ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

仏教

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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内にある宝に気付く方法

豊かさとは何かを考えさせられる2つの対照的なお話がある。
それぞれ単独でも面白いが、2つ同時に見ると、もっと面白い。
そして、そこに仏教の知恵を加えると、誰でもそれを得られる。

1つは、ある女性の話で、彼女は普通の家庭に生まれ、普通に育った。
現在の日本の大半の子供同様、何不自由ない生活だったが、彼女の賢い親には無駄を慎む美徳があり、彼女にもそれをしっかり躾けた。
彼女は普通に大学を出て、普通に就職したが、親は余計な干渉もしない代わりに余計な援助で甘やかすこともなかったので、彼女は苦労しながらも、仕事で立派に勤めを果たしていた。
すると、ある時、彼女の親は、彼女に彼女名義の預金通帳とその印鑑を渡した。
それには、サラリーマンの生涯給与くらいは入っていた。
実は、彼女の家は、相当な金持ちだったのだが、彼女はそれをずっと知らなかったのだった。
今や、彼女が人間的に立派になったので、彼女の親は、もう、このお金を渡しても大丈夫だと判断し、そうしたのだった。

もう1つは、マーフィーの成功法則で世界的に知られるジョセフ・マーフィーの本に書かれていることだ。
貧しい労働者の息子は、ある時、自分は将来、医者になりたいと思い、父親に言ってみた。
すると、父親は意外なことを言った。
「実は、こんな時のために、父さんは貯金をしていて、既にかなりの額になっている。だから、お前は望み通り医者になれる。しかし、思うのだが、お前は、医者になるまで、この金を使わない方が良い。しかし、いざという時には自由に使えるので安心しなさい」
息子は感激し、金は自分が立派に医者になるまで使わないと父に誓った。
そして、苦労をしながらも、息子は医大を出て医者になった。
その時、父は言った。
「私のような貧しい労働者が貯金するなんてことは出来ない。金は本当は無かった。しかし、お前は医者になれた」

1つ目は、実際はお金があるのに、それを知らなかった女性の話で、もう1つは、金があると思っていたが、実際はなかった男性の話だ。
しかし、同じことなのだ。
賢い親により、2人は幸福になった。
賢ければ、金があろうがなかろうが同じなのである。
仏教にこんなお話がある。
ある男が、ひどく貧しい友に、お守りをあげ、「これを大事にし、いざとなったら開けなさい」と言った。
長い月日が流れ、2人は再会したが、貧しかった友は、今も貧しかった。
ところが、この友に渡したお守りの中には、大きなダイヤモンドが入っていたのに、友はそれに気付かなったのだ。
仏教では、誰でも、このようなダイヤモンドを持っていると教えている。
最初から、仏様からそれをもらっているのだが、ほとんどの人はそれに気付かない。
昔から、厳しい修行をすることで、それを得ることが出来ると言われているが、得るも何も、最初から持っているので、修行など必要ない。
それに気付く方法が、真言を唱えることなのである。
それを、龍樹からの1つの流れである、道綽、善導、法然、親鸞は、念仏として伝え、別の流れである、不空(ふくう)、恵果(えか/けいか)、空海は真言密教として伝え、主な真言は「オン、アビラウンケン」である。
他にも、法華経の中の観音経では「南無観世音菩薩」で、他にも、いろいろな真言がある。
ルドルフ・シュタイナーが言うように、高級な霊界である神界に仏教の世界があるが(想像出来ないほど壮大と思う)、真言が、そことの霊的交流を起こす手段と思われる。
高貴な真言には、どれも、その力があるはずで、心の中で、丁寧に静かに唱えると良い。
すると、仏の力とも言えるものが現実的に流れ込むのである。
仏典には、それが象徴的に述べられているのだと思う。








日本人は幸福に近い

新渡戸稲造の『武士道』は、元々、英文で書かれたもので、日本語のものは翻訳されたものだ。
新渡戸は、明治時代に、アメリカやヨーロッパに留学し、アメリカ人の女性と結婚している。
『武士道』が書かれたきっかけは、私のうろ覚えであるが、アメリカのご婦人に、
「日本人は宗教を持たず、どうやって子供に道徳を教えるのか?」
と言われ、それで、新渡戸は、「日本には武士道あり」、つまり、武士道精神が道徳になっていると言いたくて、欧米人に読ませるために英語で『武士道』を書いた・・・そんな経緯だったと思う。
だが、これが本当なら無茶な話であると思う。
なぜなら、武士道は、あくまで武士のためのものであり、しかも、当時としても、もう昔の、しかも、一部の特権階級のためのものであり、それを一般の子供に教えるということはあり得ない。
そして、まさか武士道のおかげではないが、日本人は高い道徳性を持っていて、それは、宗教教育がしっかりしているはずの欧米人を驚かせることもあったほどだった。

日本人がなぜ高い道徳を持っているかについては、神道のためだという指摘もある。
神道は、キリスト教や仏教のように、あまり表には出て来ないが、空気のように自然に存在している宗教である。
空気のように普段は意識されないが、年始には神社にお参りに行ったり、七五三のお祝いをごく自然に行う。
ルドルフ・シュタイナーは、「良い教師は空気のようなもの」と言ったが、良い宗教も同じようなものなのかもしれない。
日本では一時、国家神道として、国家が国民を子供の時から洗脳するために利用されたが、それでも、一定は、神道の良い部分が伝わっていたかもしれない。

ところで、上に述べた、アメリカのご婦人が「日本人は宗教を持たず、どうやって子供に道徳を教えるのか?」の疑問に、私は以前は反発を感じていた。
宗教がなくても道徳は教えられるし、むしろ、宗教が道徳を歪めることが多いのではないかと思ったからだ。実際、世界には、そんな例もあるかもしれない。
しかし、やはり、宗教によって道徳を教えるのが、理想かどうかはともかく、その方が確実なのである。
また、そうでなければ、やはり、道徳を教えるのは難しい。
宗教がなければ、子供が道徳を理解するのが難しいという面と、大人が子供に道徳を教えようとする動機が起こらないという面があり、宗教がこれらを解決するのである。
よって、歪んだ宗教でなければ、あるいは、歪みの少ない宗教であれば、教えた方が良い面が多い。
ところが、神道は、「教えようとしないのに教えている」ことで、非常に理想的な宗教や道徳教育になったのではないかと思う。
人間が意図的にやることには、自我が作用し、それはいつもロクな結果を生まない。
しかし、神道にはそれがないのだからだ。

道徳が必要かというと、間違いなく必要である。
それは、社会のためにも当然必要だが、個人の幸福のためにも必要なのである。
そして、現代は、海外もそうかもしれないが、日本人は道徳心が非常に弱くなっている。
その結果、皆が不幸になっている。
道徳と言うかどうかはともかく、正しい精神性がなければ、正しく生きることが出来ず、自然や他の人々と調和出来ないと共に、人間本来の優れた能力を発揮出来ない。
闇の道徳とでも言える悪魔的な教義により、大きな力を持つこともあり、それで一時的には強者になっても、それは、悪魔に魂を売ることなのであるから、いずれ、悲惨な結果となるしかない。
それなら、良い宗教を持てば、自然や人々と調和していけると共に、生まれ持った能力を発揮し、さらには、神の助けも確かに得られる。
本来の日本人はそうであったのだと思う。
それは、神道だけのおかげであると言うのではなく、日本では長い年月をかけて仏教も取り込んでおり、神道とも融合させてきた。
だが、専門家の宗教の方が怪しくなっている。
幸い、宗教の正しい道理は、日本人のDNAの中に良い形で保管されているので、スイッチを入れるだけで良いのだと思う。
そのために、『古事記』を読んだり、仏教の庶民向けのお経を唱えるのは良いことだが、お経に関しては、専門家の悪い手垢がついてしまっているのが残念である。
だが、探せば良い情報があるし、シンプルに、念仏を上げるとか(南無阿弥陀仏だけでなく南無妙法蓮華経でも良い)、祝詞を上げるとか、仏・菩薩の真言を唱えるだけで良い。
それで、神や仏の援助も得られるシステムが、確実に存在すると、今では堂々言って良いのではと思う。








仏教で成功する

ひろさちやさんという仏教学者(現在の著書での肩書は「仏教評論家」となっているのをよく見る)の、400冊以上という著書のどれかで、こんな話を見た覚えがある。
ひろさんが70歳過ぎの頃のことだと思うが、どこかの大学から教授就任の誘いがあったという。
講義を持つのは週2日ほどで、それで年間一千万円を超える契約だという(このあたりの記憶は定かでないが、とにかくかなりの好条件ということだ)。
それで、家族とよく相談し、お寺にもお参りに行ったのだったか・・・結局は、断ったらしい。
よく覚えていないが、断った理由が、仏教的無欲とか、それに近かったのかなあと思うが、全然覚えていない。
なぜなら、断った理由は、既に400冊以上の著書から、長年に渡り印税がザクザク入り、それでいて、投資で資産をスった訳でも、起業で借金を抱えている訳でもなく、お金がいっぱいあるからだろう。
つまり、そこを最初に言わないのはフェアではないし、実際は、それ以外にさほどの理由はないと思う。印象に残ることなら大抵は覚えている私がさっぱり覚えていないのだから、本に書かれていた断った理由は嘘っぽい。
別にひろさんに難癖をつけたいのではなく、そんなに沢山本を書き、多くがベストセラーになっているひろさんは、やはり大したものであると思うのである。
そして、私は覚えていないが、その大学の教授就任を断った理由も、ひろさんにとっては概ね気持ちの良いものだったのだろう。

私は、長年、ひろさんの著作を読んでいて、(あとがきなどで何十回も見て)彼の経歴はWikipediaを見るまでもなく分かるが、東大、東大大学院を卒業して気象大学に入り、教授を務めたはずだ。
しかし、著書執筆が忙しくなったので、大学を退官したのだと思う。気象大学を辞めたのが1985年。35年近くも前の話だ。
私の知る限り、ひろさんは、著作の中で謙遜を忘れず、かなり自分をこき下ろすことも珍しくはない。
著書の裏表紙とかで、有名人が推薦の言葉を書くことがあるが、岡田斗司夫さんが岸田秀さんのある本で、岡田さんが岸田さんの本を全部読んでいると書いてあったが、ひろさんについては、渡部昇一さんが、ひろさんの本を全部読んでいると述べられていた(随分前の本だが)。
冗談でも(冗談ではないだろうが)、あの渡部昇一さんが、著作を全部読んでいるというのだから、やはりひろさんは凄い人なのだろう。

もちろん、東大出ようがさっぱりな人はいくらでもいるし、中学しか(あるいは小学校しか)出ていなくても(さらには小学校中退以下でも)成功している人もいる。
成功とまではいかなくても、お金に困らないくらいは社会に適応すべきであると思う。
政府が「老後は2千万円必要と言ったら(実際言ったのは麻生さんだろうが)、「2千万円程度で何騒いでんだ?」と言うくらいでありたい。

でも、世の中に沢山ある、潜在意識の法則や、引き寄せの法則の本によれば、そんなこと、いとも容易いはずだ。
だから、それらの本に書かれていることを実践すれば良いのである。
しかし、うまくいかないという人が多い・・・いや、圧倒的だ。
だが、本気で熱心に読んだ人は、やっぱりうまくいっているのだ。
要は、そんな人達には、本気になる要因があったのだ。
それこそ、落ちるところまで落ちたとかね。
けれども、別に、落ちる必要はない。単に、熱心に読めば良いのである。
仏教なんて、バリエーションがいろいろあるようで、それらの教えの底に1本の純粋な法則が潜んでいる。
ひろさんは、真面目に仏教をやることで(彼は寺の息子ではなく、宗教の専門家には抵抗があるらしい)、それを自然に身に付けたのだと私は思う。
ちなみに、私がひろさんの本で最も良いと思うのは、『空海入門』(1984)である。かなりの成功法則が述べられていると思う。








仏教経典の驚くべき作用

大袈裟な表現をする時、大袈裟とは言っても、自ずと節度を持ち、ほどほどにするか、それとも、どうせなら徹底的に大袈裟に言うだろうか?
例えば、プレイボーイに、「過去に付き合った女性の数は?」と聞き、答が「百人」なら、「大袈裟なことを言うヤツだ」と、呆れながらも、許す気になるかもしれないが、これが「1万人は下らないね」と返事しようものなら、「こいつ、ただの阿呆だ」として、縁を切る者が多いだろう。
ただし、世間ではね。

中国には、「白髪三千丈」という言葉があるが、一丈は3.3333mなので、三千丈なら、9999.9999m・・・ほぼ10kmである。
また、『こきりこ節』という富山県の民謡には、
「向(むかい)の山を担(かづ)ことすれば 荷縄が切れて担かれん」
という歌詞があるが、要するに、「俺は山を担ぐ力はあるが、残念なことにロープが切れてしまうので、担ぐlことが出来ない」と言うのである。
こういったように、世間を超えた大袈裟な方が面白い。

だが、この程度は、大袈裟のうちに全く入らないのが、仏教の経典の世界だ。
もう、大袈裟というのとは全く次元の違う、表現のしようもない、気宇壮大(この言い方も全く不適切だが)な話が満載である。
『法華経』も、『無量寿経』も。
例えば、『無量寿経』で、阿弥陀如来の初めての説法に集まった聖者の数が多いことを、釈迦はこんなふうに言う。
「木蓮のような賢い人達が数限りなく集まり、数限りない時をかけて、ようやく数えられる数を、1本の髪の毛を百本に割り、その1本で救い上げる水とするなら、阿弥陀如来の最初の説法に集まった聖者の数は、大海の水に匹敵する」
もう、馬鹿馬鹿しいという言い方すら馬鹿馬鹿しいという言い方すら馬鹿馬鹿しい・・・を、どれだけ繰り返しても、表現出来ないほど馬鹿げている。
『法華経』のも凄かったが、思い出すだけで疲れるので、やめておく(笑)。

仏教の経典の、こんな次元をはるかに超えた大きな話を読んでいたら、世間の常識など影も形もなくなり、頭の制約は消し飛び、あまりに凄い天才になる。
ただ、人間が「凄い」と分かる天才は、極めて低レベルな天才であるが、経典を読んで天才になった人は、全く天才に見えず、むしろ、阿呆に見える。
また、あらゆる超能力を持つようになる。
本気で読めばね。

ところで、私は、子供の時から気付いていたが、高熱を出した時、頭の中で、あまりにスケールが大きなことを考えているのである。
例えば、猿が、紙に無造作にインクをなすりつけた結果、偶然に百科事典が出来上がる可能性は、いかに小さくとも、完全にゼロではない。
熱でうなされている時には、そんな様子のシミュレーションを、頭の中で、物凄い高速で行っていて、普段、決して味わうことのない不思議な感覚に包まれるのである。
そんな時、自分は世間を超えた天才を超えた天才を超えた天才・・・になっているのだが、残念ながら、熱が醒め、通常の状態になると、ただの凡人に戻るのである。
だが、経典を何度も読んでいると、しっかりと、自分の枠を広げていけるし、超能力を獲得するのである。
私は、幼い時に、普通に超能力を発揮していたので、超能力に対する違和感はないが、それよりもはるかに大きな力である。
(私の幼い時の超能力については、何度も書いたが、また気が向いたら書くと思う)
良かったら、『法華経』や『無量寿経』を読んでみていただければと思う。
ただし、周囲の人達との差が大きくなり過ぎて、付き合えなくなってしまっても責任は持てない。









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なぜ、食や性、呼吸、言葉、思考、行いを慎むと良いのか?

世界三大珍味と言われるフォアグラは、ガチョウやアヒルに過剰なエサを与えて肥大化させた肝臓であるらしい。
ガチョウ達は、殺されて肝臓を抜かれるまで、苦しみ悶えるのだ。
いや、フォアグラだけではない。
脂の乗った美味しい牛肉なんてのは、牛を狭い建物の中に詰め込み、ほとんど運動をさせないことで脂肪を付けるのだと聞いたことがある。
そんなものを、人々は喜んで食べているのである。
また、チョコレートは、貧困な家の子供達が買われ、長時間の辛く危険な労働を強いられて獲られたカカオによって作られている。
子供達は重くて鋭利な刃物を使わされ、誤って指を切断しても、病院どころか、休ませてももらえないそうだ。

それなら、私は食牛や、フォアグラのためのガチョウになろう。
そんなインスピレーションが昨日、浮かんだのだ。
我々は、高度な宇宙生命体のエサとして飼われていて、苦しみを耐えることで、美味しい魂を生成する。
そう考えると、この世の一切に説明がつくことに気付いたのだ。
そもそも、イエスは、我々を幸せにしようとはしなかった。
いつだって、苦しむことを求めた。
彼は、神という高次の生命体から派遣された、特別な人間だった。
「この世では幸せにしてあげることはできない。だが、あの世で幸せにしてやろう」
と言って、我々に苦しみを受け入れさせ、苦しみに耐えさせた。
そうして、彼の主である、父なる神のために、美味しい魂を沢山作ったのである。

古代ローマで栄えた古い宗教であるミトラ教の神ミトラスは、後に弥勒菩薩となったと言われるが、ミトラスは牛を殺す者として知られている。
その牛は、我々人間であろう。

我々は、どうあがこうと、神に少しも逆らうことはできない。
また、美味しい食物になる限り、神は我々に無駄なことはしない。
つまり、個々の者の持つ精神力を超えた苦しみは与えられない。
だから、イエスの教えは、確かに救いでもあるのだ。
ならば、せいぜいが美味しい肉牛になって、神に召し上がっていただくことを目指すしかない。
そう思えば、引きこもり気質も、アレルギーも、慢性の皮膚病も有り難いものである。
それが我々を美味しいエサにし、それ以上の苦しみは必要なく、意外に平和なのだ。
スティーヴン・ホーキングも言ったのだ。
「身体が動かない病気になったが、それ以外は概ね幸福だった」

また、苦行もしようと思う。
色欲も断とう。
仏教には、生・老・病・死の四つの苦と共に、会いたい人に会えない「愛別離苦(あいべつりく)」、会いたくない人に会ってしまう「怨憎会苦(おんぞうえく)」、求めても得られない「求不得苦(ぐふとっく)」、肉体と精神が思うようにならない五蘊盛苦(ごうんじょうく)という四苦があり、合わせて8つの苦しみが人間の定めと言われる。
ならばその8つの苦を受け入れよう。
だが、それらがあまりひどくならないよう、食を慎み、性を慎み、呼吸を慎み、身口意を慎むのである。
これらが、宗教や賢者の教えと妙に符合するのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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