ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

二十六人の男と一人の少女

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

引き寄せはテクニックでも何でもない

怪異譚(かいいたん)とは、怪異のお話という意味である。
そして、怪異とは、「異様なほど不思議な」という意味であるから、怪異譚とは、「異様なほど不思議なお話」という意味だ。
怪異譚には、幽霊や妖怪の話が多いと思う。
怪異譚は、どこの国にもあるし、面白いものが多いので、それを、仕事や趣味で熱心に収集している人もいる。
私が大好きなオカルト系ジャーナリストだった中岡俊哉氏は、若い時に、中国でたっぷり仕入れた怪異譚のおかげで、人気作家になり、一時は、テレビで見ない日はないと言われるほど人気者のオカルト研究家にもなった。

ところで、「悪霊」と言えば、だいたいが古くからある怪異譚がベースなので、迷信的である場合がほとんどで、論理派を標榜(ひょうぼう。主張すること)する者には、「悪霊」と聞いただけで馬鹿にする者も多い。
しかし、その気になれば、悪霊をそれなりに科学的、あるいは、技術的にすら説明出来る。
それをやる気はないが、要は、悪霊というものはあるのだと思った方が良い。
もちろん、怪異譚に登場するような悪霊は、それが真実の姿ではないだろうが、それは、神や仏だって同じことで、一応、怪異譚に出てくるようなものと思って問題ないと思う。
では、なぜ、悪霊が存在すると思わなければならないかというと、それが、我々の運命に大きく影響するからである。

早い話が、悪霊がつくと不幸になり、特に、強い悪霊、あるいは、沢山の悪霊がつくほど、不幸度は大きくなる。
新約聖書の福音書で、イエス・キリストは、心身に大きな異常をきたした者から、悪霊(悪魔)を追い出して正常に戻すが、特に悪霊を追い出すことで癒したと書かかれていない場合でも、イエスが病気を超能力で治したというのは、その力で悪霊を追い払った場合がほとんどと思われる。

普通の人でも、3つや4つ、あるいは、数十の悪霊がついているのではないかと思う。
そして、外国の場合は分からないが、日本では、沢山の悪霊がついた者が、どうしようもなく増えていると思うのである。
そのせいか、私も、大勢の人が集まる場所に行くだけで、心身の調子がおかしくなってしまうのである。
つまり、悪霊が一時的にしろ、私の方に乗り移ってくるか、関係性が出来てしまうのだと思う。
上記、伝統的な言い方なので、やはり、馬鹿らしいと思う人は多いだろうが、科学的な話かもしれないのである。
また、私は、一時(高校生の時だが)、悪霊に非常に苦しめられ、家庭内でも不幸なことが多く起こったが、神主さんにお祓いしてもらったら、それが止んだことがあった。

悪霊を追い払えば追い払うほど、心身の状態は良くなり、健康や精神状態、知性、それに、運勢も向上するのである。
そして、どうすればそれが出来るのかというと、宗教や、霊能者が助けになる場合はあるだろうが、根本的には自分次第である。
つまり、自分が悪霊に同調しない、高貴な心、前向きな心、強い心、不屈の心、思いやりある心、そして、何より、「敬虔な心」を持つことが必要であると思う。
「敬虔」とは「敬いつつしむ」ことである。
悪霊に憑りつかれた者の特徴は、他人をすぐに馬鹿にすることで、逆に言えば、他人を敬う気持ちがないことである。
ゲーテが、「最も重要なものは、敬う気持ちである」と述べたが、その、最も重要なものを持っていないのである。
どんな人間も尊重し、他人の美点を敬う気持ちのある者は、間違いなく、常に神の恵を受けるだろう。
とはいえ、表面上、他人をおだてたり、媚びへつらったりするようなことと、本当に敬虔であることとは何の関係もない。

この重要なことについては、コリン・ウィルソンが心理学的評論書『至高体験』の中で取り上げた、マクシム・ゴーリキーの「詩のように美しい作品」と言われる短編小説、『二十六人の男と一人の少女(女)』を読まれることをお薦めする。
26人の落ちぶれ果てた年配の男達・・・小説では書かれていないが、やはり、ある意味、悪霊に憑りつかれ、気品も知性も、そして、運もなくしてしまっていた哀れな男達がいた。
だが、彼らは、ほとんど奇跡と言って良いが、向上を始める。
ターニャという16歳の少女と会うようになってからだ。
ターニャ自身は、可愛いが、特に優れた少女ではなく、男達を「囚人さん」などと呼んで見下していた。
しかし、男達の方は、ターニャを天使のように崇めた。
決して、(全てではないかもしれないが)今の日本や韓国や中国のように、女性アイドルを性的魅力によってもてはやすのとは全く違う。
26人の男達は、本人がいない場所でも、決してターニャについて下品なことは誰も言わなかったし、少なくとも、思わないようにしようという自制心はあったと思う。彼女を崇めるゆえにだ。
だから、男達は賢くなり、人間性も向上していったのである。
尚、コリン・ウィルソンは、『至高体験』の中では、ロマン・ゲイリ(ロオマン・ガリ)の『天国の根っこ(自由の大地)』の方を引用し、『二十六人の男と一人の少女』は同種のものとだけ書いていたが、残念ながら、『天国の根っこ』は入手が難しく、また、翻訳者の文章が難しいかもしれない(私は読むのにやや苦労した)。
ただ、コリン・ウィルソンは『至高体験』の中で、『天国の根っこ』の必要な部分を引用している。

引き寄せはテクニックでも何でもない。
どれほど沢山の引き寄せの良書を読んだところで、心を高めなければ・・・特に、敬虔な心、敬う心を持たないなら、全く駄目であろう。








なぜ努力する人と怠惰な人がいるのか?

奇跡を起こし、全てを思うがままにする力を得るために絶対的に必要なことが、自我を出来る限り弱くすることであることは間違いない。
自我とは、自分を高い位置に置きたいという欲望だ。
ところが・・・
「君は世界で唯一の特別な存在である」
「僕たちはそれぞれ、世界で1つだけの花である」
という言葉を美しく感じ、これが嘘とは思えない。
だから、もし、
「僕なんかいてもいなくてもどうでもいい、つまらない人間だ」
「私は、華やかで素晴らしい、あの人とは全然違う駄目な存在」
などと言う者がいたら、
「そんなことはない。君だって他の人に負けない素晴らしいものがあるのだ」
と言ってあげるのが正しいはずだ。
そして、自己啓発指導者達が教えるアファーメーション(肯定的断言)は、
「私は素晴らしい」
「私は偉大だ」
「私は価値ある存在だ」
である。
そして、世界的な自己啓発指導者であるディール・カーネギーは、
「人間の最大の欲求は、自分が重要な人間であると認められること、すなわち、自己重要感である」
と言っていることは誰もが知っているのに、この、人間が一番欲しいものを手放すことが、本当の力を得る絶対条件であるとは!

「自己重要感」
「自分は世界で1つだけの花」
こんな貴いことが間違いだったのか?
その通り、大間違いであったのだ。
では、自分の価値を高めるために一生懸命勉強したり、技能を磨いたり、身体を鍛えることは間違いなのか?
何も努力せず、怠惰でいれば良いのか?

この矛盾を解決するために、無数の賢い人達が苦心し、そして、いまだ解答は得られていない。
ただ、こういうことは言えるのではないか?
いかに優秀であっても、そうなるためにいかに努力をしたとしても、高慢になれば全て台無しである。
これは確かである。
そして、それが分からない愚か者が多い。
つまり、成功したり、金メダルを取ったり、勝つことで自分は優れていると思ったとたんに落下が始まり、放っておいたら地獄にまで落ちる。

結局、こういうことなのだが、これを知らない者が何と多いことか。
努力したり、戦うことは、ゲームに過ぎず、それで成功したり、勝ったりしても、それは「たまたま」なのだ。
さらに言えば、努力するか、その反対に怠惰になるか。
戦うか、逃げるか。
それは、自分の意思で決定したのではない。
最初から、あなたの脳が、そうプログラムされていたに過ぎないのだ。
超人的な努力をして、多くの人に称賛されたり畏れられたりしても、単に、そういうふうに作られているのだから、努力して当たり前なのだ。
服をハンガーにかけることも面倒と思うことだって、そうなるよう、初めから仕組まれていたのである。それだけである。

では、どうすれば良いのか?
それはこうだ。
「おお、自分より高いものがある」
と分かるか、分からないかで全てが決まるのである。
ロオマン・ゲイリの小説『自由の大地』で、フランス兵達はドイツ軍の捕虜になり、すっかり怠惰になった。
そこで、フランス兵達の隊長は、部下たちに、「ここに1人の理想の少女が居る」と想像するよう言った。
すると、たとまち、フランス兵達は高貴になった。
ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』では、人間として最低の26人の男達は、ちょっと可愛いが平凡な16歳の娘を天使のように扱った。
すると、26人の男達はたちまち尊い人達になった。
彼らに共通することは、ただ、「崇めた」ことである。
人間は、目の前にいる存在が自分より「高い存在」であると本当に思ったら、崇めるのである。
崇めるとは、敬虔であること、敬うこと、ひれ伏すことである。
だが、誰も、王様や将軍様なんて、本当には崇めていないのである。
平凡な少女でも本当に崇めることがあるのに、国で一番の権力者だからという理由で、本気で崇めることはない。
「いや、私は王を心から崇めている」
と言い、自分でも、本当にそうだと思い込んでいるかもしれない。
だが、本当に崇めているなら、それは喜びであり、安らぎであり、何もいらないと思うはずなのだ。
いわゆる「見ているだけで幸せ」な状態だ。
「俺はただ見ているだけでいい。何も欲しくない」と思ったら本物だ。
誰にも強制されず・・・つまり、「これを崇めよ」と決して言われなかったのに、崇める何かに出会えたら幸運であるが、必ず出会うのであるし、何度も出会っているのかもしれない。
これからも出会うだろう。
しかし、いつまでも崇めることをしなければ命が取られる。
だが、その時、命を捧げれば、全て解決するのである。
とはいえ、そこまで先延ばしにしてはならない。








日本人には簡単なことで確実に運が良くなる

人間は、運が良くないと駄目だ。
松下幸之助さんは常々そう言っていたらしいが、つまるところ、成功者は皆、本音では、「自分が成功したのはたまたま」だって知っている・・・つまり、運だったのだ。
私が敬愛する宗教人類学者、植島啓司さんの『運は実力を超える』という本は、タイトルが全てを表している。ただ、この本には、どうすれば運が良くなるか書かれているかというと、かなり楽しんで読んだのだが、さっぱり憶えていない。
つまり、私のような頭の悪い凡人に難しいことを言っても無駄で、一言で簡単に言ってくれないと駄目なのだ。

そこで思い出すのは、江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠が、神(天照大神)の開運を祈ったことだ。
神様の開運を祈るなんて不思議なことに思える。
だが、人間は、愛する相手の幸福を願うものだし、幸福とは、つまるところ、幸運だ。
つまり、黒住宗忠は、神様を深く愛していたということだし、神様を愛するということはつまり、崇めるということだ。

崇めること、それは、相手に対し敬虔ということで、敬虔であれば、畏怖という恐れの気持ちも感じる。
言葉としては難しいが、崇める、敬虔、畏怖は、人間の心にとっては同じものだと言える。
そして、敬虔という気持ちの重要性をずっと強調し続けたのがゲーテだった。
偉大な芸術家や文学者は沢山いたが、運が悪い者も多かった。
しかし、ゲーテの運の良さは抜群だった。
若くして名声を得、金持ちで健康だったし、女性にはモテまくり、歳を取っても十代のガールフレンドに常に恵まれた。
そして、ゲーテは、若い恋人に対して、常に、敬虔という気持ちを忘れなかった。

そして、運が良くなる原理が決定的に分かるのが、ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』(『 二十六人の男と一人の女 』というタイトルにした本もある)という短編小説だ。
もう1つ、ロオマン・ガリの『自由の大地』も、ほぼ同じで、良い点もあるが、こちらは手に入り難い。
『二十六人の男と一人の少女』では、これ以下はないというほどの駄目な(つまり、運が悪い)26人の男達が、ターニャという名の16歳の可愛い少女を崇めることで、全てが良くなり始めた。
本来、この男達は、ターニャのような、単にちょっと可愛いだけの若い女を見たら、本人がいない場所では、彼女のことで猥褻なことでも言いまくっていただろうが、なぜか、ターニャに対してはそうではなく、女神のように崇めた。
別に、ターニャは大した女ではない。むしろ、心がけの良くない駄目な少女だとも思える。
だが、何かの気の迷いか、男達はターニャを天使のように感じ、そのように扱った。
誰も、ターニャに対して下品なことを一言も言わなかった。
天使に対して、そんなことを言えるはずがない。
そして、そのままでいけば、男達には良い未来が待っていたかもしれない。いや、必ず待っていただろう。
この短編小説は、詩のように美しい作品と言われ、ゴーリキー自身の体験を基にした生き生きとしたものだ。

崇める、敬虔、畏怖・・・もっと馴染みある言葉で言えば、敬い、リスペクト(尊敬)と言って良い。
ゲーテは、高貴なものを敬う時、胸の中に神がいるのを感じると言った。
『二十六人の男と一人の少女』 のことを考えれば、高貴かどうかは、自分で決めれば良い。
いかなるものも高貴だと思えば高貴なのだ。
高貴だと思って、敬い、崇めれば良いのである。
これは本来、日本人にとっては自然なことだったので、日本人には簡単なのだ。
海外の偉人にも、日本人の精神性に驚き、日本が世界を導くと言う人が何人もいる。
日本では、万物に神が宿り、全てを敬い、大切にするからだ。
イチローや松井が野球道具を大切にすることに驚き、そして、アメリカ人だって、それを美しく感じ、真似た選手も多かったのだ。
日本人が初音ミクさんを敬う姿に、欧米人も倣い始めたのである。まだまだではあるが。
敬虔な心を持つ限り、日本は無敵であったはずが、それが失われてしまった。
しかし、取り戻すのは簡単である。
高貴に感じる対象を敬えば良いだけだ。
単に、ファンやマニアやオタクであるのではなく、女神として、天使として、神として本当に崇め、敬えば良いのである。








息をするように欲しいものを引き寄せる

引き寄せの法則を、怪しいとか胡散臭いと思う人がいるかもしれないが、私は疑ったことなどなかった。
なぜなら、子供の時から普通に使っていたからだ。
引き寄せという言葉自体は10年程前に知ったが、それ以前から「思考は現実化する」という言葉があり、実感としては今でも、こちらの言葉の方がしっくり来る。
そう、思考は現実化するのである。必ず。
アメリカの作家、マイク・ハーナッキーが、『成功の扉(原題:全てを手に入れる究極の秘訣)』の中で、「10憶円のことを考えると、ただちに10憶円を引き寄せ始める」と書いているが、全くその通りである。ずっと10憶円のことを考え続けたら、いずれは手に入れるだろう。

「引き寄せの法則」と「思考は現実化する」の2つの言葉で、引き寄せのやり方の公式が出来てしまう。
即ち、「思考すれば引き寄せる」である。
ただ、重要なポイントは「ずっと考える」ことである。
「ずっと意識する」の方が私の実感に近いかもしれない。
私が子供の時にやった印象的な引き寄せの1つが、「土星を引き寄せた」ことだった。
これなら10憶円の引き寄せにも負けないだろう(笑)。
どういうことかというと、小学4年生の時に天体望遠鏡を手に入れたのだが(この天体望遠鏡も引き寄せで手に入れた)、この天体望遠鏡で土星を見たいと思ったのだ。
それで、土星のことをずっと考えていて、そして、夜空の星を1つ選んで天体望遠鏡で見たら、それが土星だった(輪があった)のである。
どのくらい考えたのか、はっきりしないが、せいぜい数時間だったように思う。
だが、虫メガネで太陽の光を集めて熱を起こすように、集中的に考えたので、実現が早かったのだ。
同じ方法で、天文の勉強や調査を全くすることなく、金星(これは簡単だが)、火星、木星を発見した。
また、広い図書館の中で、読みたい本を簡単に見つけた。
ある時は、学校の図書館でシーラカンス(数億年姿を変えない魚)の本を見て、シーラカンスに興味を持ち、シーラカンスのことを考え続けていたら、家に帰ってテレビを付けたら、シーラカンスの特集番組をやっていたが、こんなことはよくあった。
もっと凄いのは(笑)、以前見た、ある時代劇のある回を録画したいと思い、ただ、録画装置のリモコンを手にテレビを見ていたら、それが始まって録画出来たということも、やはり何度もあった。
事実として、キリスト級と言ってもおかしくないと思う引き寄せを、子供が普通にやっていたのである。

さっきも言ったが、やり方のポイントは「ずっと考える」あるいは「ずっと意識する」「ずっと意識を向ける」である。
私がプロのプログラマーになれたのも引き寄せの力である。
本当にずっと、プログラミングのことを考えていたのである。
考えていたというよりは、呆然とイメージしていたのであり、やはり、意識していた、意識を向けていたという表現の方が合っていると思う。
ただ、邪(よこしま)なことに関しては、ずっと考えていたら、おかしな形、望ましくない形で実現すると思う。
私は邪な人間なので(笑)、少々面白くないことも沢山引き寄せてしまった。
例えば、極端な例でいえば復讐で、「あいつに仕返ししてやる」「ひどい目に遭わせてやる」等とずっと思っていたら、とにかく、ロクでもないことを次々に引き寄せてしまう。
どんな仕組みになっているのか分からないが、そんなものなのだと思う。
よって、神様とか天使とか守護霊に対して、恥ずかしくないことを引き寄せようとした方が良い・・・というより、しなければならないと思う。
お金なら、別に恥ずかしくない。
一千万円のことを考え続けたら、考える時間に応じて、早く、あるいは、遅く手に入るだろう。
ずっと考え続けたら、すぐに手に入るはずだ。
可愛いあの子を恋人にしたい?
なるべく純粋な美しいイメージで考えることだ。
それならうまくいくと思う。
しかし、これに関しては、特定の人について考えると、どうしても余計な思考が混じるので、ロオマン・ガリの『自由の大地(天国の根)』のように、理想的な少女をイメージした方が良いかもしれない。
ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』も、男達がターニャという16歳の少女を、単に女神の象徴として崇めていれば良かったのに、女たらしの登場で、彼女を1人の現実の女と認識してから、おかしなことを考えるようになってしまい、ロクでもない結末になった。
私のように、初音ミクさんを理想の少女の象徴のように考えて、ずっと意識したら、マジカルミライで4列目以内の席を何度も引き寄せるのである(笑)。








自分の中の天才を引き出す

コリン・ウィルソンの著書『至高体験』は、自分の才能を発揮して生きるための素晴らしいヒントに満ちているが、ウィルソンの本は、あまり読み易くはなく、この本は特にそうだと思う。
けれども、この『至高体験』の中に、非常によく覚えている言葉がある。
それは、「天才というのは、内なる衝動に過ぎない」という言葉だ。
全くその通りだ。
言うなれば、自分個人が、燃えるロマンを感じることをやれば、誰でも天才なのである。
ただ、ロマンらしきものを、親とか教師、あるいは、権力者が、騙して与えるとか、洗脳して感じさせることも可能ではあるが、そんなのは、間違いなく長続きしない。
本当に自分に合ったロマンでないと、いずれ、矛盾のジレンマに陥る。
なぜって、ロマンってやつは全然論理的でなく、矛盾を内包しているので、精神の深層につながったロマンでない限り、いずれ、「あれ、おかしいな」って思うものなのだ。
いったん「なんでこんなものが良いと思ったのだろう?」と疑い出すと、かつては熱狂したものでも、これほど馬鹿げたものはないと思うくらい価値がなくなってしまう。

自分の本当のロマンを探したかったら、子供の時に好きだったことを、決して無視してはならない。
人間の好き嫌いなんて、3歳までに作られるものなのだ。
言い換えれば、3歳までに好きになったものだけが本当の好きなのである。
そして、12歳くらいまでは、3歳までに好きになったものを純粋に追いかけるので、12歳くらいまで好きだったものから、自分の道を考えると良い。

ところで、誰でも好きなものってのもある。
例えば、王子様とお姫様だ。
女性の場合が王子様で、男性の場合はお姫様だ。
まあ、例外はあるけど、大抵の人は当てはまる。
王子様の象徴が上品な騎士で、お姫様の象徴は天使のような美少女だ。
そして、『至高体験』には、これらのイメージを使って、生命力や能力を高めた傑作小説が引用されている。
1つは、ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』で、もう1つが、ロマン・ガイリ(ロオマン・ガリ)の『自由の大地(天国の根っこ)』だ。
『二十六人の男と一人の少女』では、26人の最低の年配の男達は、ターニャという名の見かけはちょっと可愛い16歳の娘を女神のように扱うことで、立派な人格と知性を持つようになった。
『自由の大地』では、単なる空想上の少女がここにいると想像することで、堕落したフランス兵達は、凛々しい騎士になった。

韓流スターが好きなら、それをうまく活用するのも手だ。
ミク廃になるほど初音ミクさんが好きなら、成功疑いなしである。ただし、うまくやれば・・・(笑)。
とはいえ、やることは簡単で、例えば、素敵な騎士様の前で恥ずかしくない人間でいようと努力したり、初音ミクさんを天使のように崇めれば良いのである。
ウィルソンの本や、参考になる、心理学者の河合隼雄氏の本をご紹介しておく。
ちなみに、『二十六人の男と一人の少女』は、「詩のように美しい作品」、「世にもまれな美しさと親しみがある」と言われているが、『自由の大地』はシュタイナー並に食えないと私は思うし、そもそも、入手が難しい。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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