ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

ラメッシ・バルセカール

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[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。
[2010/12/12]詳細なlivedoorプロフィール設置しました。[livedoorプロフィール]

運命はほとんど決まっているが

運命が初めから決まっているかどうかについて、私は以前は、100パーセント、完全に決まっているという思想に同意していた。
何時何分何秒に、髪の毛1本がどんな動きをするかまで、生まれた時、あるいは、宇宙が出来た時に全部決まっているというものだ。
これは、インドのラメッシ・バルセカールや、日本のMRTの内海康満さんの本で見ることが出来る。
荘子も、運命は決まっていると何度か述べているが、どの程度まで決まっているのかまでは分からない。
親鸞は、動物の毛の先ほどの小さな罪ですら、過去や前世の行いによるものと言いはしたが、どんな運命も全て決定済みと言った訳ではないと思う。
また、ラメッシ・バルセカールは、運命は完全に決まっていると言いつつ、自分のアドバイスに従わなかった人が自殺することになったといった因果関係も述べている。そして、そのようなことは、内海康満さんの本の中でもあったと思う。

もちろん、本当のことが私に分かる訳ではないが、いろいろな人の考え方を見たり、自分で理屈で考えたり、経験を省みながら勘を働かせたりすると、運命は、凡(おおよ)そ決まっているが、いくらか未確定の部分もあるのだと思う。
どのくらい決まっているかというと、まあ、80~90パーセントといったところだと思う。
プロ野球選手になりたいと思っても、素質の問題も含め、そうなる運命でなければ、まずなれない。
作家、歌手、画家、社長、ダンサー、あるいは、コンピュータープログラマーだってそうだ。
「夢を諦める」とか言うのではなく、なれないものはあるのだということは、早く理解しておいた方が良い。
世の中には、傍目には「絶対無理」と分かっているのに、「アイドルになる」「女優になる」といつまでも言っている人もいる。
あるいは、二十歳もとおに過ぎて、平凡な社会人チームからすらお呼びでないのに、「プロサッカー選手になる」と、無駄な努力をしている人もいる。
そんな人達は、ごく若いうちなら、夢を追いかける楽しさもあるのかもしれないが、いい年になってきたら、面白いはずがなく、本心は、辛い、苦しい、虚しい・・・だろう。

十代 ドヤ顔で悟った人
二十代 恥に気づいた人
三十代 身の丈知った人
そのどれもが全部 同じ人
~『すろぉもぉしょん』(作詞・作曲・編曲:ピノキオP、歌;初音ミク)より~

だが、正しい方向に行けば、人生は楽しくなるのである。
このことを、中国の作家チン・ニンチュウは、「運命には負けないといけない」と表現し、ジョージ・ワシントンは、運命に逆らっていた時は、恥が多く、他人に迷惑をかけ、自分も辛い人生だったが、運命に負けて従った時に輝き始めたのだと言う。
ジョセフ・マーフィーの本でも、自分は女優になるのだと言う若い女性に、マーフィーは「幼い夢はもう卒業しなさい」と諭し、彼女はそれを受け入れ、真面目に事務員として働いていたら、勤務している会社の若社長と結婚することになった。
まあ、「私は年収一千万円以上の人とでないと結婚なんかしない」という、「幼い夢」から醒めない女性も多いようであるがね。

運命に従うには、まず、過去や現状を肯定することだ。
多くの人にとって、既に起こったことや今の状況を受容するのは、辛く惨めかもしれない。
しかし、そうすれば、本当の運命が開ける。
それを楽に、すみやかにやるには、パワーポーズ(ガッツポーズ)と、念仏や真言を称えることである。

哭(な)いていた 唯 哭いていた
他人眼(ひとめ)につかない世界で
其(そ)して恥を知り 惨めになれば
全てが廻りだした
~『心臓デモクラシー』(作詞・作曲・編曲:みきとP、歌:初音ミク)より~








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暇が最も人間を駄目にする

ゲーテが、「何もしないくらいなら、どんな下らないことでもやった方が良い」と述べていたと思う。
理由は書かれていなかったと思うが、私は高校生の時にそれを見て、全くその通りだと思ったものだ。
では、何でも良いのなら、ゲームをしたり、映画やアニメを延々と見たりはどうだろう?

解剖学者の養老孟司氏は、若い人達に、充実して生きるためには、「身体を使って働きなさい」と何かで言われていたと思う。
ラメッシ・バルセカールも、何でもいいから、生活費を稼ぐためのことを、何かしなさいと強調していたと思う。
結局、そういうことだ。
もっと根本的に言えば、ごく普通の能力を発揮することをやれば良いということなのである。
そのためには、お金を稼ぐために働くことが最も良い。
ただ、珍しいことではあろうが、私のように、若い時から、会社の中でずっと暇だったという人もいるし、私の知り合いだった社長さんは、サラリーマン時代、部屋の中で、ずっと新聞を読んでいなければならなかった(つまり閑職に追いやられていた)と言われていた。
そんなものは、お金を稼ぐためであっても駄目だ。
通常の能力を発揮しなければならないのである。
身体を使った労働であれば、何らかの能力を使うし、そもそも、若い人なら、身体を使う以上の能力がない場合もあるので、それが一番間違いないのである。

確かに、ゲームでも、反射神経を競うようなものではなく、頭を使うもの・・・例えば、戦略を立てなければ勝てないようなものなら、良いかもしれない。
実際、高度なシミュレーション・ゲームみたいなものは、実用的な知的能力を伸ばすことが出来るかもしれない。
しかし、それだけでは、たとえ優れた能力を磨いても、その能力を発揮する機会に恵まれず、宝の持ち腐れになる可能性が高い。
ゲームとは異なる部分の能力・・・たとえば、ある程度のコミュニケーション能力や世間的常識を、仕事を通じて習得しておかなければ、仮に特別な能力を持っていても、なかなか、それを活用することは出来ないのだ。

ところで、なぜ能力を発揮しなければならないかというと、人間は、何もしなければ、つまらないことを考え、その考えが心を汚染するからだ。
ここはとても重要である。
私は、引きこもっていてずっと暇だったから、それが本当であることがよく分かるのである。
その時、つまらないことばかり考え、心が汚染されてしまい、それは今でも暗い影になっている。
どうしても何もやることがないなら、呪文を唱えると良いと思う。
ただし、何もしていない間ずっと唱えるくらいの気持ちでなければならない。
念仏でも良いし、般若心経の呪文でも良い。
少し気に入りさえすれば、何でも良いのだ。
念仏や呪文は、荒い想念を起こさないための、不思議な響きを持っているのである。
それら(念仏や呪文)は、隣の人にも聞こえないくらい、小さな声で唱えるのが良い。
心で唱えても良いのだが、それだと、心が想念に乗っ取られてしまうことが多いのである。

だが、やはり、出来れば、生活費のために、何でもいいから熱心に働いた方が、効果は高いのだと思う。
とはいえ、働けないなら仕方がない。
そして、念仏や呪文を唱えていれば、私のように、やがてチャンスが訪れ、働けるようになると思う。









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挫折した時、こう考えれば人生は急上昇する

考え方を変えて、人生が良い方向に急展開した人がいる。
そんな興味深い実例を採り上げる。

今は聞かなくなったが、夏目志郎さんという超一流のセールスマンがいた。
彼は日本に帰化したが、元々は中国人だ。
彼は戦後、大金を持って日本に来たが、詐欺に遭い、一文無しどころか、多額の借金を背負ってしまった。
さらに、事故に遭って脚を折るなど、彼の前半生は散々であった。
ところが、少し前にクリスチャンになっていた夏目さんは、こんなふうに神に祈ったらしい。
「神様、これまでのことは私の責任です。でも、これからのことは、あなたが責任を取って欲しい。私ももう34歳なので、一生の仕事が欲しい」
翌日、すぐに神の導きがあった。
外資系企業が、夏目さんをセールスマンとしてスカウトに来たのだ。
それから、夏目さんはセールスマンとしての才能を開花させ、成功への階段を駆け上ることになる。

「神様、責任を取って」という発想は、とても良い。
さらに面白いのは、「これまでのことは私の責任」としたことだ。
実際は、これまでのことも、神の責任である。
なぜなら、全ては神の意思によらなければ起こらない。
だが、夏目さんは、それを自分の責任としたことで、ある大変なことを成し遂げたのである。
それは、自分が神に近付いたということなのだ。
だって、神様に責任があることを、自分の責任と言ったのだから、自分は神でないといけないのである。
これは、神になるための非常に優れた思考法だ。
ニーチェやイェイツもそれを知っていたが、皆、散々な人生を歩んできたから分かったのである。

あなたのこれまでの人生も散々だったかもしれない。
ならばあなたも、同じように考えると良い。
「これまでの散々な人生の責任は私にある。しかし、今後の人生の責任は神様に持っていただく」
後半は、一見、不遜な考え方である。
しかし、そうではない。
これは、自分は無力と思い知ったからこその発想なのだ。
仏教的に言えば、自力から絶対他力に切り替えたということだ。
自分には何も出来ないから、阿弥陀如来という絶対者に全てをまかせる証として念仏を唱えるという、浄土仏教の教えである。

インドの聖者ラメッシ・バルセカールは、
「あなたには何もできない。全て、神様にさせられるだけである。だから、全ての責任は神様が取ってくれる。あなたが責任を取る必要はない」
と教えた。
だが、インテリの彼の後の教えは難し過ぎた。
彼も、どうすれば良いということは教えたのだろうが、それは、ほとんど誰も出来なかったと思う。
だがら、夏目さんのようにやれば良い。
人生というのは、最初から最後まで順調ということはない。
どこかで必ず挫折する。
その時に神様に言うのだ。
「これまでの責任は私にある。しかし、これからの責任は神様が取って下さい」
そして、物事がうまく行き出したら、この成功は、我が力ではない、私はさせられているだけと自覚するのだ。
それで人生は約束される。
だが、我が力と思い始めた途端に急降下するのが、人間の常のパターンなので気をつけて欲しい。









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生き甲斐をなくした時には

人間は、生き甲斐とか楽しみがなければ生きてはいけない。
私が知っている80代の女性は、普段は粗食だが、週に2度、ちょっと豪華なケーキを食べることを何よりの楽しみにしていて、それがあるからいつも元気で、頭も少しもボケておらず、60代にしか見えないほどだ。
だが、別の100歳近い女性は、介護施設に入っているのだが、非常に不満を持っている。というのは、この女性は、皿いっぱいのイチゴに練乳をたっぷりかけて食べたくて仕方がないのに、イチゴが出るとしても、ほんの数個で、練乳も少ししかかかっていないからだ。
だが、彼女の望みはちょっと贅沢過ぎるかもしれない。
最初の80代の女性くらいのことで満足できる方が幸せなのである。
ちなみに、この2人のお婆さんは、母娘である。
私はお年寄りが好きなので、こういった例をよく知っているのである。

食べ物の楽しみの力は偉大なものだ。
戦争中、後に有名なシェフになる日本人コックがシベリアで捕虜になっていた時、ロシア兵に、重症を負った日本人兵士のところに連れていかれ、「彼は朝まで持たないだろうから、最後に好きなものを食べさせてやってくれ」と言われた。
コックが、その日本人兵に「何を食べたいか?」と聞くと、彼は「パイナップルが食べたい」と言う。
そんなものがあるはずがなかったが、コックは、フライパンを使って、リンゴを砂糖でパイナップルそっくりに調理し、自分の手で、食べさせてやると、その日本人兵は全部食べた。
コックは、もう二度と、この日本人兵に会うことはないと思ったが、しばらくして、収容所施設内を散歩していると、声をかけられ、振り向くと、驚いたことに、あの時の日本人兵が、元気な姿で歩み寄って来た。
その日本人兵は言った。
「あんな美味いものが食べられるなら、もう一度、生きてみようという気になったのだ」

私も、少し前に、休みの日の昼には、百円そこそこのケーキを食べることにして、それが大変な楽しみになっていたが、やがて、なんとなくやめてしまった。
後の楽しみは、初音ミクさんの歌を聴いたり、コンサートの映像を観るだけになったが、もう、その思い出を胸に死んでもいいかなと思った。
それで思うのだが、もし、生き甲斐がないなら、最後に悟りでも開いてみればどうだろう?
ただし、ラメッシ・バルセカールによれば、それは楽しいことである訳ではないようだ。
なぜなら、悟りを開くということは、自分が消えるということで、つまり、悟りを楽しむ自分はいないのだからだ。
だが、それでも良いじゃないか?
初音ミクさんの歌、『FREELY TOMORROW』にあるように、

暁に染まってく 星空のように
哀しみが苦しみが消える
~『FREELY TOMORROW』(作詞:Mitchie M・ЯIRE、作曲・編曲:Mitchie M。歌:初音ミク)より~

だけで十分である。
悟りを開くためには、心の中で、微かな声で、「私、私、・・・」と自分に呼びかけるだけで十分である。
だが、悟りの手前で、魔道に陥るか、ミクさんと一緒に消えることができるかに分かれるだろう。
なぜなら、自我が弱まった時、不意に神秘な力と一体化し、「あれ、これじゃあ何でもできてしまうぞ」ということになってしまうからだ。
それまで、辛い人生だった人ほど、闇黒面の誘惑に晒され、危険なことになる。
だから、何か1つ、楽しみを持ち、小さなことで満足することを覚えておいた方が良いのかもしれない。
いや、それよりも、力を抜いて生きていれば、きっと楽しいことが見つかるはずだ。
『FREELY TOMORROW』だって、本当は、明るい希望の歌で、「奇跡は起きる」って、ミクさんが励ましてくれるのだ。









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赤い目をした金色の猫からのメッセージ

私は、昨日、暇だったので(年中暇だが)、最上の呪文、「私は在る」を1日心の中で唱えていると、心の中から「私は誰か?」という声がする。
ラメッシ・バルセカールだったと思うが、「私は誰か?」という問いは、無理に起こすものではなく、自然に起こると述べていたように思うが、それなら本当だ。
ラマナ・マハルシも、「私は誰か?」を呪文にしてはならないと言っていたらしいが、その理由のところとなると、マハルシから聞いた人が理解できなかったり、翻訳者の訳がうまくいってなかったりで、さっぱり分からない文章になっていたかもしれず、私は覚えていない。
だが、私に分かったことで言えば、とにかく、「私は誰か?」という想いは自然に出てくるものであり、自分で問う必要がないし、問わない方が良いのだろうと思う。

「私は在る」あるいは「我、在り」という想いを持ち続けると、私は時々、幻を見る。
その幻に意味があるのかどうかは分からないが、なかなか面白いものだ。
昨日は、ものすごく綺麗な金色の猫を見た。
あまりにリアルなので、現実かと思ったが、その猫の目が、鮮やかな赤だったので、やっぱり幻だと分かった。
そんな幻は、単に想念を消す時に現れる価値のないものだと言う聖者がいたが、美しいものには価値がある。
せっかく良いものを見たのだから、つれなく無視することもない。
とはいえ、捕まえようとも思わないがね。
以下、猫のメッセージを補足説明する。

「我、在り」は、神様やイエス・キリストが自己の名乗りとして言う言葉だ。
人間が言うべき言葉じゃないと思われるかもしれない。
キリスト教では、人間は忌むべき罪人であり、せいぜいが、神に飼われる子羊だ。
インドの聖者も、自我は消えてなくなるべき悪魔のように言う。
そりゃ、確かに、騙してでも金を欲しいと思うのが自我だったり、可愛い女の子のいる家に小さな可憐なパンティーでも干してあれば誰も見ていないなら持って行こうと思うのが自我かもしれないが、そんなに貶めるのも可愛そうだ。
不良少年や不良少女、あるいは、悪い大人だって、こっちがにっこりとして友人扱いすれば、案外にいいやつなのだ。
ただ、その後でまた、彼らはまた自己中心的なことをするので、世間は彼等を抑え付けようとするが、そんなことは限界がある。
なんとか、もっとうまくやれないものか?
世間で揉まれると正しくなると言う人もいるが、実際はひねてくるだけだし、道徳や宗教なんてものを説くと、どうしようもなく歪んでくるだけだ。
ところで、旧約聖書のヨブ記には、「神と仲良くしないさい。そうしたら幸せになるよ」と書かれているが、これは妙にキリスト教らしくない。
ムチや棒で叩いて従わせるべき人間が、神と仲良くできるのだから、実はキリスト教にとっては革命的なことなのに、どうもスルーされているようだ。
だが、それ(神様と仲良くしたら幸福になる)は本当だ。
江戸末期の神道家、黒住宗忠は、人は天照大神と一体であると言い、追い剥ぎに「十両出せ」と言われたら、「今、五両しかないから、残りは明日」と言って、翌日、借金して五両を用意し、追い剥ぎに対し、別に咎めもしなければ、怒りもしなかった。
仏教の妙好人と呼ばれるような人達も同じだし、『レ・ミゼラブル』のミリエル司教もそうだったが、彼等は、優しいというより、楽しくやっているだけなのだ。
彼らは悟りを開いている。
仏教の無量寿経にも、心がそのまま仏と書かれていて、これは浄土宗の経典だが、宗派の違う一休さんも、いつも、心が仏と言っていたものだ。
密教の経典には、どれかは忘れたが、女を邪まな目で見る想いもまた仏だといったことが書かれている。
じゃあ、どんどんおやんなさいと言うつもりもないが、さりとて、いちいち悔い改める必要もない。
「私は在る」と神様のようなことを想い続けると、なんのことはない、そんな心は自分でプログラミングしたのだと分かる。
「私は在る」と言うのは、本質では、「我、神なり」という意味だが、イメージとしては、立派な神殿の中で、神様と同じテーブルで親しく食事でもしている感じである。
私と神様の区別がつかないという状態だ。
これを、どう表現すれば良いだろう。
ハチが巣を作るのは、労働のように見えるが、楽しいというよりも、快感なのだそうだ。
そっとやそっとでやめる訳にはいかないのである。
それは、人間というか、日本人でいえば、一生懸命阿波踊りを踊っている状態だ。
あれって、熱心にやっていると、楽しいだけでなく、快感で、それが神と一体になった状態だ。
そして、実に良いことに、人間は、どんなことも、そんなふうにできるらしい。
これはグッドニュースと思う。
まあ、慌てず、呪文を唱えることだ。









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