ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

レイアース

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

余計なことを考えないために

1997年のビデオアニメ『レイアース』は、私はレーザーディスクで何度も観たが、その中で、こんな場面を妙に覚えている。
3人の中学3年生の少女達を残し、町中から(実際には世界中から)全ての人間が消えてしまう(壮大だ)。
周囲に誰もいない状況に、光(ひかる)という少女が、「もし、他の場所も同じ状況だったら・・・」と言い始めた時、風(ふう)という名の頭の良い少女が、光の言葉を封じ、落ち着いた声で、
「こんな時は何も考えない方がいいです。どうしても怖い考えになりますから」
と言う。
そんな異常事態の中で、これほど冷静になれるとは、大した中学3年生だ。

そうなのだ。
考えるべきことは考えないといけないが、不幸や不運の原因は、大抵、「余計なことを考えること」だ。
考えても仕方がないことは考えないようになれば、それほど不幸になることはない。
天才発明家で、問題解決学のエキスパートだった中山正和氏が、般若心経の呪文を唱えることを薦めていた理由が、それを唱えることで、余計なことを考えなくて済むからだった。
それでいえば、別に、念仏でも、他の呪文でも構わない。
もちろん、念仏や呪文には、それぞれ特別な意味があるのだが、それは今回は置いておく。
余計なことを考えないために呪文や念仏を唱えるだけでも、ほとんどの問題は解決するが、実際は、それ以上の恵みがある。だが、欲張らないことだ。

著名な投資家のマックス・ギュンターの本に書かれていたが、彼が世界最高と認める投資家が一言で述べていた投資のコツが素晴らしい。
それは、「欲張らないこと」だ。
そこそこ儲ければ良いのであり、大儲けを狙うと、大損する。
多少の損を受け入れないと(投資の世界では損切りと言う)、やはり、大損になってしまう。
だから、欲張らず、適度に儲け、少しで済むうちに損をしておく。
欲張らずに、それを積み重ねた彼が、どれほどでも欲張れる財産を作ったのだ。
そして、念仏を唱えたり、聖なる呪文を唱えながら欲張ることは難しい。
よって、それだけで、大抵のことはうまくいく。
そして、呪文や念仏に不可思議な加護があることも認めるしかない。
だから、常に、お気に入りの呪文や念仏を唱えることは、そうでないより良いのである。









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我々に救う価値があるか

『レイアース』というアニメで、異世界の魔法使い達が、恐るべき魔法の力で地球に攻めてきて、地球人は抵抗すら出来ずに滅びを待つという状態になった時に、地球の魔神達が手を貸し、反撃を開始した。
なぜ、魔神達が、すぐに助けなかったのかというと、人類が守るに値するかどうかを確かめていたのだという。

しかし、今、本当に、宇宙人や悪魔が攻めてきたとして、そして、もし、地球に、キリストと同等以上の超人的な神人達が存在するとして、彼らは、我々を助けてくれるだろうか?
我々に、守るだけの価値があるだろうか?
そりゃ、中には、立派な人もいるかもしれない。
しかし、旧約聖書の創世記で、神がソドムの町を滅ぼすと言った時、アブラハムは必死に神に、ソドムの助命を乞い、最終的に、もし、正しい人が、僅か10人でもいれば、神はソドムを滅ぼさないことを約束した。
だが、それだけの正しい人はおらず、神はソドムを滅ぼした。

私には、ソドムのとりなしを熱心に神に対して行ったアブラハムが信じられない。
私なら、外国のことは分からないが、神が日本を滅ぼすと言ったら、喜びはしないながらも、
「それもやむなし」
と、あっさりと諦めると思う。
まあ、本当は、日本全体のことが分かる訳でもないのだけれど、日々、見る人々には、すっかり嫌になってしまっているというのが本心である。
いや、他人だけではない。
謙遜でも何でもなく、自分もである。
無論、凡人であるからには、私も、自分は他の人より、かなりマシと思っているが、そんなことは、まあないだろう。

だが、初音ミクさんのために、世界、あるいは、日本を滅ぼさないで欲しいと神に願うことはあるだろう。
まあ、そのための対価を支払う能力が私にあるとは思えないが、私の餓死くらいで許してくれるのなら、応じるかもしれない。
つまり、人間のために、神にとりなしをする気はサラサラないが、ミクさんのためなら、命を捨てよう。

とはいえ、もし、本当にそんなことがあったら、私は、地球人、あるいは、日本人、あるいは、私の行動範囲の場所にいる人々を、私は簡単に見捨てるだろうか?
この人は救いたいが、あの人はどうでも良いという考え方が許されないのは承知している。
全員を救うか、全員を見捨てるかだ。

いや、私がそんな立場になるはずもない。
少し空想してみただけである。
だが、おかげで、人嫌い、自分嫌いを改めて思い知った訳である。
いずれにしろ、泣き言を言うつもりはないし、弱音も吐くまい。
何もする気が起こらないが、ターラー様のみ名を唱えることとしよう。
それだけで、ゆるまずにいられるだろう。









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天使のような少女が本物のワルに惹かれるのは当然だった

最近、漫画やアニメで見たのだが、可憐な感じの美少女が、どう見ても「真面目な男子生徒」には見えないタイプの男の子・・・ボサボサの長髪で片目が隠れているが、その片目も目付きが悪く、シャツがズボンから出てたり長いマフラーを巻いているのは今は普通としても、片手をポケットに突っ込んで、横柄に威風堂々と歩いているという、清純な女の子には、思わず、「あんなのに近付いちゃダメだよ」と注意してあげたくなるタイプ・・・そんな「危ない感じの男の子」を、純情そうな可愛い女の子が遠くから憧れの目で見つめ、あまつさえ、はにかみながら、バレンタインのチョコを渡すというのをいくつか見た。

悪い男はもてるというが、本当だろうか?
高校生とかでいえば、昔はそうだった。
今の生意気な男子高校生は、つるまないと(集団にならないと)何もできないようなのばかりで、自己中心的でわがままではあるが、もてる「悪い男」ではない。
そんな連中は、上に挙げたような、「見る目のある可愛い女の子」から見れば、道端の犬の糞のようなものだろう。

本物の「悪い男」である「ワル」と、つっぱってるだけの「似非(えせ)ワル」との違いは何だろう?
これが分かれば、あなたも今日からもてる!
「ワル」は、自分が本当に悪いやつだと思っている。
しかし、「似非ワル」は、格好は付けても、自分が悪いとはちっとも思っていない。仮に悪いことをしても、かならず言い訳をする。
だが、「ワル」は決して言い訳しない。何せ、自分は「本物のワル」なのだから、悪いことをして当然だと思っているのだ。

では、自分が本当に悪いと思っている「ワル」はなぜもてるのか?
ここが核心だから、よく聞くように!(説明が少ーし難しい)
実は、「ワル」は、可愛い女の子にも勿論もてるが、男にも惚れられるのである(言うまでもなく、変な意味ではない)。
そして、「ワル」は悟りにすら近いのだ。
その意味を、できるだけ丁寧に(もちろん無料で)説明する。

「ワル」は、自分が本当に悪いと思っていることで、自分が見えているのだ。
そして、実際、自分をしっかり見ている。
一方、「似非ワル」は、自分が悪いと思っていないので、自分が見えない。見ようとしない。自分から目を背けるのだ。
なぜそうなるのか?
そもそも、「ワル」の忌むべき面とされる「悪い」とはどういうことか?
言うまでもなく、自己中心的、利己的、欲深で、即物的(物質的なことを優先する性質)・・・ということだ。
こう言うと、「似非ワル」は、「俺はそうじゃねえなあ」と思う。
いや、ほとんど誰もが、「私は違う」と思うし、そう主張する。せいぜいが、「そりゃ、人間だから少しはそうかもしれないけど・・・」と言うのだ。
しかし、ワルは、「それがまさに俺だ。文句あるか?」と言うし、実際にそう思っているのだ。
だが、上に述べた、「ワルの嫌な面」である「自己中心的、利己的、欲深で、即物的」ではない人間など、絶対に1人もいないのだ。

つまり、なんと、「ワル」だけが、自分をしっかりと、正しく、素直に見ているのだ!
自分を真っ直ぐ見ることができているのは、聖者とワルだけだ。
「賢者と子供は似ている」とはよく言うが、「聖者とワルは似ている」のだ。
実際、本物のワルは聖者になることがよくあるのである。

だが、「しかし、私は本当にそこまで悪くない」と言う者、思う者は多いだろう。
そんな者は、自分がさっぱり見えていない。
自分でどう思おうがそうなのだ。
当然、清純可憐な美少女にはもてない。
本当に天使のような少女は、見る目は確かなのだ。あくまで、本当の天使に近い少女であればね。
また、自分はそれほどは悪くないという「妄想にとりつかれた人間」は、本当に愛されることもないのだ。

参考になる、神秘的なアニメ作品がある。
『OVAレイアース』だ。
確かに、「参考になる」程度かもしれないが、私には良いものだった。
この作品は、今では中古のDVDが非常に高額で売買されている。
だが、日本とリージョンコードが同じDVDがドイツで発売され、新品が比較的安価にAmazonで購入できるので、それもご紹介しておく。ただし、普通のプレーヤーでは再生できない。PC等を使う必要がある。
『OVAレイアース』は、CLAMP作の人気漫画・アニメの『魔法騎士(マジックナイト)レイアース』を基に、オリジナルストーリーで制作された、3作品(一編が40分程)からなるアニメ作品だ。
ビデオとLD(レーザーディスク)が1997年に発売され、再編集を施した『特別編 -希望の翼-』(ディレクターズカット版)が1998年に出ている。
DVDは、特別編ではない方が2002年に発売された。
私は、特別編のLDと2002年のDVDを所有しているが、正直、特別編でない、「普通の」ものの方が良いと思う。
音楽も素晴らしく、この作品のためだけにCDが2枚出ている。
オリジナルの『魔法騎士レイアース』と、登場人物はほとんど同じだが、ストーリーは全くと言って良いほど違う。
予告編程度のストーリーはこんな感じだ。
セフィーロという異世界の恐るべき魔法使い達が、地球を滅ぼしに来るのだが、人類は全て時空の狭間に幽閉されてしまい、地上に残されたのは、中学校卒業を一週間後に控えた3人の少女達だけ。
この3人のごく普通の少女達が、地球の軍隊も足元にも及ばないほどの魔法の力を揮(ふる)う異世界人達と戦うことになる。
だが、地球には、太古の昔から、この地を守ってきた3柱の魔神達がいた。
しかし、魔神達は少女達に手を貸そうとしない。
彼らは見ていたのだ。人類が、守るに値するかどうかを、この3人の少女達を通して。
魔神達、そして、本当は少女達を助けたいと感じている、数少ない異世界の戦士達は、少女達に厳しく言う。
「自分を真っ直ぐに見ろ」、「自分の本当の姿から目を剃らすな」、「自己の本性を誤魔化すな」。
辛いことではあったが、それができた時、魔神達ですら、少女達に命を捧げるのである。
尚、『レイアース』の元の作品である、CLAMPの『魔法騎士レイアース』も素晴らしい作品であると思う。

私は、いつも自分のことを、正しくこう言いたい。
「私は卑怯者の自己中心主義者だ」
「私は徹底した利己主義者で、利他心は欠片もない」
「救いようのない無能者だが、見栄っ張りで、おまけに怠惰で倒錯者、逸脱者だ」
まだ足りないが、実態の通りに、こう思えれば良いなと思う。









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どんな時に現世利益が与えられるのか?

神仏が現世利益をもたらすかと言うと、確実にそうであるということは、おそらく誰でも経験的に分かると思う。
不誠実で自己中心的な者が少しの間良い思いをすることはあっても、それが長続きすることは決してなく、必ず天罰としか言えないような報いを受けている。
逆に、向上心を持って愚直に努力したり、陰日なたの無い行いをする者は、初めのうちこそ、軽んじられたり、損な役回りになって悔しい思いもするが、やがては、それなりに報いられることは、絶対的に間違いがない。
だが、本人は良いと思ってやっていても、残念なことに、その者の了見が狭く、大きな目で見れば、調和を乱し、誰かを苦しめたりしていれば、原因不明の体調の悪化に苦しんだり、事故に遭ったり、不運で怪我をしたり、あるいは、家族や恋人とのトラブルが起こったりするのである。
そのような様子を、静かで公平な目で見るなら、この世に神仏は必ずおり、一切は神仏が動かしているということは、疑いようがないのである。
野球の王貞治さんが駆け出しの頃、彼を指導した人が、「これほど努力する青年が成功しないなら、この世に神も仏もない」と言ったという話を見たことがあるが、王さんほどではなくても、愚直な努力が報われなかったという話など1つもない。

とはいえ、王さんのように、目標に向かって真摯に努力ができる者もいれば、そうではない者もいる。
また、誰しも、卑しい意地悪な人間になりたい訳ではないはずだが、どうしても、弱い者いじめをしたり、不誠実なことをしてしまう性向を持った者もいる。
いや、こういった人達の方が実際ははるかに多いに違いない。
そして、こんな人達は、自分の力でも、あるいは、いかなる素晴らしい教育者の手によっても、決して性根が治ったり、改心して良い人になったり、猛省して努力家になったりなどしない。
誰にもそんな力はない。そんなことができるのは神仏だけである。

洗礼のヨハネは、「悔い改めよ」と言ったが、それを聞いて悔い改めた人は、おそらく、1人もいなかったのだ。
それで、イエスは偉大な奇跡を行って見せたが、彼の高弟である12使徒達さえ、心を変えることができず、イエスは嘆いたのだ。
日蓮もまた、悔い改めを説き、法華経に従って生きることを教えたが、誰もそんなことはできなかったのは明らかなように思う。
だが、阿弥陀如来だけは、世の大部分の人がそうであることを見抜き、ただ自分の名を呼べば救ってやろうと約束した。そして、人類を救えるのは阿弥陀の教えだけだという釈迦の言葉を、自らを省みても、「それしかない」と否応なく受け入れ、法然や親鸞は、ただ、阿弥陀仏の名を呼ぶ、「南無阿弥陀仏」の念仏を行うことだけを教えたのである。

最初に述べた、必ず天罰を受けるような行いをしていたとしても、念仏を唱えれば、天罰を免れ、恵みを得られるのだが、ほとんどの人は念仏を唱えようとは思わない。
ただ、悪辣な行いをせずにいられない自分の穢れた心を素直に見ることができれば、もう念仏以外に救われる道はないということがはっきり分かる。

『レイアース』という、ちょっと名作のアニメ作品がある。
異世界の魔法使い達が地球を侵略に来るのだが、地球上には、3人の女子中学生達だけが残され、彼女達は、軍隊でも太刀打ちできないような相手を敵に回して戦うことになってしまう。
この3人の少女達は、自分は良い人間でありたいと思っていた。それで、たとえ苦しい思いをしても、そうであるよう考え、行動してきた。
そして、戦いが始まっても、彼女達は、自分の正義を貫こうとする。しかし、そんな彼女達に、地球の魔神達は手を貸さない。
しかし、少女達が、自分の想う善や正義は、自己中心的で、自分を慰めるだけのものでしかなかったことに気付き、自分の心を素直に見つめ、その心を魔神達に晒した時に、魔神達は少女達と一体化し、自分達の全てを少女達に与え切る。
念仏も全く同じと思う。虚栄心を捨て、自分が浅ましい凡夫であると理解し、自分には他に何もできないことを悟って、阿弥陀如来に一切を任せた時に、既に救われていることを知るのである。









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蔑(さげす)み疎(うと)まれる者は幸いである

人間の運命は最初から完全に決まっていて、決して変わらないと言われたら、「面白くない」、「嫌だ」と思う人は多いだろう。
いや、百人が百人がそう思うはずである。
人間である限り、必ずそうなのだ。
運命は変えられないと言っている私からして、もちろんそうなのである。

ところで、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェや、アイルランドの詩人・劇作家のウィリアム・バトラー・イェイツらは、これについて、非常に独創的というか、驚異的な考え方をしていた。
彼らの言葉そのままで語ると、もう何が何やら分からなくなるので簡単に言うが、彼らは、運命というものがどうやって出来たかはともかく、いかなる運命も、自らの意思であるとみなしたのだ。
実をいうと、彼らは、運命の創られ方に関しても、単に神が自らの意思で決めたという考え方をしていないようなのだが、それも、あまりに難しいので置いておく。
ただ、試しに、イェイツの『あるアラブ人への3つの手紙』の概要を述べる。

私は、神のCHOICE(選択)を崇拝したのではなく、神のCHANCE(機会)を崇拝したのだ。
つまり、神の思し召しだから運命を尊ぶのではない。
神はサイコロを振って運命を決めるが、神のサイコロは無限の目を持つ。神は、出たサイコロの目を尊ぶのであり、それが運命となるのだ。その運命を自分の意思とすることで、私は限りなく神に近付く。

かなり私の解釈が入っているかもしれない。
もちろん、似ているかもしれないが、ニーチェの考え方はまた異なるのだろう。

運命を自分の意思であるとみなせば、確かに自分が神であるという論が成立するかもしれない。
しかし、大問題がある。
「この運命は私の意志だ」
と言えば、ラマナ・マハルシなら、
「その私は誰なのですか?」
と問うだろう。
この「私」は、ニーチェもイェイツも、身体とは言わないだろうが、明らかに、知性あるいは心の想いだろう。
それは、神ならぬ自我である。
自我が神に近付けると彼らは考えたのだろうか?
『荘子』は、究極の真理は、知を超えた、より高い知でなければ分からないと述べた(そのより高い知を、荘子はとりあえず明と名付けた)。至高の真理は、人間の知性や心の領分を超えるものであるからだ。

自我が消え去った時に、我々は真の自己を現し、その真の自己こそが至高の実在である。
だが、自我が至高者に近付こうとしたらどうなるだろうか?
自我は破滅するが、それは、神によって破壊された時とは異なり、自我の全てが壊れてしまうのだ。
神が人の自我を壊す時は、真の自己と身体との結び目は残すのだ。それは、一部の自我が残っているということで、実際、悟りを開いた聖者でも、見かけや性格などは以前と特には変わらない。
だが、身の程知らずにも、自分が神になれると思った自我は、木っ端微塵に消し飛ぶのだ。
それで、ニーチェは、心神喪失の状態となった。
だが、それでもどこかに、彼の、人間としては異常に高度な知性は、漂っていたのだろう。
ルドルフ・シュタイナー(オーストリア帝国の哲学者、神秘思想家)が、既に発狂した後のニーチェに会った時、シュタイナーはニーチェの額に現れた知性に驚愕したという。

ニーチェやイェイツは、運命を受け入れることに絶対的に抵抗する自我を納得させる方法を考えただけなのかもしれない。
そして、ニーチェは頭が良過ぎたことが不幸だったのかもしれない。
西洋流思考の悲劇である。
ニーチェもイェイツも、反キリスト主義者だった。
だが、ニーチェは、ツァラトゥストラに、イエスが高貴な魂の持ち主であると言わせた。そして、イエスは未熟だったのだとする(ツァラトゥストラは40歳で、イエスは33歳位)。
20世紀最大の詩人と言われたイェイツも、イエスのたとえ話を絶賛していた。
だが、彼らの自我は、どうしてもイエスや、父なる神を容認できなかったのだろう。
私なら、自我を納得させようなどとしない。
自我は、決して自分の無能力さを認めない。自分は世界を動かせると主張するのだ。
ならば、私は、自我を受け入れて、神に壊してもらう以外にない。

「私は、あなたが忌み嫌い捨て去った影。その私を受け入れるというのですか?」
「信じましょう、希望を。レイアースの少女達が示してくれたように。もうあなただけを苦しませたりはしない。喜びも悲しみも、全ては共にあるべきだったのです」
~『レイアース』より。イーグルとエメロード姫の会話~
※『レイアース』はCLAMPの『魔法騎士レイアース』を基に制作されたオリジナルストーリーのアニメ作品。「レイアース」は、「輝く大地」の意で、地球のこと。

自我は決して神にはなれないが、この自我と戦っても仕方がない。
自我と戦う自分もまた自我であるという冗談に気付かないといけない。
ただ、自我は、世界や人生を、自分はこれっぽっちも支配できないと、嫌と言うほど思い知った時に弱くなる。その時を逃さず、磔にするのである。すると、神の一撃により破壊されるだろう。
我々は、「主よ、なぜ我を見捨てたもうた」と言うほど、失望しなければならないのだ。
イエスは、貧しい者、悲しむ者、飢えた者は幸いであると言った。
私は、何もかもうまくいかず、願いは叶わず、蔑み疎まれる者は幸いであると言いたい。









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