私が、マザー・テレサの映像として覚えているのは、ノーベル賞授賞式で、人々に向かって合掌して礼をする姿で、非常に印象に残っている。
これはおそらく、キリスト教徒の一般的な挨拶であると思われ、カトリック系の学校に通う生徒に聞いたが、学校の廊下で、先生はもちろん、生徒同士がすれ違う時も、お互いが合掌して挨拶するらしい。
タイ国は仏教国だが、ワイと呼ばれる合唱して挨拶する習慣があることは、よく知られていると思う。
私が高校生の時、テレビで見て印象に残っているのが、日本の少女がタイでピアノ演奏会を行い、演奏後、観客に向かって合掌して深々とお辞儀をしたことだ。
きっと彼女は、演奏後、忘れずにそうするように指示を受けていたのだろう。
ところが、高校生だった私は、それに違和感と言うよりは、反感を感じたものだった。
他者の常識とか主義というものを押し付けているように思えたのだ。
それに、ワイには上下関係があり、目下から目上に対して先に行うというのは別に良いと思うが、地位の低い方から高い方に先にワイをするようだが、地位の差が大きければ、高い方は返さないことも多いというのも、少し納得出来ない。もちろん、地位が高いほど、相対的に地位が低い者の数が多いので、全部にワイを返すのも大変だという事情もあるだろうが。
とはいえ、タイからワイの習慣が消えたら、国が荒れると思うが、実際、今の若い人はワイをしなくなっているらしく、国もおかしくなってきているのではないかと思う。
美しい習慣というのは捨てない方が良い。

日本では、合掌はしないが、分け隔てなく挨拶し、その際、相手がよほど偉くない限り、やはり両者が平等に軽く会釈する習慣は、今もそれなりに残っている。
よほど親しく、そして若い場合は、会釈せず、手を挙げたり振ったりする場合もあるが、格段に親しいという訳ではないのに、手を挙げるだけで挨拶するのは、「偉ぶっている」と感じる場合が多いと思う。しかし、そんな人もいるし、増えてるようにも思う。
それに、今は、挨拶をしない人が増えてきた。
会社でも、若い人で挨拶をしない人をよく見るが、おそらく、そんな人に明るい未来はないと思う。
とはいえ、見知らぬ女子中学生に道で挨拶されるのは、私は、嫌ではないにしろ、違和感を感じる。照れるというのもあるが、それよりも、「もし私が悪い人だったらどうするの?」という気持ちがあるのだと思う。実際、声をかけるべきでない人間は少なくないのだから。

最近、ちょっとこっている保江邦夫さんの本で、朝起きたら、手を合わせることを薦めておられた。
良いことだと思う。合掌すると、無条件で心が落ち着くと思う。
合掌による、科学的、あるいは、霊的な効果については、いろいろ見聞きしたことがあるが、やはり、多くの人がその実際的効果に気付いているのだと思う。
端的に言うなら、合掌することが多いほど、運が良くなり、災厄から守られる。
少なくとも、1日1回は合掌すると良く、それなら、起きた時に合掌するよう習慣付けるのは良いことだろう。
それに、目覚めた時の合掌が、効果という意味でも最も良いかもしれない。
そして、合掌は多ければ多いほど良い。
これだけ覚えていても、人生は、そして、未来は明るいだろう。
もっとも、合掌の作法を事細かに規定するのは、私は好きではない。要は、丁寧に、謙虚にやれば良いのであると思う。








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