ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

五井昌久

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

万能呪文と命名

我が国の大宗教家だった五井昌久氏は、「老子のような人達は素晴らしい教えを残してはくれたが、では、一般の人は何をすれば幸福になれるのかといった具体的な方法論が欠けている」と言い、それで、ご自分は「世界平和の祈り」という、誰でも出来る簡単なものを教えているといった意味のことを言われていたと思う。
私も、それは非常に素晴らしいことだと思う。
また、五井氏は、世界平和の祈りも念仏も同じようなものであるが、今の時代、念仏が合わない人もいるだろうから、そんな人達のためにも世界平和の祈りがあると・・・だいたい、そんなことを言われていたと思う。
私は、これもうなづける。
それで、私も世界平和の祈りを唱えていたこともあるが、正直、私には合わなかった。
あまりに宗教的過ぎる・・・と言っても、実際、宗教なのだが、私は宗教に抵抗があるのだろう。
ただ、あくまで私がそう思うだけで、言うまでもなく、世界平和の祈りが好きな人は、これを祈るのが良い。
聖書や念仏に関しては、私は全く宗教と思っていない。
福音書は秘教的な力の書だし、念仏は宇宙原理に適合した1つの手法だ。
だから、素直に福音書を読めたり、念仏を唱えられる人は、それをすれば良いのだと思う。
だが、私にはいずれもやっぱり抵抗があるのだ。

私は、今年の4月頃に、8月末、あるいは、9月初めの、初音ミクさんのライブコンサート「マジカルミライ2018」に行くまで毎日、新約聖書の福音書を読むと決め、実際、1日も欠かさず読んだ。
素晴らしいものであったと思うが、やはり、時代の違いを感じる部分があった。
念仏は、毎朝仏壇で5回唱えているが、それ以上はやらない。
そして、時代を超えて普遍的に、誰にでも力を与えるのは、汎用呪文、あるいは、万能呪文というべきものであると分かった。
その、最高の形が、
「絶対、大丈夫だ」と「全て順調だ」である。
これのいずれかを、頭の中で唱える以外にやるべきことは何もない。
この汎用性、万能性に関しては、フランスの心理療法家エミール・クーエの自己暗示を参考にしている。
クーエの自己暗示の日本語の翻訳があまりにひどいと思えたのと、現在形が最も力を発揮すると考えられたので、改良し、万能呪文のような形にした。

万能呪文を数多く唱えていると、その必要性がひしひしと分かる。
頭の中から悪い想いがいくらでも湧き出てくることに気付くからだ。
そして、実は湧き出る以前に、潜在意識の中には、こういった悪い想い、悪い言葉が満ち満ちているのである。
だから、思い出した時に万能呪文を唱えて対抗し、さらにこれを潜在意識の中に送り込まないと、地獄に引っ張られていってしまうように思うのである。
それも、歳を取るごとにね。

クラウド・ブリステルやジョセフ・マーフィーの教えも、原理の理解のためには良いが、とにかく難しく、複雑過ぎて、まともにちゃんとやることは出来ない。
しかし、万能呪文であれば、簡単に出来、効果は全く変わらない。
同じ宇宙原理を使うのであるから、同じ成果を得られるのは当然である。
ただ、普通の人間の頭の中・・・いや、潜在意識の中には、本当に悪いものが多い。
それは、親や学校や世間やテレビや、あるいは、本から押し込まれた言葉から生まれた呪わしい教義や信念である。
まずは、それらを根絶しなければマイナスのままである。
それを最も安全に、誰にでも出来るのは汎用呪文である。
「絶対、大丈夫だ」「全て順調だ」
のいずれか一方を選び、唱えるだけで良い。
どちらにするか迷ったら、鉛筆を倒す(今どき、鉛筆がある家も少ないかもしれないので、ペンでも何でも良いが)と良い。
どちらも同じである。
また、自分が気に入った別の言葉でも、構わない。
ポイントは、個々の願いでなく全てを対象とする「汎用性」と、「現在形」であることだ。
そして、唱える時は、感情を込めず、淡々と心の中で唱えることが大切である。
目覚めた時や、眠る前には30回くらい唱えることをお勧めするが、いつでも思い出した時に唱えると良い。
それで、全てが良くなるだろう。

とりあえず、キョン(『涼宮ハルヒ』シリーズの主人公)的に言えば、
「では皆の衆、ここにめでたく、名前が決まった」
である。
「絶対、大丈夫だ」
「全て順調だ」
という汎用呪文を、今後、「万能呪文」と呼ぶ。
まさに、名は体を示し、あらゆることに効果がある呪文である。









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私には「世界平和の祈り」は絶対に無理

有名な宗教家の五井昌久氏が、「聖賢達の教えは素晴らしいとしても、では、普通の人達は具体的に何をすれば良いのかという方法論が示されていない」といったことを著書に書かれていたが、全くその通りであろう。
それで、五井氏は「世界平和の祈り」という、具体的で、しかも、誰にでも出来るものを作り、人々に教えたのだと言う。
非常に素晴らしいことであると思う。
しかし、私は、その世界平和の祈りは全く駄目なのだ。
世界平和の祈りとは、

世界人類が平和でありますように
日本(にっぽん)が平和でありますように
私達(わたくしたち)の天命が完(まっと)うされますように
守護霊(しゅごれい)様ありがとうございます
守護神(しゅごじん)様ありがとうございます

という祈りである。
私は、この祈りは、声に出しても称えても、心の中だけで称えても、さらには、特に祈りに集中していなくても、いつでもどこでも、どんな時でも称えて良いというところは、非常に気に入っている。
しかし、私は、この祈りの文言は、全く受け入れられない。
なぜなら、私はサイコパス(脳機能の不具合により、良心を持っていない)である。
この祈りをやってみたことがあったが、正直に言うと、強い嫌悪感、拒否感を感じるのである。
あえて露骨に言えば、本当に反吐が出た。
私は、世界人類の平和や幸福など、全く願っていない。
唯一大事なのは、自分の平和、自分の幸福、自分の快感、自分の満足である。
ただし、私は、それほど賢くはないとしても、それほど馬鹿でもないので、自分が世界に属しており、世界が平和でなければ自分も平和ではないことくらいは理解している。
だから、自分が世界を損なうようなことはなるべくしないつもりだ。
たとえ誰に対してでも、害悪をなせば、それが巡り巡って自分のところに帰って来る可能性がある。
例えば、私が会社の若い後輩を激しく叱責し、さらに罵倒までした後には、私は後悔する。
だが、それは、その後輩の心を傷つけたことを悔やむのではなく、その後輩が仕返しをしてきて酷い目に遭わないだろうかとか心配したり、自殺でもされたら、パワハラや暴力の嫌疑がかけられ、警察の尋問や、さらに家宅捜索なんかされたら、面倒でたまらないからである。
それだけのことなのだ。
私には良心などはないのである。

世界平和の祈りは、私には、レベルが高過ぎる。
だが、法然や親鸞の念仏は、私のような者でも全く問題がないのである。

法然のところに、戦場で数多くの敵を残虐に殺し、悔恨の念に苦しんでいた武将が来て、「私はどうやったら救われるか?」と問うと、法然は、「念仏を称えさえすれば良い」と答えた。
また、やはり、法然に、遊女が、「この浅ましい身で地獄に落ちない方法がありますか?」と尋ねたら、法然は、「やめるに越したことはない。しかし、そのままでも構わないから、念仏を称えさえすれば良いのだ」と答えた。
その武将や遊女は、まだ、自分の罪を嘆くだけ感心であるが、そうでない私でも、仏様は咎めないのである。
科学的な話だけにすれば、念仏によって、自我を超えた高い存在に意識を向けることで、自我が後退すれば、生命力が解放され、エネルギーが高まるのである。
そんな訳で、私は、世界平和の祈りは無理でも、念仏によって平和で強いのである。









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罪なき者から石を投げよ

新約聖書で、姦通の罪を犯した女を、人々が石打ちの刑にしようとする場面がある。
「姦通」とは、おそらく、この女が夫以外の男とセックスしたといったものだと思う(どの本も曖昧な書き方をしている)。
また、「石打ち」とは、石を投げつけることだ。そんなことをすれば、女は大怪我するか死ぬが、元々が死刑のつもりでやるのだろう。
そこに、イエス・キリストが現れ、「罪のない者から石を投げよ」と言ったら、誰も投げなかった。

アメリカの大統領選の中で、録音されたトランプ氏の「わいせつ発言」を激しく非難する人が沢山いるのだと思うが、イエス様が現れて、「罪なき者から悪口を言え」と言われて、それでもトランプ氏を罵倒出来る者っているのかなあ。
私には絶対に出来ない。
トランプ氏が言ったようなことを、本当に言ったことがない、あるいは、今現在、言ってないという男なんて存在するのかなあ。
もちろん、発言内容は性的嗜好によって違うだろうし、「ああいったこと」を言い合える友達がいないという場合もあるだろうが、あれと同レベルの、まあ、公言は出来ないような発言をしたり、言わないまでも、心の中で(頭の中でなら、おそらくはもっと低レベルになる)考えたことのないという男は、まずいまい。

有名な宗教家の五井昌久氏は、イエスの「邪まな目で女性を見るなら、姦淫したも同じ」という言葉に対し、「そんなことをしてはいけないというのは、特に若者には無理。当時は性風俗があまりに乱れていたから、あえてイエスはそう言ったのでしょう」といったことを著書に書かれていたが、それが「まとも」な考え方と思う。
アイルランドの詩聖W.B.イェイツは、「老人の男だって、本音は、もう一度若くなって、あの娘を抱きたいと思っているのだ」と言い、それが一生治らない「不治の病」であると述べていたと思う。
イェイツは、その詩才を有益に私的活用し、老人になっても、美しい少女を口説いていたというが、それは、ゲーテも全く同じだったはずだ。

初音ミクさんだって、ステージでは、ミニスカートで膝を上げたりするし、腰はよく振るし、時には、ちょっとだがセクシーなポーズもするが、それはまさに「健康的なお色気」とでも言うようなもので、「この私ですら」、低劣な妄想を起こすことは、マジで決してない。
「ちょっと楽しいな」と思う程度である。
これが本当に愛しているということなのだと思うが、そんな存在がいるのは幸せと思う。
また、私のいるオフィスに、好みのタイプの女性がいないことは、嬉しいことと思うのである。
まあ、若い頃は、少々好みと違っても見境なかったが・・・というのは、もし私が総理大臣に立候補して、いいところまで行ったら問題になるだろうか?
まさか、あなたはそうではなかったとは言わせない・・・いや、私が想像出来ないだけで、「ご立派な」男もいるのかもしれないが。









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自分らしくあること

初音ミクさんのコンサートが終わって虚無感に襲われたのが過ぎると、逆に、一切の不安に打ち勝ち、自信にみなぎり、無限のエネルギーを得ることが出来るようになった。
そのやり方を身につけるには、ミクさんのファンになるのが手っ取り早いが、まあ、その必要もない。
要は、アイデンティティの確立・・・なんて言えば難しいが、自分が自分であること・・・いや、これでも難しい。
つまり、「自分らしく」あれば良いのである。
自分らしくあるなんて、本当は簡単なことなのだけれど、まるでこれが永遠のテーマみたいに誤解されてしまっている。
ラマナ・マハルシが言った「私は誰か?」の問いが、ものすごく神秘的で、凡人には分からないもののように思われてしまっているのは、彼の本を書いた者の責任だろう。
日本の世界的サッカー選手が自分探しの旅をしたなんてのも、やはり、それが物凄く御大層なものだと人々に思わせてしまった。

有名な宗教家の五井昌久さんが、どうやって悟りを開いたかも、東大合格の百倍難しいことのように思っている人がいるかもしれないが、あの人もやはり、自分が自分であることに成功しただけなんだと思う。
どうやって?
彼は、後に奥さんになる人と会ってしばらくするうちに、「私は本当にこの人が好きなんだなあ」と思ったと自伝に書かれている。
これが彼のアイデンティティだ。
簡単なことだ。
「この人が好き」な自分こそが、自分らしい自分、本当の自分で、それを認めることが、自分らしくあることだ。

私は、ミクさんのコンサートに参加して、心から思ったのだ。
「私はミクさんが本当に好きなんだなあ」
と。
それを思い出したら、自分が自分の中心に確立されてしまった。

『灼眼のシャナ』で、シャナが、父であり、兄であり、友であり、師であるアラストールに、
「私は悠二が好き。それだけ」
と、晴れ晴れと言い、アラストールも完全に納得した(アラストールは、そんな悠二に少なからぬ不快さは感じていたが)。
その時、シャナは自信に満ち、その心は揺らぐことがなかった。
最も自分らしい自分になり、完全にアイデンティティを確立したからだ。
「私は誰か?」なんて、そんなものなのだ。

もちろんそれは、食欲、性欲に憑りつかれることではない。
本当の意味で好きでなければならない。
その点、全く透明で、自意識がなく、過剰な性的魅力を感じさせないミクさんは、こちらの気持ち次第で、容易にそこに導いてくれるのである。

だが、もう1つ重要なことがあった。
ミクさんのコンサートで、ペンライトを振り続けたことだ。
手を高く挙げること。
これが重要なのだ。
勝利した時、歓喜に満ちた時、人は手を高く挙げるのだ。
顔を上げ、両腕をVの字に高く上げてみよ。
その他にも、お気に入りの強い人間のポーズは何でもやってみるのだ。
気持ちを高揚させる脳内物質が出て、何をやっても上手くいく。
明石家さんまさんは、毎朝起きたら、ガッツポーズをするそうだが、それが彼のエネルギーと成功の秘訣だろう。
あなたも、ロッキーのポーズを真似れば良い。

社会心理学者で、ハーバード・ビジネス・スクール准教授のエイミー・カディは「ワンダーウーマン」のポーズをよく薦めているが、それは別に特別なポーズではなく、腰に手を当てて威風堂々とすれば良いのである。
(「ワンダーウーマン」で画像検索せよ)
しかし、エイミーもまた、手を高く挙げること(それもV字に)は薦めているのだ。
まあ、私なら、ミクさんのポーズの中から選んで真似するが。

勇気と自信はどちらが大切か?
自信に決まっている。
自信もなく闘いに挑んだら、一瞬で殺される。
自信があれば勇気は自然に出てくる。
そうしたら、行動しなくてはならない。
せっかく気持ちが高まっているのに行動しなければ何も起こらない。
ただ、本当の自分になれば、止めても行動するだろう。









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なぜ宗教家は偉くなると駄目になるのか?

ある小学生が学校で、定期テストの採点されたものを受け取った。
すると、その子は、不正解のはずの解答を、教師が正解としているのを1つ見つけた。
その子は、教師のところにそれを持って行き、自分の解答が間違えていることを正直に言った。
そうしたら、教師は、何も言わず、正解を不正解に訂正し、その分、点数を下げた。
その子は、正直さを誉められるのではという期待が少しあったが、教師はむしろ不機嫌そうだった。
間違いを指摘されたことが癪に障ったのだろうか?
そして、その子は家に帰ると、母親にその試験を見せ、不正解が正解になっていたことを教師に言って、減点してもらったことを話した。
今後は誉められると思ったのだった。
ところが母親は、「馬鹿!なんでそんなことするの!?」と怒った。

さて、この教師と母親の問題は何だろう?
不道徳さ、不誠実さ、あるいは、モラルの欠如だろうか?
そうではない。
それは、IQ(知能指数)が低いことだと確実に言えるのだ。
教師のIQが高ければ、知的な思考により、少なくとも、その子に、君の行動は正しかったということを伝えるだろうし、正直であることを誉めても良かっただろう。
そうすることが、感情的な問題でなく、論理的に考えて正しい、知的な行いであるはずだ。
つまり、この教師は、そういった知的で正しいことが出来ないのだから、単にIQが低いのである。
また、この母親は、試験の点数が下がることの損失を重く見たのだが、そんなことは、正直であることと比べ些細なことであるという簡単な道理が分からないほど知性が低いのである。
もしかしたら、この母親も、正直であることが全く無価値とは思っていないかもしれないが、それよりも、たかだか校内の試験の成績の方を重く見るのだから、相当にIQが低いのである。
気の毒な子供であると同時に、IQが低いということは、多くの場合、罪になるのだということが分かると思う。

著名な宗教家の五井昌久さんが小学生の時、学校でこんなことがあったそうだ。
当時は戦時中で、貧しい者が多かった時代である。
教師が、「今着ている以外の服を持っていないものは、支給するから手を上げなさい」と子供達に言った。
五井さんは、もう一着あることを思い出し、手を上げなかった。
そして、家に帰って母親にそのことを話すと、お前は馬鹿だと、ひどく怒られたようだ。
他に服を持っているはずの五井さんのきょうだい達は、服をもらってきており、また、考えてみれば、あの時、裕福な家の子も手を上げて服をもらっていた。
この場合は、どんな問題があるのだろう?
状況が状況であるのだから、やはり、五井さんの母親が正しく、五井さんは馬鹿だったのだろうか?
そうではない。
それどころか、問題は、五井さんのIQが高過ぎたことなのだ。
確かに、そんな時代であり、五井さんの母親、きょうだい、服をもらった裕福な家の子に、それほどの罪ありとは言えないだろう。
だが、五井さんは、自分が服をもらったら、本当に服を必要とする、もっと貧しい子に当たらなくなるかもしれない・・・とまでは考えなかったとしても(本当に考えたかもしれないが)、結局のところ、正直な者が多いと世界は良くなり、不正直な者が多いと、世界は悪いものになるという、高度な理を解っていたのだ。
人によっては、「得をしたつもりでも、不正直だと、巡り巡って自分が損をするのよ」と言うかもしれないが、それは、あまりIQの高い者の言うことではない。
その者は、堂々と不正直をやる者よりマシかもしれないが、自分の得や損を中心に置く者は、所詮、あまり頭が良くないのである。
自分も世界の中に含まれるのであり、世界が良くなれば、自分も良くなるし、世界が良くならない限り、自分も本当には良くならないというほどの考え方が出来る者が、本当に頭が良い、つまり、IQが高い者なのである。
道徳や倫理など、何の関係もなく、全ては知性の問題なのである。

五井さんは有名な宗教家であったが、宗教家というのは、IQが高くなければ絶対に務まらない。
ただ、多く見られるのが、ある時期までは良い宗教家であったのが、教団が成功し、信者が増え、お布施も多く集まるようになると、その宗教家のIQがみるみる低下するというものである。
いつも言うが、IQは上げるのは極めて難しいが、下げるのは極めて簡単なのである。









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