ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

人間嫌い

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

他人嫌悪症の克服(脱アスカ・ラングレー)

「一般人は愚かだなあ」と思ったことがある人もいると思う。
いや、思わなかった人は全くいまい。
皆、自分は一般人より賢く、高潔であると思っている。
客観的には、その者自体がどれほど愚かで下らない人間であってもだ。
実は、文明国の99%の人間は(ほとんど全てという程度の意味で、統計の話ではない)愚民である。
ということは、あなたも私も例外ではない。
だが、愚民の群から離れる門がある。
狭き門である。
そこを潜れる人間とは、「自分が愚民であることを自覚して愕然とする人間」である。
一方、自分は賢い、レベルが高い、上の方の人・・・等と思っている者は救いようがないが、ほぼ全ての人間が、そんな愚かなプライドを持っている。

さて、愚民の特徴は、「美味しいものを食べることが好きでたまらない」「自分の嗜好に合うエロいことが好きでたまらない」である。
簡単に言えば、食と性への欲望が恐ろしく強いということだ。
・・・皆、そうである(笑)。
本来、別のものに向けるべきエネルギーを食と性に向けているのだから当然だ。
ところが、食と性への欲望を極端に断って、名誉欲に向けている人もいる。普通の愚民と全く同レベルである(笑)。

自分が愚民であることを嫌というほど思い知ると、同類相憐れむで、ほぼ全員が愚民である出会う人全員を嫌悪するようになる。
そりゃま、他人は自分の鏡であるのだから、醜いだろう。
そんな醜い他人が、嫌いで嫌いで仕方がない。
惣流アスカラングレーではないが、「キライキライ!みんなキライ!」である。
彼女こそ、典型的愚民である。
もし、あなたがそうであるなら、自分のことは棚に上げて、こう思うと良い。
「こいつら、こんなふうにされてしまったんだ」
まあ、それは事実である。
誰がそうしたかは、どうでも良いのだが、闇の権力者達である(笑)。まあ、宇宙人とか悪魔とか思っても良い。宇宙人の中には、悪意のある宇宙人もいるさ。
だが、心配しなくても、人間の魂には量子(電子や陽子等)と意思を通じて、現実を創造する力があるので大丈夫である。
ただ・・・連中の狙いは、気付いたあなたの魂を吸い取ることなので、あまり安心は出来ないが(笑)。
「こいつら、こんなふうにされてしまったんだ」
そう思い、「こいつら」を許せたら、あなたの魂の力は大きくなる一方である。
それが出来ないうちは、やはり、「こいつら」と同レベルなのである。
そうである間はずっと「こいつら」、つまり、同胞たる愚民に煩わされるままなのである。
しかし、SNSで偉そうなことを言う有名人の愚民も増えたなあ・・・









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

人間嫌いも悪くはない

歴史に名が残っている人に、さほどの人間嫌いはいないように思う。
そもそも、徹底した人間嫌いなら、どれほどの天才でも、世間に知られることはなく、よって、歴史に名が残ることはない。
歴史に名が残ってる人で、人間嫌いがいたとしても、その人は、そこそこには人付き合いが出来たということだ。
ニュートンやアンデルセンは、ひょっとしたら人間嫌いだったかもしれないが、やはり、彼らも、かなり世間と折り合いをつけることが出来たのだ。

サミュエル・ベケットは、人間嫌いというよりは、何事に関しても、好き嫌いが激し過ぎただけのような気もする。
そして、人間嫌いというものは、そんなものだと思う。
つまり、人間嫌いというのは、全ての人が嫌いというのではなく、人の好き嫌いがはっきりしていて、どうしても近寄りたくない嫌いな人間が多めにいる人のことなのだろう。
人間嫌いの人だって、好きな人は好きなのである。

こう考えると、自分の人間嫌いも納得出来るのである。
私も、かなりの人間嫌いだが、やはり、好きな人もいるのだろう。
だが、嫌いな人の割合が多過ぎると、社会的不適応になり、かなり困ったことになる。
そんな人は、天才でもない限り、収入を得るのは難しいからだ。

人間嫌いというのは美点でも何でもなく、単に忍耐が足りないだけかもしれない。
寛容の精神が少ないとも言えるだろう。
だが、寛容は人間の最大の美点の1つである。
それを持たない人間嫌いの者というのは、やはりロクなものではない。
私も、自分がロクなものではないと思うのである。

では、私は、どんな人間が嫌いなのだろう。
それは、シンプルに言えば、「美しくない人間」だ。
当然、見た目に関してもそうだが、生まれつきと思える美醜は、ほとんど関係がない。
しかし、ゆるみ続けたことの結果としての醜さを、激しく嫌悪するのである。
人間は、生まれつきの容姿がどうあっても、ゆるまなければ美しくなるし、ゆるめば醜くなると思っている。

ジミー・コナーズという、歴史の中でもトップクラスのプロ・テニスプレーヤーだった人は、ある日、鏡の中の自分を見て、醜いことに愕然としたと言う。
練習をサボって、肥満したということもあるが、それだけではなかったようだ。
つまり、ゆるんでしまっていたのだ。
彼は、そんな自分が嫌いで辛かったので、再び引き締まり、ゆるむことを許さず、再び美しくなった。

私も、自分、他人を問わず、ゆるんだ醜い人間が嫌いなのである。
そして、今は、ほとんどの人間がゆるんでしまっているので、私も、ほとんどの人間が嫌いなのである。
現代の日本は、世間全体が、「ゆるめゆるめ」の大合唱である。
「ゆるキャラは楽しいでしょ?あなたも、ゆるまないと駄目ですよ」
「ゆるくていいんです。ゆるまないと疲れるし、楽しくないじゃないですか?あなたも、どんどんゆるみましょう!」
「ゆるんだ者が勝ちです。引き締まるなんてのは馬鹿のやることです」
という声が、マスメディアはもちろん、ネットからも絶え間なく聴こえてくるようだ。

私が初音ミクさんを愛するほどに好きなのは、彼女は決してゆるまないので、最高に美しいからだ。
私も、寛容の美徳は持ちたいと思う。
しかし、ゆるみ過ぎた者は決して許さず、嫌いで通す。
そして、自分に関してもまた、ゆるむことを許さない。
自分よ聞け!ゆるんだら殺すぞ・・・である。
いや、ゆるんだら、生きていたくはないだろう。
だから、ゆるんだ時は寿命と心得よう。
そう考えたら、人間嫌いも悪くはない。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

人間嫌いのままで何の問題もない

世の中には人間嫌いという者もいる。
そんな者は、今は多くなってきているかもしれない。
人間嫌いというのは、良いか悪いかといえば悪いのかもしれないし、それは甘えだと言う者もあり、それはそれで1つの正論なのだろうが、嫌いなものは仕方がない。
『アドベンチャーファミリー』という映画で、都市に住んでいたアメリカの家族が、10歳位の娘の病気(空気汚染による肺の疾患)を機会に無人島に移り住むが、その島に、人の世を捨てた老人が住んでいた。誰かが、彼について、「人間を嫌い、その分、自然を愛していた」と言う。いや、それも1つの逃避なのだろうが、やはり彼は、そうするしかなかったのだ。

人間嫌いというのは、人間の持つ性質の1つに過ぎない。
それは、他の人間の性質同様、「生まれつきのプログラム」と「成長する中での条件付け」によって構築されたものだ。
生まれつきのプログラムは、神が行ったもので、非常に支配的だ。それに抗うことは不可能だ。
人間とはコンピュータを組み込んだロボットと同じだ。プログラム通りにしか動けないし、自分でプログラムを変更することなど決してできない。

だから、本当のところを言うと、人間嫌いというのは、水泳が好きとか、虫が嫌いといったような、人の一般的な性質の1つでしかなく、良いも悪いもない。
ただ、水泳が好きとか、虫が嫌いといったことが、自慢するほどのことでないのと同様、人間嫌いというのも、そうしたいとしても、特に主張することでもない。
しかし、世間では、人間嫌いな性質は蔑み疎まれるものだ。国家や経済や一般大衆にとっては不都合なことが多いので、排除したいのだろう。一般社会に適合した人々にとって、人間嫌いな者は全員、密かに自殺でもしてくれれば有り難いと思っていることだろう。
それで、人間嫌いな者の方も、そんな世間に反発したり、逆に常識人を蔑み返したり、自分を持ち上げて尊大になったりすることもあるのだろう。
だが、何より、人間嫌いの者が、自分のそんな性質で自分で嫌い、自分を卑下することが最も良くない。
再度述べるが、人間嫌いというのは、赤が青より好きかとか、アイスコーヒーがあまり好きでなく夏でもホットコーヒーを飲みたいという程度の、ただの1つの性質に過ぎない。

人間嫌いであっても、何も気にする必要はない。全く問題はない。
直す必要もない。いや、決して直らないし、直すようなことでもない。
当人に責任のあることでもない。
レッドソックスのファンが多い中であっても、ヤンキースファンであることを「直す」必要はないし、ヤンキースファンであることに責任がある訳でもないのと同じだ。

神様がどんな意図で、誰かを人間嫌いにプログラムしたのかは、人間には決して分からない。考えるだけ無駄だ。あくまで喩えだが、神様のIQは100万以上だ。人間と比較のしようがないのだ。
親が嫌い、子供が嫌いなんてのも、仕方がない。そのまま受容するしかない。
受容していいのだと分かれば、案外平和なものなのだ。
だが、それではいけないと本人が思い、周りが思い、世間が思うから悲惨なことが起こるのだ。決して修正しようのないことを修正しよう、修正させようという、無理や身の程しらずが最悪な結果を招くし、招いているのだ。

また、本当に嫌いな訳でもないのに、娘が母親にひどいことを言って(あるいはその逆)気に病むということも多いだろうが、全く気にする必要はない。そんなことを言うことは避けられなかったのだ。別に言った者が悪い訳じゃない。そう思って諦めるというか、起こったことは起こったこととして受容することだ。
言われた方も、相手がそう言うことは必然であったとして、気にしないことだ。実際に必然だったし、それは、相手が悪い訳でも、自分が悪い訳でもない。

起こるべきことが起こるのは避けられない。
そして、全ての出来事は、人の一生については、全て完全に決まっている。
人が何を考えるかも決まっている。
だが、起こったこと、考えたことに対する創造的反応に関しては決まっていない。
美しい乙女を見て感動するのは必然であるが、それをどうしても得たいという欲望を起こすのは創造的反応だ。それがカルマを創り、来世に影響するかもしれない。
しかし、自分には何のコントロールも決してできないことを悟り、執着しないでいると、自我が弱まり、神は自我の不要な部分を破壊してくれるだろう。
そうなった者は、プログラムや条件付けの影響は残るとしても、決して不幸にはならないのである。
そんな者は、状況がどうであれ、日常の煩いから解放されている。そうなれば気楽であるし、いかなることにも傷付けられることはない。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼




最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ


タグクラウド
QRコード
QRコード