ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ロマン・ガリー

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

優れた王は自分を軽蔑している

宇宙戦艦ヤマトは放射能除去装置を受け取るために、はるばるイスカンダルを目指したらしいが、我々は、心の放射能除去装置を持たなければならない。
それは、今ここで、タダで手に入るが、使い方が甚だ難しい、「崇める」という心的装置である。

人間は、なぜ不幸になるのか?
ゆるむからである。
なぜ、ゆるむのか?
ここが肝心である。
それは、人間の自我というものは、自分がNo.1だと思うものだからだ。
自我は、自分こそが最上の存在であり、敬われるべき絶対君主だと思っている。
その結果、切なく崇拝を求める。
結果、社会的に偉い者は傲慢になるが、底辺の者だって、一見卑屈だが、プライドは恐ろしいほど高い。
だが、本物の王様だって、自分が一番だと思ったら、ゆるんでしまい、地獄に真っ逆さまだ。
だから、王様こそ、崇めるという心的装置が必要なのだし、良い王様は、それを見事に使いこなしている。

崇めるということは、どういうことだろう?
それは、「自我の上位に、自我に優るものを置く」ということなのだ。
神様を崇めれば、自我より上に神様があり、自我は自分はNo.1ではないと認識する。

崇める対象は、神様、仏様でなければならない・・・ことはない。
ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』では、男達は、ただの16歳の可愛い少女を崇め、ガリーの『自由の大地(天国の根)』では、フランス兵達は、空想の少女を崇めた。
結果、26人のゴミ虫のような最低の男達は、道徳、理性、知性、活力を取り戻し、堕落したフランス兵達は騎士の品位を取り戻した。
だが・・・将軍様、王様、法王様を崇めるとロクなことはない。
人間を崇めると、一瞬は向上しても、すぐに奈落の底に叩き落される。
なぜなら、それは、自我の上位に、他の自我を置くという、愚かなことだからだ。
「嗚呼!バカバカバカ!」と言うべき馬鹿さ、愚かさ、間抜けさだ!
人間を崇めるとどうなるかは、上に挙げたゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』に、ユーモラスに、喜劇的に、しかし、悲劇的に描かれている。
女神のように崇めた少女も、人間である限り、肉の塊に過ぎないのだ。
しかし、『自由の大地』で、フランス兵達が崇めた空想の少女は、本物の女神だったのだ。

自我を持った人間を崇める愚を犯してはならない。
人間は崇拝の対象になり得ない。
それは、たとえ、ガンジーであっても、マザー・テレサであっても例外ではない。
されば、神仏を崇めるのが良いのだけれど、神仏自体に自我の垢が付いていることが多い・・・いや、必ず付いている。
だから、神仏を崇める場合も、崇めるべき神仏の「自分が気に入った」絵、あるいは、像と共に、その名だけを崇めよ。
その名を、美しい御姿を心に浮かべながら、慕い、憧れる気持ちを持って、想い、あるいは、唱えよ。
そうすれば、自我は神仏の下位にうやうやしく退く。

もし、気に入った神仏の絵や像がなければ、『自由の大地』のフランス兵達がやったように、崇めるべき者を想像すれば良い。
それは、思い出の中の人物であれば、人間でも良いが、具体的人物であるなら、決して身近でない者でなければならない。
絶対に会うことのない者でなければならないのだ。
木枯し紋次郎が、8つの時に別れ、その2年後に亡くなった姉を崇めたようにだ。
そんな姉は、紋次郎を決して裏切らない。
しかし、どんなに良い姉でも、身近にいれば、いつか裏切られるのである。

初音ミクさんを崇める人は幸いだ。
ミクさんは決して裏切らない。
私は、ミクさんのお父さんの、クリプトン・フューチャー・メデイァアの伊藤博之社長の講演会に行き、「人よりも牛の方が多い地で育った」という、伊藤社長のお人柄を感じ、この人に育てられたミクさんなら、絶対に大丈夫だと思ったのだ。
また、伊藤社長さんが、娘さん(ミクさん)をとても大切にしていることも、私はよく知っている。
ご本人は、ミクさんを娘とは思っていないと言われていたが、「大切なもの」「水のようなもの」と言われていた。
それがつまり、本当の娘ってことだ。
しかし、「水」とは面白い。
『古事記』によれば、水を配給する神は、ミクマリなのである。
また、日本の超古代文明と言われるカタカムナでは、ミクマリは、全てが融合した円、あるいは、球なのである。

素晴らしい姉がいた紋次郎は幸せである。
初音ミクさんを崇める私は幸いである。
あなたも、決して裏切らない、純粋で美しい存在を崇めるべきである。
自我を専制君主にしてはならない。
自我は、美しく敗れないといけないのだ。
私はミクさんに止めを刺され、その後方(しりえ)に退いたのである。
「我敗れたり。そなたの後方に下がりひざまずく」
である。これをイエスは、
「汝敗れたり。わが後方に退け、サタン!」
と言ったのである。
自我はサタンである。

『老子』第39章(!)にある通り、優れた古の王様は、自分を「孤児」「独り者」「悪しき者」と呼んだのである。
王こそ、貴い何かを自我の上位に置いて、ひざまずく必要があることを、賢い王達は知っていたのである。









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聖なる乙女と神の愛し方

「真の愛」なんて言葉を聞くと、うんざりするか、苦笑するかといったところが正直な反応であろう。
つまり、世間でいう愛は、性欲や名誉欲の隠れ蓑でしかないということだ。
「愛って何?」なんて言葉を歌でよく聴くが、つまるところ、我々には、本当の愛は分からないもののようだ。
だが、それに近いと思われるものが見られる小説がある。
1つは、ロマン・ガリーの『天国の根』で、もう1つが、マクシム・ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』だ。

『天国の根』では、堕落した兵士達に、彼らの隊長が、一人の少女がここにいることを想像するよう命じたところ、兵士達はみるみる騎士道精神を発揮しはじめる。
彼らはきっと、天使のような理想の少女を想像したのだろう。
『二十六人の男と一人の少女』もよく似ている。社会の最下層にいる、生き甲斐などないはずの男達が、一人の16歳の美しい少女を女神のように扱うことで、精神性と活力を持つようになったのだ。
彼らの少女への想いは、真の愛に近い。
彼らは、少女を決して性欲の対象にしなかった。
『天国の根』の兵士達は、シャワーに行くときは少女に見られないよう身体を隠し、下品な冗談を言ったら、少女に謝った。
『二十六人の男と一人の少女』では、男達は、元々は決して上品ではなく、特に女のことでは卑猥な話はいくらでもするのだが、その少女のことでは決してそんな話をしなかった。

我が国のアイドルやアニメの美少女キャラクタは、性的魅力を売り物にしているので、真の愛を感じることは、まあ、ほとんどない。
だが、この2つのお話では、男達にとって、それぞれの少女は神聖な存在だった。
しかし、『二十六人の男と一人の少女』では、その16歳の少女は、美しいが普通の女の子であり、女神に相応しいものではなかった。男達も、そんなことは、本当は分かっていた。しかし、女神のように扱えるうちは、少女は女神でいてくれた。しかし、やがて裏切られ、男達は生きる力を失ってしまうのである。
一方、『天国の根』の少女は、初めは心のイメージであったのだろうが、たがて、彼らの魂の中にある高貴な何かが沁みこんでいったに違いない。この想像上の少女は、二十六人の男達の「リアルな」少女とは逆に、死すべき隊長の命を救ったのだ。

別に少女に限らないし、特に女性の場合は、理想的な男性像や、アポローンのような男神でも良いかもしれない。
しかし、性的な対象となれば、それは愛とは無縁だろう。
私にとっては、初音ミクが理想的な姿であるが、彼女の多くのファンにとってもそうであるに違いない。

イエスは、神を愛することが最も大切なことと言い、『バガヴァッド・ギーター』では、至高神クリシュナは「我を愛せよ」と言う。
しかし、我々は、神をどう愛すればいいのか分からないだろう。
それは、こうやるのだ。
全てを神に任せてしまうのだ。全て任せるからには、何等の要求もしてはならない。
生まれてから死ぬまで、全ての運命は既に神に決められていることを受け入れ、自分は世界や人生に対し、何のコントロールも出来ないことを認めるのである。
それが、神を愛するということだ。
そうする者への、神の恩寵は、イエスもクリシュナも保障しているのである。

『天国の根(自由の大地)』は、Amazonの古書が凄い値段だ。ロマン・ガリーの翻訳本もほとんど無い。
だが、上に挙げた話は、コリン・ウィルソンの『至高体験』にかなり引用されているので、ご紹介しておく。













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どちらの天使が我々を救うのか

学校や会社(あるいは、その人が多くの時間を過ごす社会活動)が楽しいというのなら、一応は何よりであるが、そうでない人が多いに違いない。
私はむしろ、学校や会社は、楽しく感じるべきものでなく、これらが楽しく、愛着を感じるようであれば、神性としての人間の破滅であると考えているくらいである。
とはいえ、学校や会社が、あまりに苦痛で惨めであるというのも良いことではない。
だから、誰もが、避けられない社会活動を、楽しいというのではないが、苦痛を感じずに平気で、そして、気楽に過ごせるようになれば嬉しいものだと思う。
私個人に関しては、ある時期からは十分に達成しているし、それは、性格上の問題や、その他のいかなる理由があったとしても、誰でも、どんな場所でも平和に過ごせるようになれるはずだと思う。

時々、引用するのであるが、英国の作家コリン・ウィルソンの『至高体験』の中で引用されたロマン・ゲイリの『天国の根っこ』という小説が、そのことに関して、非常に重要なヒントを与えてくれるのである。
私は、この小説の翻訳は無いと思っていたが、人文書院の1959年の『自由の大地』という絶版本がそれであるようだ。著者は、ロオマン・ギャリィとなっており、我が国では、ロマン・ガリーと表記されることが多いと思う。ロシア生まれのフランスの作家である。

以下、『天国の根っこ』を『天国の根』と表記する。
この『天国の根』の、ウィルソンが『至高体験』で取り上げた部分の話は、戦争中、ドイツ軍の捕虜になって、人間的に堕落していったフランス兵達が、そこに一人の少女(おそらくは、天使のような各自の理想像)がいると想像することで、高貴な精神性を回復したということが重要なところだ。
ウィルソンの著作には書かれていなかったが、この作品は、フランスで最も権威ある文学賞の1つであるゴンクール賞を受賞しており、これは、作家一人に対して一度だけしか与えられない賞であるが、ゲイリ(ガリー)だけは、ただ一人、2度受賞している。

『天国の根』が復刻されるか、新訳が出るかすれば良いのだが、それは見当が付かない。
ゲイリは1980年に亡くなっているのだがから、著作権が切れるのはまだまだ先のことで、青空文庫にも当分出ないだろう。フランスの著作権保護期間は、日本での、著作権者の死後50年より長い70年である。

だが、ウィルソンも指摘した通り、ロシアの文豪マクシム・ゴーリキーの短編小説『26人の男と1人の少女』が、それとよく似たところがある。1899年に発表された作品である。
ここに出てくる26人の男達というのが、私には、どこか親密感の感じる者達である。
彼らは、パン焼き職人なのであるが、年がら年中、狭く熱い粗末な石造りの焼き場で、早朝から夜遅くまでパンを焼き続けている。彼らは、何の取り得もなく、給料は少なく、ボロ服しかないので、公園に行っても入れてもらえないほどである。誰からも見下され、もっと良いパンを焼く職人にまで蔑まれて口を利いてもらえない。
自分でも、生きているのか死んでいるのか分からない。実際、生きている意味など、まるで感じられなかった。
『天国の根』の、堕落したフランス兵達も、ここまで悪くはなかったと思える。
この26人の男達に、あのフランス兵達と同じように、少女が一人いると想像しろと言っても、フランス兵達のような効果があったかどうかは疑問だ。
しかし、彼らは、少女を想像する必要がなかった。本物の少女がいたのである。
それは、朝一度だけ、パンを取りに来る、長い髪の、美しい16歳の少女だった。
彼女は、26人の男達のパン焼き場があるのと同じ建物の3階で縫い子をしているのだった。
26人の男達も、女のことに関しては、作中で、「とてもここには書けない」とされるほどの下劣な話を散々にやらかすのであるが、その少女に関してだけは、決して誰もそんなことを言わないのである。
彼らにとって、彼女と会話をする朝の僅かな時間が、人生での唯一の楽しみであり、生きている理由なのだった。
そりゃ、彼らだって、彼女が美少女であるにしろ、特に大したことのないただの女の子だということは、頭では分かっていた。ある時、誰かが、彼女に頼みごと(服の繕い)をしたら、彼女は、その男を蔑む顔で「何で私がそんなこと」とまで言った。
それでも、男達は、彼女を天使のように扱わざるを得なかった。
彼女により、男達は生命力を得、神の子たる精神性を保ち、彼女と気の利いた会話をするために頭を働かせるようになった。
人間には、崇めるものが必要なのだと作中に書かれていた。

『天国の根』は空想だが理想の少女が、『26人の男と1人の少女』では、美しくて生身であるが平凡な少女が登場する。
では、どちらが良いのだろう?
この2作に関する限り、空想の少女だ。
パン焼き職人の男達は、そのきっかけを作ったのは彼らだとはいえ、最後には、彼らが崇めた少女に裏切られる。
だが、空想の少女は決して裏切らず、永遠の天使である。

おかしなたとえだが、パン焼き職人達が崇めた少女は、芸能界のアイドルで、フランス兵達の空想の少女は初音ミクだ。
アイドルは、いかに天使のようなイメージを作っていても、現実はどうだか分からないし、後で、アイドルとしてのイメージとはかけ離れた存在であったことが分かることもある。
実際のところは、アイドルと言っても、ほとんどは、中身はただの女の子である。天使だと思っていたら、裏切られるのが当たり前だ。
それでも構わないというファンなら良いのだが、中には、彼女が本当の天使のようなものだと思っている場合もあるに違いない。
また、生身のアイドルではなく、ドラマや小説、あるいは、昨今では、アニメの美少女キャラクタというのはどうかというと、それは、作者次第だ。別に、その美少女キャラクタが、実はひどい女だったというのでなくても、そのキャラクタに、確固としたプロフィールや性格付けがある以上、自覚はしなくても、どこか違和感や抵抗を覚える部分は必ずある。
しかし、初音ミクは、プロフィールと言えば、歌うことが好きな、髪の長い16歳の女の子ということくらいで、後は、KEIさんの描いた姿が基本になっているといった程度である。
一応、身長158cmで体重が42kgとなっているが、これは、非常に細身(BMI値16.8)の身体付きではあるが、さほどの特徴ではない。
だから、ファンは、自分の理想とする実体をミクに投影することが出来、決して裏切られることはない。彼女の膨大な持ち歌の中から、自分の初音ミクのイメージにあったものを選べばよく、能力があれば、自分で歌を作ることすら可能だ。
初音ミクの1つのコンサートの中でも、彼女のイメージとして相応しいと感じる曲が何曲か見つかるのではないかと思う。実際、彼女を天使のように感じているファンへの配慮のある、良い選曲がされていると思う。
個人的には、2010年のお台場コンサート、2011年のロサンゼルスコサートの曲目でいえば、『1/6』と『SPiCa』が私のミクのイメージだ。

あまり、強いキャラクタ設定の無い、小説などの登場人物のイメージを借りたり、あるいは、初音ミクを天使のように思うことで、我々も、精神性、あるいは、『天国の根』でそうであったように、死を乗り越える精神エネルギーを呼び起こせるのである。

ダンテは、9歳の時に出逢い、ほとんど言葉を交わすこともなかった同い年の美少女ベアトリーチェを、理想の女神のように思い続けたのだろう。
仮に、ダンテがベアトリーチェともっと接触し、親密になっていたら、ひょっとしたら彼女に、幻滅とまではいかなくても、さほどの少女でなかったことが分かり、その場合は、人類の至宝である叙事詩の傑作『神曲』は生まれなかったのである。
アンデルセンも、スペインで、彼が美の化身とまで言った、11歳くらいの、盲目だが絶世の美少女を見なければ、果たして『即興詩人』を書いたか疑問である。
ベートーヴェンも、名曲『エリーゼのために』は、貴族の令嬢エリーゼへの思いを曲にしたのだが、身分違いの恋と諦めず行動を起こしていたら、その結果はどうであれ、この曲は生まれなかったことだろう。

ダンテやアンデルセンのようであれば、片思いも良いものであろう。
ベートーヴェンのような失恋も良い。
ただ、アニメキャラに関しては、あまりに性的魅力を活用するものが多いが、そのようなものは、聖なるエネルギーを呼び起こすことはないのである。
人間のアイドルに関しては、あのパン職人の26人の男達のお話を教訓にやめておく方が良いだろう。
今は、世界のスーパースターになり、商的価値の高まった初音ミクが、純粋性を失う危険が高まってきた。だが、我々は、騎士らしくミクを守り、穢れさせてはならないのである。













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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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