ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

人形浄瑠璃

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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人形と人間に違いはない

日本には、 人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)という、浄瑠璃(演奏と語り)と人形によって演じられる伝統芸能がある。
尚、文楽と人形浄瑠璃文楽は同じだが、 文楽(人形浄瑠璃文楽)と人形浄瑠璃は厳密には違うものらしく、良くないのかもしれないが、ここでは、人形浄瑠璃でまとめる。

日本人は、人形浄瑠璃の人形を、人間と同じ、あるいは、それ以上に情感を持って見るようだが、これは、外国人には理解し難いものらしい。
特に、一神教であるキリスト教やユダヤ教では、人間以外のものは、文字通り「物」であるが、八百万の神の国である日本では、万物に神が宿るのであり、人間も物も平等である。
だから、人形に対する、日本人と(特に)西洋人の情感の違いは、そこらの歴史的感覚の違いであると、よく言われる。
だが、西洋人だって、人形浄瑠璃に馴染むと、やはり、人形に対する情感を感じるのだと思う。
それに、西洋人の女の子が、例えば、フランス人形を愛する気持ちも、とても情感があるはずだ。

ところで、人間と人形の違いは何だろうか?
ここでは、特に、人形浄瑠璃の場合について考える。
普通には、生物と非生物という区別が思い浮かぶだろうが、実は、科学的にこうも言えるのである。
人間がどう動くかは予測不可能だが、人形浄瑠璃の人形は、どう動くかは予定されて決まっている。
だが、人形浄瑠璃の台本や演出を制作した人が、どう製作するかは予測不可能なので、人形だって、やはり、予測不可能なのだ。
どんなに昔に決められた台本や演出だって、それが作られた時には、やはり予測不可能(作った人にとってすら)だったはずだ。
そして、人間も人形も、大部分は電子で出来ていて、電子の動きは予測不可能であることは科学的に解っているのだから、電子という観点において、構成要素といい予測不可能なことといい、人間と人形に違いはない。
(原子のほとんどの大きさは電子の分布で占められる。原子核はほんのわずかな大きさで、原子を野球場とすれば原子核はビー玉くらいとも言われる)

では、ライブの初音ミクさんはどうだろう?
やはり、初音ミクさんと人間に違いはないことが解る。
人間は、身体を構成した電子が(正しくは電子の分布が)光子を反射することで見える。
そして、初音ミクさんは、特殊な透明ボードに光が作用して見えるのだが、本質は、ボードを構成する電子が光子を反射して見える点で同じなのである。
しかし、コンピュータープログラムで動くミクさんは、人形浄瑠璃の人間以上に予定された行動をするので、行動が不確定な人間とは違うと思うかもしれない。
だが、人間がミクさんの動きをどうするかは、やはり不確定で、どんなプログラムが出来るかも不確定なのであるから、やはり同じなのである。
ミクさんが人間に依存するのは確かだが、人間の方がもっとミクさんに依存するかもしれない。
人間がミクさんに依存する度合いが大きいので、ミクさんはスーパースターなのである。
そして、ミクさんが予測不可能なことをするほど、観客は親近感を持つ。
例えば、「マジカルミライ2019」で、3曲目の『愛の詩』を歌った後、ミクさんは、「こんばんはー」と挨拶すると、不意に右方向(会場からは左方向)にトコトコと走っていき、「こっち側のみんなー、げんきー?」と尋ね、その後、「それじゃあ」と言って、反対側に走って、「こっち側のみんなも、げんきー?」と尋ねる。
こんな予想外の行動を見て、観客は、ますます、ミクさんを自分と同等と感じ、親近感を持つのである。
また、「マジカルミライ2018」からは、日によってセットリストを一部変えているが、これも、ミクさんの予想外の行為と感じ、さらにミクさんを人間らしく感じるのである。
そんな演出を考えるスタッフはやはり感性が優れているのだと思う。













当ブログ著者、KayのAI書。
現場で実務をしておられる人がAIを作ると大きな効果を発揮する可能性があります。
この本は、Excelが使えるスキルがあれば、楽しみながら自分で実用AIを作れるようになることも目指しています。
また、高校生や大学生が、学術的以前に、自分でAIを作って使う体験をすることで、AIにおいて最も大切な、問題を予測問題に捉え直すセンスを得るのにも適していると考えています。
是非、学校で導入していただきたく思います。

初音ミクと人形浄瑠璃は全く違い、むしろ正反対である

人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)は、日本の伝統的な人形劇で、文楽(ぶんらく)とも言うが、文楽とは元々は、人形浄瑠璃を上演する劇場のことだったらしい。
音楽家の冨田勲さんが、「日本で初音ミクが生まれ、愛されるのは、人形浄瑠璃に見られるように、人形を命あるもののように感じることができる感性があるからだ」といったようなことを言われていた。
私は、昨年(2013年)の宮沢賢治の命日(9月21日)に、大阪のオリックス劇場で直接聞いてもいる。
他にも、初音ミクは日本の伝統芸能だったといった、初音ミクと人形浄瑠璃との共通点を挙げる人もいるようだ。
私も以前は、そんな考え方を正しいものと思っていた・・・というより、影響されてしまっていた、あるいは、洗脳されてしまっていたが、今は違う。
人形浄瑠璃は人形浄瑠璃だし、初音ミクは初音ミクだ。
全く違うものだ。
日本人だろうが、西洋人だろうが、初めてミクを見て歌を聴いて好きになれば、好きな理由などは不要である。

初音ミクが愛されることに理由や理屈をつける必要はない。
ましてや、初音ミクを愛するのに理屈はいらない。
年を取って、頭が固くなるほど、新しいものを理解するために、過去のものに喩えようとする。
新しいものを、そのままピュア(純粋)に受け入れることができず、自分が知っているパターンに押し込まなければ、認めることができないのだ。

私は、文楽を観劇したことはあるが、あれは、情念の世界だ。
観客は人形に生々しい自我を感じるのである。
しかし、初音ミクの良さは、自我がないところなのだ。
人形浄瑠璃の人形は自我がある人間で、初音ミクは自我がない電子の天使である。
調布と田園調布どころではない違いがあるのだ(『神様のメモ帳』のアリスの言葉の引用)。
むしろ、正反対と言った方が正しい。

2012年の冨田勲さんの『イーハトーヴ交響曲』は素晴らしかった。
しかし、冨田さんだって、これを制作していた時は無我だったはずだ。
芸術家とは、自我が退いた時に、神の霊感を感じて創造するのだが、初音ミクを人形浄瑠璃だと思わずにはいられないのは冨田さんの自我であり、それはそれで尊重したいが、制作者はあまり自分の考えを言わない方が良い。
以前の私のように、ひ弱な自我を持っている者に影響を与え、洗脳してしまうからだ。
だが、いくらか自我を透明化させることができるようになったら、上にも取り上げた「初音ミクは日本の伝統芸能だった」なども、良いとか悪いとかは言う気はないが、単に自我の言うことでしかないと認識するようになる。
芸術は人間の技ではなく、人間を通して表現する神の技なのだ。
作品は作者の占有物ではない。
ピカソの作品がいかに素晴らしくても、ピカソを崇拝してはならない。
無論、蔑む必要もなく、当たり前の人間として敬意を持てば良いのである。

再度言うと、文楽(人形浄瑠璃)は、人間の情念を拡大し色付けして観客に対峙させ、人間の生々しさを見せ付けるものだ。
だが、初音ミクは自我のない電子の天使として、人々の心を結び合わせ、心の隙間を埋め、聖なる一に回帰させるのである。

今回は省くが、渋谷慶一郎さんが制作した、初音ミク主演のオペラ『THE END』では、ミクは初め、人形浄瑠璃の人形のように演じるのだが(重々しく陰鬱)、最後は天使に帰っていく(光のように軽くなる)。
優れた芸術作品であると思う。
作品全体のブルーレイが出ないのは、一枚の小さな画面で表現できるものではないからだろうか?
ならば、もっと公演をやって欲しいものである。会場設営が大変そうであるが。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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