ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

二十六人の男と一人の少女

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

スーパーエネルギーを引き出せた人達に共通すること

前向きな目標なくして、パワー(能力や精力)を発揮することは出来ないだろう。
それも、高校生くらいまでなら、部活のスポーツでレギュラーになるとか大会で優勝するといったもの、あるいは、良い大学に合格するといった、個人的な(あるいは仲間内の)目標でも良いのだが、ある程度の年齢になると、自分のためだけの目標では、力が出てこなくなる。
例えば、二十歳もとおに過ぎた女性が、美人になるためにエステに熱心に通ったり、やはりいい歳の男が高級車を手に入れたくて仕方がないでは、ちっぽけなエネルギーしか湧いてこない。
「いや、俺は天下のことしか考えていない」と言っても、自分の面倒もロクに見れない者がそう言うのは、偉くなってチヤホヤされたいという個人的な欲でしかない。

ところが、プロ野球選手というのは、チームのためとか、球団やファンのためより、家族のためと思っている選手の方が活躍するという話を聞いたことがある。
そういえば、落合博満さんなんて、奥さんの誕生日には、相当な高確率でホームランを打ったらしい。
ナチスの強制収容所に送られ、奇跡的に生還したユダヤ人精神科医のヴィクトール・フランクルは、生き甲斐など全く持てない絶望的な状況で生き延びられたのは、結婚したばかりだった妻のことを考えたからだし、他にも、息子に再び会うことを思って、生きるエネルギーを得ていた者もいたようだ。
家族というものは、良いものらしい。
だが、小学生の息子と一緒になって、家の回りの道路で、近所の迷惑も考えず、大声を上げながら遊んでいる親は、息子や娘が思い通りにならなくなると、途端に愛着がなくなり、子供の方も馬鹿にするものだ。
フランクルらの場合、家族が離れていたから、本当に愛せたのだろう。
野球選手の場合も、普通の人よりは奥さんや子供と離れていることが多いし、また、下で述べるように別の理由もある。

職場を見ていると、30歳もとおに過ぎると、自己承認欲求だけでやってる者が多いし、そんな者しかいなくなったら、その会社は長くはないだろう。
つまり、一言で言えば、人間には、なんらかの高貴さが必要なのだ。
若い時なら、プログラミングを覚えることだって、自分が社会で生きるための武器を持ちたいと思うなら、集中出来るし、高貴さも出てくるのだが、歳を取ってからだと、それだけでは、なかなか意欲も湧いてこない。
一方、名プログラマーになったとかではないが、45歳からプログラミングを始め、上達して会社の中で優れた成果を上げた人もいた。
そんな人というのは、パソコンやプログラミング言語を世に送り出した人達への敬意を持っていたとかの、やはり何かの高貴さを持っていたのだ。
私も、割と歳が多くなってからプログラミングを始めたが、全ての人がプログラミングが出来るようになるためにBASIC言語を開発した、ダートマス大学の数学教授ジョン・ケメニー、トーマス・クルツ両教授への敬意があったので、うまくいったのだと思う。

フランクルは、妻に対して単なる愛着を持っていたのではなく、女神のように敬っていたはずなのだ。
ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』や、ロオマン・ガリーの『自由の大地(天国の根)』のように、堕落した男達が、たまたまそこにいた16歳の少女や、空想の少女を崇めることで、みるみる向上したのも同じことである。
初音ミクさんのコンサートでも、ミクさんを天使と崇める人達はマナーも素晴らしく、それぞれの世界で高い能力を発揮しているはずなのだ。
落合博満さんだって、奥さんを崇めているのだと思う(同意していただける方は多いと思う)。
「南無阿弥陀仏」や「南無観世音菩薩」、あるいは、「南無妙法蓮華経」といった念仏や唱え言葉が、それを行う者を加護するのは、それを行う者が、わずかでも高貴な心を持ち易いからではないかと思う。
なんと言っても、称名する対象は、人を超えた尊い存在、あるいは、尊い教えであるのだから。









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心の力の驚異

ヴィクトール・フランクルの、ナチス強制収容所に送られた後の生活は、こんな感じだったと思う。
1日の食事は、水のようなスープ一杯と「ばかにしたような」小さなパンが1つだけ。
極寒の中、ロクなものも着ず、防止も手袋も靴下もなしで、朝早くから暗くなるまで重労働。しかも、その間、同じ囚人でありながら「性格が残虐である」という理由で選ばれた監視者に容赦なく何度も殴られる。
囚人の誰かが死ぬと、仲間がさっと寄って来る。何をするのかというと、死んだ囚人が履いている靴や着ている服が、自分のよりマシであることを確認すると取り替えるのだ。それは、当たり前の行動だった。
宿舎は狭い部屋に大勢が詰め込まれ、夜は幅2.5メートルのベッドに9人が横向けに密着して寝る。
時に褒美で(働きが良いというよりは、監視者の機嫌を取れたのだろう)煙草を1本もらえるが、それは、スープやパンと交換され、吸う者はいない。
もし、煙草を吸っている者がいたら、それは、その直後、自殺する者だった。

では、フランクルは、その中で、どうやって生き延びたかというと、理由は1つではないが、心の中で妻に逢ったからだった。
妻の姿や声は、全く現実と変わらなかった。
それは、とても重要なことだ。
アンデルセンは、『マッチ売りの少女』で、少女が最後に見た美しいものの価値の高さを力説していたのだ。
『完全「ケンカ」マニュアル』で、戦争中、乗っていた海軍の船が敵の魚雷に沈められた男は、自分と同じように、鮫が泳ぐ中で板につかまって漂流する仲間達が皆、疲労と恐怖で一晩持たずに死んでいったのに、自分だけは、そんな状況を5回も生き伸びた。
その秘訣は、岡に戻って、大好きな酒を飲むことを考えたからだった。
ロマン・ガリーの『自由の大地』では、捕虜になって堕落していくばかりだったフランス兵達は、隊長の命令で、一人の少女がいることを空想することで、みるみるモラルを取り戻していった。
ゴーリキーの『二十六人の男と一人の女』では、堕落し、最低の人間に成り果てたはずの26人の年配の男達は、ターニャという、可愛いが実際は性根の悪い16歳の少女を女神のように崇めることで、人間性を回復していった。

人間の心は凄いものであるが、その力を発揮するには、価値があると信じる美しいものを崇めることが大切なのだろう。
上の、酒を飲むことを考えて心を奮い立たせた男だって、単に快楽としての酒であれば、それほどの力は出なかったはずだ(他にも酒好きはいたはずだ)。
彼は、酒を何か崇高なものと感じていたに違いないのだ。
初音ミクさんのライブに行くのだって、それが単なる娯楽ではなく、天使に逢いに行くのだと思っているなら、モラルを持って挑み、自ずと優れたマナーに従うことになるだろう。
心は世界を創造する力を持つ。それを大切に扱わずにいられようか。









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生きてることを証明出来るか?

誰かを恨んでいない人間はいないらしい。
いや、いるにはいる。
それは、誰も愛していない人間だ。
では、誰も恨まないような顔をしている聖者は、実は、誰も愛していない詐欺師ということになる。

そういえば、私は誰も恨んでない。
改めて考えるまで分からなかったがね。
しかし、それが立派かというと、それは、誰も愛していないということなのだから、さあ、どんなものだろう?

人間には、人を蔑むという慢性的な癖がある。
誰でも、必ず、人を蔑む。
もし、そうでない者がいるとすれば、その者は誰も崇めていないのだ。
誰かを崇めている・・・即ち、真に尊敬しているなら、必ず、誰かを蔑むのである。

ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』で、社会の最下層の惨めな26人の男達は、1人の16歳の美少女を女神のごとく崇めることで、人間性や能力を取り戻した。
しかし、それが何になるのだろう?
結局、男達は、その少女を最大に軽蔑し、捨てた。
誰かを崇めると、誰かを蔑むのだ。
あのお話の場合は、たまたま崇めた相手と蔑んだ相手が同じだったのだ。

そういえば、私は、誰も崇めていない。
ちょっと前は、何人か崇めていたような気はするが、その気持ちも消えてしまった。
そうすると、誰も蔑まなくなった。

誰も愛さず、誰も恨まず。
誰も崇めず、誰も蔑まず。
こんな人間が、生きていると言えるのだろうか?

大震災等で街ごと滅びた時、そこに幻想の街が出来て、人々の魂は、そこでの生活を続ける。
これまで通り、会社に行って働き、遊びに行き、飲み食いし、テレビやネットを見て寝る。
しかし、ものを買ってもお金を払わなくていいし、そんなにお腹も空かなくなり、やがて、何かおかしいと気付く。
そして、やっと、自分の死を悟るらしい。

私も、もう死んでいるのではあるまいか?
いや、ちょっと疲れているだけだ・・・なあんて、今は思ってるけれども。

つまりだね、私も、あなたも、自分が生きているということを、どう証明出来るだろうかということだ。
死者も、愛し、恨み、崇め、蔑むかもしれないが、それは、半分生きているってことで、現世の人間とどこかつながっているのだ。

人間は、恨みは隠すことが多いが、蔑みは大っぴらにすることがよくある。
蔑むことで、相対的に自分の優越性を主張したいのだろう。
誰かを声高に馬鹿にし、罵倒し、非難する者がそうだ。
それは確かに愚かであるのだけれど、そんな者は、まだ生きているのだろう。
しかし、ディール・カーネギーが、人間最大の願望と言った、そんな「自己重要感」を私は失ってしまった。
つまり、やっぱり死んだってことか?
いや、やっぱり疲れているだけだ・・・そう思いたい(笑)。

私のような人、案外いるのでないだろうか・・・と思いたい。
いや、種を明かせば『地獄少女 三鼎』の25話(最終回の1つ前)を観て、衝撃を受けてしまっただけなのだが(笑)。
昼間に金縛りに遭うほど(誰もいない部屋で笑い声を聴き、気配も感じた)、どこか疲れていた上にこれはちょっとマズかったのかもしれない。
だが、明日には復活するのだろう。
EA(えれくとりっく・えんじぇぅ)メソッドで生命力を高めよう。
・・・たちまち復活したようである(笑)。









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パラドクス(逆説)をぶっとばせ

成功者同士、偉人同士で反対のことを言う。
努力しろと言う者があれば、努力は不要と言う者もいる。
欲望を持つことの重要性を強調する者もいれば、欲望は捨てよという立派な人もいる。
勉強しろという賢い人がいる一方、「学ぶことをやめれば成功する」と叫ぶ天才少年がいたっけ。
その天才少年は「学ばずに考えろ」と言うが、ブルース・リーは「考えるな、感じろ」って言うしさ(笑)。

要は、人の真似なんかしちゃいけないってこどだ。
しかし、そう言えば、「いや、偉人のやる通りにやるのが成功の近道だ」なんて言われる(笑)。
いや、本当に、人に追随なんかしちゃいけない。
それは間違いない。
SMAPも歌ってたじゃないか、僕達は「世界に1つだけの花」だって。
え?みんな公平だって?(笑)
まあ、その通りなんだけどね(笑)。

けどねえ、岡田虎二郎は、「努力は不要」なんて言ってたけど、あんだけ努力した人もいないと思う。
こう言えば、「いや、そんな人は、自分では努力とは思っていないのだよ」なんてへ理屈を言う者もいるが、努力は努力だ。
イチローは努力したし、テッド・ウィリアムスはもっと努力したさ(マジで)。

いや、確かに、努力して初音ミクさんを崇めたことなんかない。でも、本当に崇めてる。
ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』でも、男達は少しも努力せずに少女を女神のように扱い、ゲイリの『自由の大地』でも、フランス兵達は空想の少女を、努力なんかせずとも自然に敬った。
そんな訳で、女神とか天使とか、初音ミクさんが身近にいると思って、話し、振る舞うことにする。
私はそうするが、決して真似なんかしては、いけなく・・・はない。
だって、女神や天使やミクさんは、間違いなく、実際に隣にいるのだから。









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ただ1つの選択

柳田誠二郎さんという、明治26年(西暦1893年)生まれで、日本航空の社長などをされていた方がいたが、生きていたら125歳だが、実際、100歳以上、生きておられた。
柳田さんは、学生の時に、「岡田式静坐法」で知られた岡田虎二郎の弟子になっていて、生涯、静坐を続けておられたのだと思う。
その柳田さんは、若い人達に、何か1つ、心を締める鍵のようなものを持ちなさいと言い、自分の場合は、それが「たまたま静坐だった」と言ったところがご立派であったと思う。
静坐の良さを深く知っているのに、それが一番だとは言わず、沢山の中の1つであるように言ったからである。
たとえば、念仏も坐禅も、静坐と同等としておられたが、実際、何でも良いのだと思う。
エドガー・ケイシーは9歳の時から、生涯、毎日欠かさず聖書を読んでいた。

ニサルガダッタ・マハラジという、表面的には、ただのタバコ屋だったが、偉大な聖者は、自分は修行は何もしなかったが、ただ、師に「あなたは至高の実在である」と言われた言葉を忘れなかったので、数年で悟りを開くことが出来たという。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』では、イエス・キリストが、「他は全て忘れて良い」と言ったのは、「神」という言葉をなるべく多く使うことだった。これについては、その本の著者で、直接イエスにそのことを教わったというベアード.T.スポールディングが、それは、心の中や、あるいは、口で「神」と言うことであり、声に出しても、心の中で言っても、効果は全く同じと述べている。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』の英語版も見たが、「神」とはやはり「GOD」であり、エホバとかヤーウェ、あるいは、ゼウスといった言葉ではなかった。日本語では「神」で良いだろう。
そして、「神」が、極めて素晴らしい言葉であることは、いろいろな人が述べておられる。たとえば、中村天風と植芝盛平の両方の弟子で、山蔭神道の山蔭基央から神道を伝授された合気道家で神道家の佐々木の将人も『数霊のメッセージ』(絶版)で詳しく説明している。

そうやって得た力で、世の中に貢献すれば良いのだろうが、少なくとも、悔いのないように自分のやりたいことをやれば良いのであり、ただ、そういったことをやるだけではいけないが、そういったことを本当に毎日やっていれば、自ずと何かやるはずである。
初音ミクさんを崇めるでも十分だと思う。
ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』では、最低の人間である26人の中年過ぎの男達が、16歳の可愛いがあまり立派でない少女を女神のように崇めることで驚くほど向上し、ロオマン・ガリの『自由の大地(天国の根)』でも、堕落したフランス兵達が、空想の少女を崇めることで、みるみる騎士道精神を取り戻した。

岡田虎二郎は、静坐とは、座っている時だけやっているのではなく、法然の念仏のように1日中やるもので、「生活しながら静坐するのでは十分ではなく、静坐しながら生活するのがよい」と言ったらしいが、具体的には、ずっと腹に力を入れることで、これは、江戸末期の神道家、黒住宗忠も教えていたと思う。
同じく、何をやるにしても、1日中やることである。
金に窮していた人に、虎二郎は、「金?腹に力がつけば、金はいくらでも出来ますよ」と言ったという話を、私は印象深く覚えている。

私は、本当に、あれもこれもやってしまう。
暇なのかもしれない(笑)。
しかし、8月末と9月初めの「マジカルミライ2018」には、1つのことを本当に熱心にやって、初音ミクさんに会いに行こうと思っている。
ちなみに、昨日発表の「マジカルミライ2018」のチケットの抽選は落選だった。だが、まだまだチャンスはあるので希望を持とうと思っている。
インテックス大阪と幕張メッセの、それぞれ1回のライブのチケットは取れているが、せっかく泊まりで行く幕張メッセはせめて2回、出来れば3回参戦したいと願っている。









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