を強化する。
特に、仙骨の機能を磨き上げるという、人間にとって、最も重要なことを行える運動は、西洋の運動にはないが(運動ではなくダンスにはあるが)、この腕振り運動では、それを直接的に行えるのである。
仙人や導師といった超自然的存在も腕振り運動を好む・・・と言うより、腕振り運動で仙人や導師になった者が、慈悲の心を持って、これを人間に教えたのであるとも考えられるのである。
そして、最初に腕振り運動をやり、仙人になったような者は、霊的に閃いて、これを始めたに違いない。
腕振り運動は、気を身体に蓄積するので、生命力を高め、若返ったり、病気が治ったという報告も多い。
腕振り運動を普及させた、電波工学の世界的権威であった関英男博士は、毎朝2千回の腕振り運動を欠かさずすることで、胃癌を医療に頼らずに治し、90歳を超えても世界中を飛び回って研究をしていた。
また、仙人の運動であることから、神通力(超能力)の開発にもつながる。
是非、皆さんも取り組んでいただきたいと思う。








名人、達人、仙人、神人になる方法

良いサッカー選手になるにはどうしたら良いだろうか?
サッカー強豪国イタリア、スペイン、イングランドなどでは、子供達がなるべく多くサッカーボールに触れるようにしている。
ただし、大人が無理に子供にボールを押し付けるのではなく、子供が自主的に自然にボールに触るようにしているのである。
良い野球のバッターは、少年の時から、バットを方時も手放さないし、良い投手は、やはりいつもボールを持ち歩いていた。
1日中触っていることが大事で、必ずしも、練習しているわけではないが、触っていたら、バットなら自然に振るし、サッカーボールなら自然に蹴るだろう。野球のボールなら、握って細かな感触を確かめたり、放ったり掴んだりして重さを感じるのである。
だが、やはり、「バットを振れ」なんて言うようでは駄目なのである。

良いピアニストは、子供の時からずっと勝手にピアノに触っているが、それは大人になっても変わらない。
ところが、たとえ自主的に触っているように見えても、不自然に追い立てられるようにピアノを弾けば、手を壊したりしてしまう。
良い剣士は、ずっと剣に触っていた。
それは、木刀の場合が普通だろう。
そして、練習の時しか木刀に触れない者は、大した剣士にはなれない。
大人になってもそれを続ければ達人になる。
宮本武蔵は、護身の意味もあったが、大人になっても木刀を常に肌身離さず、それは、風呂に入っている時すらそうで、挙句、木刀の柄に穴を空けて紐を通し(今でいうストラップだ)、手から木刀が離れないようにしていた。これも戦いの中で木刀を落とすことを防ぐためもあるが、やはり、彼にとっては、木刀に常に触れていることが自然だったのだ。

キリストになりたいなら、常に聖書を手にしているし、仏陀になりたいなら、いつも経典と共にあるだろう。
仙人になりたいなら、『老子』や『荘子』、あるいは、その他の仙道や道教の書をいつも持っている。
読むかどうかはともかく、常に手元にあるし、常に手元にあれば、見るべき時に自然に見るだろう。

神通力を備えた修験者は常に般若心経の呪文を唱えていたし(般若心経全体を唱える場合もあるが、重要なのは呪文の部分)、他の真言を知っている場合には、それを唱えていることもあった。
仙人は、常に真言を唱えている。

良いプログラマーは、常にパソコンに触れている。
スマートフォンはどうかというと、あれはプログラミングの道具ではないし、多くの場合は、触っているのではなく、触らされている。
ただ、スマートフォンを持っている目的如何によっては、何か特別な力を持つことはある。例えば、特別な情報収集能力を持ったり、何かでクリエイティブな能力を持ったりである。
小型ノートパソコンがなかった時代には、良いプログラマーは、優れたプログラミングの本を常に持ち歩いていたものだった。これは、今でも有効(むしろ自然)で、優れたプログラマーがいつもプログラミングに関する本を持っていることはよくある。逆に言えば、プログラミングの本をどこにでも持ち歩けば、良いプログラマーになれるのである。あくまで自主的に持てばだが。

人間は何にでもなれるが、それは、上に述べたようであればである。
だが、海外はともかく、日本では、子供が常に触れているべきものを子供から引き離し、それは、子供を真の自己から引き離すことになる。
そして、そんな社会で育った我々は皆、真の自分を忘れてしまっている。
だから、自分が自分でないのである。
人間にとって最も大切なことは、自分が自分であることなのに。

そんなわけで、あなたは今日から、常に触れたいものに触れていなければならない。
特に言えば、神仏になるのであれば、常に心が真言に触れていること・・・つまり、心で真言を唱えることである。
この真言には、優れた呪文や念仏、あるいは、言霊を含むが、これらもまた真言なのである。












真似をすれば何にでもなれる

『徒然草』の第八十五段が素晴らしい。
一応、原文を挙げておくが、読むのが嫌なら、下の現代語訳を見ていただきたい。

 狂人の真似まねとて大路おほちを走らば、即ち狂人なり。悪人の真似まねとて人を殺さば、悪人なり。驥きを学ぶは驥の類たぐひ、舜しゆんを学ぶは舜の徒ともがらなり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。

簡単に訳せば、

狂人の真似をして(狂人のように)走れば狂人と変わらないし、悪人の真似をして人殺しをすれば、全く悪人だ。
同じように、優れた才能のある者の真似をすれば才人と変わらず、神話に登場する聖人、舜(しゅん)の真似をすれば聖人の仲間だ。
嘘でも賢人に学べば賢人なのである。

仏教学者のひろさちや氏は、『空海入門』で、『徒然草』のこの部分を引用し、
「人殺しの真似をすれば人殺し、仏陀の真似をすれば仏陀」
と述べ、空海は仏陀の真似をした人であり、空海が伝えた真言密教もまた、仏陀の真似をして仏陀になる教えと書かれていた。
馬鹿馬鹿しい感じはあるが、重要なことである。
空海は、遣隋使の一員として、危険一杯の中国行きの船に乗ったが、空海は、気分は仏陀である。
「仏陀である私が乗る船が沈むはずがない。これが済んだら、今度はインドにでも行くか」と余裕綽々であった(笑)。

このブログで度々取り上げる世界的セールスマン、夏目志郎氏は、超一流セールスマンのポール.J.マイヤーを心から尊敬していた。
そこで、自分の執務室を、マイヤーのものと全く同じにし、マイヤーのような服を着て、マイヤーのようなネクタイをし、マイヤーのように振舞った。
マイヤーをよく知っている人に、「マイヤーがいるのかと思った」と言わせたほどだった。
それで、夏目氏もマイヤーのような超大物セールスマンになったのである。

事業家で宗教家の村田正雄氏の『七仙人の物語』を読むと、凄い超能力を備えた仙人が登場するが、仙人は、常に呪文を唱えている。
呪文は真言と言って良いだろう。
ならば、我々も、この一流の仙人の真似をして、常に真言を唱えていれば仙人なのである。
私はそう思っているし、今のところ、「常に」とまではいかないが、真言を唱えているので、奇しい(くすしい。神秘的な)力が度々発揮される。
もはや、仙人の仲間と思って良いと思う。

人間は、真似るもの・・・つまり、そのように振る舞うものになる。
内面ではなく、外面の振る舞いに魔力的な力があることは、カート・ヴォネガットの『母なる夜』にも書かれている。
ナチスに潜入したスパイが、ナチスらしく振る舞っていたら、自分で気付かないうちに、超優秀なナチス党員になってしまうのだ。

このようにして、あなたは何にでもなれる。
超色男の真似をして美女を侍らせるもよし、小悪魔な女の真似をして男に貢がせるもよし。
だが、真言を唱え、魔法使いになるのが一番お得と思う。

PS
素晴らしいコメントが多く、感謝感激である。
あまり返信せず恐縮だが、熱心に読んでるし、ありがたく思っている。
皆さんにも、コメントもチェックしていただきたいと思う。








あらゆるものの背後にある力の原理を容易く使う

私は子供の時、学校の図書館で、西洋の剣の達人の話を集めた本を見たことがある。
その中の話で、ある一人の大変な達人がいたが、その達人が、見知っている若い剣士と練習用の剣で立ち会うことになった。
その若い剣士は、それほどの腕前ではないので、練習をつけてやるつもりだったのだろう。
ところが、いざ立ち会うと、達人は、若い剣士の剣の鋭さに驚いた。
尋常な鋭さではなく、悪魔のようだった。
多分、勝負自体は達人が勝ったと思うが、この達人をそれほど慌てさせれば大したものだった。
達人が、若い騎士に、どんな訓練をしたのかと尋ねたら、毎日、何時間もひたすら素振りをしたと言う。

日本の相撲やモンゴルのモンゴル相撲だけでなく、インドにも、インドの相撲と呼ばれるクシュティー(コシティー)というものがあり、伝説的なプロレスラーのグレート・ガマがこれの選手で、ガマの親戚で、アントニオ猪木さんとガチで戦ったパキスタンの英雄的プロレスラー、アクラム・ペールワンもクシュティーの選手だった(試合は猪木さんがペールワンの腕を折って勝利)。
映画『ルーツ』でも、クンタ・キンテの一族に、相撲に似た格闘技があった。
相撲的な格闘技の選手同士では、戦わずとも、組み合えば、相手の力量が分かるらしく、プロレスラーでも、達人的選手には、そんなことを言う者がよくいると思う。
つまり、強い選手は、組み合った時、大地に根が生えたように動かないそうだ。
そして、そんな強さは、四股を踏む数の多さが作るのではないかと思う。
日本の、超人的な強さを持っていたある柔術家も、四股(相撲のものとはかなり違ってシンプル)を重視し、毎日、千回、二千回とやっていたようだ。
四股もまた、世界中の相撲やレスリングの素振りのようなものであると思う。

メジャー・リーグ・ベースボールの最後の4割打者であった名選手、テッド・ウィリアムズは、少年時代から、起きている時間の全てを、自主的にバッティングの練習に捧げていた。
夜は、両親が無理矢理ベッドに押し込まないと、素振りを続けたほどらしい。守備の練習は好きではなかったようだが、プロになってからは守備も鉄壁だったと言われている。
イチローも、高校時代から、素振りの数が圧倒的だったと言われている。
その他の逸話とも合わせ、やはり、野球のバッターの実力は素振りの数で決まるのだと思う。

そして、これが本題になる。
伝承によれば、日本の仙人や導師、あるいは、天狗は、いついかなる時も呪文を唱えていたという。
それを映画で描くような場合は、分かり易いように、声に出して呪文を唱えるが、実際は、無言で、心で唱えていたと思う。
超人的な修験者の姿が、仙人や天狗の噂になることもあったと思うが、実際、昔の修験者には、超人的な能力を持った者がいたらしい。
彼らが唱えたのは、もっぱら、般若心経だった。
般若心経の最後の呪文の部分は、般若心経の中でも「最上の呪文」「並ぶもののない呪文」と保証している。
これら、力ある呪文は、むしろ、真言と言った方が良いと思う。

そして、結論である。
我々も、真言を数多く唱えることで、超自然的と言って良いと思うが、霊妙な神秘の力を得ることが出来る。
これは、剣士の素振りや力士の四股、仙人の呪文と同じ原理に基づいて確実なことであると思う。
詳しい解明が出来たわけではないが、宇宙全体、そして、人間の肉体というよりは霊的な仕組みが、そのように出来ているのである。
しかし、このことを誰も知らないか、ひょっとしたら隠されているのかもしれない。
それで、「ザ・シークレット」がそうかもしれないが、曖昧で、実際の効果がないものが宣伝され、凡民は不自由なままでいる。
だが、「知る者は語らず」(老子)で、真言の力を知っていた者達は、それを人に語らなかったか、語ることが出来ない理由でもあったのかもしれない。
しかし、それはともかく、あなたは、例えば、般若心経の呪文や、仏や菩薩の真言、あるいは、念仏を、ひたすら、心の中で丁寧に唱えることで、仙人めいたものになれるはずである。








現代の魔法使い

現代に魔法使いが存在するのかというと、何とも言えない事情がある。
『ぴたテン』というアニメで、天使の早紗(さしゃ)は、
「天使も悪魔も、人の心の中にしか存在出来ない」
と言ったが、つまり、各自が信じるかどうかということだろう。
そして、天使や悪魔が存在しないとは言えないのだが、魔法使いは、もう少し現実的な存在だ。
魔法使いであるW.E.バトラーの『魔法入門』や、ダイアン・フォーチュンの『神秘のカバラー』には、魔法の定義は「心に自在に変革を起こすこと」であると書かれている。
確かに、そんなことが出来れば、不可能はなくなる。
だが、それが簡単ではなくなっている。

心に自在に変革を起こせる者、あるいは、その技法を持つ者達がいなければ、もしくは、そんな者達が一般の人々から離れてしまっていれば、世界に魔法や魔法使いは存在しなくなる。

だが、「心に自在に変革を起こす」とは、「自我を退かせ、真の自己に接触すること」の一面の見方である。
自我が退く、即ち、無になり、真の自己に接触する、即ち、真の自己を知るというのは、宗教の本来の目的であった。
ところが、一般に宗教は、完全に支配者の道具とまでは言えなくても、それ(支配者が民衆を支配するための道具という面)が8割なのではないかと思う。
しかし、ユダヤ教やキリスト教の聖典である聖書の、本当の教えであるカバラが世の中から隠されてきたように、魔法のような力は、権力や一般大衆からは見えない。

『エル・カザド』というアニメに、象徴的なお話があった。
ブルーアイズを名乗る若く優秀な女性は、自分が魔女の末裔であることは知っているが、魔女の力、つまり、魔法は使えない。
彼女は、子供の時からずっと、魔女の力を取り戻すための努力をしたが、無駄に終わった。
どうすれば、魔女の力を取り戻せるのか、あるいは、それが可能なのかが、彼女には分からなかったのだ。
しかし、それは簡単なことなのである。
そして、別に、彼女のように、魔女の末裔でなくても、それは可能である。
人間のDNAの中に魔法因子は存在し、かつて、魔女と呼ばれた人達は、それが覚醒していたに過ぎない。
その覚醒のためには、マントラ(真言)を唱えさえすれば良い。
現代の・・・と言えるかどうかは分からないが、一種の魔法使いである仙人には、道教系の仙人や仏教系の仙人がよく知られている。
実際は、他にもいるのだろうが、道教系、仏教系以外は、別の呼び方がされている。しかし、本質的には同じような存在であると思う。
そして、仙人のような力を持つ方法は。いずれにしても、マントラなのである。
呼吸法や瞑想は、その補助であると思う。
マントラはいろいろで、1つではなく、特に、どれが優れているというわけではない。
仏教系であれば、仏や菩薩の真言が沢山知られており、いずれも完全に効果がある。
また、一般に知られる「南無阿弥陀仏」や、観音経(元々は独立した経典であったが、法華経の中に入れられた)にある「南無観世音菩薩」も、れっきとした真言である。
そういった真言をただ繰り返せば良いだけである。
尚、さきほど述べた通り、呼吸法や瞑想も補助にはなるが、必ずやらなければいけないものではない。
とにかく、マントラなのである。
マハリシ・マヘーシュ・ヨーギのTM(超越瞑想)も、瞑想とは言うが、ただ、マントラを唱えるだけであり、呼吸法やイメージングみたいなものは一切ない。
TMの場合、マントラを使う方法に独自性があるだけで、個人的には、特に優れたものではないと思っている。
とはいえ、TMの、マントラをもっぱら心で唱えるところは正しく、世界的に一定の評価を得る元となっているのは、そこではないかと思う。
だが、いつでもどこでもマントラを心で唱えれば、我々は、どこまでも高い成果を得られる。
道教系のマントラは、存在はするのだろうが、ほとんど知られていない。
しかし、仏教系のマントラは広く知られているし、ヒンズー教の神の名は、ことごとに真言である。
また、古事記の神の名もそうである。
このあたりは、ババジが『ナーマスマラナ』にまとめてくれているが、ここでも書かれているように、どの神の名が最も効果があるかなどということはなく、どれも同じなのである。
同様に、真言に優劣はなく、どれも、数多く唱える限り、同様の効果があるだろう。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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