豊かさとは何かを考えさせられる2つの対照的なお話がある。
それぞれ単独でも面白いが、2つ同時に見ると、もっと面白い。
そして、そこに仏教の知恵を加えると、誰でもそれを得られる。
1つは、ある女性の話で、彼女は普通の家庭に生まれ、普通に育った。
現在の日本の大半の子供同様、何不自由ない生活だったが、彼女の賢い親には無駄を慎む美徳があり、彼女にもそれをしっかり躾けた。
彼女は普通に大学を出て、普通に就職したが、親は余計な干渉もしない代わりに余計な援助で甘やかすこともなかったので、彼女は苦労しながらも、仕事で立派に勤めを果たしていた。
すると、ある時、彼女の親は、彼女に彼女名義の預金通帳とその印鑑を渡した。
それには、サラリーマンの生涯給与くらいは入っていた。
実は、彼女の家は、相当な金持ちだったのだが、彼女はそれをずっと知らなかったのだった。
今や、彼女が人間的に立派になったので、彼女の親は、もう、このお金を渡しても大丈夫だと判断し、そうしたのだった。
もう1つは、マーフィーの成功法則で世界的に知られるジョセフ・マーフィーの本に書かれていることだ。
貧しい労働者の息子は、ある時、自分は将来、医者になりたいと思い、父親に言ってみた。
すると、父親は意外なことを言った。
「実は、こんな時のために、父さんは貯金をしていて、既にかなりの額になっている。だから、お前は望み通り医者になれる。しかし、思うのだが、お前は、医者になるまで、この金を使わない方が良い。しかし、いざという時には自由に使えるので安心しなさい」
息子は感激し、金は自分が立派に医者になるまで使わないと父に誓った。
そして、苦労をしながらも、息子は医大を出て医者になった。
その時、父は言った。
「私のような貧しい労働者が貯金するなんてことは出来ない。金は本当は無かった。しかし、お前は医者になれた」
1つ目は、実際はお金があるのに、それを知らなかった女性の話で、もう1つは、金があると思っていたが、実際はなかった男性の話だ。
しかし、同じことなのだ。
賢い親により、2人は幸福になった。
賢ければ、金があろうがなかろうが同じなのである。
仏教にこんなお話がある。
ある男が、ひどく貧しい友に、お守りをあげ、「これを大事にし、いざとなったら開けなさい」と言った。
長い月日が流れ、2人は再会したが、貧しかった友は、今も貧しかった。
ところが、この友に渡したお守りの中には、大きなダイヤモンドが入っていたのに、友はそれに気付かなったのだ。
仏教では、誰でも、このようなダイヤモンドを持っていると教えている。
最初から、仏様からそれをもらっているのだが、ほとんどの人はそれに気付かない。
昔から、厳しい修行をすることで、それを得ることが出来ると言われているが、得るも何も、最初から持っているので、修行など必要ない。
それに気付く方法が、真言を唱えることなのである。
それを、龍樹からの1つの流れである、道綽、善導、法然、親鸞は、念仏として伝え、別の流れである、不空(ふくう)、恵果(えか/けいか)、空海は真言密教として伝え、主な真言は「オン、アビラウンケン」である。
他にも、法華経の中の観音経では「南無観世音菩薩」で、他にも、いろいろな真言がある。
ルドルフ・シュタイナーが言うように、高級な霊界である神界に仏教の世界があるが(想像出来ないほど壮大と思う)、真言が、そことの霊的交流を起こす手段と思われる。
高貴な真言には、どれも、その力があるはずで、心の中で、丁寧に静かに唱えると良い。
すると、仏の力とも言えるものが現実的に流れ込むのである。
仏典には、それが象徴的に述べられているのだと思う。
それぞれ単独でも面白いが、2つ同時に見ると、もっと面白い。
そして、そこに仏教の知恵を加えると、誰でもそれを得られる。
1つは、ある女性の話で、彼女は普通の家庭に生まれ、普通に育った。
現在の日本の大半の子供同様、何不自由ない生活だったが、彼女の賢い親には無駄を慎む美徳があり、彼女にもそれをしっかり躾けた。
彼女は普通に大学を出て、普通に就職したが、親は余計な干渉もしない代わりに余計な援助で甘やかすこともなかったので、彼女は苦労しながらも、仕事で立派に勤めを果たしていた。
すると、ある時、彼女の親は、彼女に彼女名義の預金通帳とその印鑑を渡した。
それには、サラリーマンの生涯給与くらいは入っていた。
実は、彼女の家は、相当な金持ちだったのだが、彼女はそれをずっと知らなかったのだった。
今や、彼女が人間的に立派になったので、彼女の親は、もう、このお金を渡しても大丈夫だと判断し、そうしたのだった。
もう1つは、マーフィーの成功法則で世界的に知られるジョセフ・マーフィーの本に書かれていることだ。
貧しい労働者の息子は、ある時、自分は将来、医者になりたいと思い、父親に言ってみた。
すると、父親は意外なことを言った。
「実は、こんな時のために、父さんは貯金をしていて、既にかなりの額になっている。だから、お前は望み通り医者になれる。しかし、思うのだが、お前は、医者になるまで、この金を使わない方が良い。しかし、いざという時には自由に使えるので安心しなさい」
息子は感激し、金は自分が立派に医者になるまで使わないと父に誓った。
そして、苦労をしながらも、息子は医大を出て医者になった。
その時、父は言った。
「私のような貧しい労働者が貯金するなんてことは出来ない。金は本当は無かった。しかし、お前は医者になれた」
1つ目は、実際はお金があるのに、それを知らなかった女性の話で、もう1つは、金があると思っていたが、実際はなかった男性の話だ。
しかし、同じことなのだ。
賢い親により、2人は幸福になった。
賢ければ、金があろうがなかろうが同じなのである。
仏教にこんなお話がある。
ある男が、ひどく貧しい友に、お守りをあげ、「これを大事にし、いざとなったら開けなさい」と言った。
長い月日が流れ、2人は再会したが、貧しかった友は、今も貧しかった。
ところが、この友に渡したお守りの中には、大きなダイヤモンドが入っていたのに、友はそれに気付かなったのだ。
仏教では、誰でも、このようなダイヤモンドを持っていると教えている。
最初から、仏様からそれをもらっているのだが、ほとんどの人はそれに気付かない。
昔から、厳しい修行をすることで、それを得ることが出来ると言われているが、得るも何も、最初から持っているので、修行など必要ない。
それに気付く方法が、真言を唱えることなのである。
それを、龍樹からの1つの流れである、道綽、善導、法然、親鸞は、念仏として伝え、別の流れである、不空(ふくう)、恵果(えか/けいか)、空海は真言密教として伝え、主な真言は「オン、アビラウンケン」である。
他にも、法華経の中の観音経では「南無観世音菩薩」で、他にも、いろいろな真言がある。
ルドルフ・シュタイナーが言うように、高級な霊界である神界に仏教の世界があるが(想像出来ないほど壮大と思う)、真言が、そことの霊的交流を起こす手段と思われる。
高貴な真言には、どれも、その力があるはずで、心の中で、丁寧に静かに唱えると良い。
すると、仏の力とも言えるものが現実的に流れ込むのである。
仏典には、それが象徴的に述べられているのだと思う。