ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

ラマナ・マハルシ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

一割の理性

昨日も書いたが、人間は、心配をしなければ、安心していれば、何でもうまくいくし、全てうまくいくと思って安心していると、本当にうまくいく。
しかし、医者が、心配してやるべき患者の心配をせず放置したため、患者が全身麻痺になったり、死んだりする例は少なくない。
教師が、心配してやるべき生徒を心配せず、手を打たなかったため、生徒が深刻な状況に陥ってしまうことも多い。
本当に、これは何なんだろうと思う。
だが、このことを理屈で考えていくと、複雑になって混乱し、収拾がつかなくなる。
答はシンプルなはずなのだ。

つまり、人間、9割はいい加減で良いが、1割の理性を持っていなければならないのである。
先日、亡くなられた敬愛すべき賢者、竹村健一さんはよく「僕なんか、ええ加減ですよ」「ええ加減が一番ですよ」とよく言っておられたが、彼は9割いい加減でも、1割は真面目だったのだ。
ところが、ある東大出の仏教学者が、「良い『いい加減』は、仏教で言う中道のことで、これは『いい湯加減』です。しかし、中庸は『ぬるま湯』なんですよ」と、うまいことを言ったが、こんな理屈では何も変わらない。
最初に述べた、患者を殺す医者や、生徒を破滅させる教師は、1割の理性も放棄したのだ。

いや、まだ違うなあ。
安心の仕方も大切なので・・・と、だんだん理屈っぽくなると、そろそろ混乱するので、早く結論を出さねばならない。
一休さんは、弟子への遺言の封を閉じ、「本当に困った時に空けよ」と言って渡した。
そして、弟子達が、本当にどうにもならない状況に陥った時に、それを開くと、「心配するな。なんとかなる」と書かれていた。
大切なことは、「なぜ、なんとかなるか」である。
ラマナ・マハルシは、「汽車に乗っているのに、自分の荷物を頭に乗せて苦労する必要はない。荷物を降ろして安心しなさい」と言ったが、これは、神の万能の力を汽車の力に喩えたのだ。
因幡の源左(いなばのげんざ)は、牛に3束、自分も1束、草を運んでいたが、どうにも疲れたので、牛に自分の分も乗せたら、牛は全く平気だった。それを見て悟ったという。この場合、仏の力を牛の力に喩えて解ったのだ。
一休も、「仏が守ってくれるから心配するな」と言ったはずなのだ。
だが、患者を殺す医者とは、汽車にも乗らないか、荷物を忘れる者だし、草を刈らなかったり、牛を導かない者である。
神も仏も、そんな者はどうしようもない。

こういったことを、ひっくるめてうまく言ったのが、スーフィー(イスラム教神秘主義)の格言、
「神を信用しろ。だが、ラクダはつないでおけ」
である。
少し長く言えば、
「神を信用して安心しろ。だが、ラクダは自分でつないでおけ」
ということだ。
アメリカの公式モットーは、
「イン・ゴッド・ウィ・トラスト(我々は神を信頼する)」
である。
しかし、やはり一言足りないのだ。
これに、Googleのモットーをくっつければ良い。
「我々は神を信頼するが、邪悪にならない」
私は、スーフィーの言葉の方が好きであるが。









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釈迦やマハルシや荘子らの簡単だがなかなか出来ない成功法

釈迦やラマナ・マハルシは、簡単で明白な成功法を説いているが、それを知る者は少ない。
釈迦に関しては、『大パリニッバーナ経』の最初になり、訳本は、岩波書店の『ブッダ最後の旅』(中村元翻訳)がある。
それは、7つの繁栄の法で、個人と言うよりは、国家の成功法であるが、個人でも同じと思う。
1.会議を開き、多くの人が参加する。
2.いつも協力し合う。
3.定められた掟に従い、勝手な掟を作らない。
4.古老を厚く敬う。
5.淑女や令嬢を無理矢理自分のものにしない。
6.祖先を敬う。
7.立派な修行者を敬う。
この内の1つでも守るなら、繁栄のみがあり、そんな国を侵略しようとしてもうまくいかない。
もちろん、上記のことは、肯定的な意味に捉える必要がある。
例えば、3の「定められた掟に従い、勝手な掟を作らない」は、「古臭い伝統や教義にしがみつけってことか?」などとうがった見方をするものではない。
どんな国にだって「美しい流れ」はある。それを大事にしろってことだ。
これらの法の良いところを理解する本当の賢さも必要であり、そのためには、国よりも個人の方が容易く、国の状況が悪くても、個人として繁栄することは可能かもしれない。
どれか1つを重視するなら、私ならNo.5の騎士道精神をしっかり守ろう。

ラマナ・マハルシの成功法はもっと簡単だ。
だが、誤解される。
マハルシの教えは、人生の神への明け渡しだ。
この宇宙を維持している万能の力に全てまかせることだ。
ところが、そう言われると、「神の意思により自分が不幸になる恐れがあるのではないか?」「怠惰になってもいいのか?」などと考える者がいる。
そして、世の中には、「神にまかせておけばハッピーラッキー、金持ちにもなる」なんて言う者がいて、そんなことが書かれた本が売れたりする。
しかし、話は簡単で、自分の愚かさに応じて、嫌なことは起こる。そうでないと大変だと思うのだが・・・
甘やかされた馬鹿を叱らず、ご機嫌を取っていたら悲惨なことになるのは当たり前である。
一方、神は愚かではなく、立派な人を懲らしめたりはしない。ただし、特別な素質のある者に対しては別だろう。
荘子の教えも全く同じなのだが、『荘子』には、その結果、悲惨な状態になる者が沢山描かれているから困るのである。
立派な人なのに、貧困に喘いだり、難病奇病になって苦しんで死んだり。
ただ、それでも、彼らは幸福であった・・・ということになるのだが、「そんなの嫌だ」と言いたくもなるだろう(笑)。
まあ、そこらは、荘子の時代の、庶民の悲惨な境遇を考えれば仕方がないことだ。
今の時代に、そんな心配はいらないし、そももそもが、荘子の時代ですら、上記のことは、あくまでやむなく極端に書いただけである。

馬鹿には、釈迦やマハルシや荘子の教えも届かない。
それを見越し、釈迦やマハルシは、念仏やジャパ(神の名の称名)を教えたが、荘子はあくまで道理を丁寧に説いた。
イエスの教えも根本は明渡しであり、そこに至り易いよう教えたが、権威ある馬鹿が歪めてしまった感がある。
だが、ちょっと賢くなれば簡単なはずである。









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最上の真言

宗教は、謙虚さと敬いがあれば良いものになるが、傲慢と蔑みがあるとロクなものにならない。
あるいは、本来の宗教は、謙虚さと敬いを育てるものだが、傲慢と蔑みの心を育てる宗教が多くなってしまった。
いや、芸術や科学も、本来、学べば学ぶほど、謙虚で敬いの心を持つようになるはずだが、学位が上がるにつれて傲慢と蔑みの心を持つ愚か者が多いのだろう。
何かが間違っているのである。
その何かとは、命の誤用で、早い話が、利益優先でやれば、必ずそうなる。

だから、無条件で、芸術や科学や宗教を良いものと思っている人は少ない、もしくは、まずいない。
本来、念仏や神の名の称名を行えば、自然、良い人生になるものだが、そういった「宗教臭い」行いに抵抗を感じてしまうことが多い。
私も、夜、寝ながら念仏を唱えることが楽しみで仕方がなかったこともあったが、いろんな法事でお坊様の口上を聴くと、途端に念仏嫌いになるのはなぜだろう?(笑)
あるいは、宗教家が書い宗教の本などを読むと、もう全然、念仏を唱える気がしなくなる。あるいは、経典を読む気もなくなる。
『歎異抄』は少しも宗教臭くないので好きだが、これも、宗教家が解説したものを読んだら、嫌いになる可能性が高い・・・いや、嫌いになったことがある。

発明家で能力開発のスペシャリストであった中山正和さんのように、般若心経の呪文を、単に妄想を切る手段として使う手もありとしたように、念仏や神の名も使えるかというと、使えない。それらは、観念や感情の雑味を呼び起こすからである。
そこで、ラジカル(主に政治用語の急進性の意味。化学用語のフリーラジカルだと印象が悪い)という訳ではないが、精神に良い作用を与える言葉として、「神」「私」があるということを知っていると役に立つかもしれない。
「なんとかの神」と言うと宗教であるが、「神」と言うと、これも人それぞれだが、「宇宙の意思」に近い意味に感じられる。
宇宙の意思は、無人格という訳ではないが、人間の人格とは差があり過ぎるので、人格がないように感じるのである。
つまり、神が各国の神話に出てくるような程度の低い心を持っている訳がないではないかとうことだ。
宇宙に何らかの意思があることは、何となく、あるいは、微かに感じるのである。
それも感じないと断言する者が、スティーブン・ホーキングやレイ・カーツワイルのような無神論者になるように思う。
カーツワイルは「神は存在しない。しかし、やがて生まれる」と言う。つまり、未来の進化した人間が神なのである。
不遜の極みと思うかもしれないが、それはそれでアリである。
もし、彼らほど徹底してはおらず、神を畏れる気持ちがあるなら、丁寧に「神」という言葉を声、あるいは、心で唱えれば、その威力に驚くことになる。
だが、「神」を呪文にしてはいけない。
一時に一度、真摯に唱えるのである。
呪文というか真言にしたければ「私」を使うことが奨められるかもしれない。
ラマナ・マハルシは、ラーマやクリシュナの名を唱えるように、「私」と唱えても良いと言っていたようだ。
「私」こそが神の名であるのだ。
だから、最上の真言は「私」であり、インドで聖音と言われる「オーム」に優るものであるとも言う。

「神」と一度だけ、出来る限り丁寧に唱え、後はずっと「私」と唱えるという方法である。
ただ、「私」もやはり丁寧に唱えるに越したことはなく、私流には、心の中で微かな声で唱えるのだが、難しければ、呼吸を微かにして心で唱えると良い。
これだけ覚えておけば、まず・・・いや、全く心配はないだろう。









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最も高貴な心

人間にとって、最も高貴な精神は、自分を超える者を敬うことであると思われる。
それは、一般的には、職業、武術、芸事の師に対する場合、あるいは、会ったこともないが崇拝する人物に対する場合などが多い。
ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』のように、普通の女の子を女神のような存在と見なして崇めることもある。
あるいは、ロオマン・ガリーの『自由の大地』のように、空想の少女を崇めたり、初音ミクさんのようなバーチャルな存在を崇めることもあるだろう。
だが、どの場合も、人間の精神の高度な部分の現われであり、それは良い影響を及ぼし、真摯さや熱心さによって、極めて優れた、さらには、不思議な効果を現す。
そして、自分を超える者を敬うことの中でも、最高のものが、念仏や、神の名を唱えるジャパ、あるいは、ナーマスマラナと呼ばれるものだ。
だから、念仏やジャパに良い効果がないはずがない。
キリスト教の「キリエ・エレイソン」や「ザ・ジーザス・プレイヤー」も同じようなものだと思う。

ところで、変わった・・・と言うのもおかしいが、こんなやり方もある。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』の中で、イエス・キリストは「神」という言葉を使うことを奨めていて、これさえ覚えていれば、他は忘れてよろしいとまで言った。
ただ、「神」という言葉を公式にしてはならないと言い、著者のベアード.T.スポールディングも、「神」という言葉の至高の効果は認めながら、この言葉を呪文にしてはならないと言う。
では、どうすれば良いかというと、心を込めて、あるいは、集中を持って一度だけ唱えるのである。それは、声に出しても、心で唱えても全く同じである。
これは書かれていなかったが、起床や就寝の時、あるいは、疲労を感じた時、あるいは、くつろいだ時に、そうやってしっかり唱えると、優れた効果があるだろう。
親鸞の念仏も、これに近いものだと思う。
また、やはり『ヒマラヤ聖者の生活探求』にあったが、イギリスのL.H.ロースンがやったように、「神の他に何もない」という言葉として唱えても良い。常にこの言葉を使うロースンが、著者の目の前で奇跡を起こす様子が描かれていた。

ラマナ・マハルシは、最高のマントラ(真言)であり、また、真の神の名は「私」であると言う。
彼の有名な言葉「私は誰か?」に関しては、彼はこれを呪文にしてはいけないと言ったが、「私」に関しては、常に唱えよとも教えている。
私の中にある真の私が、私を超える者・・・神なのである。

庶民が、無知・・・という訳ではないが、情報が少なかった時代には、法然や親鸞のような人が、「南無阿弥陀仏」と唱えよと教え、あるいは、日蓮のように「南無妙法蓮華経」と唱えよと教えるのは良いことだったが、今の時代は選択肢が多く、あっちにいき、こっちにおきしている間に時間が過ぎ、一生が過ぎてしまうかもしれない。
だが、どれも、「自分を超える存在を敬う」という、同じことなのである。
あまり迷わず、自分の好きなやり方を選べば良い。
それをやれば、絶対に間違いはないだろう。









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心配を卒業する

昨日、こんな話を書いた。
経営コンサルタントの船井幸雄氏が、創業した船井総研の社長を後継者に譲る際、10ヶ条だったか20ヶ条だったかすっかり忘れたが、「経営のコツ」を書いて渡し、「この通りにやれば大丈夫」と言ったようだ。
しかし、新しい社長は、なかなかうまくいかず、船井氏の自宅のファクシミリには、深夜まで新社長からの質問が送られた(電子メールもなかった時代)。
それで、自分の間違いに気付いた船井氏は、「あれは最上のコツでなかった。こっちが最上」と言って、これも、5つだったか、3つだったか、あるいは、1つだったか忘れたが、その最上の経営のコツを渡し、それで、新社長からのファクシミリは来なくなった(うまく経営出来るようになった)。
では、その最上の経営のコツは何かは、気になるところだ。
それは、経営以外のことにも有効に違いない。
そう思っていたら、私は船井氏の『法則』という本を電子書籍で買ったら、ややシチュエイションは違っていたが、船井氏が新社長に、こんなアドバイスをする話があった。
「いっさい、何も心配しなければいい。それですべてうまくいく。そう思って安心してやってごらん」
おそらく、最上のコツはこれなのだろう。

もちろん、船井氏の後継者の新社長に、能力があり、経験もあるからこそのアドバイスであるが、「心配するな。安心しろ」が究極の極意であることは解る。
「地獄」と形容しても良いであろう、アメリカ海軍特殊部隊ネイビーシールズの入隊試験である過酷な訓練を耐え抜く者達は、頭の中で常に「大丈夫」とつぶやいているという話がある。
日本でも、受験生を一番安心させる言葉は「大丈夫」なのだそうだ。
大丈夫とは、つまり、「心配するな、安心しろ」という意味だ。
江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠の教えの究極は、「全て神にまかせ安心する」なのだと思う。
私はついつい、「そんなことを聞いたら、怠惰になる者が多いのではないか」と思ってしまうし、実際、そうかもしれないが、それで怠惰になってしまうような間抜けは、どの道駄目なのだろう。
有名な妙好人である因幡の源左(いなばのげんざ)は、苦労して担いでいた草を牛に乗せ、楽になった時、父親の遺言であった「これからは親様(阿弥陀如来)を頼め」の意味が解り、念仏を唱えながら良い一生を送ったのだと思う。
インドの聖者ラマナ・マハルシは、21歳の時、彼を信奉する者の質問に筆談で答えたことが(マハルシは沈黙の行の最中だった)小冊子として出版されたものの中で、
「列車に乗ってまで、自分の小さな荷物を頭に乗せている必要はない。荷物を降ろして安心しなさい」
という喩えで、全てのものごとを動かす神にまかせ、心配することをやめるよう教えている。

「大丈夫」という万能呪文や念仏は、心配せず、安心するためのものと言えるだろう。
もちろん、さっきも少し述べたが、それで怠惰になったり、思いやりを持たない者は、どうやっても駄目だが、呪文や念仏を長く続ければ、自然にやる気も理性も出てくるのだと思う。
そして、心配で苦しみ抜く経験をしてこそ、宗忠やマハルシの教えが響くのである。
その意味では、一度は、しっかり心配しろであるが、いつまでも心配せずに、心配を卒業すべきである。









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