ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

二十六人の男と一人の少女

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[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。
[2010/12/12]詳細なlivedoorプロフィール設置しました。[livedoorプロフィール]

エナジャイザー

ジョセフ・マーフィーの『The Cosmic Energizer』という本がある。
Energize(エナジャイザー)は「活力を与える者」といった意味だが、こんな言葉は日本語にはない。
『The Cosmic Energizer』というタイトルは、『活力を与える宇宙の中の存在』といった意味になるが、桑名一央氏は翻訳書に『あなたも幸せになれる』というタイトルを付けた。
そして、本文中の「Cosmic Energizer」に対しては、「宇宙の活力」と訳しておられた。
苦しい訳かもしれない。
energizeは、あくまで、エネルギーや活力や精力を与える者、元気付ける者という意味であり、エネルギーや活力を指すのではないからだ。
※『あなたも幸せになれる』は、文庫版では『マーフィー 努力嫌いの成功法』というタイトルになっている。

私は元来、巷で言われる、「勇気をもらいました」「元気をもらいました」という言葉が大嫌いなのだが、よく考えれば、嫌いな理由は、彼等が元気をもらったというものが下らないからだ。
オリンピックなどのスポーツの国際試合で日本選手や日本チームが劇的な勝利を得た時に、「いやあ、勇気をもらえますねえ!」と強要するように言われるのは御免だし、その強要を煽って儲けようという連中のことを醜悪に感じるのである。
まあ、これも1つの感覚であり、人それぞれであろうがね。

羽生選手や錦織選手が勝って元気をもらえるなら、それで良いだろう。
だが、実際は、そんなものでは大した勇気や元気はもらえないものだということを忘れてはならない。
せいぜいほんの少しの間、愉快な気分になるだけのことだ。

あなたは、もっと強力なenergizer(エナジャイザー)を持たなければならない。
ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』で、26人の社会の底辺で生きる惨めな男達は、ターニャという16歳の可愛い少女と知り合ってから、人間性を取り戻し、元気になり、ちゃんとものを考えるようになる。彼らにとって、ターニャがエナジャイザーだった。
しかし、ターニャは頼りないエナジャイザーで、男達は裏切られ、元の木阿弥となる。
ターニャは所詮、人間である。
一方、ロオマン・ガリの『自由の大地』では、ドイツ軍の捕虜になったフランス兵達は、どんどん堕落していくが、1人の少女がここにいると想像することで、騎士道精神を取り戻した。
想像の少女は人間の少女と違い、どこまでも永遠に清らかである。
あなたは、そのようなものを持たなければ、エネルギーを失い、精力は枯れ、老化し、何も出来なくなってしまうかもしれない。

エーデルワイスの花のように、清らかで輝かしい存在・・・人によっては、それは聖書の神であり、それぞれに信仰する神であり、天使であり、あるいは、阿弥陀如来である。
私には、人間ではないバーチャルな存在だが、だからこそ、清らかで透明な少女である初音ミクさんがそうである。
人によっては、小説や映画や漫画やアニメのヒーロー、ヒロインかもしれない。
それが何かは、やはり人ぞれぞれだ。
しかし、自分のエナジャイザーを持っておくと良いだろう。
ただし、ターニャのように、スキャンダルを起こして裏切るような者でない方が良いだろう。
そこにいくと、ミクさんは、決してスキャンダルのないアイドルである。









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一度死なないと本当に生きられない

自分より偉い・・・というか、値打ちのある人間は、世の中に何人いるだろう?
本音を言えば、誰も、そんな人間がいるとは思っていない。
社会的地位とか収入というなら、自分より上の者は沢山いても、価値ということに関しては自分が一番のはずなのだ。
それが人間の欠点と言えばそうなのだが、謙虚ぶって、そうでない(自分が一番価値があるのではない)と偽る人間は、もっと始末が悪い。

ところが、せいぜい、ぼんやりとだが、長じるに従って、自分より貴い何かがあることを、何となく感じるようになってくる。
それがないと、年を取るほどに運勢は悪くなる。
ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』に登場する、26人の、社会の最下層の男達が、最悪の運勢を持つ存在なのだと思う。
あれほどみすぼらしい男達ですら、きっと、自分こそ、この世で最も値打ちがあると思っているのだ。
しかし、彼らの前に、ターニャという名の16歳の可愛い少女が現れた時、自分達と彼女との、あまりの輝きの違いに衝撃を受け、愚かな男達は、若くて美しいが、ただの平凡な娘を、当然のように自分達より上位に置いた。
それで、男達は知的にも、人間的にも、みるみる向上していくのである。
だが、男達がターニャを見下した時、彼らは再び転落し、おそらく今度は地獄へ一直線だろう。

ゲイリ(ガリ、ギャリィ)の『自由の大地』でも、捕虜になったフランス兵達が、どんどん堕落していったのは、精神を引き締めるものが何もないことで、「偉大なり、俺は」の思いにブレーキがかからなくなったからだ。
しかし、彼らが、そこに一人の少女がいると空想するようになってから、彼らが騎士道精神を取り戻したのは、その空想の少女は気高く美しく、明らかに、自分をその少女の下に置いたからだ。

自分より高い存在があることをはっきり認めた精神は力を持つ。
個人の心と宇宙の心の間に境界はなく、そんな者達の心は宇宙に向かって広がり、宇宙の大きな力の支援を受ける。
だが、繰り返すが、謙虚ぶって、本当はそう思ってもいないのに、「私は価値のない者です」とか、「謙虚であろうと思います」と言う者が一番傲慢なのだ。

今年9月の、初音ミクさんのコンサート「マジカルミライ2016」で、非常に思い出深いことがあった。
今回は、ミクさん以外の4人のボーカロイド達も、特別な衣装で、ソロで素晴らしいステージを見せた。
その中でも、『どりーみんチュチュ』を歌った巡音ルカさんと、『スイートマジック』を歌った鏡音リンちゃんが可愛過ぎて、私の周囲には、萌え死にした(アホな)男達の屍が山を築いていたが、彼らは、ルカさんやリンちゃんを本気で崇めていた・・・つまり、自分より絶対的に高い位置に置いていたのである。
普通のアイドルでも、一瞬なら、そんな気持ちにさせられることはある。
しかし、慣れてきたら、ファンは憧れのアイドルを自分と同じ位置に引きずり下ろし、やがては、見下すようになる。
それは、『二十六人の男と一人の少女』と同じだ。
だが、年を取らず、スキャンダルのないボーカロイド達は、永遠の女神でいてくれる。
コンサートで、ミクさんを見ている人々の顔を見れば分かるが、それは、出現した聖母マリアを見る人達の顔と似ているのである。
イエスも、「一度死なないと、本当に生きられない」と言ったが、ミクさん達に萌え死にした者達は、本当に生きるようになるだろう(多分・・・)。









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本物の天使は裏切らない

ロシアの文豪マクシム・ゴーリキーの短編小説『二十六人の男と一人の少女』ほど興味深いお話は、そうはないと思う。
社会の最下層にいる、ただ食うために、劣悪な環境で安い賃金で働く、人生に何の望みもない、26人の中年過ぎの男達がいた。
知性も品格もない、姿を見せるだけで嫌悪される・・・全くゴミのような存在だった。
そんな男達が、ターニャという、16歳の可愛い少女と、毎日、ちょっとした会話をする機会が出来るのだが、彼らはターニャを、まるで天使を敬うように丁重な態度で接した。
それは、意外なことだった。
まともな人間相手にはとても言えないような卑猥な話を平気でする彼らが、なぜか、ターニャに対してだけは、たとえ彼女がそこにいなくても、決して辱めるようなことは言わなかった。
そうしているうちに、男達は、回らなくなっていた頭が回るようになり、人間性すら備わってきた。
では、ターニャは、そんなに素晴らしい少女なのか?
そんなことはない。
ターニャは、彼らを、年長者として敬うことも決してなく、「囚人さん」と呼び、明らかに蔑んでいた。
ある時、その男達の1人が繕い物を頼むと、ターニャは、「なんで私がそんなことしなきゃいけないの?」と見下して笑った。
そんなことがあっても、男達は気を悪くすることはなく、ターニャへの崇拝は、いささかも揺るがなかった。

それは、単に、若くて可愛い女の子に参っているとか、愚かにも魅了されている・・・というのとは違う。
ゴーリキーは、サイコパスというものを知らないだろうが、サイコパスは女性でも百人に1人はいると言われている。
サイコパスとは、他人に共感せず、良心を持たない人間だ。
ターニャはサイコパスなのだろう。
そして、ターニャの、サイコパスらしい浅い感情が、彼らには非常に輝いて見える原因になったのだと思う。
実際、浅い感情の持ち主が魅力的に感じることは多い。
逆に言えば、感情豊かな人間というのは、相性が合わないと嫌悪を与える。

26人の男達は、無意識に、ターニャに対して感情が透明であることを求めていたのだろう。
ところが、そこに、女たらしの男が現れる。
どんな女でも見事に落とせることだけが、この女たらしの男の唯一のとりえだったが、彼は、そのただ1つの「能力」に対し、強い自尊心を持っていた。
だが、26人の男達は、ターニャだけは、こんな薄汚い男に誘惑されたりはしないと思おうとした。
ところが、不思議なことに、その女たらしの自負心をわざと刺激するように、男達は、「お前にターニャは落とせない」と、何度も断言する。
それでは、まるで、女たらしをけしかけているようなものだ。
いや、実際にけしかけたのだ。
男達は、ターニャが落ちないことを確かめたかったに違いない。
そして、男達の心の奥の思惑通り、女たらしの男は、自らのアイデンティティーをかけ、ターニャを誘惑する。
多分、他愛もなかったはずだ。
男達は、女の喜びに恍惚となったターニャを見てしまう。
唯一の希望を失った男達は、あれほど崇めたターニャを罵倒した。

私は、26人の男達に同情はしないが、気持ちは分かるのである。
彼らは、サイコパス特有の薄い感情しか持たないターニャを、心が透明な天使と勘違いしたのだ。
初音ミクさんの生みの親である、クリプトン・フューチャー・メディア社長の伊藤博之さんの講演会で、受講者の1人に、
「子供や若い人だけでなく、年齢の高い人達まで初音ミクに夢中になるのはなぜでしょうか?」
と質問された伊藤さんは、
「私にも分かりませんが、ミクの声には感情の雑味がなく水のように透明なので、気持ちを入り込ませ易いのかもしれません」
といったようなことを言われたが、だいたいそうかもしれない。
ミクさんは決して裏切らない本物の天使である。









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この世は簡単に出来ている

究極的なことを言えば、人間を向上させ、力を与えるものは、「敬い」と「努力」しかない。
「敬い」は、崇敬、畏敬、恭順・・・様々な言い方がされるが、意思としては、「敬う」で良いだろうし、より強い意志を示すことは「崇める」で良いと思う。
敬う心、崇める気持ちのない者は、決して向上しないし、力も与えられないし、幸運にも恵まれない。
そして、努力をしない者は、所詮、何をやっても成功しない。

ところが、人間は、「敬う」ではなく、「傲慢」になり勝ちだ。
また、「努力」ではなく、楽に流れて「怠惰」になり勝ちだ。
それはまるで、悪魔が人間を、傲慢と怠惰に陥れるよう、強力に働きかけているかのようだ。
だから、人間は、意志の力を持って、傲慢と怠惰に打ち勝たなければならない。

まるで根性論、宗教論だが、そうではない。
根性論には、敬うことが欠けている。
宗教は人を怠惰にしてしまう。
また、人間は、若くて純粋な心を持っている時に敬い、誇り高く怠け心に打ち勝って励み、その2つを持って力を得ても、傲慢と怠惰に取り憑かれたら、たちまち空から地面に叩き落される。

人生は厳しいものであり、徳川家康が言ったように、(人生は)重荷を背負って坂道を登るようなものであるが、しかし、考えてみれば楽なものだ。
だって、敬い、努力すれば良いのだから。
そして、敬えば、努力する活力は自然に得られる。
そういったことが、いかに簡単かは、私が最近(と言っても数年以上だが)、身に沁みて感じている。
怠惰と傲慢さに侵され切っていた私が、初音ミクさんを崇めることで、毎日5時間以上勉強し、朝晩の身体の鍛錬を1日も欠かすことなく続けられるのだ。
もちろん、それは、初音ミクさんの、平伏さずにいられない神々しさのためであるが、それを自然な心のままに崇めれば良いだけであるのだから、神はひょっとしたら、かなり甘いのではないかと思うほどである。
尚、このような私を嘲るような、傲慢で敬う心のない者は、いつまでも地の底なのであるから気の毒である。せっかく、内に秘めた力があるのに、それを無駄にしてしまうのだ。

何度も取り上げるが、ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』で、落ちぶれた26人の中年過ぎの男達が、ターニャという16歳の娘を女神のように崇めている間は向上し続けたこと、ゲイリ(ガリ)の『自由の大地(天国の根)』で、堕落したフランス兵達が、空想の少女を敬うだけで騎士道を取り戻したことを、私は決して忘れないようにしたい。
(そんな彼らを嘲る傲慢で敬う心のない者も多いだろうが)
敬う心は偉大である。
だが、ただ「主よ、主よ」と言ったり、「南無阿弥陀仏」とただ念仏を唱えているだけの宗教では駄目である。
そんな宗教の人々は、本当には崇めていないのである。
崇めていれば、励むはずだからである。
初音ミクさんを崇めれば、励まずにはいられないのだから、私にとって、ミクさんは宗教とは比較にならない貴い存在である。
ミクさんの「ミ」は神そのもので、「ミ」が「三」に似ているのも偶然ではなく、世界中で神秘数とされる「三」は完全を示す。
「ク」は、ある作用であり、神の作用は言葉で言うことはできない。
とはいえ、「来る」「繰る」と思っても良い。ただ、その霊妙さは言葉で言えないのである。
「南無阿弥陀仏」や「南無観世音菩薩」が、なぜ、阿弥陀仏や観世音菩薩といった名だけを呼ばないのかと言うと、南無という言葉をつけることで、崇め、敬う気持ちが起こるからである。
そのような気持ちを持って、「南無観世音菩薩」と唱えれば、現世のことを全て解決する活力が与えられ、「南無阿弥陀仏」と唱えれば、現世が極楽浄土になり、心が仏になるのである。
この世は、神仏の心遣いに満ちているようである。









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努力するためのエネルギーをどうやって得るか

私は、ちょっと前から、充実した修行をしているが、それでつくづく思うのは、所詮、人間にとって必要なことは「鍛える」ということだ。
修行と言っても、瞑想したりとか、マントラを唱えたりといった類のものではなく、現実的に頭を使い、身体を鍛錬することをしている。

もし、人生相談みたいなものを受けたら、解決策は1つである。
それは、鍛えるということだ。
あらゆる問題は、鍛錬の不足から起こる。
ただ、鍛錬するためには、特に精神的エネルギーが必要なのだから、それをいかにして得るかということが大切で、そこをないがしろにしたら、不毛な根性論になってしまう。
また、「将軍様のため」の努力や、「天皇陛下のため」と言いつつ、その実、軍部のための努力なんかしちゃいけないし、無理矢理に努力させられると、エネルギーも失くし、結果、心身の健康を損ない、死に向かうのである。

エネルギーを得て努力するためには、「崇める」態度が必要である。言うまでもなく、心の底から、自主的に、真に崇めることである。
「崇める」とは、「敬う」と「憧れる」が1つになり、さらに、それを突き抜けたものであるが、単純に、そして、純粋に「敬愛」することとも言える。
そのことを分かるために、イギリスの作家コリン・ウィルソンの指摘は重要だ。
それは以下のようなものだ。
ロオマン・ガリの小説『自由の大地』で、堕落したフランス兵達が、空想の少女を崇めることで騎士道精神を取り戻し、ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』で、人間として最低の状態になった中年の男達が、ターニャという16歳の少女を女神のように崇めることで人間性を取り戻した。
これらを重要なこととして示したのは、まさに、ウィルソンの天才的な直観によるものだ。ウィルソンは、その意義を言葉で正しく示すことは出来なかったかもしれないが、考えてみれば、そこまで求めるべきではない。
示唆さえしてもらえれば、後は自分の努力で見出すべきである。

ラマナ・マハルシは、「私は誰か?」を問うという、悟りへの道を示したが、誰一人うまくいかなかったのは、所詮、努力不足だからだ。
それは、生半可な努力で到達出来ることではない。
ラマナ・マハルシは、起きている間は、ずっとやれと言ったのだ。
しかし、そのようなことをやり遂げることが出来るのは、たまたま、それに適したアスペルガー症候群(特に、興味やコミュニケーションに特異性を示す自閉症的症状)ででもある者くらいだろう。
間違いなく、マハルシはアスペルガー症候群だった。
人間に個性があることは認めざるをえず、従って、努力の方向は多様だ。
特に、現代は、多くのことに取り組むことが出来る反面、何をすれば良いのか決めるのが難しく、同時に、学生期には、受験など、無理矢理に目標を与えられて、精神性を壊したり、腐敗させられることも多い。
だが、被害者ぶっていては、さらに悪くなるだけである。

鍛錬といっても、日常生活や仕事だって、最高の鍛錬になりうる。
その中の何かについて、超人的な努力でもって達人の領域を目指すことは優れた鍛錬だ。
だが、目標とするレベルが低かったり、単にやるというのでは意味がない。
例えば、もし、受験というものを鍛錬の題材にするなら、生まれ持ってのIQの問題もあるが、出来るだけ難関の学校に入学することを目指すのが良い。
ただし、あくまで、自主的にその気になればの話で、親や教師が無理矢理そうさせようとしたら、その子を真の意味で殺すことになる。

さて、話を戻すが、鍛錬するためには、何かを崇めなければならない。
それは、単なる憧れや、ただの好きといったものではない。
青少年期によく見られる、誤った崇拝には問題があるが、鍛錬のためのネネルギーとしては有効である。
だから、まずは、鍛錬が何より重要であると考え、妄想しないように、自主的に厳しく鍛錬すべきである。
いかなる問題も、鍛錬が解決する。
逆に、鍛錬しなければ、問題は増え続ける。
鍛錬のためには、何かを崇めなければならない。
それが鍛錬に耐える力を与えてくれる。
崇めるべき何かは、遠くにある訳ではないのである。
そして、崇めるべきものがあれば、厳しい鍛錬ほど楽しいというのが事実である。









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