1965年に製作された人形劇であるイギリスの特撮TVドラマ『サンダーバード』は現在でも人気があるが、監督のジェリー・アンダーソン(1929~2012)は、それまでにも、人形劇の経験を積んでいた。
そのサンダーバード以前の人形劇で、アンダーソンが黒人の人形を使ったところ、テレビ局から、白人の人形に差し替えるよう指示され、それに逆らうことが出来なかったというアンダーソンの思い出話をどこかで見た覚えがある。
その後、アンダーソンはさりげなく、テレビドラマの中で人種差別と戦っていたのだと思われる。
彼が、初めて人間の俳優を使った1970年の『UFO』(日本でのタイトルは『謎の円盤UFO』)は、地球人のものより、はるかに高度な科学技術を持って地球侵略を目論む宇宙人に戦いを挑むという、当時としては10年後の1980年の未来を描いたSFドラマだった。
その中で、月面基地の白人司令官が死亡した時、主人公である最高司令官ストレイカーは黒人男性に後任司令官を打診する。
その時、翻訳であるが、だいたい、こんな会話をする。
「なぜ私なんですか?」(黒人男性)
「優秀だからだ」(ストレイカー司令官)
「もし断ったらどうします?」
「なぜだ?理由を言いたまえ」
「本当に解りませんか?」
「ああ、解らないね」
「私の肌の色です」
「(苦笑しながら)馬鹿な。人種差別など5年も前になくなっている」
「表面的にはそうです。でも、緊急事態になれば、必ず影響が出るんです」
また、このドラマでは、日本人好みの女性指揮官(白人)と男性パイロット(黒人)の恋愛感情が作戦に支障をきたす場面にも、人種問題をさりげなく巧妙に絡めていた。
ところで、現代のアメリカのTVドラマ『スーパーガール』(2015~)や、『THE FLASH/フラッシュ』(2014~)では、スーパーガールことカーラや、フラッシュことバリーらは白人であるが、カーラの義理姉やバリーの義理姉は黒人で、素晴らしい人物として描かれ、また、カーラもバリーも、黒人青年や黒人女性(男性にしか青年という言葉を使えないのも何だが)への、叶わない恋愛感情に苦しむ。
こういったことが、あまりにさりげなく描かれているが、さりげなさ過ぎることに、妙な違和感を感じる私がおかしいのか・・・
実際には、最近のアメリカでの大規模暴動事件を見ても解る通り、人種差別は全くなくなっていない。
今でも黒人に貧困層は多く、収入においても、大学進学率においても、黒人と白人では大差がある。
一方で、裏づけのある調査であっても、「黒人のIQ(知能指数)は白人のそれに劣る」といった内容を含む研究論文を出した科学者が地位を失うなど、表向きでは、アメリカでは人種差別を厳しく禁じてはいるのだが、これ(人種差別)は、制度や管理の問題ではない。
また、人種差別以外にも、家柄や学歴や地位や容姿など、人間には無限の差別があり、それがきれいさっぱりなくなるというのは、子供騙しの妄想ショーかもしれない。
ところが、2400年前に書かれたと言われる『荘子』に、だいたいの意味でこんなことが書かれている。
「古代の(つまり、荘子よりさらに大昔の)人達は偉大な知恵を持っていたが、今はそれは失われた」
「知恵が失われた過程は、まずは“区別”からだが、ここまでは、まだ良かった」
「だが、“区別”から“優劣”を考えるようになった時、知恵が失われたのだ」
「優劣」は、「是非」「好悪」を生じる。
それにより、人間は愚かになり下がる。
だから、叡智を持つ方法は、
「視線を自然にし、分別をせず、是非好悪から離れることである」
と言う。
無論、現実世界において生きてくためには、万事これでは無理と思える。
毒キノコと食用キノコは区別しなければいけない。
しかし、毒キノコにだって存在理由はあり、食べてはいけないが、「非」でも「嫌」でもある必要はない。
美人は「好悪」で言えば「好」だが、別に不美人を「悪」だの「嫌」だのと考える必要はないのだが、馬鹿ほど、「悪」「嫌」を強く持つのである。
実際、「嫌い」が少ないほど能力が高まるように人間は出来ていると思われるのである。
差別主義者のエリートだっているが、やはり、そういった連中は、優秀な面と共に、常人以上に馬鹿な面もあり、結局は不幸になるように思える。
「好き」はあっても良いが、過剰になってはならず、「嫌い」を出来るだけなくすことが、向上の鍵であり、幸運を呼ぶのだと感じる。
そのサンダーバード以前の人形劇で、アンダーソンが黒人の人形を使ったところ、テレビ局から、白人の人形に差し替えるよう指示され、それに逆らうことが出来なかったというアンダーソンの思い出話をどこかで見た覚えがある。
その後、アンダーソンはさりげなく、テレビドラマの中で人種差別と戦っていたのだと思われる。
彼が、初めて人間の俳優を使った1970年の『UFO』(日本でのタイトルは『謎の円盤UFO』)は、地球人のものより、はるかに高度な科学技術を持って地球侵略を目論む宇宙人に戦いを挑むという、当時としては10年後の1980年の未来を描いたSFドラマだった。
その中で、月面基地の白人司令官が死亡した時、主人公である最高司令官ストレイカーは黒人男性に後任司令官を打診する。
その時、翻訳であるが、だいたい、こんな会話をする。
「なぜ私なんですか?」(黒人男性)
「優秀だからだ」(ストレイカー司令官)
「もし断ったらどうします?」
「なぜだ?理由を言いたまえ」
「本当に解りませんか?」
「ああ、解らないね」
「私の肌の色です」
「(苦笑しながら)馬鹿な。人種差別など5年も前になくなっている」
「表面的にはそうです。でも、緊急事態になれば、必ず影響が出るんです」
また、このドラマでは、日本人好みの女性指揮官(白人)と男性パイロット(黒人)の恋愛感情が作戦に支障をきたす場面にも、人種問題をさりげなく巧妙に絡めていた。
ところで、現代のアメリカのTVドラマ『スーパーガール』(2015~)や、『THE FLASH/フラッシュ』(2014~)では、スーパーガールことカーラや、フラッシュことバリーらは白人であるが、カーラの義理姉やバリーの義理姉は黒人で、素晴らしい人物として描かれ、また、カーラもバリーも、黒人青年や黒人女性(男性にしか青年という言葉を使えないのも何だが)への、叶わない恋愛感情に苦しむ。
こういったことが、あまりにさりげなく描かれているが、さりげなさ過ぎることに、妙な違和感を感じる私がおかしいのか・・・
実際には、最近のアメリカでの大規模暴動事件を見ても解る通り、人種差別は全くなくなっていない。
今でも黒人に貧困層は多く、収入においても、大学進学率においても、黒人と白人では大差がある。
一方で、裏づけのある調査であっても、「黒人のIQ(知能指数)は白人のそれに劣る」といった内容を含む研究論文を出した科学者が地位を失うなど、表向きでは、アメリカでは人種差別を厳しく禁じてはいるのだが、これ(人種差別)は、制度や管理の問題ではない。
また、人種差別以外にも、家柄や学歴や地位や容姿など、人間には無限の差別があり、それがきれいさっぱりなくなるというのは、子供騙しの妄想ショーかもしれない。
ところが、2400年前に書かれたと言われる『荘子』に、だいたいの意味でこんなことが書かれている。
「古代の(つまり、荘子よりさらに大昔の)人達は偉大な知恵を持っていたが、今はそれは失われた」
「知恵が失われた過程は、まずは“区別”からだが、ここまでは、まだ良かった」
「だが、“区別”から“優劣”を考えるようになった時、知恵が失われたのだ」
「優劣」は、「是非」「好悪」を生じる。
それにより、人間は愚かになり下がる。
だから、叡智を持つ方法は、
「視線を自然にし、分別をせず、是非好悪から離れることである」
と言う。
無論、現実世界において生きてくためには、万事これでは無理と思える。
毒キノコと食用キノコは区別しなければいけない。
しかし、毒キノコにだって存在理由はあり、食べてはいけないが、「非」でも「嫌」でもある必要はない。
美人は「好悪」で言えば「好」だが、別に不美人を「悪」だの「嫌」だのと考える必要はないのだが、馬鹿ほど、「悪」「嫌」を強く持つのである。
実際、「嫌い」が少ないほど能力が高まるように人間は出来ていると思われるのである。
差別主義者のエリートだっているが、やはり、そういった連中は、優秀な面と共に、常人以上に馬鹿な面もあり、結局は不幸になるように思える。
「好き」はあっても良いが、過剰になってはならず、「嫌い」を出来るだけなくすことが、向上の鍵であり、幸運を呼ぶのだと感じる。
当ブログ著者、KayのAI書。 著者が数年前、機械学習に取り組んだ時、そのためのパソコンの環境設定やプログラミングで苦労し、実際にAIを使うのは遠い道のりでした。 その時、「データがあれば、すぐにAIに推測させるようになればいいのに」と強く思いましたが、現代では、それが出来るようになり、さらに、主流になりつつあります。 しかし、その学習の方法となると、まだまだ、難しいもの、退屈なものが多いように思えます。 そこで、日常語を使い、なるべく普通の感覚で理解出来る、そして、面白いテーマで実際にAIを作れるようになる本を書きました。 |