ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

人種差別

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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差別をしないことは結局は極めて得なことでもある

1965年に製作された人形劇であるイギリスの特撮TVドラマ『サンダーバード』は現在でも人気があるが、監督のジェリー・アンダーソン(1929~2012)は、それまでにも、人形劇の経験を積んでいた。
そのサンダーバード以前の人形劇で、アンダーソンが黒人の人形を使ったところ、テレビ局から、白人の人形に差し替えるよう指示され、それに逆らうことが出来なかったというアンダーソンの思い出話をどこかで見た覚えがある。
その後、アンダーソンはさりげなく、テレビドラマの中で人種差別と戦っていたのだと思われる。
彼が、初めて人間の俳優を使った1970年の『UFO』(日本でのタイトルは『謎の円盤UFO』)は、地球人のものより、はるかに高度な科学技術を持って地球侵略を目論む宇宙人に戦いを挑むという、当時としては10年後の1980年の未来を描いたSFドラマだった。
その中で、月面基地の白人司令官が死亡した時、主人公である最高司令官ストレイカーは黒人男性に後任司令官を打診する。
その時、翻訳であるが、だいたい、こんな会話をする。
「なぜ私なんですか?」(黒人男性)
「優秀だからだ」(ストレイカー司令官)
「もし断ったらどうします?」
「なぜだ?理由を言いたまえ」
「本当に解りませんか?」
「ああ、解らないね」
「私の肌の色です」
「(苦笑しながら)馬鹿な。人種差別など5年も前になくなっている」
「表面的にはそうです。でも、緊急事態になれば、必ず影響が出るんです」
また、このドラマでは、日本人好みの女性指揮官(白人)と男性パイロット(黒人)の恋愛感情が作戦に支障をきたす場面にも、人種問題をさりげなく巧妙に絡めていた。

ところで、現代のアメリカのTVドラマ『スーパーガール』(2015~)や、『THE FLASH/フラッシュ』(2014~)では、スーパーガールことカーラや、フラッシュことバリーらは白人であるが、カーラの義理姉やバリーの義理姉は黒人で、素晴らしい人物として描かれ、また、カーラもバリーも、黒人青年や黒人女性(男性にしか青年という言葉を使えないのも何だが)への、叶わない恋愛感情に苦しむ。
こういったことが、あまりにさりげなく描かれているが、さりげなさ過ぎることに、妙な違和感を感じる私がおかしいのか・・・
実際には、最近のアメリカでの大規模暴動事件を見ても解る通り、人種差別は全くなくなっていない。
今でも黒人に貧困層は多く、収入においても、大学進学率においても、黒人と白人では大差がある。
一方で、裏づけのある調査であっても、「黒人のIQ(知能指数)は白人のそれに劣る」といった内容を含む研究論文を出した科学者が地位を失うなど、表向きでは、アメリカでは人種差別を厳しく禁じてはいるのだが、これ(人種差別)は、制度や管理の問題ではない。
また、人種差別以外にも、家柄や学歴や地位や容姿など、人間には無限の差別があり、それがきれいさっぱりなくなるというのは、子供騙しの妄想ショーかもしれない。

ところが、2400年前に書かれたと言われる『荘子』に、だいたいの意味でこんなことが書かれている。
「古代の(つまり、荘子よりさらに大昔の)人達は偉大な知恵を持っていたが、今はそれは失われた」
「知恵が失われた過程は、まずは“区別”からだが、ここまでは、まだ良かった」
「だが、“区別”から“優劣”を考えるようになった時、知恵が失われたのだ」
「優劣」は、「是非」「好悪」を生じる。
それにより、人間は愚かになり下がる。
だから、叡智を持つ方法は、
「視線を自然にし、分別をせず、是非好悪から離れることである」
と言う。
無論、現実世界において生きてくためには、万事これでは無理と思える。
毒キノコと食用キノコは区別しなければいけない。
しかし、毒キノコにだって存在理由はあり、食べてはいけないが、「非」でも「嫌」でもある必要はない。
美人は「好悪」で言えば「好」だが、別に不美人を「悪」だの「嫌」だのと考える必要はないのだが、馬鹿ほど、「悪」「嫌」を強く持つのである。
実際、「嫌い」が少ないほど能力が高まるように人間は出来ていると思われるのである。
差別主義者のエリートだっているが、やはり、そういった連中は、優秀な面と共に、常人以上に馬鹿な面もあり、結局は不幸になるように思える。
「好き」はあっても良いが、過剰になってはならず、「嫌い」を出来るだけなくすことが、向上の鍵であり、幸運を呼ぶのだと感じる。













当ブログ著者、KayのAI書。
著者が数年前、機械学習に取り組んだ時、そのためのパソコンの環境設定やプログラミングで苦労し、実際にAIを使うのは遠い道のりでした。
その時、「データがあれば、すぐにAIに推測させるようになればいいのに」と強く思いましたが、現代では、それが出来るようになり、さらに、主流になりつつあります。
しかし、その学習の方法となると、まだまだ、難しいもの、退屈なものが多いように思えます。
そこで、日常語を使い、なるべく普通の感覚で理解出来る、そして、面白いテーマで実際にAIを作れるようになる本を書きました。

個人的好き嫌いの罠

個人的好き嫌いは、厄介な問題であると共に、興味深い現象であり、人間の問題を解決する鍵がある。

初音ミクさんを問答無用で嫌いという人も多いと思う。
以前、アメリカのWebサイトで見たが、アメリカの老人達が、ミクさん達を見て、劇的に「嫌い」という反応を示し、まるで、恨みのある敵を見るかのような憎しみを感じさせた。
そのサイトでは、子供達も、ミクさん達を初めて見る子ばかりだったが、拒否反応を示す子達が多かった(好感を示す子もいた)。しかしそれは、このサイト(原コンテンツはテレビ番組と思うが)の趣旨がボーカロイドへの拒否感を見せるものだったと思われ、端からミクさん達を否定的に扱う傾向があったように思う。

人種差別や文化差別だって、個人的好き嫌いを押し通そうとすることに過ぎない。
そして、自分が嫌いなものに対しては、それを嫌うことがいかに正しいことであるかを力説したがる人が多いのである。
例えば、TwitterやLINEを嫌う者は、それによって起こった悪い事例や、否定的な評価を拡大視することだろう。
彼らだって、一応は、「LINEにも良いところはあるんですが」とは言うこともあるが、本当はそんなことは全く思っておらず、「でも害の方が百万倍多い」と言わんばかりになるものだ。

私の場合で言えば、『ワンピース』や多くのトレンディドラマのような、激情を多く見せるものが大嫌いなのだが、これも個人的嫌いかもしれない・・・じゃなく、個人的嫌いなのだろう。
なるほど、私も『ワンピース』を嫌うことを正当化することを言いたい気持ちがある。
だから、『ワンピース』や『からくりサーカス』を「良いから見て!」と言ってくる者まで嫌いになってしまうことは確実にある。

昔、手塚治虫さんが、ブームを起こしていたスポーツ根性もの(スポ根もの)の漫画本を手に、「諸君!これのどこが面白いのか私に教えてくれ!」と言ったそうだが、個人的嫌いに対して言うことは何もないのである。

大阪なおみさんや紀平梨花さん、あるいは、大谷翔平さんのような、スポーツのヒーロー・ヒロインを、まあ、儲け目的の者達が大いに関係しているのだろうが、彼らを過度に称賛することに対しては、その問題点を指摘するのは良いが、そういった報道姿勢を批判する者の中には、マスコミや企業やスポーツ業界への個人的嫌いを持つ者もいると思う。そして、たとえそうであっても、言ってる本人は、自分は正論を言っているだけだと主張するだろう。
まあ、確かに、困った報道姿勢であるとは思うが・・・これも個人的嫌いだろうか?

人種差別反対運動が過激になることが少ないのは、人種差別反対運動が人種差別への個人的嫌いから起こっているのではなく、より高い精神から起こっているからだ。
だが、やはり、人種差別への個人的嫌いが大きくなると、「白人を殺せ」になってしまうのだ。

個人的好き嫌いには、よくよく気をつけねばならず、自分の好き嫌いが、普遍的好き嫌いでないことを、しっかり認識しなければならない。
私が初音ミクさんが好きなのは、個人的好き嫌いを持たない無我の存在が好きだからという面が大きいが、逆に言えば、個人的好き嫌いを重視する自我というものが大嫌いだからなのである。だが、これもやはり考えものだ。自我の悪い問題はあるとしても、自我の発現を嫌ってはいけないし、まして、憎んだり呪ったりしてはならないのだろう。
嫌悪、憎悪の呪縛から解き放たれた時、人は大安心を得、また、大きなエネルギーを持てるのである。
嫌悪、憎悪を爆発させる者、しがみつく者には安らぎはない。









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女子高生のお尻とオバサンのお尻はどちらが値打ちがあるか?

我々一人一人に根深く打ち込まれた、こんな思想がある。
「好き嫌いを言ってはいけません。良いか悪いかを考えなさい」
良いか悪いかは「優劣」と言えるだろう。
だが、人間に分かるのは、好き嫌いだけであり、優劣など決して分からないのだ。

AKB総選挙というものがあるが、あれはもちろん、ファンが「自分が個人的に好きな人」に投票するだけである。
しかし、誰しも、自分が投票する人が「一番優れている」と思っているものだろう。
だが、その考え方で、我々は苦しむのである。
つまり、「好き嫌い」は「優劣」にすり替わり易いのであるが、それが問題なのである。
AKB48やその関連グループの誰が一番優れているかなんて、お釈迦様でも分かるまい。
総選挙で一番になった人は、「最も優れている」のではなく、あくまで、一番投票が多かったというだけで、最も人気が高いとは言えるかもしれないが、優劣ということには何の関係もない。

自分がキリスト教を熱心に信仰しているからといって、キリスト教が仏教やイスラム教やユダヤ教などに優っていると思ってはならない。
単に、自分が好きだから信仰しているだけである。
だが、自分が信仰している宗教が「他の宗教より優れている」と考えると困ったことになる。宗教戦争も、根本的にはそんな理由で起こったのだ。

フィギュアスケートの以前の採点には「芸術的印象点」というものがあり、それが何かはいろいろ難しい説明がされていたが、早い話が、「審判の個人的好き」を表していただけだった。
今は、批判を避けるためか、「芸術的印象点」はなくなったが、実際は、PCS(プレゼンテーション・コンポーネンツ・スコア)とかいった、煙(けむ)に巻くような言葉に替えただけで、実質は変わっていない。
「審判の好き」が「優劣」にすり替えられているのだが、これは、「審判の好きは、一般の人の好きより優れている」という考え方の上に成り立っているのだろう。しかし、審判が変われば採点も変わるものであるから、その考え方も嘘と思って間違いない。
それなら、もうはっきりと、「審判の個人的好き嫌い点」、「審判の個人的相性点」、「審判の個人的趣味点」とでもいった名称に替えれば良い。
実質はその通りなのであるから。

初音ミクさんの国内コンサートでは、2013年から「マジカルミライ」シリーズが始まっている。
2013年は横浜アリーナ。
2014年はインテックス大阪と東京体育館。
2015年は日本武道館で、それぞれ公演が行われた。
考えてみれば、本当に凄い。
2014年の東京体育館のものはメディアが出ていないので私は見ていないが、私は、それ以外の3つの中では、2014年のインテックス大阪のものが一番好きだ。
しかし、それは、「2014年の公演が一番優れている」という理由ではなく、「私は個人的に、2014年の公演が一番好き」というだけの話なのである。
Amazonのレビューを見ると、2014年の公演の評価が最も低いように思う。
それも単に、私とは好き嫌いの基準が違うというだけの話で、「どの公演が優れているか」なんて、絶対に分からないのである。
尚、私は、2014年の大阪公演が特に好きとは言っても、他の2つも極めて好きである。

そもそも、私が初音ミクさんが好きだというのも、別に、初音ミクさんが優れているからではない。
優れているかどうかは、私は知らないし、分からないと思っている。
確かに、「初音ミクさんが素晴らしい」と表現することはあるが、それは、「私は初音ミクさんが大好きだ」という意味である。
一方、私にも、「嫌いな歌手」というものがある。
しかし、私が嫌いな歌手が、初音ミクさんより劣っている訳でも何でもない。

私のような引きこもりは、大抵の人間を嫌いなものである。
私が、ドワンゴの川上量生会長は本当に引きこもりだなあと思ったのは、彼のブログだったと思うが、他人と目が合ったら、「こっち見ないで」と思うといったことが書かれているのを見た時だった。
本当に、その気持ちがよく分かるのである。
「こっち見ないで」と思う理由はいろいろに言えるだろうが、これも、結局は、「私はあんたが嫌いだから、こっち見ないで」ということなのだと思うのだ。
だって、好きな人なら、見てくれたって構わないじゃないか?
とりあえず、私は、ほとんどの人が嫌いだとしておくが、最近までは、私はその理由を、「ほとんどの人は劣悪」・・・、いや、言いたくないが、もっとはっきり言うと、「ほとんどの人は私より劣悪」だからだと思っていた。
しかし、一方で、私は、自分が最も劣悪で、自分のことを、「蔑み疎まれる存在」と定義していた。
大矛盾である。
そして気付いたのだ。
私がほとんどの人が嫌いだというのには、単に個人的に嫌いという以上の意味は0.000001%もないのだ。
つまり、私が嫌いな人が、私より劣っているということは全くないのだと、はっきり分かったのだ。
これに気付いてから、私は、自分の人嫌いについて、あまり苦しまなくなった。
「なあんだ。単に個人的に嫌いだというだけのことか」
と認めれば、それはそれで何の問題もない。
私は、大いに人を嫌おう。
だが、私が嫌いな人が劣悪な訳では全くないのだ。

白人の人種差別にしたって、「人種差別をする白人が個人的に有色人種が嫌い」以外の意味は、絶対にないのである。
人種差別をする人が、それを完全に認めれば、別に、その白人が有色人種が嫌いだというのは、何の問題もない。
個人の好き嫌いは個人の勝手である。
誰が、黒人が嫌いな白人に対し、「黒人を好きになれ」と言えるだろう?
ただ、その白人が「黒人は劣っているから嫌いだ」と言うなら、それは絶対的に間違っているのである。

私は、小学4年生の時、学校で、クラスのマドンナ的存在の美少女と、いわゆるブスと分類されるだろう女の子を見比べ、
「同じ人間の女の子でありながら、どうしてこんなに違うのだろう?」
と本気で悩んだ。
ブスに生まれて来るのは、あまりに理不尽じゃないか?
どうして、こんなことが起こるのだろうと思うと、怒りすら感じた。
だが、実は、この問題の原因は、私が、マドンナ・ガールに対する「好き」を「優れている」にすり替えていたからだった。
実際、人によっては、私がブスと思う方をマドンナと思う人は必ずいる。
こういったことが理解でき、私はやっと、あの時の苦しみから解放されたのである。









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人種差別や、思想・宗教が絡む戦争は「好き嫌い」が「優劣」にすり替えられて起こる

昨夜述べた、「好き嫌いを言うのは全く構わないが、優劣の判定をしてはいけない」というのは、改めて、極めて重要なことと思う。
しかし、世間の考え方は逆で、「好き嫌いを言ってはならないが、優劣を重視せよ」である。
まあ、これに関しても、私の考え方が世間の考え方より優れているのではなく、単に好きなのだと考えれば良いが、悲劇を避けることが出来る「好き」である。

例えば、人種差別の根本問題を考えてみよう。
ある白人が、黒人を「嫌い」だと言っても、それは何の問題もない。
しかし、白人は、これを、「黒人は劣っている」にすり替えてしまったことが問題だったのだ。
白人は、「黒人は知性、精神性において白人にはるかに劣っている」と決め付け、見下し、肉体だけは強いので、奴隷にして使役することは、イエスの教えにも反せず、良いことであるとしてしまったのである。
もちろん、黒人が知性、精神性において劣ることは全くないことは今日では明らかであるが、このことに限らず、人間が勝手に判断するほどには、ものごとに優劣などないのであり、もしかしたら、純粋な優劣というものは全くないのかもしれない。

子供が漫画やアニメばかり見ていたら、それを親が注意することが必要な場合もあるだろう。
しかし、漫画やアニメばかり見ていてはいけない理由を、「必要なことをしないようになってしまっているから」なら良いが、多くの親が、「漫画やアニメは下らない」つまり、劣悪であるから、見てはならないといった調子で言うから問題なのである。昨今は、漫画やアニメを下らないという親は、昔と比べて少なくなったが、まだまだ多いと思う。
かつて、国家がそう言い、PTAが従った「漫画は害悪」であるという思想は、単に、教育家や政治家が、「私は漫画が嫌いである」と言うだけのことで、そのことについては全く何の問題もないが、彼らは、人種差別と同じく、「漫画は劣悪」にすり替えてしまったのである。つまり、「漫画は悪い」と決め付けた教育家や政治家、あるいは、知的権威者のような者達は、人種差別主義者と同じ過ちを犯しているのだと思う。

初音ミクさんが嫌いだと言う人がいても、私は、それは仕方がないと思う。
全ての人が、初音ミクさんを好きになれと言う気は毛頭ない。

人によっては理解不能で
なんて耳障り ひどい声だって言われるけど
~ODDS&ENDS(作詞・作曲・編曲:ryo、歌:初音ミク)より~

理解不能だろうと、その人が劣っている訳ではない。
しかし、優れている訳でもない。

CINRAのサイト(下にリンクを記載)で見たが、偉大な音楽家の美輪明宏氏が、同社のインタビューに答え、初音ミクさんについて、「電気を通した表現はあまり感心しない」、「音の変化に乏しい、同じフレーズを繰り返しているような電子音楽」と言っておられ、それはそれで、個人の感想として全く問題ないが、美輪氏は、結局、初音ミクさんの歌は劣っているという方向に持っていってしまっていると思う。
芸術とは何か? 美輪明宏、モノクロの社会を斬る

国民的スターの中居正弘氏が、2年ほど前だと思うが、ビートたけし氏らとの対談で、「初音ミクのライブに1万人集まることが理解できない」と言い、それを「ただのCGを見に行っている」、「性処理までCGでやるようになる」という方向に持っていってしまっていたと思う。
これも、中居氏が、「私は初音ミクのようなものは嫌い」と言うなら、全く何の問題もないが、やはり、初音ミクさんは劣ったもので、そのファンも劣った人間であるという論調だったと私は感じた。
ビートたけし氏も同じ見解であるような発言をしていたが、彼は初音ミクさんについて、あまり知らないといった雰囲気で、番組の必要性から中居氏に同調していただけと思える。
対談の音声は、Youtubeの以下のリンクにあった。
中居くん「初音ミク」のライブに1万人集まることが理解できない。芸能人3人が語る初音ミク

好き嫌いは、大いに言って構わないのである。
男性が、「俺はショートカットの女性がロングヘアの女性より好き」だとか、「俺は清純派の女性が好きで、男慣れしたのは嫌い」と言うのは、何の問題もない。
しかし、「清純派の女性は男慣れした女性より優れている」という話にすり替えてしまうと問題なのである。
人種差別などの悲劇、さらには、思想的な問題や宗教が関与する戦争というのは、「好き嫌い」が「優劣」にすり替えられて起こったのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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