ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

レ・ミゼラブル

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

常識を壊せば不可能はなくなる

アメリカでベストセラーになったビジネス書、『誰でも小さなことで大切な願いがかなえられる 』の著者であるチン・ニンチュウという中国生まれのアメリカ人の女性は、若い頃から、なかなか波乱の人生を送ったようだ。
だが、ある時、彼女に人生の目覚めがやってきた。
瞑想をしていた時だったが、半分眠っていて、夢を見ているような状態だったと思う。
自分は羊になり、羊飼いが保護者になってくれた。
そして、自分は、羊飼いにしっかり面倒を見てもらいさえすれば良く、何もする必要がないと分かり、安堵の涙が止まらなかったという。
修道女、資産家の妻、女優、スーパーセールスマン、事業家と大活躍した彼女ですらそうなのだ。

上記の本も、リラックスしろ、頑張り過ぎるな・・・といったことを書いているのだが、もっと簡単に言えば、やはり、この宇宙の究極法則を言っているのだと思う。
つまり、気分が良ければ、さらに気分が良くなることが、気分が悪ければ、さらに気分が悪いことが起こるのである。

ところで、我々の心の奥に刻まれた、魔法力の封印を解くためのお話をしようと思う。
これであなたも魔法使いだ。
その封印とは、世の中の常識である。

皆さんも、ヴィクトル・ユーゴーの長編小説『ラ・ミゼラブル(ああ無情)』の有名な絵をご存じと思う。
ボロボロの服を着た、痩せた小さな女の子が、冬の濡れた道で、裸足で、自分より大きなホウキで掃除をしている絵だ。
彼女が、コゼットのいう名であることもご存じかもしれない。
丁度、ザンドリヨン(シンデレラ)そのままの境遇であった。
だが、ジャン・ヴァルジャンが、コゼットをこき使っていた夫婦に大金を払って、彼女を救い出した。その時、コゼットは8つくらいだったと思う。
それからは、ひっそりと暮らす必要はあったが(ジャン・ヴァルジャンは追われる身であった)、コゼットは、ジャン・ヴァルジャンと平和に暮らしていた。
だが、やがて、コゼットは美少女に成長し、ジャン・ヴァルジャンと一緒によく散歩する道で、マリウスという名の青年がコゼットに魅了されてしまう。
ジャン・ヴァルジャンとコゼットも、マリウスには気付いていて、しかも、コゼットもマリウスを、遠くからだが、会うのを楽しみにするようになった。
それで、ジャン・ヴァルジャンは、散歩コースを変え、ついには、移住を決意する。
だが、ジャン・ヴァルジャンは葛藤していた。
自分は、幼い時から、悲惨な、辛く苦しいだけの人生を送って来た。
そして、もう60歳を越えた今、自分にはコゼットしかおらず、ずっとコゼットと一緒に暮らしていたかった。
マリウスが素晴らしい青年だということは分かるが、コゼットを渡す訳にはいかない。
そして、マリウスは、革命軍に参加して戦うことになった。
戦況から言って、マリウスは確実に死ぬ。
ジャン・ヴァルジャンにとって、全く理想通りの展開であった。
だが、ジャン・ヴァルジャンは、戦場で重症を負ったマリウスを、あらゆる危険を冒して単身救い出し、コゼットに会わせ、結婚を許す。
そして、全財産60万フラン(現在で約7千万円。当時なら数十億円か)を持参金としてコゼットに持たせ、自分は去った。

さて、ジャン・ヴァルジャンは正しかっただろうか?
自分の、コゼットと一緒に居たいという想いを打ち消し、コゼットの幸福を選んだ。
きっと、誰でも、気高く貴い決断だと称賛するだろう。
だが、そんなことはないのだ・・・と言ったら、非難されるだろうなあ(笑)。
いや、ジャン・ヴァルジャンが、そう(コゼットとマリウスを結婚させる)することで気分が良くなるなら、そうすれば良い。
しかし、自分が、コゼットと一緒にいることで、自分の気分が良いなら、そうしようと思えば良いのだ。
ただ、ジャン・ヴァルジャンの間違いは、コゼットをマリウスと会わせまいとして、散歩コースを変えたり、引っ越ししようとしたことだ。
つまり、自分の願いを、自分の浅はかな頭で、どうにかしようとするから、皆、ロクなことにならないのだ。
ジャン・ヴァルジャンが、コゼットと一緒に暮らし続けることが気分が良く、そうすることを決断したら、コゼットはずっと一緒だし、それでコゼットも幸福になれる。
また、そうしていれば、マリウスはマリウスで、別の女の子を見つけて幸せになるだろう。

もっと一般的な話として、隣の奥さんを好きになって、どうにかしたいと思ったらどうだろう?
全然悪くない。
それで良い気分になれるなら、うまくいくだろう。そして、誰も不幸にならず、隣の奥さんだって幸福になれる。
実は、そんなことはザラにある。
ただこれも、多くの愚か者は、自分で無理矢理どうにかしようとするから、目も当てられない悲惨な結果になる。
まあ、普通は、良い気分でいれば、隣の奥さんと親しい友達になるくらいで終わるが、別の結果になっても、それはそれで構わないことだ。

では、隣のセーラー服の女の子の場合はどうか?
これも構わないと言ったら、女子中高生の親御さん方はたまったものではないだろうが、むしろ、下手な規制や道徳を主張するから、かえってまずい結果になる。
セーラー服の女の子を好きになって、気分を良くすれば、その女の子と仲良くなるかもしれないが、大抵の場合、その女の子は、思っていたのと全然違うことが分かるだろう。
アニメの美少女は、13歳の身体に50歳の円熟した人格が乗っているが、実際は、まさかそんなことはない。
それでも、ずっと仲良くいられたら、皆、幸福になる。
しかし、自分の力でどうこうしようとしてはならない。
『カードキャプターさくら』(CLAMP著)だって、桜の同級生(小学4年)の美少女、佐々木利佳は、男性教師の寺田と恋人同士になったし、桜の兄、桃矢は、同級生男子の月城雪兎と事実上結ばれた。
皆、それで気分が良かったので、全く平和なのである。

この世界は、仮想世界、あるいは、夢のようなものだ。
こうあらねばならないということなど、何もない。
それが分かり、気楽になれば、人間に不可能はなくなるのである。








名作文学は子供向けを読むべし

強く願ったことは現実になる。
ただ、願った後、しばらくの間、少しも叶いそうにない状況になことが多い。
それでも諦めなければ叶う。
ただし、そこで力んで唸る必要はない。
けれども、ある程度は耐え忍ばねばならない。

フランスの文豪、ヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』のことはご存じと思う。
私は、この世界的名作を、小学5年生の時以来、読んでいなかったが、最近、やや古い訳ではあったが、大人向けのものを読んでみたところ、肝心のところで文章が難し過ぎてさっぱり解らない。
訳者は、ここぞという場面では、より重厚で格調高い文にしたがり、結果、全然意味が解らない言葉使いになるのだと思う。
また、国も時代も違うのだから、事細かに説明されても、全くイメージが湧かないことも多い。
正直、重要人物ではあっても、ミリエル司教の細かい経歴など、長々読む意味など全くないと言ったら怒られるかもしれないが、私にはそうとしか思えないのである。
それで私は、子供向きのものを読んでみたが、これが実に素晴らしかった。
異論もあろうが、特に長編の文学に関しては、小学5年生以上を対象にした子供向けのもので十分と思った。
そもそも、我々は、大文学の大半を読まないまま死ぬのであり、それなら、最初から子供版を、1冊でも多く読めば良い。
それに、大人版を読んで、全体の2割しか解らないとしても、最初から6割の内容の子供版を9割理解すれば、半分以上(54パーセント)解るのであるから、ずっと良いことになるのではあるまいか。

そして、子供版の『レ・ミゼラブル』(子供版の場合『ああ無情』のタイトルが使われることが多い)を読んでも、引き寄せの法則をくっきり理解出来る。
大文学こそ、我々にとって最も有益な宇宙の法則である「引き寄せの法則」を使う能力を得るために読むべきである。
実際、名作文学は、その目的に極めて適している。
何より、感動的な文学は、圧倒的、あるいは、神秘的なほど気分が良くなるので(読んで陰鬱になるようなものは読まない方が良い)、それだけでも素晴らしいメリットである。
いつも言うように、この宇宙は「良い気分でいれば良いことが、悪い気分でいれば悪いことが引き寄せられる」仕組みだからである。

さて、『レ・ミゼラブル』の、ジャン・ヴァルジャンの、よく知られているお話を振り返る。
ジャン・ヴァルジャンは、刑務所で19年服役し、46歳で出所した日、1日中歩き続け、空腹で疲れていたが、どこの食堂も宿屋も、彼を入れてくれなかった。
彼が、前科者の黄色い身分証明書を持っていたからだ。
夜になり、冬で寒かったが、野宿するより仕方がなく、公園のベンチで横になると、通りかかった女性が声をかけた。
ジャン・ヴァルジャンの心が、この女性を引き寄せたと言うしかない。
普通なら、よそ者の、ボロを着た、人相の悪い男に、女性が声をかけるはずがないからだ。
とにかく、女性は、ジャン・ヴァルジャンに、「あそこに行きなさい」と指を指し、「必ず泊めてもらえる」と断言した。
そこにいたのが、ミリエル司教だった。
ミリエルは、あまりにも当然というふうに、ジャン・ヴァルジャンに食事を与え、寝室の用意をした。
だが、ジャン・ヴァルジャンは、ミリエルの銀の食器を盗んで逃げた。
そして、3人の警官に連れられて、再び現れたジャン・ヴァルジャンを見て、ミリエルは、
「あなたに差し上げた銀の食器はどうしました?この2つの銀の燭台も差し上げたのに、なぜ持って行かなかったのですか?」
と平然と言い、警官は、ジャン・ヴァルジャンに銀の食器を返して引き上げた。
それから、ミリエルはジャン・ヴァルジャンに、2つの銀の燭台も渡し、
「これは、新しく生まれ変わったあなたへの神からのプレゼントです」
と言った。
それから、ジャン・ヴァルジャンの人生は幸運なものに変わったが、それは、ミリエルが、ジャン・ヴァルジャンがずっといい気分でいられれるようにしてくれたからだ。
ミリエルは、ジャン・ヴァルジャンに、引き寄せの魔法の杖を与えたのである。
それを理解すれば、あなたも同じ魔法の杖を得られるのである。








人間には2つの種類しかいない

ナチス強制収容所から生還した精神科医ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』を読んでいて、強い共感を覚え、心を打たれた一文がある。

こうしたことから、わたしたちは学ぶのだ。この世にはふたつの人間の種族がいる。いや、ふたつの種族しかいない。まともな人間とまともでない人間と、ということを。
~『夜と霧』( 池田香代子訳。みすず書房)より ~

まさに、これが人間の真理である。
こういうと、「完全に善の人間も、完全に悪の人間もいない」「善とか悪というのは、見方の問題で、絶対的善、絶対的悪はない」等として、上記の論に異を唱える人も多いかもしれない。
しかし、そうではない。
人間には、「まともな人間」と「まともでない人間」がいる。それだけが真理である。
あるいは、「まっとうな人間」と「まっとうでない人間」。
または、「真人間」と「偽人間」と言っても良い。

まともでない人間だって、自分の子供や自分の孫は可愛がっているように見えることが多いだろう。
しかし、それは、単に、子供や孫を自分の味方や子分にするためだと思う。
なぜなら、自分の子供や孫の前で、非道徳的な行い、利己的な行いを平気でやれるからである。
言い換えれば、自分の子供や孫を可愛がっていても、その子らの前で、非道徳的な行いを躊躇なくやっているなら、その者はまっとうな人間ではない。

まともでない人間も、痴漢やセクハラは控える場合が多いが、それは単に、そんなことをすれば不利益を被る・・・つまり、損であると心得ているからだ。
昔は、セクハラをし放題の会社も多かったが、そんな会社でセクハラをするのは、やはり、まともな人間ではないのである。
言い換えれば、まともな人間は、セクハラが出来る状況でも、決してセクハラをしない。
セクハラ、パワハラを細かく規定する必要があるのは、まともでない人間が沢山いるからである。

では、まともな人間と、まともでない人間の区別はどうやってつけるかというと、本来、一目瞭然であるが、まともでない人間ほど、他人に勝手なレッテルを貼って差別するので、注意が必要になってしまう。
アメリカの精神科医デヴィッド・ホーキンズが『パワーかフォースか』で、人間性を測定する方法を述べており、また、小説であるが、エンリケ・バリオスの『アミ 小さな宇宙人』でも、やはり人間性を測定する装置が出てくる。
そんなふうに、人間性の測定で、まっとうな人間とそうでない人間を区別出来る可能性もないことはないだろうが、これらのように、「人間性700点」といったセンター試験の成績のようなものではなく、「まともな人間」と「まともでない人間」の2種類があることが肝心なのである。
つまり、「まとも度」とかいった割合の問題ではなく、「まともか否か」といった「0か1」「偽か真」の問題である。

では、まともな人間とまともでない人間は、生まれで決まるのか、育ちで決まるのか?
正直、分からないが、多分、育ち・・・というか、環境で決まる。
そして、まともでない人間がまともな人間に変化出来るかというと、難しいが出来ると思う。

心理学者の言うサイコパスが、正確にまともでない人間と一致するかというと、それは分からない。
そもそも、サイコパスの定義は曖昧だ。
しかし、サイコパスとまともでない人間は近い概念ではあるかもしれない。

大切なことは、まともでない人間が、まともな人間になろうという衝動を、どうやったら感じるかである。
『レ・ミゼラブル』で、ジャン・バルジャンが、ミリエル司教によって、それを感じたことが鮮烈に描かれている。
だが、自分がジャン・バルジャンのような状況にならないと、それが分からないものである。
とはいえ、神は、そんな機会を必ず与えるのである。









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人間は見かけが全て

人間は見た目が全てである。
いや、これは私の信念と言うのではなく、何となく、そう感じていたのだが、改めて自問するなら、おそらく正しいと思ったことだ。
「全て」では言い過ぎとすれば、99.9999%と言って良いかもしれない(笑)。
人は見かけが全て・・・否定する人も多いだろうが、否定する人ほど、内心では肯定しているものだと思う。

「私は、あなたにオーナーになって欲しい」
「嫌よ。私にオーナーになって欲しければ、可愛くなって出直しなさい」
これは、アニメの『BEATLESS』で、アンドロイドのサトゥルヌスと、17歳の富豪エリカ・バロウズの会話であるが、エリカを非難する気にはなれないのである。
小説の方では、確か、エリカもサトゥルヌスを「磨けば少しはマシに」と思ったのだったような気がする。
そもそも、アラトがレイシアのオーナーになったのだって、レイシアがきれいだったからだし、アラトがレイシアを信じたのも、可愛い女の子を疑うのは格好悪いと思ったからだと、小説の方にはちゃんと書いてある。

人は見かけは全てということに対する反論は、主に、美醜のほとんどは生まれつきのものであるという事実に基くのだろう。
また、不幸にして、事故や病気で美しさを失う人もいる。
そして、自分が醜いと認めつつ大成功した、テキサスの大富豪ロス・ペローのような人もいる。
いや、ペローは十分美しい。主に、服とか、家とか、所有する自動車とか、それと特に家具が(笑)。
いや、彼は、若い時より、歳を取ってから、偏差値的に随分良くなったと思う。
だが、彼は全力を尽くしながらも大統領になれなかった。
そのあたりは、トランプのようでなければ駄目だったのだ。
ヒラリーの敗因は、単純に美しくなかったからだ。元は美人だったかもしれないが、年齢と心の醜さが勝ってしまった。
そもそも、あまりに心が美しいと大統領・・・と言うか、高位の政治家にはなれないが、少しはマシでなければならないのだ。

聞くところによると、北島三郎さんは若い時、実力はあるのに顔が悪いから、なかなか歌手になれなかったという話があるが、実際、あれ以上悪かったら、本当に歌手になれなかった。
そして、彼だって、歌を磨くと共に、容姿も磨いたはずなのだ。

自分が死んだ後、どんな人だったと言われたいか?
本音で言えば、「きれいな人だった」だろう。

今は、若くない女性でも、容姿を磨いている人が多い。
主に、経済的に余裕のある人だろうがね。
でも、後ろから見れば、若い女性のようだが、前に回るとゲンメツしてしまうことが多い。
運動してないので、顔が引き締まっていないのだし、歳を取れば、心が顔に現れてしまうものだ。
そして、特に男に多く、また特に、中年過ぎの人に多いが、生まれつきも大したことはないにしても、怠惰のせいで、あまりに醜い人が少なくない。
そんな者は、世界を悪いものにしているのである。
人間、少々歳を取っても、毎日鍛えていれば、それなりに美しくいられる。
加えて、心を磨けば、本当に美しくなる。
『レ・ミゼラブル』に登場する、敬愛すべきミリエル司教の10歳下の妹、バティスティーヌ嬢は若い時ですら美しくなかったが、歳を取ると不思議な美しさをまとったのは心が高貴になったからである。

本宮ひろ志さんの『俺の空』という漫画で、主人公の安田一平が、女子少年院で、収監されている女子学生達に、「心の美しい女になれ」みたいなことを言った時、野蛮な番長格の、実に醜い女に、
「生まれつき醜い者はどうするんだ?お前はアタシと結婚出来るか?お前が結婚してくれるなら、アタシだって心の綺麗な女になってやる」
と言われ、敗北を認めてうな垂れるといった場面があった。
しかし、あの女番長だって、トレーニングし、心を磨けば、見違えるほど美しくなれる。怠惰と欲望のため、それをしなかったのが悪かっただけだ。
そりゃ、彼女も、子供の時、可愛い子と比べられて屈辱と悲しみを味わったに違いないが、人間の意志や努力の力を舐めてはいけないのである。

そんな訳で、建前は捨て、美しくなるために、身体を鍛え、心を磨くことを始めよう。
そうすれば、個々の人生も、そして、世界も良いものになる。
昔、ブリジストンのCMでショーン・コネリーが言っていたものだ。
「美しいか、美しくないか、それが行動の基準だ」
行動じゃない。見かけだ。彼だって、禿げてからも美しかったし、禿げてから一層良くなったという声も少なくない。
だが、美しい行動は心と身体を磨き、見かけを美しくするのである。









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ロマンある馬鹿になろう

一応、共に小説の話である
『レ・ミゼラブル』の主人公ジャン・バルジャンは、驚異的な身体能力の持ち主で、その力は、頭髪が真っ白になる年齢になっても衰えなかった。
ジャン・バルジャンにその力を得させたものは、農夫の仕事であったと思う。その仕事の中には、山道を登ったり、木を切ったり、岩を崩したり、重い荷を運んだり等、あらゆる肉体労働があったのだろう。彼は、その仕事を愚直に熱心にやったのだろう。
『木枯し紋次郎』のヒーロー、紋次郎は、貧しい農家の出身の渡世人で、正式に剣を習ったことは当然なく、経験と度胸が頼りの喧嘩剣法であったが、滅法強く、若い頃には、半日かけて30人を相手に打ち勝ったこともあった。
また、何度か、正統な修行を積んだ剣の達人とも決闘し、腕そのものでは敵うはずがなくても、知略と運で勝ち、生き残った。
紋次郎の力の基礎は、若い頃に木こりのような仕事をしていたことによるものらしい。
山に登り、木を切り、運ぶ・・・大変な重労働だ。
さらに、紋次郎は、木を薪に割ることを、かなりやったようだ。
この薪割りが、刀を振る力を与えたのだと思われる。
日本人初の全英オープン(ウィンブルドン)出場者(1920年。ベスト4)の清水善造は、釜での草刈で手首を鍛え、その草刈に近い形でラケットを振っていた。
肉体労働で鍛える力は大したものである。
ジャン・バルジャンも、薪割りはかなりやったのではと思う。
薪割ではないが、あくまで伝説ながら、徳川家光は子供の時、柳生宗矩(やぎゅうむねのり)の指導で、一本の杭の頭を、ひたすら木刀で打ち込むことをやらされたという。
また、漫画であるが、本宮ひろしさんの『武蔵』で、宮本武蔵が、山の中で、やはり一本の杭を、一年ほどの間、ひたすら木刀で打ち続けたという話が印象的である。

天才の書く文芸作品なんてのは、ソクラテスの話によれば、神の叡智によるものなのだ。軽く見てはならない。
薪割り、杭への木刀での打ち込みという似た動作、あるいは、草刈・・・これらの限りない反復というのは、偉大な力を人間に与えるのだろう。
そして、これらの運動が、足腰を鍛えることを見逃してはならない。
全ての武術やスポーツの基礎は足腰だ。
まあ、スポ根ではないので、無理は禁物であるが、上に挙げた運動を取り入れれば、筋トレとは違う、実戦的な身体が作られると思う。
そんな訳で、私は4kgの鉄製の六角棒を購入して素振りをしているが、身体の芯から強くなり、まるで、『傷物語』(『化物語』の続編)で吸血鬼になった時の阿良々木暦(あららぎこよみ)君のような気分だ。分かり難い喩えで悪いが、要は、少しでも、ジャン・バルジャンに、紋次郎に、そして、人間を超えた者に近付こうと思う。
まあ、人間が何かやる動機はロマンである。
時に、人間は馬鹿にならないといけない。
私のように、常に馬鹿なのもどうかと思うが、「常に馬鹿でない」よりは良いと思う。
ただし、会社や上司や権威にとって都合の良い馬鹿には決してなるな。
私は、『傷物語』を読んで、本当に感動したのである。
「世界でいちばん貧しい大統領」や「ハチドリのひとしずく」には別に感動しないがね。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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