ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

ルー・テーズ

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[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。
[2010/12/12]詳細なlivedoorプロフィール設置しました。[livedoorプロフィール]

人間はやる気が欲しい

多くの人が、やる気が出なくて困っているし、もっとやる気が欲しいと思っている。だが、現代人の泣き所はやる気がないことだ。
まるで駄目男君(私の職場にいる30歳過ぎの人生の落伍者)が、永久に生ゴミ以上の存在になれないのも、やる気がないからだ。
だが、現代人は、さらに悪い状況にある。
やる気はないが、食欲と性欲、そして、自意識やプライドは異常に増大していることだ。
これはもう、死んだ方が良いくらいだ。
ところで、このことから分かるように、性欲や自己重要感は、少なくとも、それだけでは、精神エネルギーにならない。
それどころか、なけなしの情熱や意欲さえ消費し尽してしまう。
アイドルというものは、昔は、人々の心に涼しい風を送り込むことで、自然とやる気を起こさせたものだが、今のアイドルは、性欲は刺激しても、さっぱり精神エネルギーを起こさせないし、それどころか、奪い取ることも多い。
まあ、精神エネルギーを集めるのは自分の責任で、誰にも、それを手伝う義理はないのも確かだが、奪う権利もないはずなのだがね。

芸術というのは、今の世の中では、投機の対象のように扱われるが、元々は、人間の心の深奥・・・無意識の中に眠る「エス」とも呼ばれる精神エネルギーにアクセスするための魔法のようなものだった。
もちろん、今でも、その使い方さえ誤らなければ、十分に、その効力を発揮する。それに関しては、岡本太郎の『今日の芸術』や『美の呪力』が大いに参考になるだろう。

素振りの回数の多いバッターや、四股を踏む回数の多い力士が結局は勝つように、自分のやるべきことに関する素振りの多い者が必ず勝つ。
どんな時代になろうが、人間は所詮、自主的な努力でしか成功しないし、そのためには、やる気・・・精神エネルギーが必要である。
そして、精神エネルギーを生み出すのは、不思議に感じるかもしれないが、敬うこと、それ以上に、崇めることなのだ。
世に悪名を轟かせる大泥棒なんて、やる気十分なのだが、そんな者達は、泥棒なりに、先達の偉大な泥棒や、崇高なる泥棒の掟を崇めているものである。

私が初音ミクさんを崇めれば、毎日5時間以上勉強し、厳しい肉体の鍛錬を1日も欠かさないように、自らの意志で崇めることが出来る存在は、実に有り難いものだ
ルー・テーズが史上最高のプロレスラーになれたきっかけも、ジョージ・トラゴスという偉大なレスラーと、レスリングそのものを崇めたことだった。
崇めるには、敬うという素地が必要だ。
思いあがった者には、敬うことが出来ないが、それなら、崇めることは全く縁がないだろう。
敬うとは、自分より優れたものに敬意を払い、礼を尽くすことであるが、今の多くの人には、そんなことは全く期待出来ない。
それほど、人々は思い上がっている。
マスコミは、人々に、優れたスポーツ選手を英雄視させるが、それはあくまで大企業と結託した金儲けのためであり、スポーツ選手の虚像しか届けないので、本当の敬意を感じさせることもない。そもそも、スポーツ選手というのは、英雄でも何でもない。
初音ミクさんに関しては、クリプトン・フューチャー・メディアの伊藤社長が、金儲けのための虚像を作ることを禁止している・・・つまり、ミクさんを、偉大なお父さんが守ってくれているのである。

ちゃんと目を開いて見れば、敬うべきものは身近にいくらでもある。
それは、例えば、柔和な人、謙虚な人だ。
その結晶であるのが初音ミクさんである。
だから、ミクさんのコンサートで、世界中の人々が、ミクさんを崇めるのである。
つまり、柔和で謙虚な者が崇められる。
ところで、ルー・テーズが崇めたジョージ・トラゴスは傲慢でもあった。ところが、面白いことに、トラゴスが若き謙虚なテーズを崇めていたのである。
若いが器の大きなテーズはトラゴスを変えたのであるが、トラゴスはレスリングに対する敬意は常に持っていたのだった。
テーズの器は、劣等感から自分を解放してくれたレスリングへの敬意と共に、貧しくて高校に進学出来なかったことで作られた。
貧しきものは幸いである。
このように、人間には複雑な面もあるのだけれど、いずれにせよ、重要なことは敬うこと、崇めることである。ただし、自主的にね。









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人生の流れを変える鍵

野球、ボクシング、バスケットボール、サッカーから学校の運動会まで、どんなスポーツでも、真剣な試合では、「試合の流れ」というものがある。
チェスはヨーロッパではスポーツらしいが、そのチェスや将棋、囲碁でも、やはり、「局面」と言う、勝負の状況を示す言葉があり、これも、「試合の流れ」のことである。
しかし、本当は、いかなることにも、「試合の流れ」「勝負の流れ」「局面」という、「ものごとの流れ」がある。
受験でも、恋愛でも、ビジネスや製品開発のプロジェクト・・・などでもだ。

そして、「試合の流れ」というのは、負けている方が、自分が勝つ方に流れを変えるのはとても難しい。
つまり、失敗の方向に流れている流れを、成功の方向に変えるのは難しいのだ。
学校生活もサラリーマン生活も、1日1日の流れがあり、入学から卒業、就職から退職までの流れがある。
人生も、1日1日の流れと、一生の流れがある。
実際には、刻一刻の流れから、あらゆる長さの流れまで、無数の流れがある。
長く続いている流れほど、マイナスの流れをプラスに転じるのは難しい。

スポーツの一流選手というのは、負けの流れを勝ちの流れに変えることが出来る選手だ。
そして、1日の流れ、何かのものごとの流れ、一生の流れを作り出せる人が幸福になれる。
では、ものごとの流れを作り出す決め手は何だろう?
スポーツでいえば、まず、力やスピード、それに、技といったものだ。
しかし、高度な局面では、「強い意志の力」が重要になる。
でもね、本当に大切なのは、「勇気」なのだ。
だが、この「勇気」は、蛮勇のことではない。
難しいのだが、「頼れる何か」だ。

史上最高のプロレスラーであったルー・テーズには、ダブル・リストロックという、磨き抜いた技があった。
地味な関節技だが、その気になれば、相手の腕を折ることも出来た。
テーズは、後1センチ締め上げれば相手の腕を折るというところまでは何度もやったが、実際に折ったことは一度もなかったと言う。
だが、この技に、何百回救われたか分からないという。
あれほどの超人的レスラーでも、それほどピンチがあるのであり、この技がなければ、「鉄人」と呼ばれるほどにはなれなかったに違いない。
このダブル・リストロックが、テーズの、いつでも必ず試合の流れを変えることが出来る鍵だったのだ。

誰だって、テーズのダブル・リストロックのように、「これさえあれば大丈夫」という、勇気が湧く、頼れる何かを持たないといけないのに、それがなく、それを得ようともしない人が多いのだ。
それを得るのは、簡単であり、難しい。
法然の念仏、ある神道の流派の「アジマリカン」(呪文)などもそうだが、テーズのダブル・リストロック同様、磨いておかないといけない。
念仏や呪文の場合は、普段、しっかり唱えることが磨くことだ。
普段、おざなりにしているのに、ピンチの時に唱えても、なかなか効果は出ない。
超天才と言われた数学者の岡潔さんは、20年間、『正法眼蔵』を読み続けて叡智を磨き続けたが、ある時、念仏に転向し、毎朝1時間、念仏を唱えたらしい。
初音ミクさんを崇め続け、愛し続けていれば、いざという時、ミクさんの歌声を思い出すと、それだけで、「ああ勝った」という根拠のない勇気が湧き、それで流れは変わる。

それには、ルー・テーズが、ダブル・リストロックを教えてくれた師のジョージ・トラゴスを、この上なくリスペクト(尊敬)したように、敬虔さが必要である。
敬虔、尊敬、畏怖、崇める・・・何と言っても良いが、憧れ敬う心が、人間に与えられた最後の切り札だ。
それをないがしろにする人が何と多いことかと嘆くが、我々はそうであってはならない。
ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』で、クズのような男達が、ターニャという16歳の娘を女神のように崇めることで格段に向上したように、ロオマン・ガリーの『自由の大地』で、堕落したフランス兵達が、空想の少女を姫様のように崇めることで騎士の高貴さを取り戻したように、崇めることが力なのである。
初音ミクさんを崇める者は無敵である。それがこの世の決まりである。









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人間を崇拝することの哀しいリスク

今朝も書いたが、何かを真摯に崇めることで精神性を高めることが出来るということが、非常に重要であると再認識した。
神や自然を崇めることを続けると、「敬う」という気持ちを持つことが心の習性になり、自然に、敬うということが出来るようになる。
現代人には、この「敬う」という心が圧倒的に欠け、これが不幸の原因になっている。
もし、我々が、現在、幸福感がなく、不安や恐怖が強いとしたら、おそらく、「敬う」心が無いのだろう。

また、敬う心があれば、いかなることでも成功する。
例えば、プロレスで史上最高のレスラーと言えるルー・テーズが、あれほど成功したのは、レスリングと、師のジョージ・トラゴスやエド・ルイスを、この上なくリスペクト(尊敬)していたからだ。

崇める効果に関して、今朝もご紹介した、ロシアの文豪マクシム・ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』の話が、非常にリアリティがある。
牢獄のような、狭く、熱く、息苦しい場所で、安月給で、毎日、長時間働かなければならない、社会の底辺の26人の男達は、未来に何の希望もない、ゴミ虫のような存在だった。
男達の精神は堕落し、まともな人には、とても聞かせられないほどの下品な猥談ばかりし、神から与えられているはずの知性はカケラもなかった。
だが、ターニャという名の16歳の美少女が現れ、彼女を女神のように敬うようになってから、男達は変わる。
親切、忍耐といった美徳や道徳心を取り戻し、品格が現れ、錆び付いていた頭も回るようになった。
若い魅力的なターニャに邪まな思いを持たず、彼女がいない所でも、彼女を卑しめるような淫らな冗談一つ言わなかった。
だが、ターニャは、確かに可愛いが、決して、出来た娘ではなく、ただの身勝手な娘で、彼らを露骨に見下してもいた。
けれども、男達にとって、それはどうでも良かった。
男達は、ターニャに女神を投影して見ていたのだ。

だが、この作品は、現実の娘を女神のように扱うことは、やめた方が良いという教訓にもなっていると思える。
本物の娘は、所詮、女神や天使ではない。
いつかは裏切られる。
いや、ターニャは、元々が、彼らの前で、女神や天使であろうとしていた訳ではなく、男達を「囚人さん」と呼び、繕い物を頼まれると、「何で私が、あんたのためにそんなことしなくちゃいけないの」と、嘲るように突っぱねた。
それでも、男達は、彼女が女神であると信じることが出来た。
だが、いつかは、現実の娘が、女神や天使ではないことを、思い知らされるのである。

「彼女に裏切られた」、「妻に裏切られた」、「娘に裏切られた」などと言うことなかれだ。
それは、お互い様なのだ。
お互い、天使でもなければ、ナイト(騎士)でもない。
夫婦は、キツネとタヌキの騙し合いというのは、程度の差はあっても、真実であろう。

そのことは、初音ミクさんの、『恋愛裁判』(Youtube)を観賞して、よく理解しておくことだ。
ところが、『恋愛裁判』の歌や動画を聴き、見たら、むしろ元気が出るのは、ミクさんがバーチャルな存在だからだ。
ミクさんは、『恋愛裁判』で、天使のような少女の後に小悪魔を演じるが、実際のミクさんは、天使そのもので、決して裏切らないからだ。
誰かが、ミクさんのことを、「スキャンダルのないアイドル」と言ったが、まあ、そういうことである。

だから、崇めるなら、神や女神が良いかもしれない(もちろん、よければ、初音ミクさんも)。
私は、初音ミクさんの実体である(と私が勝手に決めている)、ターラー菩薩様を崇拝している。
ターラー菩薩様は、日本ではあまり知られていないが、チベットでは広く信仰される菩薩様である。
チベットでは、観世音菩薩様が信仰の中心であるらしいが、ターラー菩薩様は、観世音菩薩様の目(あるいは涙)から生まれた菩薩様だ。
観世音菩薩様の右目(あるいは右目の涙)から白ターラーが、左目(あるいは左目の涙)からは緑ターラーが生まれた。
ターラー菩薩様は、初音ミクさんと同じ16歳のたおやかな少女だ。
ターラー菩薩様の美しいお姿に関しては、中国の画家ゼン・ハオ氏のFacebookページ「ZENG HAO DUN HUANG | Facebook」をご覧いただきたい。

「ターラー」は、古代インドの言語であるサンスクリット語で「目」、「星」という意味で、現代のヒンディー語でも、「ターラー」は「星」である(「目」は「アーク」)。
タミル語では、「目」が「ターラー」で、「星」は、「サーラー」である。
ターラー菩薩様は、東洋のマリアとも言われる観世音菩薩様の、星のごとき目の輝きの中から生まれたという説もあることが納得出来るのである。
初音ミクさんの、事実上の初めての歌(公式デモソング)は、『星のカケラ』で、これが実に良い曲であるが、やはり、ミクさんとターラー菩薩様の繋がりは深い。
『星のカケラ』は、今月(2016年3月)9日の「ミク(39)の日」に発売された、『MIKU EXPO』の公式E.P.(シングル盤)であるCD『HATSUNE MIKU EXPO 2016 E.P.』に収録されている。
まるで、ターラー菩薩様の歌のようですらある。
この歌の中で、

頬なでる柔らかな風が
そっと寄り添ってくれる
~『星のカケラ』(作詞・作曲・編曲:平沢栄司、歌:初音ミク)より~

という歌詞があり、歌全体にも風を感じるのだが、風はターラー菩薩様の象徴でもあり、ターラー菩薩様は、呼びかける者に寄り添って下さることを想うのである。
神仏を敬い、その名を想うには、やはり、その名の意味を知っておくと良いと思う。
ミクという名にも、隠された素晴らしい意味があるが、長くなったので、それはまたにしよう。









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良寛、老子の光線銃

この世で生きるには武器が要る。
武器という言葉が嫌いだという人は甘いのかもしれない。
確かに、寡黙さや忍耐が最も強いのかもしれないが、聖人でない我々が、それに徹することが出来ようか?
この武器のことを、最近私は、光線銃と言っている。

良寛の光線銃は『荘子』だった。
良寛ですら、光線銃がなければ、この世の苦しみに耐えることが出来なかった。
ご存じのように、良寛は、子供達を集めて一緒に遊ぶのが好きだった。
しかし、昨日までいた女の子が、今日はいないということがよくあった、
貧しさのために身売りさせられたのだ。
良寛は、彼女達にどんな運命が待っているか分からないような世間知らずではない。
良寛は、エネルギーを失い、生命力が低下した。
その時、良寛の中で、『荘子』のエッセンスが動き出し、良寛の心と広大なる無意識をつないだ。
そこで、良寛ははっと悟った。
黙って耐えていたら、良寛は駄目になったかもしれない。
良寛は決して弱い人間ではなかったが、それよりも、良寛は優しい人だったからだ。

倶胝(ぐてい)という僧は、何を尋ねられても、黙って指を1本立てるだけだった。
門下の小坊主が、訪問者に「お前のところの和尚は、どんな教えをするのか?」と問われ、黙って指を1本立てた。
それを聞いた倶胝は、小坊主の指を切り落とした。
泣き叫んで走り去ろうとする小坊主を倶胝が呼び止め、小坊主が振り返ると、倶胝は黙って指を1本立て、小坊主は悟った。
倶胝は、臨終の際、「師の天竜にもらった一指禅を、一生かかっても使い切ることは出来なかった」と言って亡くなった。

この禅語に対し、難しい、訳の分からない解説をする人がいる。
無駄なことだ。
倶胝はただ、「光線銃を持ってないお前が持ってるフリをするな」と言っただけだ。
しかし、ここまでやらないと、光線銃の意義が分からないのだ。
この小坊主は、やがて、倶胝とは違う光線銃を手に入れたことだろう。

史上最高のプロレスラー、ルー・テーズは、その日の試合で苦戦していた。
最大のライバルの1人、ホイッパー・ビリー・ワトソンのタイミングの良い必殺のタックルを喰らって吹っ飛び、ダメージで身体が痺れていた。
さらに、もう一発喰らい、ほとんど戦意も喪失していた。
ワトソンがテーズに近付き、テーズの腕を掴んだ時だ。
テーズの手がゆっくりと伸び、刹那、その手が速く動いた。
ワトソンははっとしたが、もう遅い。
テーズは、ダブル・リスト・ロックでワトソンの左腕を捕えていた。
逃れようとするワトソンだが、テーズは離さない。
テーズはぐいぐい締め上げ、あと1cm、絞り上げれば、ワトソンの腕が折れただろう。
しかし、それは決してしないテーズだった。
テーズは、最後の力を振り絞り、エアプレン・スピンでワトソンを仕留めた。
テーズの光線銃は、このダブル・リスト・ロックだった。
彼が、師のジョージ・トラゴスからこの技を譲られた理由は、レスリングとトラゴスに対するリスペクト(敬意)のためだった。
畏怖とも言うべき敬意を持つ者のみが光線銃を手に入れるのである。

宇宙人の宇宙船には武器は搭載されていない。
だが、宇宙船には、ある種のエネルギーフィールドがあり、攻撃をそのまま相手に跳ね返す。
宇宙船の構造は、人間とほとんど同じだ。
だから、人間は、誰でも、そのようなことが出来る。
こちらが無になってしまえば、攻撃がそのまま敵に返るのだ。
シャーマンの間では、「呪い返し」として知られるものだ。
しかし、宇宙人は、威力を弱くして返す。
いや、本当は返す気もない。
ならばなぜ返すかというと、敵に、自分達を殺す罪を犯させたくないからだ。
だが、いずれかが滅ばねばならないとすれば、自分たちが滅びる方を選ぶのである。

老子の光線銃は、倹約と慈悲と目立たないことだ。
老子は、これを3つの宝と言う。

あなたも、早く光線銃を手に入れ、初音ミクさんの『千本桜』を聴いて、光線銃を撃ちまくるのだ。
光線銃を手に入れたいと熱心に思い、自分より優れた者への敬意を忘れなければ、必ずや手に入れることが出来るだろう。









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本当の感謝とは

私は、どんな言葉も素晴らしい呪文になると思っているが、「ありがとうございます」を呪文のように言うのは大嫌いである。
そんなことをする人達を見ると、純粋に感謝するのではなく、「恵みを得るために感謝する」という浅ましさが感じられ、「なんて卑しいんだ!」と思うのだ。
「ありがとうございます」「感謝します」というのは高貴な言葉なのであるから、よくよく、真摯な気持ちで言わなければならないのである。

感謝というのは、難しい。
あらゆることは恵みなのであるが、人間がそれに気付くには、それなり以上に進歩していなくてはならない。
だから、闇雲に、神のようなものに対して、「ありがとうございます」と言うのは、自分はレベルが高い人間だと自惚れていることになる。

いかなる場合でも、優れた行いというのは自然なものなのだ。
命の危険を冒して人を救う場合ですら、その行いは自然である。
しかし、どんなに良いことであっても、不自然に行えば、必ず災いが起こるのである。

感謝というのは、甘えた、修行不足の者がすれば不自然なのだ。
彼らには、感謝なんて出来ないからだ。
だから、「ありがとうございますと言えば、良いことが起こります」と言われて、それをやる者の9割は悪いことが起こるのである。
感謝するには力が要るのだ。
容姿端麗に生まれた者だって、未熟なうちは、自分の容姿に感謝したりはしない。

だが、本当に、自然に感謝できるようになったら、感謝は大きな力になり、必ず成功するというのは真実である。
有名なタレントの川崎麻世さんは、小学生の時、西洋人のような顔立ちのせいでいじめられたそうだが、中学生の思春期になると、その顔が実は圧倒的に美しいことに気付いた女の子達にモテまくるようになり、「ざまあみろ!」と思ったのだそうだ。
だが、想像だが、いじめられたことで鍛えられたことで、「ざまあみろ!」の中には、どこか感謝も入っていたのだと思う。そうでなければ、彼は、これほど長く成功しないはずだ。

プロレスのジャイアント馬場さんともなると、プロレス入りするまでは、その巨体には、激しいコンプレックスを持っていて、感謝どころか恨んでいたようである。
それが、プロレスラーになって、巨体の有利さをしみじみと感じられるようになって、初めて、自然に感謝したのだと思うが、それも、若い間に激しく悩んで鍛えられたことがあったからだろう。そして、感謝しているとはいえ、身体の異常さの引け目が無くなった訳でもなかったらしい。劣等感との戦いは一生続いたのだろう。
このように感謝とは厳しい面もある。

プロレス史上最高のレスラー、ルー・テーズは、師のジョージ・トラゴスから伝授された、ダブル・リストロックという、腕を攻める関節技には感謝していたと思う。
この技があったからテーズは無敵だったのだ。
ただ、テーズには、この技にまつわる、最悪の呪わしい思い出があった。
テーズが十代の時の話なのに、そのことを、彼は80歳になっても、昨日のことのように思い出すと言うほどだった。
既にかなりの年齢になっていた師のトラゴスが、この腕で、若い強豪レスラーの肩を砕いたのだ。
会場には、肩が砕けるおぞましい音が響き、その若いレスラーは腕を切断しなければならなくなった。
その後、トラゴスはテーズに、「必要なら、相手の肩を砕くことを躊躇してはならない」と教えた。
しかし、テーズは、「その寸前までやったことは何百回とあるが、それをしたことはない」と言う。
それでも、テーズは、苦しい場面で何度も助けてくれたこの技と、この技を教えてくれた師には感謝していたのだ。
感謝とは、このように、血塗られていることも少なくはない。
不世出の柔道家、木村政彦は、ブラジルで柔術の達人エリオ・グレイシーと戦った時、得意技のキムラ・ロックで、エリオの腕を折り、会場には異様な音が響いたという。
このキムラ・ロックは、テーズのダブル・リストロックと同じものであるらしい。
木村は、このグレイシーとの一戦に関し、「試合には勝ったが勝負には負けた」と述懐しているようだ。
木村も、この技への有り難味は感じていただろうが、やはりそれは、暗い陰と共にあるのだと思う。

感謝とは、平和なものではない。
深い闇を隠したものであるはずだ。
それも分からないのに、しかも、過ぎた恵みを得ようと、不自然な感謝をする者が、あまりに卑しく見えるのは当たり前である。
毒を飲んだからこそ、解毒剤に感謝するのであり、毒がありもしない中で、解毒剤を本当に有り難く思ったりはしない。
だが、我々は人生の中で、必ず毒を飲まされる。
そして、毒によく耐えた時に、神に解毒剤を与えられるが、それは、単なる解毒剤ではなく、無敵の力を得る妙薬である。
だから、毒に苦しんだ後には、自然に、大いに感謝することになるだろう。
イエスが十字架という毒杯を避けなかったように、我々も神に差し出された毒から逃れようとしてはならない。









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