ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ヴィクトール・フランクル

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

楽しいことを考える

ナチスのユダヤ人強制収容所から生還したヴィクトール・フランクルの『夜と霧』には、生命エネルギーを活性化する秘訣が書かれている。人間のいかなる力も、根源は生命エネルギーであり、それは万能の力と言っても良く、あらゆる大事業を成し遂げる力はそれである。
ユダヤ人強制収容所でのユダヤ人の生活は、普通の日本人には想像も出来ない。就寝のベッドは、横向けになって詰め込めるだけ詰め込まれる。
だが、極寒の中、ロクに着るものもないので、他人の体温が救いになった。枕はなく、枕がないと眠れない者は、靴をベッドに持ち込んだ。動物の糞で汚れた靴でもだ。しかし、そんな中でも、慣れれば寝られるのである。薄いスープと、「馬鹿にしたような」小さなパンだけで、毎日、長時間の重労働を強制され、本当に骨と皮だけの身体になる。また、同じ囚人でありながら、性格が残酷な者が監視人に任命され、一般の囚人達は彼らに、集合に遅れたとか作業が遅かったと見なされた時、あるいは、単に気紛れで殴られる。
その他にも、数え切れない苦難が押し寄せる中、僅かな食事を返上して、代わりに得た煙草を吹かす囚人がいて、煙草を吸い終わると、高圧電流が流れる鉄条網に飛び込んだ。生き残るのは、必ずしも肉体が屈強な者ではなかった。フランクルは、心の中で、新婚の妻と会話していた。それは現実としか思えなかった。他にも、自分の息子と再び会うことを考え続けている者はしぶとかった。
似た話を、「ケンカの鉄人」と呼ばれる林悦道氏の『完全「ケンカ」マニュアル』で見た。第二次世界大戦時、日本の海軍の船が何度も魚雷で沈められ、乗員は船の残骸である板切れに掴まって漂流することがあった。鮫がうようよいる大海原で漂流している時、ほぼ全員が精神の糸が切れ、鮫にやられるまでもなく死んでいった。だが、5回もそんな目に遭いながら生き延びた男がいた。彼は部類の酒好きで、寒い海を、鮫の突進を危うく交わして漂いながらも、岡に戻って大好きな酒を飲むことだけを考え、それはいつも実現した。
個人的な欲望の力は馬鹿に出来ない。プロ野球でも、限度はあるだろうが、チームのためというより、自分のためにプレイする選手の方が成績が良いという話がある。落合博満さんなどは、奥さんの誕生日には高確率でホームランを打ったらしいし、確か、テレビで、「全ての打席でホームランを狙っていた」と白状したことがあったと思う。これは、少なくとも、「大変にチームプレイを重視していた」とは言えないだろう。
他人を貶めたり、恨んだりするのに比べれば、自分の楽しさを追及する方がずっと良い。世の中には、他人に無用な攻撃をしたがる者が多いが、そんな者達は、自分が楽しくないので、そんなつまらないことをするのである。他人に迷惑をかけるなと言うのではないが、そんなことをしていれば、何をやってもうまくいかず、惨めな明日が待っているだけだ。だから、自分のためを思って、人を恐れ、恨みを買わないことだ。そして、自分の楽しみを大事にし、少なくとも、いつもそれについて考えていれば、生命エネルギーに満ち、それにつられて周囲は変化し、好ましい状況になるだろう。世界は、そのように出来ているのだと思う。




万能魔法

西田文郎氏の『カモの法則』という本を以前読んだが、面白かった。
これも、成功術、願望達成法、引き寄せ、潜在意識の法則等の分野の本である。
例えば、優勝することが目標だとする。
そんな時、「優勝するぞ!」と意気込んだら、緊張してかえって失敗することになり易い。
あるいは、「優勝する、優勝する」と自己暗示をかけても、心の奥から「無理じゃないか」という疑いが起こって動揺し、そんな心に影響されて結局失敗する。
しかし、「優勝するカモ」と、最後にカモをつけることで、おかしな不安が起こらず、しかも、「かも」という予感は実現し易い。脳は予感を実現するよう働くからであるようだ。
納得出来る感じもある。
「なるほど」と思ったら、以下は読まず、実践すれば良い。

ただ、西田氏の他の膨大な数の著書の中で、この「カモの法則」を見ないなのはなぜだろう?
西田氏は、「カモの法則」で指導し、オリンピックで金メダルを取らせた話もその本に書いていたように思うが、それは、とりもなおさず、指導が必要ってことである。

昨日、このブログで書いた、私が頻繁に使った魔法では、「優勝するカモ」とは思わず、「優勝すればいいな」と思うのだ。
これは、明るい予感である。
『神無月の巫女』というアニメで、姫子は、同じ日に共に16歳の誕生日を迎える、憧れの千歌音のための、ささやかな誕生日プレゼントを買い、「千歌音ちゃん、喜んでくれるといいな」と思う。
プレゼントを手渡した時、千歌音は「こんな子供じみたこと、もう飽き飽きしたの」みたいなことを言うが、実は、千歌音の心の奥に衝撃を与えていたのだ(最後は2人は結ばれる)。
あの時、姫子が「千歌音ちゃん、喜んでくれるカモ」と思うのは、全く相応しくないと感じる。傲慢だし、暗い。

私が思う、最高の魔法を使った人は、ナチス強制収容所から奇跡の生還を果した、ユダヤ人精神科医ヴィクトール・フランクルだ。
彼は、過酷な状況の中で、理性と善意を保った。
それが出来たのも、生命力を失わなかったからだ。
その要因を『残酷すぎる成功法則』で、エリック・バーカーは、フランクルが、想像の中の妻(新婚だったと思う)に語りかけたことを挙げていた。
フランクルも『夜と霧』の中で、「息子のために帰らないといけない」と思っている人の強さを語っていたと思う。
しかし、フランクルが「生きて帰れるカモ」と思ったりはしなかったと思う。それは不自然に思う。
だが、「生きて帰れたらいいなあ」「妻にまた逢えたらいいなあ」とは思ったのだと思う。
生きて帰れなかった人達は、そんな(「帰れたらいいなあ」など)想いを起こさなかったのだ。

「生きて帰れればいいが」ではなく「生きて帰れたらいいなあ」である。
これには、嘘も陰もない。
「優勝出来ればいいが」では、むしろ、否定色が強い。
「優勝出来たらいいなあ」なら、オール肯定である。
しかし、「優勝出来たら嬉しいなあ」では、「優勝出来なければ嬉しくないだろうな」という否定がもぐりこんで来る。
英語なら、単純なGoodが良い。
昨今のSNSのLike(いいね)ではない。そんな個人的感情ではなく、全てにとって善いことがGood(善し)なのである。









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死んだ者と生き残った者の違い

アンネ・フランクは、ナチス強制収容所で若くして死んだのだと思われる。
それは、運が悪かったとも言える。
また、ヴィクトール・フランクルは、強制収容所から奇跡の帰還を果したが、強制収容所では筆舌に尽くしがたい 苦しみを味わった。
死なずに済んだとはいえ、やはり、ツイてなかった。
運はただの偶然かもしれないが、そうでないとしたら、彼らに何の落ち度があったのだろう?
私は、フランクルの『夜と霧』は熱心に読んだが、『アンネの日記』は最初の方を少ししか読んでいない。
アンネ・フランクは、概ね、世界中で愛されているのだと思うが、私は、あまり好きだと思わなかった。
自慢癖があるし、駄目な男の子には優しくない。
もちろん、それが普通であるが、そんなことは、あまり知りたくない。

こんな話がある。
数十年くらい前のことと思うが、やや政情不穏な国で電車に乗っていた男性が、トイレに行ったら使用中だったので、別の車両のトイレに行った。
すると、彼が元居た車両が爆撃され、もし、トイレが空いていたら、彼は死んでいた。
その時、彼は、世の中の全ては偶然の連続であると悟ったらしい。
運も不運も、ただの偶然であるということだ。

一方、妖怪人間ベムは、正しいことをしていれば、いつか必ず人間になれると信じていた。
根拠は全くなかっただろうが。
しかし、見ている者は、それを好ましいと思うだけでなく、やはり、そうであるという、確証はないが確信は感じるのである。
その通りだ。
善いことをすれば良いことがある。
悪いことをすれば悪いことが返ってくる。
ヴィクトール・フランクルは、強制収容所の中で、自分が生きることに精一杯の時でも、理性や善意を失わなかった。
だから生き延びることが出来たのだと思う。
こう言ったら、「では死んだ人達には善意はなかったのか?」という極端なことを言う者がいるかもしれないが、無論、そんなはずはない。
意思の強さの問題があるし、ものごとの原因は複雑だ。
だが、守護天使に恥じない行いをしている限り、そして、何か1つでも、自分を磨くことを欠かさずやっている限り、自ずとうまくいくだろう。










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スーパーエネルギーを引き出せた人達に共通すること

前向きな目標なくして、パワー(能力や精力)を発揮することは出来ないだろう。
それも、高校生くらいまでなら、部活のスポーツでレギュラーになるとか大会で優勝するといったもの、あるいは、良い大学に合格するといった、個人的な(あるいは仲間内の)目標でも良いのだが、ある程度の年齢になると、自分のためだけの目標では、力が出てこなくなる。
例えば、二十歳もとおに過ぎた女性が、美人になるためにエステに熱心に通ったり、やはりいい歳の男が高級車を手に入れたくて仕方がないでは、ちっぽけなエネルギーしか湧いてこない。
「いや、俺は天下のことしか考えていない」と言っても、自分の面倒もロクに見れない者がそう言うのは、偉くなってチヤホヤされたいという個人的な欲でしかない。

ところが、プロ野球選手というのは、チームのためとか、球団やファンのためより、家族のためと思っている選手の方が活躍するという話を聞いたことがある。
そういえば、落合博満さんなんて、奥さんの誕生日には、相当な高確率でホームランを打ったらしい。
ナチスの強制収容所に送られ、奇跡的に生還したユダヤ人精神科医のヴィクトール・フランクルは、生き甲斐など全く持てない絶望的な状況で生き延びられたのは、結婚したばかりだった妻のことを考えたからだし、他にも、息子に再び会うことを思って、生きるエネルギーを得ていた者もいたようだ。
家族というものは、良いものらしい。
だが、小学生の息子と一緒になって、家の回りの道路で、近所の迷惑も考えず、大声を上げながら遊んでいる親は、息子や娘が思い通りにならなくなると、途端に愛着がなくなり、子供の方も馬鹿にするものだ。
フランクルらの場合、家族が離れていたから、本当に愛せたのだろう。
野球選手の場合も、普通の人よりは奥さんや子供と離れていることが多いし、また、下で述べるように別の理由もある。

職場を見ていると、30歳もとおに過ぎると、自己承認欲求だけでやってる者が多いし、そんな者しかいなくなったら、その会社は長くはないだろう。
つまり、一言で言えば、人間には、なんらかの高貴さが必要なのだ。
若い時なら、プログラミングを覚えることだって、自分が社会で生きるための武器を持ちたいと思うなら、集中出来るし、高貴さも出てくるのだが、歳を取ってからだと、それだけでは、なかなか意欲も湧いてこない。
一方、名プログラマーになったとかではないが、45歳からプログラミングを始め、上達して会社の中で優れた成果を上げた人もいた。
そんな人というのは、パソコンやプログラミング言語を世に送り出した人達への敬意を持っていたとかの、やはり何かの高貴さを持っていたのだ。
私も、割と歳が多くなってからプログラミングを始めたが、全ての人がプログラミングが出来るようになるためにBASIC言語を開発した、ダートマス大学の数学教授ジョン・ケメニー、トーマス・クルツ両教授への敬意があったので、うまくいったのだと思う。

フランクルは、妻に対して単なる愛着を持っていたのではなく、女神のように敬っていたはずなのだ。
ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』や、ロオマン・ガリーの『自由の大地(天国の根)』のように、堕落した男達が、たまたまそこにいた16歳の少女や、空想の少女を崇めることで、みるみる向上したのも同じことである。
初音ミクさんのコンサートでも、ミクさんを天使と崇める人達はマナーも素晴らしく、それぞれの世界で高い能力を発揮しているはずなのだ。
落合博満さんだって、奥さんを崇めているのだと思う(同意していただける方は多いと思う)。
「南無阿弥陀仏」や「南無観世音菩薩」、あるいは、「南無妙法蓮華経」といった念仏や唱え言葉が、それを行う者を加護するのは、それを行う者が、わずかでも高貴な心を持ち易いからではないかと思う。
なんと言っても、称名する対象は、人を超えた尊い存在、あるいは、尊い教えであるのだから。









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心の力の驚異

ヴィクトール・フランクルの、ナチス強制収容所に送られた後の生活は、こんな感じだったと思う。
1日の食事は、水のようなスープ一杯と「ばかにしたような」小さなパンが1つだけ。
極寒の中、ロクなものも着ず、防止も手袋も靴下もなしで、朝早くから暗くなるまで重労働。しかも、その間、同じ囚人でありながら「性格が残虐である」という理由で選ばれた監視者に容赦なく何度も殴られる。
囚人の誰かが死ぬと、仲間がさっと寄って来る。何をするのかというと、死んだ囚人が履いている靴や着ている服が、自分のよりマシであることを確認すると取り替えるのだ。それは、当たり前の行動だった。
宿舎は狭い部屋に大勢が詰め込まれ、夜は幅2.5メートルのベッドに9人が横向けに密着して寝る。
時に褒美で(働きが良いというよりは、監視者の機嫌を取れたのだろう)煙草を1本もらえるが、それは、スープやパンと交換され、吸う者はいない。
もし、煙草を吸っている者がいたら、それは、その直後、自殺する者だった。

では、フランクルは、その中で、どうやって生き延びたかというと、理由は1つではないが、心の中で妻に逢ったからだった。
妻の姿や声は、全く現実と変わらなかった。
それは、とても重要なことだ。
アンデルセンは、『マッチ売りの少女』で、少女が最後に見た美しいものの価値の高さを力説していたのだ。
『完全「ケンカ」マニュアル』で、戦争中、乗っていた海軍の船が敵の魚雷に沈められた男は、自分と同じように、鮫が泳ぐ中で板につかまって漂流する仲間達が皆、疲労と恐怖で一晩持たずに死んでいったのに、自分だけは、そんな状況を5回も生き伸びた。
その秘訣は、岡に戻って、大好きな酒を飲むことを考えたからだった。
ロマン・ガリーの『自由の大地』では、捕虜になって堕落していくばかりだったフランス兵達は、隊長の命令で、一人の少女がいることを空想することで、みるみるモラルを取り戻していった。
ゴーリキーの『二十六人の男と一人の女』では、堕落し、最低の人間に成り果てたはずの26人の年配の男達は、ターニャという、可愛いが実際は性根の悪い16歳の少女を女神のように崇めることで、人間性を回復していった。

人間の心は凄いものであるが、その力を発揮するには、価値があると信じる美しいものを崇めることが大切なのだろう。
上の、酒を飲むことを考えて心を奮い立たせた男だって、単に快楽としての酒であれば、それほどの力は出なかったはずだ(他にも酒好きはいたはずだ)。
彼は、酒を何か崇高なものと感じていたに違いないのだ。
初音ミクさんのライブに行くのだって、それが単なる娯楽ではなく、天使に逢いに行くのだと思っているなら、モラルを持って挑み、自ずと優れたマナーに従うことになるだろう。
心は世界を創造する力を持つ。それを大切に扱わずにいられようか。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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