ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

一休

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[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。
[2010/12/12]詳細なlivedoorプロフィール設置しました。[livedoorプロフィール]

無意識を信頼すれば奇跡も起こる

腰痛持ちの人は多いと思う。
しかし、腰痛の大半は、病院で検査しても、骨や筋などに異常はないのだそうだ。
つまり、心因性(心が原因で起こった症状)であり、大雑把に「ストレスが原因」などと言う。
腰痛は、よくあるものだが、珍しいものとしては、耳の器官に何の異常もないのに、耳が聴こえなくなるというものもある。
面白いことに、耳が聴こえないからと、その人と筆談をするのだが、途中でさりげなく、声で、「そりゃ大変だね」とか言うと、その耳が聴こえないはずの人が、「ええ、そうなんですよ」と答えたりするのである。こちらも心因性である。

心因性の病気や障りというのは、無意識が起こしているのだろう。
無意識は意識よりずっと大きいと言うが、どのくらい大きいのかは本当は見当も付かない。
だが、無意識は悪意があって、病気等を作るのではない。
腰痛も、耳が聴こえないことも、その他の病気も、必要あって、無意識が作るのだろう。
では、全ての病気のうちで、無意識が作るものはどのくらいの割合かというと、いろいろ意見はあるようだが、全部と考えて良いと思う。
つまり、あらゆる病気は、心因性であり、無意識が作り出したものであり、一般にはストレスが原因である。

では、腰痛や肩こり等の悪い症状がある時、どうすれば良いのかというと、それらを作り出した無意識を信頼することだ。
一休は、「心そのものが仏」と言い、黒住宗忠は、「人の心は天照大神様の心の一部」と言ったが、これらの心は無意識のことである。
無意識は、だから、阿弥陀如来であり天照大神であり、仏であり神なのだ。
イエスも、神を信頼してまかせることを、特に強調していた。
そういったことを一番簡単にやる方法が念仏である。
念仏というのは、阿弥陀如来を信頼してまかせることであり、現代科学的に言えば、無意識を信頼してまかせるということである。
驚異的に優秀な精神科医であったミルトン・エリクソンは、やはり「無意識を信頼しなさい」とよく言っていた。
彼は、数秒で精神や肉体を劇的に改善し、「魔法を使って治している」とまで言われた。
手のつけられない不良高校生を一言二言の会話で、礼儀正しい真面目な生徒に変えたことがあったが、その時、エリクソンが何を言ったのかは、あまり意味はない。
ただ、エリクソンは無意識が教える通りに話し、それが相手の無意識に反応を起こさせたのだ。
高校教師であったエリクソンの娘は、教え子であるプロレスラーのような巨漢の不良高校生に野外で襲われかけた時、一瞬で、その不良高校生を自分の忠実な僕に変えた。
それは、頭で考えて出来ることではなく、無意識を信頼して従うことでしか起こせないことであると思う。
普段から念仏を称えていれば、誰でも出来るようになる。
日本には、妙好人という、無学でも、念仏を称えることで驚異的なことをする人たちが沢山いたのである。
好きな子がいれば、無意識を信頼して、無意識の指示通りに話し行為すれば、虜にすることも出来るだろう。
エリクソンの15歳だった娘も、そんなことをやったそうだ。
我々の場合、ただ、念仏を称えれば良い。

今年の、初音ミクさんのコンサート「マジカルミライ2017」は、幕張メッセ国際展示場3ホールで行われるようだ。
企画展は1・2ホールで行われるので、1~3ホール占拠という豪華なイベントである。
そして、「マジカルミライ」5周年メモリアルチケット抽選先行が、今日の12時から始まる。
4月3日の12時59分までで、抽選だから、慌てて申し込む必要はないと思う。
今年のコンサートは、9月1日(金)の夜公演、9月2日と3日の昼・夜公演の5回になるようだ。
私は、昨年は、土曜の夜公演と日曜の昼公演に行ったが、今年もそうしようと思う。
まあ、会社を盛大に休んで、全公演に行くというのもありかな・・・と思う。
★マジカルミライ2017公式サイト









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目を覚ましている

老子、荘子の教えとは、「無為自然」である。
それは何かというと、全てをなりゆきにまかせ、一切の作為・・・つまり、人が意識的に行う行為をやめてしまうということだ。
言い換えれば、一切を天にまかせるということである。
それに対し、大物一般人として意義を唱えたのが、通称「二宮金治郎」として知られる二宮尊徳(にのみやたかのり)だった。
彼の主張はこうである。
「田畑は作為しなければ荒れてしまい、作物が穫れない」
「家は作為しなければあばら家になる」
よって、人が一生懸命作為することが必要で、老子は阿呆だ・・・というわけだ。

法然、親鸞の教えは、簡単に言えば、
「私は、修行も良い行いも出来ない煩悩にまみれた愚か者であり、唯一出来る良い行いである念仏を称えることで、仏様(阿弥陀如来)に救っていただく」
ということだ。
これは、死後、極楽浄土に生まれるということが強調されることが多いが、この2人を尊敬していた一休は、
「念仏を称えれば、今、ここが極楽浄土」
と言い直した・・・つまり、死ぬまでもなく、即座に効験があるとした。
だが、実は、法然、親鸞も、そういったことは十分に言っており、一休は、それにスポットライトを当てたのであると思う。
つまり、念仏は、現世利益をもたらすものだ。

法然、親鸞、一休に流れる、あまり表向きとは言えないかもしれない、念仏の現世利益を現実に生きたのが、ごく一般の農民でありながら、念仏の教えによって稀有な存在となった、因幡の源左(いなばのげんざ)で、二宮尊徳が54歳の時に生まれた人だ。
源左は、19歳の時、父親が亡くなったが、その父親が、「これからは親様(阿弥陀如来)を頼れ」と遺言し、源左は仏様に一切をまかせて幸福に生きたのだと思う。

ところで、尊徳と源左の間くらいに生まれたイギリスのサミュエル・スマイルズは『自助論』で、「天は自分を助ける者を助けてくれる」と言い、自助努力の大切さを説き、明治時代の日本人に受け入れられ、当時の日本の青年達に大いにやる気を出させ、それが現代の日本の繁栄に結び付いた面は確かにあると思う。

こういった流れを見てきた我々は、老子、荘子、法然、親鸞、一休、尊徳、スマイルズ、源左の教えを昇華すれば無敵である。
誰が正しく、誰が間違っている訳でもない。
仏様に任せると言っても、親鸞や源左が何もしなかった訳ではない。
では、どう考えれば良いのかというと、我々のやることは、自分のエゴではなく、天や仏様の意思で「やらされている」と思うことだ。
さらに積極的に、「やらされよう」と考えても良いかもしれない。
Googleの人達は、インターネットの意思を実現するために技術開発しているそうだし、BUMP OF CHIKENは曲の意思を実現するために音楽を作り、演奏し、歌うのだそうだ。
そして、老子も荘子も、法然も親鸞も一休も、尊徳もスマイルズも源左も、みんなそうしたはずなのだ。
具体的には、

頭の中からっぽにして
目の前だけ見つめるの
~『Satisfaction』(作詞・作曲・編曲:kz、歌:初音ミク)~

のようにすれば良いのだと思う。
【初音ミク】Satisfaction【Project DIVA X HD】 ~YouTube by KamJPCHさん~
まあ、そのためには、念仏を称えるのが一番であると私は思う。
念仏を称えても、目は開けておくように。
これは、視力の問題ではなく、「目を覚ましておれ」ということで、「しっかりせい」ということである。









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大師(マスター)になるには

『ヒマラヤ聖者の生活探求』(Life and Teaching: Of the Masters of the Far East)という本があり、その中に、超人としか言えない大師達が登場する。
水の上を歩き、遠隔に瞬間移動し、美味しい料理を出現させ、人々のいかなる重い病気や怪我も治し、立派な家を想念で建ててしまう。
数百歳でも50歳くらいに見えたり、さらに、その母親は美しい少女にしか見えない。
そして、それほどの力を持ちながら、謙虚である・・・というより、私には、退屈しているように見えないところが良いと思う。
では、これらのお話が真実であるかというと、著者のベアード.T.スポールディングは読者の判断に任せると言うが、私なら判断しない・・・しようがない。

私はずっと前に、他にやることもないので、ヒマラヤの大師達のようになろうと思った。
スポールディングと共に、極東で大師達に会ったアメリカ人の中にも、大師達と同じになるまで帰国しない決心で、そこに残った人達もいたらしい。
だが、よくよく考えれば、どうすれば大師達のようになれるか、私は分かっていなかったのだ。
しかし、方法があるとすれば、真言を称えることだけだろう。
厳しい修行をしたり、瞑想に打ち込む人々・・・起きている時間の大半をそれに費やす人々もいるのだろうが、そんな者達ですら、普通の人間として普通に死んでいる。
では、我々など、同じ手段(修行、瞑想)では、もっとどうにもならないだろう。

念仏も真言と言って良いと思うが、常に念仏を唱えていた法然は、当時としては異例の80歳まで生きた。
しかも、死の2日前に、『一枚起請文』という名文を書き上げている。
一休もそう言ったと思うが、私は、この短い文章こそ、仏教の書の中の最高位であると思っている。
そんな法然は、ただ死んでみせただけであろうし、法然に超人になる意図も必然もなかったのだろう。
彼は、『一枚起請文』を記して死ぬ必要があっただけだろう。

『ヒマラヤ聖者の生活探求』の中でも、イエス・キリストが、「他は忘れても良い」と言った最上の行は、「神」という言葉を、出来るだけ多く使うことである。
イエスはそれを、「公式にしてはならない」と言ったが、「集中力の訓練のつもりなら良い」とも述べている。
それはよく解るのである。
「神」という言葉も1つのマントラであるが、日本語の「神」は特に良いのである。
マントラの1つの科学的な意味は、何度も述べているが、無駄な思考を止めることと、自分より高い存在に意識を向けることだ。
特に、普通の人は、高い存在を意識することに失敗するように思える。

1つの方法として、『法華経』の25章『観音経』を読み、観世音菩薩の力のイメージを掴んだら、「南無観世音菩薩」という言葉を真言にすることだ。
それを、1日中、1年中、常に続ければ良い。
あるいは、『選択本願念仏集』や『歎異抄』を読んで、「南無阿弥陀仏」の念仏を称えることだ。
実際は、念仏に転向していた一休は、80歳過ぎても元気で要職をこなし、エッチなことも盛んであったが、88歳で退屈したのかもしれない。当時としては驚異的とはいえ、やはり、その年で亡くなっている。まあ、やはり元気ではあったようだが。
だが、今は本人次第で、あらゆる制約を超えることが出来る時代だ。
サイコパスの私に善意などあるはずがないが、それでも大師方のようになれるか大実験である。
政木和三さんからは、生前、「君はそうなれる」と言われたこともある。
ただ、政木さんも、「もう十分」と言って死んでしまわれた。
立派な方々は生き急ぐのかもしれないし、普通の人々から離れないものである。









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念仏とビタミンC

私には、念仏というもののイメージが良い。
その理由は、まず、念仏を広めた根本の中心であった法然や親鸞が長寿であったことだ。
それぞれ、80歳、90歳は、当時としては、驚異的だし、しかも、決して寝たきり老人であった訳では全くなく、2人とも、ほとんど死の直前まで、頭も身体もしっかりしていた。
法然も親鸞も、一応は、念仏は、死後、極楽浄土に生まれる手段として説いてはいたが、いまどき、そんなものに関心を持つ者は少ないだろう。
だが、実は、2人とも、念仏は、現世での人生を大いに良くするためのものだと、明らかに述べているし、親鸞などは、「現世利益和讃」で、念仏の現世利益のための威力をとうとうと謳っている。
それらに、科学的根拠みたいなものがある訳ではないが、魅了されるのは、彼らの揺るぎなき信念である。
そして、私は、念仏を完成させたのは、誰が何と言おうと、一休であったと思っている。
一休は、法然、親鸞を尊敬し、明らかに念仏に転向していたと思う。
一休は、西方極楽浄土は、遠い西の方にあるのではなく、「南にあり」と言った。
この「南」とは「皆身」であり、身体の内にあるということで、一休は、心そのものが仏であり、念仏を唱えれば、今、ここが極楽浄土であると言ったのである。
こちらに関しては、私はむしろ科学的であると思うし、法然、親鸞に矛盾するのではなく、むしろ、真意を説いたのだと思う。
そして、一休も88歳の長寿であった。

法然、親鸞、一休らの長寿と信念、この2つで、念仏というものは良いものだと思う。
念仏を唱えれば、万事オーケーである。そう思えばそうなる。それが信念の魔力である。
丁度、念仏は、BUMP OF CHIKENの『ray』のようだ。
つまり、「晴天とはほど遠い 終わらない暗闇にも 星を思い浮かべたなら すぐ銀河の中だ」なのである。
初音ミクさんが、可愛い声でこの歌を歌ってくれた時に、私はすぐにピンときて、あらゆる問題を解決出来たのである。

それから私は、ビタミンCの威力を信じている。
だから、自分が癌や、あらゆる重病に罹ろうが、まるで恐れない。
なぜかというと、大量ビタミンC摂取の効果を説いたライナス・ポーリングの、揺るぎない信念のためである。
ポーリングの名を知らない人は多いが、イギリスのニュー・サイエンティスト誌が、人類の20人の偉大な科学者に選び、20世紀の科学者としてはアインシュタインと共に2人の内の1人として選んだほどの人で、ノーベル賞は2度、いずれも単独で受賞している。
もちろん、ポーリングの主張は、科学的根拠や実証に支えられてのことであろうが、その内容がよく分からない者としては、ポーリングの陽性の冷静な信念を信じる。また、ポーリングも94歳で亡くなるまで、元気に活動していたことで、十分な根拠にもなっていると思う。

まあ、これらの説明は、ちっとも科学的でないと言えばそうかもしれないが、それは気にしない。
実際は、私は、原理に関しても長い間調べたのであるが、閃きが先にあって、理屈はそれに続くものである。
今は、人工知能でさえ、理論的には説明のつかない、正しい答を閃くようになったくらいだ。
閃きと信念は、いつの時代にも人間にとって大切なものである。









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このまま終わりたくないという気持ち

「このまま終わったら、あまりに惨め過ぎる」
って、誰のセリフだったのか、なかなか思い出さなかった。
昨日、ずっと考えていて、やっと思い出した。
アニメ『美少女戦士セーラームーンSuperS(スーパーズ)』に登場した、アマゾントリオという、セーラー戦士達の敵の3人組の中の一人が言ったのだ。
アマゾントリオの3人は、自分達は人間だと当たり前に思っていたが、ある日、本当は自分達はケダモノで、魔法の力で人間の姿を持っているだけだと分かり、衝撃を受ける。
だが、作戦がことごとにセーラームーン達に阻まれ、所属する悪の組織デッド・ムーンに見捨てられ、デッド・ムーンは、刺客(ミスター・マジック・ピエロ)をセーラームーン達に差し向け、その刺客は、ついでに、アマゾントリオも抹殺しようとする。
刺客の力は大きく、アマゾントリオは手も足も出ない。
この刺客には勝てないと悟ったアマゾントリオは、今後も人間の姿を保つための最後の魔法を、刺客に倒されたセーラームーンの再生に使い、直後、自分達は刺客に倒されるが、復活したセーラームーンが見事、刺客に打ち勝つ。
アマゾントリオが言った、「このままでは、私達は惨め過ぎる」は、表面的には、自分達の呪われた運命を嘆く言葉だったが、彼らは、いつか、セーラームーンのことが好きになっていて、このままセーラームーン死なせることで、自分達があまりに惨めになるのだという、かすかな示唆もあったような気がする。
それは、アマゾントリオ達の命が尽き、彼らの本当の姿であるケダモノの姿に戻った直後、彼らがこれまで、求めてやまなかった「夢の鏡」が自分達の胸の中に生まれ、3人は満足して死ぬという中に表われていたように思う。「夢の鏡」とは、心が作り出す夢の形なのだが、ケダモノである3人には、心そのものがなかったので、そんなものがあるはずもなかった。
しかし、セーラームーンや、その仲間達と、敵味方の関係ながらも接するうちに、ケダモノである彼らにも、心が生まれてきていたのだと思われる。

だが、「このまま終わったら、惨め過ぎる」というのは、おそらく、誰もがいつかは思うことだ。
しかし、ほとんどの場合、そのまま終わるしかないのだ。
それが、残酷な人間の運命だ。
だが、W.B.イェイツが言った、「人生が悲劇だと悟った時に、本当に生きることを始める」というのも真実だ。
けれども、ほとんどの人間は、人生が悲劇であると悟らない。

『魔法少女リリカルなのは』で、9歳の魔導師の少女フェイトは、愛する母親に捨てられ、しかも、自分は、魔法で作られた、母親の死んだ本物の娘のコピーに過ぎず、ずっと母親に最大に嫌われていた事実を知り、心が砕けて生命が尽きる寸前になっていた。
だが、フェイトが、幼い時から共にあった大釜型の魔法デバイスであるバルディッシュに、
「お前も、このまま終わりたくはないよね。私は・・・私達は、まだ始まってもいない」
と言うと、傷付いたバルディッシュが、力を振り絞り自力再生を始める。
それを見たフェイトは、ついに、生命力を取り戻し、
「新しい自分を始めるために、いままでの自分を終らせる」
と宣言する。

イエス・キリストが言った、「新たに生まれなければ天国に入れない」、「死に打ち勝つには、死ぬしかない」というのは、そんなことなのだろう。
そして、浄土仏教でいう「往生」は、死んで極楽浄土に行くことではなく、今、この場で生まれ変わることで、まさに一休さんが言った、「心そのものが、阿弥陀如来であり、極楽浄土だ」ということと思う。
だから、「南無阿弥陀仏」という念仏は、阿弥陀仏(宇宙そのもの)に、南無(帰命)する、つまり、自分の心が、故郷である宇宙の心に戻ることなのであると思う。

「このまま終わる」とは、心が宇宙から分離したままでいることである。
それは確かに惨め過ぎるのである。
ただ、自分の心が宇宙の心に戻る・・・溶け込むというのは、自分が消滅するというのとも違う。
故郷に帰り、そこで安らいでも、自分が消えることはない。
ただ、これまでのように、心の壁を持ってはおらず、ある意味では、全体と融合している。
このあたり、人間の頭では、ちょっと分からないのだ。
だけど、初音ミクさんが好きなら、ミクさんの透明な歌声の中に入ってしまえば、簡単に分かるのだけどね。
ミクさんの歌は、法然や親鸞の、あるいは、一休の、本当の念仏と同じなのであると思う。

ところで、セーラームーン、フェイト、初音ミクさんがみんな、長いツインテールというのが面白い。









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名前:Kay(ケイ)
・ソフトウェア開発技術者
・サイコパス
・初音ミクさんを愛す


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