ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

レ・ミゼラブル

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

人間は見かけが全て

人間は見た目が全てである。
いや、これは私の信念と言うのではなく、何となく、そう感じていたのだが、改めて自問するなら、おそらく正しいと思ったことだ。
「全て」では言い過ぎとすれば、99.9999%と言って良いかもしれない(笑)。
人は見かけが全て・・・否定する人も多いだろうが、否定する人ほど、内心では肯定しているものだと思う。

「私は、あなたにオーナーになって欲しい」
「嫌よ。私にオーナーになって欲しければ、可愛くなって出直しなさい」
これは、アニメの『BEATLESS』で、アンドロイドのサトゥルヌスと、17歳の富豪エリカ・バロウズの会話であるが、エリカを非難する気にはなれないのである。
小説の方では、確か、エリカもサトゥルヌスを「磨けば少しはマシに」と思ったのだったような気がする。
そもそも、アラトがレイシアのオーナーになったのだって、レイシアがきれいだったからだし、アラトがレイシアを信じたのも、可愛い女の子を疑うのは格好悪いと思ったからだと、小説の方にはちゃんと書いてある。

人は見かけは全てということに対する反論は、主に、美醜のほとんどは生まれつきのものであるという事実に基くのだろう。
また、不幸にして、事故や病気で美しさを失う人もいる。
そして、自分が醜いと認めつつ大成功した、テキサスの大富豪ロス・ペローのような人もいる。
いや、ペローは十分美しい。主に、服とか、家とか、所有する自動車とか、それと特に家具が(笑)。
いや、彼は、若い時より、歳を取ってから、偏差値的に随分良くなったと思う。
だが、彼は全力を尽くしながらも大統領になれなかった。
そのあたりは、トランプのようでなければ駄目だったのだ。
ヒラリーの敗因は、単純に美しくなかったからだ。元は美人だったかもしれないが、年齢と心の醜さが勝ってしまった。
そもそも、あまりに心が美しいと大統領・・・と言うか、高位の政治家にはなれないが、少しはマシでなければならないのだ。

聞くところによると、北島三郎さんは若い時、実力はあるのに顔が悪いから、なかなか歌手になれなかったという話があるが、実際、あれ以上悪かったら、本当に歌手になれなかった。
そして、彼だって、歌を磨くと共に、容姿も磨いたはずなのだ。

自分が死んだ後、どんな人だったと言われたいか?
本音で言えば、「きれいな人だった」だろう。

今は、若くない女性でも、容姿を磨いている人が多い。
主に、経済的に余裕のある人だろうがね。
でも、後ろから見れば、若い女性のようだが、前に回るとゲンメツしてしまうことが多い。
運動してないので、顔が引き締まっていないのだし、歳を取れば、心が顔に現れてしまうものだ。
そして、特に男に多く、また特に、中年過ぎの人に多いが、生まれつきも大したことはないにしても、怠惰のせいで、あまりに醜い人が少なくない。
そんな者は、世界を悪いものにしているのである。
人間、少々歳を取っても、毎日鍛えていれば、それなりに美しくいられる。
加えて、心を磨けば、本当に美しくなる。
『レ・ミゼラブル』に登場する、敬愛すべきミリエル司教の10歳下の妹、バティスティーヌ嬢は若い時ですら美しくなかったが、歳を取ると不思議な美しさをまとったのは心が高貴になったからである。

本宮ひろ志さんの『俺の空』という漫画で、主人公の安田一平が、女子少年院で、収監されている女子学生達に、「心の美しい女になれ」みたいなことを言った時、野蛮な番長格の、実に醜い女に、
「生まれつき醜い者はどうするんだ?お前はアタシと結婚出来るか?お前が結婚してくれるなら、アタシだって心の綺麗な女になってやる」
と言われ、敗北を認めてうな垂れるといった場面があった。
しかし、あの女番長だって、トレーニングし、心を磨けば、見違えるほど美しくなれる。怠惰と欲望のため、それをしなかったのが悪かっただけだ。
そりゃ、彼女も、子供の時、可愛い子と比べられて屈辱と悲しみを味わったに違いないが、人間の意志や努力の力を舐めてはいけないのである。

そんな訳で、建前は捨て、美しくなるために、身体を鍛え、心を磨くことを始めよう。
そうすれば、個々の人生も、そして、世界も良いものになる。
昔、ブリジストンのCMでショーン・コネリーが言っていたものだ。
「美しいか、美しくないか、それが行動の基準だ」
行動じゃない。見かけだ。彼だって、禿げてからも美しかったし、禿げてから一層良くなったという声も少なくない。
だが、美しい行動は心と身体を磨き、見かけを美しくするのである。









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ロマンある馬鹿になろう

一応、共に小説の話である
『レ・ミゼラブル』の主人公ジャン・バルジャンは、驚異的な身体能力の持ち主で、その力は、頭髪が真っ白になる年齢になっても衰えなかった。
ジャン・バルジャンにその力を得させたものは、農夫の仕事であったと思う。その仕事の中には、山道を登ったり、木を切ったり、岩を崩したり、重い荷を運んだり等、あらゆる肉体労働があったのだろう。彼は、その仕事を愚直に熱心にやったのだろう。
『木枯し紋次郎』のヒーロー、紋次郎は、貧しい農家の出身の渡世人で、正式に剣を習ったことは当然なく、経験と度胸が頼りの喧嘩剣法であったが、滅法強く、若い頃には、半日かけて30人を相手に打ち勝ったこともあった。
また、何度か、正統な修行を積んだ剣の達人とも決闘し、腕そのものでは敵うはずがなくても、知略と運で勝ち、生き残った。
紋次郎の力の基礎は、若い頃に木こりのような仕事をしていたことによるものらしい。
山に登り、木を切り、運ぶ・・・大変な重労働だ。
さらに、紋次郎は、木を薪に割ることを、かなりやったようだ。
この薪割りが、刀を振る力を与えたのだと思われる。
日本人初の全英オープン(ウィンブルドン)出場者(1920年。ベスト4)の清水善造は、釜での草刈で手首を鍛え、その草刈に近い形でラケットを振っていた。
肉体労働で鍛える力は大したものである。
ジャン・バルジャンも、薪割りはかなりやったのではと思う。
薪割ではないが、あくまで伝説ながら、徳川家光は子供の時、柳生宗矩(やぎゅうむねのり)の指導で、一本の杭の頭を、ひたすら木刀で打ち込むことをやらされたという。
また、漫画であるが、本宮ひろしさんの『武蔵』で、宮本武蔵が、山の中で、やはり一本の杭を、一年ほどの間、ひたすら木刀で打ち続けたという話が印象的である。

天才の書く文芸作品なんてのは、ソクラテスの話によれば、神の叡智によるものなのだ。軽く見てはならない。
薪割り、杭への木刀での打ち込みという似た動作、あるいは、草刈・・・これらの限りない反復というのは、偉大な力を人間に与えるのだろう。
そして、これらの運動が、足腰を鍛えることを見逃してはならない。
全ての武術やスポーツの基礎は足腰だ。
まあ、スポ根ではないので、無理は禁物であるが、上に挙げた運動を取り入れれば、筋トレとは違う、実戦的な身体が作られると思う。
そんな訳で、私は4kgの鉄製の六角棒を購入して素振りをしているが、身体の芯から強くなり、まるで、『傷物語』(『化物語』の続編)で吸血鬼になった時の阿良々木暦(あららぎこよみ)君のような気分だ。分かり難い喩えで悪いが、要は、少しでも、ジャン・バルジャンに、紋次郎に、そして、人間を超えた者に近付こうと思う。
まあ、人間が何かやる動機はロマンである。
時に、人間は馬鹿にならないといけない。
私のように、常に馬鹿なのもどうかと思うが、「常に馬鹿でない」よりは良いと思う。
ただし、会社や上司や権威にとって都合の良い馬鹿には決してなるな。
私は、『傷物語』を読んで、本当に感動したのである。
「世界でいちばん貧しい大統領」や「ハチドリのひとしずく」には別に感動しないがね。









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若い特権と老人の特権

若い特権と老人の特権がある。
若い特権は、活力と美だ。
老人の特権は、知恵と財力である。
それぞれの特権を十分に持たなけばならない。
若いのに活力がなかったり、あるはずの美を失ったり、年を取っているのに知恵や財力がないというのは悲しいし、惨めである。
ところが、若い特権を十分に持つことが、老人の特権を持つことにつながるのである。

若い特権である活力と美を無駄にしない方法は、ただ1つ、自己制約である。
自己制約とは、放埓(ほうらつ。勝手きままなこと)になろうとするところを、意思の力で自分を制することである。
具体的には、規則正しい生活をし、食や性を慎むことである。
自己制約により、本来持っている活力と美を引き出せるのである。
自己制約のない者が、いくら栄養のあるものを食べたり、美容やファッションに金と時間を使っても全く無駄である。

おかしなことに、老人の特権である知恵と財力を持つ方法も、ただ1つ、自己制約である。
だから、いかに早い時期に、自己制約を持つかで、人生は決まるのである。
年を取っても自己制約の出来ない者は哀れである。
老人になり、活力と美は無いのに、知恵と財力も無ければ、全く生きている意味がない。
だから、できるだけ若い時から、生活を規則正しくし、無駄に食べたり、性に耽ることを自分に戒め、身体を鍛え、本を読むようにした方が良い。
言っておくが、他から強制された慎みでは何の意味もない。
あくまで、自己制約による慎みが必要なのである。
毎朝、駅に行くと、いつもかならず何か食べている若者がいる。それでも若いので、太らず、良いスタイルをしているが、既に顔には醜さが表れ始めており、それは今後、どんどん加速すると共に、やがて肥満して、美のカケラも無くなる。そして、このような、勝手気ままな者は、若く無くなった時にも、知恵も財力も無いのである。

若いうちから自己制約を大いにする者は、まだ若い間に老人の特権をいくらか持ち、老人がさらに熱心に自己制約に励めば、若い特権を失わない。
この世の秘密を明かせば、神は、人間が自分に課した制約の2倍以上の力を、その人間に与えるのである。
自己制約とは2つに分けられる。
1つは、遊びや楽しみに使える時間を修行に使うこと。
もう1つは、食、性、言葉を慎むことである。
水野南北は、食の慎みが他に圧倒的に優ると言った。
ナポレオン・ヒルは、性の慎みを強く勧めた。
ラマナ・マハルシは、全て十分であったが、特に「沈黙の聖者」と呼ばれ、言葉の慎みが完璧だったので、何も語らずとも人々を導くことが出来た。

だが、呼吸の慎みが最大の秘法かもしれない。
しかし、容易く得られるものではない。
毎日、欠かさず腕振り運動をしたり、心の微かな声の呪文を行うことで、3つの慎みを持ちやすくなると同時に、秘法である呼吸の慎みを得られる。
そうなれば、普通の人間の数十倍から数百倍の力を持ち、自由自在になる。

ところで、特殊な人間もいるということを少し述べる。
『レ・ミゼラブル』に登場するバティスティーヌ嬢が、その象徴だ。
「嬢」と言っても、彼女は若くはない。ただ、未婚だから、そう呼ぶのだ。
なぜ未婚かというと、若い時ですら美しくなかったからだ。
だが、彼女は、楽しいこと、面白いことが全然無くても、自己制約を忘れなかった。
すると、年を取ってから不思議な美しさを持つようになり、また、不思議な幸福を味わうようになった。
自己制約は一種の貯金で、貯め続けると、年を取ってから利息を受け取り、死ぬと、神は、その全てを数倍化して与えるのである。
実際、自己制約に励む者は、死を恐れないし、厭いもしない。
そして、我々は、達磨の秘法、腕振り運動と、微かな心の声の呪文により、容易く自己制約を持ち、自己制約による進歩は驚くほど速くなり、呼吸の慎みにより、老化を逆転させ、死を乗り越えるのである。









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歩きスマホは与太者への一直線の道

私は5年ほど前から、腕立伏せやスクワット等を毎日やっていて、特にこの2年は、朝晩2度、1年365日、よほどのことがない限り欠かさない。
しかし、それは、日常、身体を使うことがないから、仕方なくやっているだけかもしれない。
小説の話ではあるが、『レ・ミゼラブル』の主人公ジャン・ヴァルジャンは、超人的な肉体を持っているのだが、彼はそれをトレーニングで得たのではなく、農夫の仕事を通じて、知らず知らずのうちに鍛えられたのだった。
『木枯し紋次郎』も、噂に聞こえた剣の腕は、修行や道場通いで身につけたのではなく、年中旅をし、1日60~70km、毎日、欠かさず歩くことで自然に強靭な肉体になったことから、自然に得たのだと思えるのである。
紋次郎の旅は、ただ平地を歩くだけでなく、山あり谷ありの道もあり、そして、夜闇や風雪の中の危険な旅もありで、厳しい大自然に鍛えられたのだし、また、盗賊などの無法者を警戒して神経が鍛えられ、やむを得なければ戦うことで強くなったのである。
これらは確かに創作ではあるが、ごく自然に感じることだし、武道家の堀部正史さんや、解剖学者の養老孟司さん、その他の方々の本を見ると、昔の日本人は、今では考えられないくらい歩き、また、静坐で自然に腹筋、背筋を鍛え、ジョッギングや腕立伏せなんかやっていなかったという。

私だって、朝晩の筋トレなどより、駅まで2kmの道を毎日、速足で歩いていることの方が良い鍛錬になっているのだと思う。
「トレーニングは週2、3回」と勧めるトレーナーがいるかもしれないが、鍛錬は毎日でなければ意味がない。
週2、3回しかやれないようなことなら、不自然なので、身体を壊す元ではないかと思う。
仕事で鍛えている者は、いかに過酷でも、毎日休まずにやるのであり、それで、どんなトレーニングよりも鍛えられるのである。
そして、肉体を使った仕事というものは、闇雲に身体を酷使するのではなく、力を抜けるように工夫しながらやるから、老人になっても続けられるのである。
それを、トレーニングでは、わざと強い負荷を与えたり、不自然な身体の使い方で、週2~3回しかできないというなら、やはり、身体はどんどん悪くなっていくだろう。
スポーツの世界でも、超一流の中には、道具を使わず、自分の体重を利用したトレーニングを愛好する者がよくいる。
そんな選手は、選手寿命が長いように思える。

私は昼食を摂らないので、会社では昼休みに本を読んだりしていたが、最近は、外をひたすら高速で歩き回っている。
以前は、休日にウォーキングをしていたが、良いウォーキング場所は、沢山の人がウォーキングをしているのが煩わしく感じてやらなくなったが、考えてみれば、ウォーキングのためのウォーキングなんて不自然なものだと思う。
それで、私は、あくまで、遠くの書店に行ったり、買い物をするために歩くのであり、通勤と同じで、自然な目的があるから当たり前にやれるのだ。
ダイエットなんて実に馬鹿げたことで、まっとうな生活をしていれば、肥満なんてするはずがない。
私は歩く他は、姿勢良く立ち、座ることで、自然に腹筋、背筋を鍛えている。
いくらスポーツをしていても、普段の姿勢が悪ければ身体は弱く、悪くなり、いつかは病気にもなる。
電車に乗っていて思うのが、ほとんどの人の姿勢はひどく悪く、ほとんど醜悪なほどだ。
あれで、ジムに通っているだの、ジョッギングをやっているだのと言ったらなんとも滑稽なことである。
上にも述べたが、昔の日本人が、毎日数時間静坐することで強靭な肉体を得ていたように、余計なトレーニングをしなくても、良い姿勢をし、動作を機敏に、歩く時は集中してさっさと歩けば、それで、身体は鍛えられるし、スポーツトレーニングよりすっと身体に良いのである。
それが、今は、スマートフォンを見ながら、ノロノロ、ヨタヨタ歩く者が沢山いて、迷惑になるだけでなく、心身共にヨタヨタした「与太者」への道を一直線に進んでいることは間違いない。
実際、スマートフォンを見ながら歩いている者は、例外なく与太者(愚か者、ウスノロ)の顔と雰囲気になってしまっているのがはっきり分かるのである。

木枯し紋次郎は、ある時、大富豪に、立派な家で客人として丁重に扱われ、何不自由のない結構な、紋次郎からすれば、夢にも思わなかった生活をしたことがあった。
しかし、紋次郎は、そんな中でも、薪割りの仕事を見つけ(家主には、そんなことをしないよう懇願されたが)、朝から晩まで、一心不乱に斧を振るい続けた。
そして、その薪割の腕が実に見事であった。
紋次郎の強さの秘密はこのあたりにあるのだろう。









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人間の自然な姿

ハンス・クリスチャン・アンデルセンは、作家、詩人として成功してからは、ずっと旅をしていた。
それは、日本でいえば、江戸幕府の11代将軍徳川家斉(とくがわいえなり)や、12代将軍徳川家慶(とくがわいえよし)あたりの時代で、日本では考えられない、一般庶民の鉄道や客船での旅で、そして、これはもう日本では夢にも考えられない他の国への旅だった。
しかし、いかに物質文明では日本とは比較にならないほどだったとはいえ、当時のことだ。列車や船、あるいは、ホテルの予約などはできず(ホテルも少なかったろう)、自分が行ったところ、居るところでの、出たところ勝負で、全く予測も見当もつかないことであっても、自分で何事にも対処していかねばならなかった。
アンデルセンは、作家としての成功により、国家から生涯に渡る年金を与えられていて、働く必要はなかったが、大した額の年金ではなく、また、その他の収入はほぼなかったと思われる。作品は書き続けたが、印税があった訳ではなく、作品での収入は、出版社に作品を渡した時に得られる、これも大したことのない原稿料だけだったはずだ。
また、作家としてそれなりに名が売れていたとはいえ、顔など全く知られておらず、名声が旅の便宜をもたらしたということはなかっただろう。
旅には、今では想像もできないような、見込み違い、トラブル、場合によっては盗難、窃盗の被害もあったかもしれず、それなりの年齢だったアンデルセンは、体調の悪い日もあったに違いない。

ところが、アンデルセンの自伝を読むと、旅をするようになってからのあたりを見ても、そんな旅の苦労は全く書かれておらず、旅の途中で見た風景の美しさ、イタリアの神殿で出会った盲目の貧しい少女の女神のような美しさといったことを夢のように語り、また、特筆すべきこと、例えば、グリム兄弟に会い、最初は、「君の名前は知らない」と言われ、相手にされなかったが、後に歓談できたこと等が書かれている。つまり、読者にとってどうでもいい、個人のすったもんだには触れず、有意義なこと、明るいことばかりが綴られているのだ。
アンデルセンは神の加護を信じていたはずだ。
14歳のか弱い、世間知らずの少年の時、単身、オーデンセの田舎から、大都市コペンハーゲンに出てきて、右も左も分からない中、苦難もあったが、なんとかやってこれたのは、間違いなく、神のおかげと思っていたようである。
そして、文学者として認められるようになった、円熟してきた頃には、アンデルセンの、あらゆることに対する受容性は、とても高くなっていたのだろう。

アンデルセンの自伝を読んでいると、人間というものは親切さを持っているのだと信じられる。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』の著者ベアード.T.スポールディングは、アメリカ中を講演旅行をしていた時、どの町のどの家でもずけずけ入っていき、腰を降ろせば、そこで食事ができなかった家は一軒もなかったという。
『レ・ミゼラブル』で、ジャンバルジャンは刑務所を出たが、どこでも野良犬のように扱われ、1日中歩き続けて、寒さと空腹に疲れ、たまたまたどり着いたミリエル司教の家で、自暴自棄になって、自分が刑務所を出てきたばかりであることや、世間への恨みつらみを吐き出したが、ミリエルは平然として、召使いに、ただ、食事を1人分追加し、客人用の寝室の用意をするよう命じ、召使いも、何事もないように指示に従った。

太古の、人間にまだ徳が満ち、知恵があった時代は、ミリエルがしたようなことがごく自然なことだったに違いないと私は思う。
鍵なんてものは存在せず、家の戸口はいつも開かれ、誰でも、どの家でも自由に入れ、やって来る者は誰でも、いつでも、間違いなく歓迎された。
本当は、内に神が住み、あるいは、仏といつも一緒である人間が、本当は、そうでないはずがない。
もし、アダムスキーの宇宙人の話が本当であれば、進歩した他の惑星ではそうなっているのである。あの話がアダムスキーの想像であったとしても、それは、神がアダムスキーに与えたインスピレーションによるものなのだろう。
私もまた、ミリエルのようにあることが絶対に不可能だとは限らない。
つまり、一切の憎しみや嫌悪を捨て、何も心配や不安を持たないことが、必ずしも不可能とは言えないのである。









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