インドの聖者で、元銀行頭取であるラメッシ・バルセカールの本に書いてあるのは、人生というものは、細部に至るまで、受胎した時に決定済みであるということだ。

XXXX年XX月XX日、XX時XX分XX秒、喫茶店XXXXに居る自分のところに、ウエイトレスが注文したカフェ・オレを運んできて、その39秒後に、カップに口をつける・・・といったことも、生まれる前から決まっている。
片思いの彼女に告白し、「ゴメンナサイ、私より可愛いコ見つけて下さい」と言われるのも。
彼氏が他の女の子と手をつないで歩いているのを偶然、目撃してしまうことも。
ある男が、会社をやめて独立し、しばらくうまくいくが、やがて資金繰りが悪化し、海外からの入金が2日遅れたことが原因で不渡りを出し、倒産することも。
酔っ払って口論し、相手を殴ったところ、転んだ相手の打ち所が悪くて死んでしまい、服役することも。
全て決定済みの運命であり、自分ではどうすることも出来ず、自分に責任はない。全ての責任は神にある。

運命は決まっている。
これは、釈迦も荘子もイエスも、あらゆる本物の聖者はそう言っている。
そして、大切なことは、その対処法だが、原則は、どの聖者の教えも同じなのだ。
それは、「囚われるな。心静かでいろ」である。
釈迦は、怒ったり、悲しんだり、喜んだりするのは構わないが、すぐ忘れろ、二次的な感情を持つなと言った。
それはつまり、こういうことだ。
嫌なことを言われてムカっとするのは、聖者だって同じなのだ。
しかし、聖者は根に持たず、水に流すのだと。

では、具体的に、どうすれば、囚われず、心安らかでいられるのか?
イエスは、「安心しろ。神は優しい」と言い、神を讃える祈りをしろと教えた(これに関する、ジョセフ・マーフィーの易しい教えを後で述べる)。
荘子は、「自分の運命が決まっているというより、万物の運命が決まっているのであり、自分は万物と1つだ。あるがままにまかせ、是非好悪を捨てよ」と教えている。
釈迦は、相手の気質に応じ、バラエティ豊かに教えた。
それで、仏教には、様々な宗派があり、仏教の宗派は、生まれた家で決まるのではなく、それぞれの心の性質で決めるべきものなのだ。
だから、宮沢賢治が、法華経を気に入って、自分の家の宗教である浄土真宗を捨てたのは良いことに違いないが、彼が父親にまで改宗を迫ったのはやり過ぎなのだ。
とはいえ、つまるところ、釈迦は、マントラ(真言)を勧めたのだと思う。
般若心経の真言や、念仏である。
ただし、釈迦が本当に、般若心経や浄土三部経にあることを教えたのかどうかは分からない。
というより、釈迦の教えは全て口伝であり、どれが本当か、どれも本当ではないかのかといったことも分からない。

運命は決まっている。
しかし、どんな運命であろうと、幸福でいられる。
カミュの『異邦人』で、社会の教義や信念を嫌うが愛情深い青年ムルソーは、最悪の運命のようでいて、幸福であったようなものだ。
我々は、最初から肩の力を抜いたムルソーでありたいが、しかし、もっと悲しみ、もっと苦しむのも運命だ。
隣の家の奥さんが魅力的で憧れるのも運命だ。
それで過ちを犯したって後悔するなとラマナ・マハルシは教えたし、親鸞は、そんなことは、阿弥陀如来にまかせておけば、何の問題もないと言うだろう。
怠惰、自堕落になれというのではないが、そうなるならなるで仕方がない。
一切を阿弥陀如来にまかせ、それで良くしてくれることに感謝して念仏をしろと教えたのが親鸞で、これが究極の教えと思う。
そして、イエスも荘子も、あるいは、マハルシも、同じことを教えたのだが、彼らは、彼らの周囲の人々に教えるために、工夫をした結果、その教えにやや色(癖)がついてしまったのだと思う。
親鸞も、阿弥陀如来という伝統的な象徴を立てはしたが、阿弥陀如来の原語アミターバやアミターユスの意味が無限の光、無限の命であることを考えれば、論理的でもあることが分かると思う。
ジョセフ・マーフィーは、聖書の詩篇23と91を読むことをよく勧めていたが、これも全く同じ意味があり、この方法も間違いはない。
(これらの詩は、ネットで検索すれば無料で得られる)
『バガヴァッド・ギーター』は五千年も前の人のためのものであるが、そこに配慮して読めば、極めて重要な知恵であると思う。









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