ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ロバート・シュラー

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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信念を持てる方法

イエス・キリストの有名な言葉に、こんなものがある。
「山に向かって、歩いて海に入れと命じ、必ずそうなると信じて疑わないなら、そうなる」
だが、イエスは、「だから信じろ」と言ったわけではなく、可能性を示しただけだ。
そんなことを容易く信じられる者がいたら、その者が心配である(笑)。

ところが、アメリカの牧師ロバート・シュラーは、これについて、良いことを指摘している。
シュラーは、晩節を汚した感もないではないが、少なくとも、ある時期までは賢者であった。
シュラーは、こう言ったのだ。
「イエスは、どのくらい時間がかかるかは言っていない」
つまり、山に「海に入れ」と言い、そうなると信じたとしても、実現には時間がかかるかもしれないのだ。
確かに、億年単位の時間が経過すれば、地殻変動で、その山が海の中にあるかもしれない(笑)。
ところで、私が最近ハマっている『魔王学院の不適合者』に、こんなお話があった。
これと類似の話は沢山あり、やはり、大切なことを示していると思う。
レイという名の剣の達人の、子供の時の話だ。
母親に料理を教えてもらおうとしたレイが、不意に、包丁で鉄の鍋を切ると言い出した。
この母親の偉いところは(実際、偉大な女性であった)、レイに好きなようにやらせたことだ。
無論、何でも許すわけではないだろうが、直観的に止めてはいけないと思ったのだろう。
しかし、レイが、何度包丁で鍋を叩いても、切れるはずがない。
だが、レイは諦めずに続け、母親も黙って見ていた。
そうしたら、とうとう、レイは包丁で鍋を切ってしまったのだ。
これが、すぐに出来なくても、諦めなければ、いつかは出来るということであり、言い換えれば、「出来るまでやる」姿勢が最も大切なのだ。

さて、『ポケット 心の旅 法華経 入門 』という本に、法華経の25章『観音経』に書かれているように、真言が本当に奇跡を起こしたエピソードが沢山取り上げられている。
『観音経』では、観世音菩薩の名を呼ぶことで、あらゆる奇跡が起こることが書かれている。
呼び方は「南無観世音菩薩」(これも真言と考えて良い)でも良いし、また、この本では、「オン、アロリキャ、ソワカ」などの観世音菩薩の真言も紹介されている。
『観音経』の奇跡の話は、あくまでたとえ話で、本当のことではないと言う人は多いし、漫画家で宗教家の桑田二郎氏のように、「これは現実世界の話ではなく霊の世界の話なのだ」として解説する人もいる。
しかし、この本では、実例を挙げ、真実の話であるとしている。
だが、残念なことに、この本では「毛ほども疑ったら、観音様はそっぽを向く」と書いているのだ。
「毛ほども疑わない」なんて、洗脳でもされていない限り無理だろ(笑)。
だが、上の剣聖レイのように、出来るまでやろうとすることで、信念が高まるのである。
言い換えれば、信念とは無理に持つものではなく、出来るまでやる、効果が出るまでやるという心構えによって得られるのである。

いつも言うが、『観音経』に書かれている通り、真言を唱えれば無敵である。
しかし、そのためには、常に真言を唱える心構えが必要である。
あのレイのように、出来るまでやるかどうかが運命の分かれ目である。








我々の自由になるのは言葉だけ

大きな成功、小さな成功、大きな失敗、小さな失敗・・・その全ての原因は「たまたま」だ。
偉業を成し遂げた人のことを調べれば分かるはずだが、その偉人が正直で冷静であれば、間違いなく言うはずだ。
「私は、たまたまうまくいった」
と。
誰にでも、予想外にうまくいったことが何度かあると思う。
私もだが、そんな時のことを冷静に振り返ると、そこにあるのは、もう見事なまでの「たまたま」だ。
考えもしたし、努力もしかたもしれないが、それはむしろ、「思考が起こった」「努力が起こった」に過ぎない。時に、見栄っ張りの偉人が「私のように努力すれば成功する」と言うが、努力が原因で成功した人はいない。岡田虎二郎は「努力、克己の必要はない」と言ったが、明治34年に資産もなくアメリカに渡って学問に励んだ男にしてそうなのだ。
野球の王貞治さんが大バッターになれたのも、彼が草野球をしていた時、たまたまプロ野球のコーチが通りかかり、そのコーチがたまたま王さんに話しかける気になり、「左で打ってみなさい」と言ったことがきっかけだった。
アインシュタインが大学入試に失敗して予備校にいた時、たまたま素晴らしい科学の先生に巡り会っていなければ、彼が大科学者になることはなかったはずだ。

実際のところ、成功に見えようが、失敗に見えようが、はたまた、平凡な出来事に見えようが、全て「たまたま」だ。
「たまたま」は言い換えれば「偶然」であり、良い流れを起こす偶然を「幸運」と言う。
では、幸運、即ち、良い「たまたま」を起こせば良いのである。

純粋にして明晰(明らかにはっきりしていること)なことであるが、自分の「たまたま」は、自分の深い心(=潜在意識)が作っている。
ならば、潜在意識のプログラムを良いものに変えれば、思いもよらない幸運な出来事が、「たまたま」のように起こる。
ある若い日本のヨガ修行者に、何の見返りもなく道場を建ててくれる人が、たまたま彼の近くを通りかかり、彼に意識が向いたように。

そのために何をすれば良いのかは、普通の人に出来ることは、数多くの自己暗示だけなのだ。
自己暗示は、呪文、祈り、アファーメーション、つぶやき、口癖・・・何と言っても構わないが、同じ言葉を果てないほど繰り返すことが必要だ。
こう言うと、現代人の多くは納得しないに違いないが、無理に納得させる気もない。納得する、しないも、それまでに「たまたま」作られた個人のバックグラウンド次第だからだ。茶目っ気を起こして、わずか千回も唱えれば解るというのに。
アメリカの光明思想家で牧師のロバート・シュラーは、いつも「思い通りになるのが人生だ」と言ったが、彼自身が、そのような口癖を持っていたはずなのだ。彼のその他の教えは、宗教上の宣伝のようなもので、良い言い方をしても「補足」と思う。もちろん、補足にも傾聴すべきことは多くあるだろう。けれども、普通の人が自由に出来るのは「言葉」だけなのだ。もし不幸にも声が出なくても、心の声がある。
だが、彼は、有名になり、莫大な富を築き、偉くなると、普通の人が自由に出来る言葉が彼から離れ良い口癖を失ったので、結局、残念な最後になってしまったのだと思う。
だが、あなたは、この言葉が気に入れば、「思い通りになるのが人生だ」と、ずっとつぶやくと良い。それだけは、どんな人にも出来るのだ。
あるいは、ビートルズの『Nowhere Man』の歌詞にあるように、「世界は意のままだ」でも良いのだ。
出来るだけ感情を込めず、淡々と繰り返せば、やがて、暗い夜空が暁に染まり、光明が見えるだろう。








ものごとは意外に単純だ

アメリカの牧師だったロバート・シュラーは、晩節を汚したかもしれないが、昔の彼の教えが間違っていた訳ではない。
もちろん、全部正しいという訳にもいかないだろうが、良いところは良いと認めなければならない。
そのシェラーの、どの本だったか覚えていないが、こんな話があった。
優れた小学校の女性教師がいた。
彼女のクラスに、授業中、ずっと後ろを向いてる問題児の男子生徒がいた。
彼女は、その問題児に、「私が何を聞いても、『僕が賢すぎるからです』と答えなさい」と言った。
そして、彼女が彼に、「どうして後ろを向いているの?」と尋ねたら、彼は、「僕が賢すぎるからです」と答えた。
すると彼女は、「あなたのようなハンサムが後ろを向いてるのは勿体ないから前を向きなさい」と言うと、彼は前を向いた。
確か彼は、アメリカを代表する脳外科医になった。

また、「魔法で治している」とまで言われた驚異的な精神科医であるミルトン・エリクソンのこんな話がある。
エリクソンのところに、手のつけられない不良男子高校生が連れて来られた。
エリクソンは彼に、「君が礼儀正しくなったら、みんな驚くだろうね」と言うと、彼は、「そりゃ驚くさ」と答えた。
エリクソンは、彼を下がらせた。連れてきた教師は、エリクソンがさじを投げたのだと思った。
しかし、その不良は、すぐに不良でなくなった。

あなたは、良い状況になっても、悪い状況になっても、こう言うべきだ。
「それは私が特別だからだ」
あなたが部長になったって、誰も驚かないかもしれない。
せめて、「私が社長になったら、みんな驚くぞ」と思わなければならない。
いや、社長でも大したことはないかもしれないので、もっと大物でも良い。
あなたが、斎藤飛鳥さんのような美少女と親密になったら、みんな驚くだろうか?
あるいは、山﨑賢人さんのようなイケメンに完璧にエスコートされていたら、みんな驚くだろうか?









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第一印象を千倍化する万能呪文

人間は、初対面の人、あるいは、久々に会う人を、必ず第一印象で値踏みする。
そのポイントは、「顔が引き締まっているか」と「身体が引き締まっているか」の2つだ。

昔、アントニオ猪木さんがパキスタンに行き、現地の英雄的レスラーであるアクラム・ペールワンと初めて会った時、ペールワンは猪木さんを「シェイプされている」と思い、猪木さんの方はペールワンを「練習不足で絞れていない」と思った(『1976年のアントニオ猪木』より)。
つまり、ペールワンは猪木さんを「シェイプされている。強い」と、猪木さんはペールワンを「締まっていない。大したことない」と値踏みしたのだ。
しかし、お互いの顔も見たはずで、それは両者共引き締まっていただろうが、おそらく、猪木さんの方がより凄みがあったのではと思う。

アメリカに、ロバート・シュラーという、有名な牧師の自己啓発指導者がいる。
私は、この人の顔写真を見たら、「ああ、こいつは今は駄目」と思う。
全く腑抜けの顔だ。
しかし、かつてはそうではなかったと思う。
おそらく、ごく若い間に大成功し、後は緩んでしまったのだろう。
彼は、「思い通りになるのが人生だ」という、素晴らしい呪文を提供してくれた。
きっと、彼自身、若い時は、聖書の言葉を毎日唱え、潜在意識をシェイプしていたが、大成功した後はやらなくなってしまったのだろう。

レスラーは食の節制とトレーニングでシェイプする部分が多いが、本当は、人の第一印象は呪文を唱えることでシェイプされる。
毎日、十分な数、万能呪文を唱えていれば、低く値踏みされることはない。
相手が権力者であれば、あなたを優遇するし、美女や美男は、あなたに魅了される。
もちろん、普通の人は、「この人、万能呪文を唱えているな」とは思わず、「オーラがあるな」とか「出来る」とか思うのであり、確かに、そう感じさせる要因には、勉強とか修行とか、あるいは、運動とかあるが、ポイントは「毎日やっているか」だ。
そして、毎日、万能呪文を欠かさず、十分にやっていれば、第一印象は嫌でも百倍化、千倍化する。
「第一印象ほど大事なものはない」
「人間、見かけが99%」
というのは真実であるが、それを決定的にするのが、毎日唱える万能呪文だ。
なぜなら、万能呪文は潜在意識をシェイプし、ユングが強調したように、潜在意識は相手の潜在意識に必ず届いているのだからだ。

万能呪文を唱えていれば、身体もシェイプされ、顔も良くなるが、それよりも、潜在意識のシェイプの方がずっと重要なのである。
「絶対、大丈夫だ」
「全て順調だ」
「世界は意のままだ」
あるいは、「シェイプされていた頃」のシュラーが言ったように、「思い通りになるのが人生だ」でも良い。
感情を込めず淡々と、そして、なるべく多く、心で唱えれば良いのである。









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Yes,We canではなく、No,I can'tに徹した偉大な人達

最近はあまり聞かなくなったような気がするが、アメリカのオバマ大統領は、以前はよく、Yes,We can と言っていたと思う。
しかし、客観的に見て、また、決して経済的にという意味でなく、アメリカは幸福な国でなくなっていっているのではあるまいか?
稲盛和夫さんが訳された本だったと思うが、アメリカの宗教家で、多数の著書を持つ光明思想家のロバート・シュラーが、その本の中で、「Yes,I can教の信者になれ」と述べていたと思う。
しかし、シュラーは、高齢であるのに、あまり良い状況とは言えないように思う。
もちろん、状況がどうであれ、大切なのは自分の心の状態であるから何とも言えないが、彼らははたして幸福なのだろうか?

言ってみれば、親鸞はNo,I can't教の信者と言って良い。師の法然ももちろんそうだと思うが、親鸞の方が徹底していたと思う。
自分には何もできないのだという立場を徹底し、よって自力には一切たよらず、仏に全て任せ切った。
親鸞の生涯は、傍目には決して平安でなく、むしろ、苦しみ多い人生であったが、親鸞は信念を持ち、不動で、何も恐れなかった。
そして、私はやはり、彼は幸福であったと思うのだ。
親鸞は流罪になったこともあるが、たびたび、大きく住居を変えた。
そして、行きつく先で熱心に念仏の教えを説き、常に多くの信者を得るのだが、それでは、元からその地にいた教祖には当然恨まれた。
あるところでは、親鸞が行くまでは多くの人々に崇拝されていた修験者の信者を根こそぎ奪う結果になってしまった。ところが、その修験者である山伏は相当荒っぽい者で、しかも、親鸞を激しく憎んで、親鸞を殺そうとする。
だが、親鸞は、その山伏が自分を狙っていることは分かっていた。
しかし、それも運命である。仏教的に言えば、因縁である。
恨まれる縁があれば恨まれ、殺される縁であれば殺される。
殺されるのを避けようとしても、No,I can't・・・全く何もできないのだ。
親鸞はそんなことを完全に受け入れていたので、全く意に介さなかった。
結果は全て、仏の想いの通りになるだけだ。それを親鸞は受け入れていた。
そして、どうなったかというと、親鸞を殺そうとしたその修験者は、何もできなかった。それどころか、親鸞に会うなり、たちまち心服して弟子になったのだ。

イエスも、「私にはできない。だが、神にできないことは何もない」と言ったのではないだろうか?
確かに、イエスはあらゆる奇跡を起こし、万能であるように見えたが、それは全て神が行っていたことであると、イエスも知っていたのだ。
イエスは、「私の想いではなく、あなた(神)の想いが成りますように」と祈っていた。
イエスは、全てを神に任せ、自力を一切放棄していたので全能であったのだ。
我が国には、そのことを示す完全に示す神道家がいた。江戸末期の黒住宗忠である。
法然や親鸞、そして、イエスはみな、苦悩があった。
しかし、宗忠は、重病で死の寸前まで行ったにしろ、そこから回復してからは、完全な人生だったと思う。
彼はまさに、「神に全てまかせてしまえば、面白いこと、嬉しいことばかりである」と教え、自ら実践していたのだ。
そして、全能でもあった。もしかしたら、宗忠こそ、最も完璧な宗教家であったのかもしれない。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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