ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

ルドルフ・シュタイナー

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[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

ハンパ者

本当に優れた人が最後に行きつくのは、「僕は無力だ」ってことだろう。
それは、宇宙に対する自分の感覚器官や知的能力の、極めて低い限界を悟ったということである。
つまり、五感や心が捉えることが出来るのは、あまりにひどい世界のイミテーション(まがいもの)に過ぎないということだ。
それでも、結構、素晴らしいもの、美しいものもあるような気がするが、それは、安物の粗悪品を喜んでいる貧乏人や田舎者にも喩えられようか。
そのことを示したカントは、だからといって、どうしたら良いかなんて全く述べていない。
彼はただ、その偉大な知性と考察をもって、事実を正確に(おそらく誠実に)示そうとしただけだ。
だが、芸術家であったゲーテやタゴールは、直感的知性によって、世界の隠された姿をいくらか見抜いていたようである。
そして、それを本当に解明し、さらに、それ(隠された真理)を知るにはどうすれば良いかを実際に示したと思われるのが、ルドルフ・シュタイナーだった。
そんなシュタイナーの著作が、すらすら理解出来るはずがない。
ところが、初音ミクさんの名曲『ODDS&ENDS』では、そんな真実を、そっと語るというか、「すっぱ抜いている」という感じすらする。


「僕は無力だ。ガラクタ一つだって救えやしない」
想いは涙に ぽつりぽつりとその頬を濡らす

その時世界は 途端にその色を大きく変える
悲しみ喜び 全てを一人とひとつは知った
~『ODDS&ENDS』(作詞・作曲・編曲:ryo、歌:初音ミク)より~


歌としては、ちょっと年齢の高い人なら、恥ずかしい感じがするかもしれない。
畑亜貴さんが、『God knows』(アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』の劇中歌)の詩を作った際、本気か冗談かは知らないが、「思いっきりこっ恥ずかしいことを堂々と書いた」と言っておられたように思うが、詩を改めて見たら、本当に恥ずかしい(笑)。
『ODDS&ENDS』は、それほどでもない。
面白いことに、この2つの歌は、タイトルの音感が似ている。
ちなみに、ODDS&ENDS(odds and ends)とは、はんぱもの、ガラクタという意味で、この歌の中では、「僕」と初音ミクさん両方を指している。
『God knows』も、相当、ハンパ者の歌だし、ゲーテの『ファウスト』の主役ファウストも、紛れもなく半端者だ。

だが、世界は、ハンパ者であっても・・・仏の手の平の上で走り回るだけの者ではあっても、そこから抜け出そうと、自分と戦う者のみに、その姿を明かすのだろう。
初音ミクさんのコンサート「マジカルミライ」では、これまでずっと、ラストソングは、この『ODDS&ENDS』だったが、今回もそれは変わらないと思う。
「ミクの日感謝祭」コンサートでは、3回とも、それが『SPiCa』だったのを思い出す。この歌も、ハンパ者の星のような歌だったと思う。
半端者には2通りしかない。
努力する半端者と堕落する半端者だ。
まあ、努力しても半端者なのだが、堕落して完全に生ゴミになるよりは良いだろう。









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真の大物に愛される本物になるには

物語の中の、磨きぬかれて知恵があり、完成した存在であるようなヒーローやヒロイン、あるいは、その師匠格の者の前に出たら、我々は、あからさまに見下されることはないかもしれないが、あまりに価値が無いので、石ころと変わらない扱いを受けても・・・石ころとして大事にはされても、それよりは0.1ミリも重要視されないとしても、何の文句も言えないだろう。
例えば、相手が、『スター・ウォーズ』のヨーダやオビ=ワン・ケノービであった場合である。
私としては、『灼眼のシャナ』のヒロインであるシャナや、彼女の師であり父であり友であるアラストール、あるいは、山岸涼子さんの漫画『日出処の天子』(1980-1984連載)の厩戸皇子、つまり、聖徳太子らが、まさにそのような存在で、彼らなら、悪意はなくても、当然のこととして、露骨に見下してくれることだろう。
『灼眼のシャナ』で、初めてシャナやアラストールと会った時の、坂井悠二(主人公の一人。高校1年生)がまさにそうで、シャナに「コレ」と呼ばれて悠二が憤慨し、「何だよ!コレって、人をモノみたいに」と言うと、シャナに、「そうよ、お前は人じゃない。モノよ」と言われる。まあ、悠二が既に死んでいたからであるのだが、悠二の器の小ささのためもあったのである。

さて、そんな「真の大物」達に、一目置かれるためにはどうすれば良いだろう?
世間でいう大物・・・大経営者や大俳優、あるいは、スポーツの金メダリストやスター選手であったところで、俗物であれば、彼らはやはり、道端の犬の糞以上の扱いはしない。
つまり、『荘子』や、新約聖書の福音書のイエスが度々言っていたように、世俗の大人物など、神仙の目や天の基準で言えば、凡人と全く変わらないばかりか、自惚れていると凡人より劣るのである。
だが、我々、世間でも凡人である者は、そんな世俗の大物より、さらに劣ると考えるべきであろう。

ところが、真の大物達が、世俗の凡人である者を気に入り、時にかしずくことすらある。
そして、そんな世俗の凡人が、本物なのである。
真の大者達が歯牙にもかけないのは、「ゆるんだ」人間である。
そして、それは、大半の人間だ。
ゲーテの『ファウスト』で、ファウストは、神を目指して努力し、片時もゆるまないので、神様のお気に入りな訳である。
ファウストは、神様に、「わしの子分」と言われるからには、相当に愛されているのである。
『バガヴァッド・ギーター』のアルジュナ王子も、本質的な知恵においては未熟かもしれないが、ゆるむことなく、常に心を締めている人間であるので、神クリシュナは彼を愛し、「人類で最も優れた男よ」、「富の征服者」と、アルジュナを褒め称えるのである。

真の大物達が心惹かれる本物である者の特徴は何だろう?
それは、「空気のような存在」であることだ。
老子は、道(タオ)と一体化した人物を、水のような存在と言ったが、ルドルフ・シュタイナーは、真の教師を、「空気のごとき者」と言ったと思う。
水は、低い場所に留まり、どんな形にもなり、柔らかいが、恐るべき力も秘めている。
だが、空気はもっと希薄で、上も下もなく、もっと隠れた存在であるが、秘めた力は水に劣らず、もしかしたら、はるかに優るかもしれない。

私が空気のような存在になるには、まず、迷惑なこと、余計なことをせず、ただ静かに、そして、徹底して静かであることに、ゆるまずに努めなければならないだろう。
人の役には立つまいが、迷惑はかけないことだ。
今は、迷惑のかけ通しである。
だが、神が意図するなら、空気のごとく、人知れず役に立つこともあるだろう。
空気が空気であるのに、決意も努力もいらない。
しかし、人がそうなるためには、ゆるまないことが必要である。









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魂を大霊の力で満たすには

幼い子供が自分のことを名前で呼ぶことをご存じと思う。
3歳くらいの子供に、無理に、「私は鈴木花子です」と言わせると、その子がどこか虚ろな顔をするのは、それが難しいのではなく、「私」とは誰のことか分かっていないからである。
幼い子供は、「私」、「自分」の感覚がないので、自分のことを他人事のように「太郎君はバナナが好きなんだ」と言うのだ。

いい年をした女の子が、自分を名前で呼ぶというのは、大抵の場合は、可愛く見せたいという演技か、幼い頃の自分の状況への懐古であり、本当にそこまで幼いという訳ではない。

ただ、年齢に関わらず、「自分」、「私」という感覚が希薄で、いくらか若い女性なら、普通に自分を名前で呼ぶ人もいる。
しかし、そんな人に関して確実に言えることは、力というものに著しく欠けるということだ。
私が、私が・・・と言う自我の強い人は、低レベルな力に関しては、割合に強いものであり、自分を名前で呼ぶような人は、そんな我の強い人に支配されてしまうことが多い。

自分を名前で呼ばない人でも、自分を何と呼ぶかが、はっきり確定していない人がいる。
別にTPO(時、所、場合)を考えるべき場所でなくても、ある時は「私」、ある時は「僕」となるが、いずれにしても、本人は、自分をそう呼ぶことに微妙な違和感を持っているのだ。
「私」と言えば、どこかよそよそしいし、「俺」と言えば下品で嫌だし、「僕」と言うのもわざとらしい。
結果、「まあ、どれでも良い」と思うのだが、自分を「私である」と感じる感覚がやはり弱いのである。

メカニズムは実に複雑なのだが、人間は、「私」という感覚を通して、大霊の力を魂の中に流入させているのである。
だから、「私」という呼び方に違和感がある人は、魂が十分な力で満たされていないのである。
そこで、「私」でも、「自分」でも、「我(吾)」でも良いから、じっくり自分に呼び掛けると良い。
声に出しても出さなくても良い。
「私・・・、私・・・」と自分に呼びかければ良いのである。

日本語は、「私」といった一人称を省略することが多く、それは、良い面も確かにある。
日本人が、個としては弱く、幼いが、付和雷同し易く、集団になると案外に強い理由もそこらにあるのだ。
ただし、集団になると、残虐になり易いということがあるのだと思う。
その原因は、やはり、個が幼いからである。
だから、日本人をよく観察している外国人は、「日本人は、一人一人では親切で良い人なのだが、集団になると残虐なことを平気でする」と感じることがよくあるのである。

だから、自分に関しては、「私」をはっきりさせておく必要がある。
「私」という言葉で自分に呼び掛ければ、魂の力が大きくなり、自在力が増す。
どのくらい呼び掛ければ良いかというと、多いほど良い。
ラマナ・マハルシは、常にそうせよと教えたこともある。
メカニズムについては、難解というか、かなり抽象的で良ければ、ルドルフ・シュタイナーの『神智学』を読むと良い。
最近、ついに、この本のKindle版が出たので私は喜んでいる。
かなり抽象的と述べたが、シュタイナーは、別の本では「恐ろしく」抽象的に書いており、それらに比べれば分かり易いと思う。
難しいことが嫌いなら、とにかく、「私」という真言を唱えることだ。
尚、『ヒマラヤ聖者の生活探究』で、イエスが教えた最高の真言は「神」である(英語の原書ではGod)。
そして、「私は神である(God I Am)が究極の真言なのだが、魂が大霊の力で満たされていなければ、うまくいかないだろう。
だから、まず、「私」と呼び掛けると良い。
そうすることで、あなたは自信がつき、何者にも、どんな状況にも負けなくなるだろう。









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ITで人間はそんなに変わっていない

1970年代以前の映画やテレビドラマでは、インターネットはおろか携帯電話も出てこないので、それらは、若い人にとっては、時代劇のように見えるかもしれない。
そう古い印象はないのだが、立川恵さんの『怪盗セイント・テール』は1994年連載開始の漫画(アニメは1995年放送開始)だが、14歳のヒロイン羽丘芽美が好きな、同級生の男子であるアスカJrが、「俺はポケベルなんてやらないからな」といったセリフを言ったのを覚えており、当時は携帯電話はアナログ式のものが普及し始めた頃で、中高生には贅沢過ぎ、彼らはポケベルを愛用していた。だが、その数年後には、携帯電話が中高生にも普及してくる。
2000年に漫画が連載開始され、2002年にアニメが放送開始されたCLAMPの『ちょびっツ』では、インターネット、パソコン、携帯電話、モバイルといった概念が今日に近い感覚で扱われている。スマートフォンは空想すらされない時代だったが、ヒロインのちぃのような人型パソコン(アンドロイドと同じ)や、そのモバイル版である小型の人型パソコンは、スマートフォンやタブレットPC(あるいはウェアラブルコンピューター)をはるかに超えている。
ちなみに、ちぃは初音ミクさんに通じるところがあることは、海外のミクさんのファンも指摘することがある。
ちぃは身長152cmで、158cmのミクさんよりやや小さいらしいが、雰囲気的には変わらず、また、2人とも超ロングヘアであるところが似ている。
私は、自我を持たない存在としての、ちぃとミクさんの類似性や違いを考えることが面白い。
尚、1950年代に、敬愛すべき関英男博士(電波工学の世界的権威である工学博士で、超能力などの高次元科学研究者。腕振り運動の普及者でもある)は、今日のスマートフォンとよく似たものを想像し、著書にも書かれていた。恐ろしいものである。

パソコン、通信機器、インターネットやその前身のパソコン通信がなかった時代であれば、1970年代も数百年前も、表面的にはそれほど変わらないように感じる。
『無法末の一生』のような明治時代を描いた映画を見ても、学校の運動会の様子など、基本的に今と全く同じで、学校という場所は極端であるが、世の中はそんなには変わらないものだと思う。
しかし、当時は、パソコンどころか、誰もコンピューターというものを想像もしなかった。現代のノイマン式コンピューターの原型であるENIACが作られたのは1946年(昭和21年)である。

人類の思考形態は、コンピューターとネットワークによって変わった部分は確かにあるだろう。
だが、ひょっとしたら、人類の歴史の中で言えば、その変化は「ほんの少し」かもしれないと思う。
人類の世界の認識の仕方の変化を本当に知れば、そんなもの(コンピューターやネットワークによる考え方の変化)は小さなものだと思うのだ。
数千年前に書かれた古典を、物質的な部分に着目して読めば、確かに古いのだが、精神的に考えれば、案外にそんな古典の方が、現代より鋭く深いところが大きいと思う。
そして、精神、あるいは、霊の部分と物質の部分を比べれば、少なくとも、前者が90%以上であり、本当は、99.9%以上なのではないかと思う。
そういったことは、ルドルフ・シュタイナーの著書が参考になると思う。

本当に駄目な人間である、私の職場にいる「まるで駄目男君」が、なぜ、それほど駄目なのか、私は非常に興味深く思い、観察し、研究している。
そして、彼が、古典をほとんど全く読んでいないことに気が付いた。
優れた人間というのは、必ず、古典を熟読していると言って良い。
その理由を考察すれば非常に長くなるので、今回は省くが、事実そうであることは確かである。
無論、古典ばかり読んでいて良い訳ではないが、古典の知恵を取り込んでいない者は、人間として、あるいは、小さな神としての知恵を持っていないのであると思う。









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悪魔の教え

私は、ゲーテの『ファウスト』で、悪魔メフィストフェレスがファウストに言った、次の言葉を非常に気に入っている。

人間はばかげた小宇宙のくせに、全体だと思いがちです。
私は、初めはいっさいであった部分の部分です。
(高橋健二訳)

ルドルフ・シュタイナーは、「人間は神そのものではないが、本質は神と同じで、その小部分なのである」と言ったのか、「人間は本質は神であるが、小部分に過ぎない」と言ったのか忘れたが、同じことを意味していながら、前者は人間を持ち上げ、後者は卑下しているように聞こえる。
メフィストは、人間を完全に馬鹿にしているが、それはもっともだと思うのである。
そして、メフィストは謙遜ではなく、当然の事実として、自分を「部分の部分」と、下げて見せるのである。
何とも見上げた悪魔である。

だから、メフィストに馬鹿にされたくなければ、自分が全体であると思わないことだ。
最初から、自分は「馬鹿げた小部分」であり、「全体」と思い勝ちな馬鹿であることを、そして、本当は「部分の部分」だとわきまえれば良いのである。
悪魔は、馬鹿にすることが出来ない人間に用はない。
馬鹿にされる人間とは、自分は馬鹿ではないと己惚(うぬぼ)れている人間である。

つまり、徳川家康が教えたように、あるいは、ギリシャのデルフォイにあるアポロン神殿の入り口に書かれているように、「身の程を知れば」、悪魔の餌食になることはない。

『老子』に書かれている通り、古代の聖王のように、自らを「不穀者(不善者)」、つまり、ロクデナシの愚か者と称すれば、危うからずである。
良寛は「大愚良寛」と名乗り、親鸞も自分を「愚禿(ぐとく)=禿げた愚か者」と称した。
宮沢賢治は「みんなにデクノボーと呼ばれたい」と思っていたらしいが、まずは自分で自分をデクノボーと理解しなければならない。
黒住宗忠は阿呆になる修行に励んでいたが、ある時、観相家(顔の相で鑑定する占い師)に「あなたは阿呆の相」と言われ、願いは成就したと喜んだ。
だが、我々は、それを目指すまでもなく、初めから阿呆である。

私は、最初に挙げた、メフィストの、悪魔らしい立派な言葉を覚えていようと思う。
これは、ニサルガダッタ・マハラジが師に言われ、ずっと覚えていた言葉、
「あなたは至高の実在である」
と全く逆である。
この言葉はいけない。マハラジはきっと、我々を欺くために言ったのであり、それが(人々を欺くことが)彼の運命だった。
そのために、多くの人達が悪魔の世話になったことだろう。
だが、悪魔は、自分を愚か者と称する正直者に用はないのである。









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