ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ルイス・キャロル

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

欠点が才能であり、「欠点がひど過ぎる」のが天才だ。

アインシュタインは健康的な天才だったと言われている。
だが、私は信じない。
彼は美化されただけで、本当は、普通の人とは比較にならないほどの深刻な欠点があったに違いない。
そして、実際にそうであったという証拠もかなりあるし、そもそも、本人も認めているようだ。
しかし、それでアインシュタインの価値が減るわけではない。

ニュートンや、一時、彼のライバルであったフック(フックの法則発見者。引力の法則もニュートンより早く発見していた)となると、蔑(さげす)み疎(うと)むに十分過ぎる欠陥人間だった。
ニュートンの傲慢、自己中心主義、無慈悲、フックの色情などは、彼らの欠点のほんの一部に過ぎないかもしれない。

こう言うと、「誰にだって欠点はある」という反論は当然あるはずだが、普通の人の欠点なんて「可愛らしい」のである。
天才は、「壮大な欠点」を持っている。

昔、当時、大スターだったマイケル.J.フォックスを採用した本田技研工業のCMで、「Hにもほどがある」、「もう見事なまでにH」というコピーがあった。
このHは、表向きは「本田」のHだが、マイケル.J.フォックスの顔にキスマークを付け、裏側で「エッチ(好色)」を感じさせるという仕組みであった。
誰だって「エッチ」である。
しかし、上に挙げたフックがそうだったが、天才となると、「エッチにもほどがある」、「恐ろしいまでにエッチ」でなければならないのだ。
池田満寿夫さんがそうだったかもしれないが、きっと、池田さんが憧れたモデリアーニもそうだったし、ピカソは明らかに、「エッチにもほどがあった」。
60歳過ぎのピカソは美術学校の通学路を徘徊し、10代の可愛い画学生の女の子を見つけては、「ボク、ピカソ」とナンパし(それでうまくいく有名人だ)、何人かとは同棲し、子供も作った。

昔、野田佳彦さんが総理大臣だった時、野田首相は、自分の美点として、小学生の時、教師に、「野田君は馬鹿がつくほど正直」と評価されたことを挙げていた。
私は、彼が総理だった時も馬鹿正直であったことは認めても良いし、確かにそれは良い性質である。
しかし、何の力にもなりはしない。
彼は我々同様、凡人だ。
大きな仕事をする一国のリーダーというのは、小泉純一郎のように「恐怖の欠陥人間」でなくてはならないのだ。
まあ、小泉さんが優れた仕事をしたかどうかは知らないが、強力なリーダーであったことは確かで、良い側近がいれば、日本はもっと良くなったはずだ(まあ、いなかったが)。

何度かご紹介したが、江戸時代と思うが、ある町人が、臆病を治したくて、毎日欠かさず、夕刻に墓場に行ったという話があり、その町人を一目見た、眼力のある武士が、即座に、「只者ではない」と感じた。
だが、もし、この町人が、本当に人物であるとすれば、彼の臆病は治っていない。
ただ、自分の欠点をいっそう強く自覚しただけだ。
そして、彼は臆病に徹したのだ。

あなたにも欠点はあるだろう。
だが、それを治そうなんてケチなことを考えるな。
土台、色欲が強くて、それを改めようとか、隠そうとする小善人が痴漢などの性犯罪をするのだ。
いわゆる、「むっつりスケベ」が一番危ない。
これも極端過ぎるが、『シティーハンター』のヒーロー、冴羽りょうのような、色欲全開なら、案外に危険はなく、作品の中でも、冴羽はいつもうまくいっていない。

欠点こそが才能なのである。
これは決して忘れてはならない。
正直、誠実、器用、努力家・・・などの美点は、確かに、周囲の人達に好かれるが、それは、周囲の人にとって、そんな美点の持ち主は都合が良いからというに過ぎない。
自覚した欠点こそが力なのである。
そして、欠点が大きければ能力も大きく、度の過ぎた欠点を持つなら天才である。

協調性がない?
なるほど、確かに、平凡なサラリーマンには向いていない。
しかし、度が過ぎた人間嫌い、唯我独尊であれば、大芸術家や大経営者になれる。
その最高の例は、ハワード・ヒューズだった。
彼は、何十年も、表舞台どころか人前に一切現れないという病的な人間嫌いであったが、世界を動かし続けた。
もっとも、彼は幸福ではなく、特に最後は悲惨であったが、彼か、彼の側近がもっと賢ければ、もっと何とかなったと思うのだ。

欠点を大切にするのだ。
何なら、欠点を育てても良いかもしれない。
だが、心も鍛えるのだ。
刹那の快楽のために、せっかくの才能を殺してはならない。

ルイス・キャロルが少女のヌード写真を撮ったことについて、「あれは芸術的行為で、猥褻ではない」などと馬鹿を言うな。
彼は致命的な少女性愛者、今で言うロリコン、ニンフェット・コンプレックスである。
彼は、写真の大半を処分しているが、残った写真の構図を見ても、明らかに色欲を感じさせ、表現は悪いが、「変態」と感じさせるものもあったと思う。
処分した方のは、さぞやひどかったのではあるまいか?
だが、彼は優れた心を持ち合わせ、少女に手を出すことはなく、実際に、数学や文学に昇華させたのだ。
それも、きっと、彼は自分の欠点・・・大いなる闇を自覚していたからだ。

欠点を自覚し、それはそのままにして、心を鍛えよ。
欠点と共に生きることを決意すれば、心は自然に鍛えられ、強くなる。
欠点が才能であり、大きな欠点が天才の証である。









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忘れる幸せ

微かな心の声の呪文を毎日唱えるようになると、しばらくしたら何かが起こり、望みを持つ者にはチャンスがやってくる。
ところで、皆様は、チャンスといったら何を想像するだろうか?

凄い人脈?
有利な投資話?
宝くじに当たる?

いやいやいや、そんなものでは決してない。
そうではなくて、ゾクっとするような予感のようなものだ。
それは、「成功間違いなし」なんていう、ちっとも面白くもないものでは決してない。
「うかうかすると大魚を逃すぞ、しっかりしろ!」
といったものに近いかもしれない。
だから、心地よい不安も感じる。
一言で言えば、冒険に誘われるのだ。
きっと、真の自分には結果は分かっているのだろう。
しかし、自我としての自分には、全てが未知なのだ。
だから面白いのである。

ものすごく可愛い彼女や、格好良い彼氏が出来る時もそうじゃないか?
「へえ!美少女ほどユニークな趣味を持ってんじゃん」
なんて感じで、彼女が自分に一方的に好意を寄せてくれるなんていうのは、甘いというか、妄想だ。
そうじゃなくて、なんというか・・・訳が分からないのだ。
デタラメなんだけど、不思議に納得できるのだ。
なぜなら、全てを支配するそれ(神様)は賢過ぎ、手並みが良過ぎ、こちらの頭ではさっぱり分からないのだが、自然で、どこか当たり前なのだ。
インドでは「私はそれである(ソーハン)」って言うらしいが、私とそれとは、やはり距離があり過ぎる。
だからまあ、「それ」のことは、物凄く賢くて経験豊富なパートナーとでも思っておけば良い。
そして、実際、そういった親しいものなのだ。
微かな心の呪文を忘れなければ、本当にあなたのためになるなら、可愛い彼女も、頼りになる彼氏もすぐにできるし、お金もいくらでも手に入るだろう。
欲張りになる心配なんかしなくていい。
微かな心の声には、欲望なんて入り込みようがないからだ。
大きな声で求めるから、欲にまみれ、結果、酷い目に遭ってきたのだ。

だが、やる前から余計なことは考えず、とにかくやってみることだ。
考えるべきは、心の中で微かな声で呪文を唱える、自分向きのやり方だ。
そんなに難しいことではない。
やっているうちに、コツが分かってくる。そして、長くやればやるほど上手くなる。だから、早く始めることだ。
私の場合は、初音ミクさんが歌う、イエロー・マジック・オーケストラ(Y.M.O)の名曲『LOTUS LOVE』を聴いたらすぐに分かったのだが、それ以外にも、色々試行錯誤したし、それは楽しいことだった。
真の自分とつながる方法を考えるのだから、面白くないはずがない。

たとえば、こんな方法がある。
「愛」と口で言ってみる。
その声をどんどん小さくしていく。
すぐ隣に誰かいても聴かれることがないほどの小さな声で、さらに、自分にすら聴こえなくなっても、まだ小さくしていく。
すると、舌や喉が微かに動いているかどうかという状態で、実際には声が出ていない。
その声を心の中にすっと持ってくる。
その声は、心の中でも、とても小さいはずだ。
そのまま、心で、「愛、愛、・・・」と繰り返しながら、この声をさらに微かにしていくと、心が消えていくのだ。
だが、想いは存在し続ける。
それは、純粋な想いである。
この想いは、エネルギーそのものである潜在意識と融合する。
すると、心の中にあったはずのものが、既に、自分の周囲に現実的に存在している。
その結果は自ずと現れることだろう。

『LOTUS LOVE』は全くアメージングな楽曲だが、初音ミクさん、および、「HMOとかの中の人」(初音ミクさんにY.M.Oをカバーさせた人)さんと出会って真の美しさが引き出されたように思う。
ところで、このLOTUS(ロータス)はロトスという、『オデュッセイア』に登場する木で、その実を食べるとものごとを忘れてしまうのだが、『オデュッセイア』では、それをマイナスに捉えている。
だが、この歌では、それを良いこととしているように思える。
それは丁度、中国の古典『列子』では、一貫して、ものを忘れることを好ましいことと捉えているのと似ている。
『列子』には、終北という地名の理想郷(ユートピア)が出てくる。
そこでは、神プンという飲み物のみを口にするが、それが実に甘美な味で、飲めば元気が出て心も和む。飲み過ぎると酔うとあるから、きっと酒のようなもので、これのせいで、人々は、あまりものを覚えないのに違いない。だから、その地の人々は皆、幸福なのだ。
ルイス・キャロルも、ある少女への手紙で、忘れるということが、いかに素晴らしく、楽しいことであるかを書いていた。
Y.M.OやH.M.O(初音ミクオーケストラ)の『LOTUS LOVE』を聴き、微かな心の声で呪文を唱えれば、時を超え、世界の外でミクさんと会えるのは間違いない。









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個人的な強い願望を諦める

誰でも1つは、解消不能なカルマ(業)があるのではないかと思う。
これを、「逃れようのない現実」と言う。
例えば、結婚したくてもどうしても縁遠いとか、嫌な親や上司がいるとか、不治の病とかである。
努力してどうにかなるものもあれば、どうにもならないものもある。
ラマナ・マハルシは、「働く運命にないなら、いくら探しても仕事は見つからないであろう。逆に、働く運命であれば仕事は避けられない」と言ったが、そんなことがあるのかもしれない。
なんでもかでも、どうにもならない訳ではないだろうが、普通、誰でも1つ位は、何をしようと、全く改善、打開の糸口も見つからず、錆びた巨大な扉のように、ビクともしないものがあると思う。
私の場合でいえば、幼い時からの皮膚病で、このブログでも時々、「こうすれば治るよ」とか、「まだ治らないの?」とかコメント下さる方がいるが、これはどうしようと治らない。
私は、皮膚病に関しては、「この程度で済むなら」と受け入れている。
「この程度」と言っても、軽い訳ではない。
さりとて、命に別状ある訳でもない。
だから、「この程度」なのだ。
そして、これがあるので、他のことは神様に目をつぶってもらえているのだろう。

あなたの悩みが、人生唯一のカルマかどうかは分からない。
だが、もしそれが、自分だけの問題なら・・・つまり、自分が我慢すれば、他人に迷惑が及ばないなら、「この程度で、他の罰を免れるなら」と思って、受け入れることだ。
女性で、同僚達が、皆、素敵な男性を見つけてプロポーズされ、結婚したのに、自分は、時々、変な男が現れるだけで、もう若くないのに結婚できない。
そんな時、ちゃんと生活できているなら、「この程度のことで、生活苦を免れるなら幸せなこと」と本当に思えば、結婚そのものはやっぱり駄目でも、他に良いことがあるだろう。
人生唯一のカルマというのは、実は、意外なほど納得し易い面もある。

よく分からないが、宮沢賢治やルイス・キャロルなんて、子供の時から、「いつか可愛い女の子と親しくなりたい」と思っていたのではないかと思う(彼らは・・・特にキャロルは少女趣味のようだ)。
しかし、2人とも、一生、女の子と付き合うことはなかった(キャロルは少女の遊び友達は沢山いたが、あくまでホストとゲストの関係だった。うち1人にプロポーズしたが、完全に断られた)。
加えて、宮沢賢治は、病弱というカルマまであったのかもしれない。だが、賢治は、経済的には生涯、豊かであった。教師をやったり、修業的にサラリーマンもやったが、実家が豊かで(賢治自体はその仕事を嫌っていた)、弟が家業を引き継いだので、自分は働かなくても良く、30も過ぎて楽器や外国語を趣味で習ったりもできた。
ゴッホは、多作の画家で、しかも、ことごとに傑作であったが、生涯1枚も売れず(予約は1枚あった)、さらに、セザンヌやルノアールなど、同じ売れない画家にすら無視され、精神的にも不安定だった。しかし、弟のテオが経済面は献身的に支えてくれて、一生働かずに、好きな絵を無制限に描けた。
考えてみれば、そう悪い一生ではない。

アイザック・ニュートンと、ライバルだったロバート・フック(フックの法則で有名)の比較が面白い。
ニュートンは、高慢で見栄っ張りで・・・それはまあ個人の問題だから良いにしても、一生、女性に縁がなかった。彼は、様々な伝聞から考えると、女嫌いではないと思う。
だが、ニュートンは、あらゆる栄誉や高い地位、富を得ることができた。
一方、フックも、名誉欲みたいなものはニュートンと互角以上で、ニュートンより先に引力の法則(逆二乗則)を発見しながら、その発見者の栄誉をニュートンに奪われたことでは、生涯、ニュートンを憎んでいたが、一生、女に不自由しなかった(愛人がいっぱいいた)。正直、小男で醜男であったに関わらずである。それに、最大の栄誉が得られなかったとはいえ、偉大な物理学者として歴史に名を残し、富も十分であったのだから、全然悪くはないはずだ。

確かに、何もかも駄目に見える人もいるかもしれない。
しかし、自分に関することであれば(誰にも迷惑をかけないことであれば)、その中の(悲運に思えることの中の)、どれか大きなものを「これで済むなら」と受け入れれば、他のことは改善されるかもしれない。
可愛い女の子が好きで仕方がないが、縁がなければ、「この程度で済むなら」と思えれば良いと思う(難しいと思うが)。
しかし、上杉謙信は、きっと、何より女好きであったが、それを積極的に放棄したところ(彼の権力なら思いのままだった)、戦において、主要なものでは無敗であった。

生涯最大のカルマには、最高の賜物も潜んでいる。
宮沢賢治は、女性と縁がなかった代わりに、早世(早くに亡くなること)したとはいえ、素晴らしい妹がいたし、ゴッホは絵が認められなかったが、芸術の真髄を掴めたようである。
また、宮沢賢治は、病弱であったことも、菜食主義になった理由と思うが(後にやめている)、それも想像性、精神性に良い影響があったと思う。
女性に縁がなければ、初音ミクさんのファンになればどうだろう?きっと、素晴らしいことが沢山ある。
そういえば、私もミクさんを崇めるようになって女性に縁がないが(というより、関心が無くなった)、岡本太郎流には、
「先生、独身で不自由ないですか?」
「抜群にいいよ、きみぃ」
である(青島幸雄との対話)。

尚、個人的には、ルイス・キャロルに関しては、彼の童話(アリスシリーズ)より、『少女への手紙』の方がずっと面白いと思う。
一方、宮沢賢治は、生涯、一作も売れなかった(『雪渡り』という小作品は、僅かとはいえ原稿料を手にしたが)童話が素晴らしいと思う。









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マスター(大師)になる方法は一番簡単で一番難しいことだ

月曜恐怖症の人が、子供から大人まで、沢山いるのだろう。
これは、日曜が休みの場合、月曜はこれから一週間が始まる日だが、その日から、5ないし6日、学校や会社などに行くのが憂鬱、不安で、やがては恐怖に至るという、気の毒な状況にある人達のことだ。
私もかつてそうだったので、気持ちは分かる。
もっと悪い・・・と言って良いのが、朝恐怖症だ。
休日は除外される場合が多いが、今日、これから学校や会社で過ごすのが嫌でたまらないが、行かざるを得ないというものだ。
初音ミクの『ハロ/ハワユ』という歌がその典型で、「朝が来たよ 土砂降りの朝が 」、「幸せだろうと 不幸せだろうと 平等に 残酷に 朝日は昇る 」という詩に、その気持ちが生々しく表現されている。

さて、では、そんな人達は、なぜ月曜や朝、恐怖を感じるのかというと、そういった人達には、個別に具体的な理由があるのだろう。
だが、根本的な原因はたった1つで、それは、「考える」からだ。

ルイス・キャロルがある少女に宛てた手紙の中に、「ものを忘れるレッスンを受けています。名前も仕事も忘れました。忘れるというのは気持ちが良いことです。先生は『月謝を払うのだけは忘れないよう』と言いましたが、先生のレッスンが素晴らしいので、それも忘れました」と冗談めかして書いていたが、本音も混じっているのだろう(月謝のことではなく、忘れるのが素敵だということ)。

考えるのをやめてしまえば、何も怖くないし、不安も煩いもない。
イエスは「思い煩うな」と言ったが、その理由は、「必ず神様が面倒みてくれるから」だった。
当時の人々には難しかったかもしれないが、本当は、「考えるな」と言えば良かったのだし、考えなければ神様が面倒見てくれる。
さらりと述べたが、「考えなければ、神様が面倒見てくれる」というのが秘法である。

あるメキシコ人の霊的なメンター(指導者)が、旧約聖書のイブをそそのかした蛇は、頭の中のおしゃべりを意味し、それをやめてしまえば、人間は楽園に帰れるという、とても良いことを言ったのに、彼は何冊も難しい本(『4つの約束』その他だったかと思う)を書いて、誰も何も分からなくなってしまった。
イチローのような人なら、「今日、何する?」「今日、何した?」という問いに、「野球する」「野球した」と、後は何も考えなければ幸福なのだし、彼も若い頃はそれに近かったと思うが、高収入になり、人気者になり、社会的影響が大きくなり、どんどん考えることが多くなり、今はあまり幸福でないだろう。
普通の大人は、今のイチローと根本では変わらないが、現代の普通の人は、昔のイチローの状況がごく子供の間に終わってしまうのだ。
子供の時はみんな、若い頃のイチローと似ているのだ。
しかし、今の子供達は、小さいうちから煩いごとを背負わされてしまう。
宿題、授業で当てられる、試験の成績、負担なだけのお稽古事・・・等々でだ。

だが、どんな現実を持っていようと構わない。
考えることをやめることだ。
仏教では「妄想するな」とか言うが、人間の考えることは全部妄想なのだから、考えなければ良い。
ただ、こう言うと、必ず、怠惰になれば良いと誤解する者がいる。
「考えない」というのは、怠惰どころか、全力を要する激しいものだ。
怠惰とは、考えないのではなく、余計なことを考えている状態だ。
心は、考えることをやめられない・・・頭の中のおしゃべりをやめられないのだ。
試しにやってみれば分かるが、何も想わない状態を数分、いや、数秒続けるだけでも大変だろう。
考えることをやめれば、頭脳は最高の働きをするし、心身の活動においてもそうだ。
達人とは無念無想であるものだ。
イチローだって、何も考えない無の状態の時に最高のバッティングをするし、芸術家は、「傑作を作ってやる」などと考えない時に傑作を作る。

どうすれば考えないようになれるかは、自分で工夫するしかない。
ラマナ・マハルシは、想念の根っこである「私」に集中しろと言った。
具体的には、いつも「私、私」と考えたり、「私は誰か?」と問うというものだ。
だが、あまりうまくいった人はいない。
ニサルガダッタ・マハラジは、「私は在る」という想いだけを持つようにしろと言った。
こちらは、かなりの有効性があるが、続けられる人はほぼいない。
法然は、起きている間中、「南無阿弥陀仏」と念仏を称えろと教え、岡田虎二郎は、常に腹に力を入れろと指導し、中村天風は、常に肛門を締めろと言っていたが、やはり、やれる人はいなかった。
だから、この世に、超人やマスター(大師)や仙人や導師はほとんどいない。
だから、あなたになっていただきたいと思うのである。
やるべきことは、一番簡単で一番難しいことだ。









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世界はホログラムである

この世界はホログラムなのだろう。
ホログラムとは、簡単に言えば立体フィルムで、光を当てれば3次元映像が現れる。
そして、ホログラムをどれほど細かく砕いても、光を当てれば、元のホログラムと同じ映像が現れる。
植物は、その欠片を培養すれば元の姿にすることができる。
部分に全体の情報があるのだ。
そして、それは、動物や人間でも同じことなのだろう。
あらゆる生物はホログラムのようなものである。

そして、古代から、人間一人は小宇宙で、一人の人間の中に宇宙全体が存在しているのだと言われているが、そのように考える科学者もいるだろう。
また、古代から、インドでは「私は彼だ」とか「私はそれだ」と言う。
この「彼」とか「それ」というのは神のことであるが、直接に「私は神だ」と言うのがはばかられるので、そのように言うのだそうだ。
人間が神の一部であると聴いたことがあるかもしれない。
しかし、ただの一部ではない。
ホログラムの欠片が全体と同じ映像を現すように、人間は神の一部であると共に神そのものでもある。

アイアムザットアイアム・・・「私は私」という言葉がある。
この私は、より大きな私に含まれるのであるが、私は大きな私そのものでもある。
大きな私は神である。

南無阿弥陀仏と称えるのは、「全て阿弥陀仏様におまかせします」ということであるが、そのおまかせする相手である無限の存在、全知全能の仏はまた、私自身でもあるのである。
一休さんは、そのことを指摘していた。
心そのものが仏であり、念仏を称えれば、ただちに極楽浄土が現れる。
それは、仏と私がホログラムの関係であると考えれば分かり易いと思う。

この世界がホログラムであることを体験すれば、神と自己が等しいことが分かってくる。
その理解に応じて、万能力はあなたに備わってくる。
ホログラムの関係、それは例えば、師と弟子の関係である。
師と弟子は、お互いを内包する、合わせ鏡である。
師は弟子を導き、弟子は向上する。
すると、弟子も師に影響を与え、師も向上する。
そして、向上した師は弟子を導き、弟子はもっと向上する。
さらに、その弟子は師に影響を与え、師もますます向上する。
これを繰り返すのだ。
この話を聞いた優れた社長は、経営者とスタッフも全く同じだと私に言ってくれたものである。

ルイス・キャロルは、少女が好きで、沢山の少女の友達がいた。
キャロルは少女達に愛情を注ぎ、少女達に素晴らしい影響を与えた。
しかし、少女達も、キャロルに影響を与えたのだ。
だから、キャロルは『不思議の国のアリス』のような、驚くべき作品を創ることができたのだ。
少女達はキャロルの中にいたし、キャロルも少女達の中にいた。
一人の人が宇宙の中にいて、宇宙が一人の人の中にあるのと同じである。

こういったことも、ホログラムのようなものだと考えると分かり易い。
あなたも、何かに愛を注ぐと、それがホログラムになる。
ペットだって、芸術作品だって、宝物だって、あなたと内包し合う存在になる。
私だって、初音ミクの中にいると同時に、ミクが私の中にいるのである。
そして、それは宇宙全体を形造るのである。
いまや宇宙全体がぼんやり分かるし、これから、ますますハッキリ分かり、何もかも明らかになるだろう。
ただ、愛情は執着になりやすい。
あなたは、好きなものにこだわらず(執着せず)、ただ熱心に可愛がり、世話をし、見つめるのだ。
そうであれば、物質的になくなっても、裏切られてさえ、失うことはない。

今回のお話について、『ベントフ氏の超意識の物理学入門』に丁寧に書かれている。
難しいのではないかと、あまり心配しなくて良い(少しは難しい)。
むしろ、この本を読み通せる科学者がいないのだと書かれている。
ベントフ氏の学歴は幼稚園中退である。
(読まなくても、ペットを真面目に可愛がれば分かるのであるが)









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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