ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ラマナ・マハルシ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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この最後の方法に賭ける

神の名を唱えるナーマスマラナの力の基本的原理は極めて難しい。
14世紀のインドの聖者ナーマ・デーヴァ(ナーム・デーヴ)は、『聖なる名前の哲学』という短い聖典にその概要を美しく表し、それが書かれた小冊子を発見したインドの聖者ラマナ・マハルシは、それを自ら書き写したものを生涯、手元に置いたと言われる。
『聖なる名前の哲学』は、高度な原理を直観的に分かるよう、抽象的に、詩的に表現している。
普通の人がちょっと見たくらいで意味が分かるものではないが、ラマナ・マハルシは、直観的に真理を感じたのだろう。
(『聖なる名前の哲学』の全文は、ナチュラルスピリットの『あるがままに』と『ラマナ・マハルシとの対話 第2巻』に収録されている)
阿弥陀如来の名を唱える念仏も、原理はナーマスマラナと同じで、元々は、龍樹(りゅうじゅ)の『十住毘婆沙論』(じゅうじゅうびばしゃろん)』の中の『易行品』に、簡易に解説されているが、その元となる『華厳経』は難解で手に負えないと思う。
そんな訳で、ナーマスマラナや念仏に強い効果があることは、私にもそれなりに理解出来るが、詳細な原理を究めるのは、相当難しい。
だが、とにかく、ナーマスマラナ(念仏を含む)の実践者が確実に恵を受けていることや、信頼出来る人物達が効果を保証していること、そして、後は、直観を働かせていただければと思う。
つまり、原理を知る必要はなく、実践すれば良いことである。

真言、祝詞、祓詞などにも、一部例外を除き、神仏の名、あるいは、神仏の別名が含まれており、原理的にはナーマスマラナと共通する。
分かり易い例で言えば、弥勒菩薩の真言「オン、マイタレイヤ、ソワカ」で、マイタレイヤは、弥勒菩薩の本来の名であるマイトレーヤのことだが、このくらいの発音の違いは差し支えない。
阿弥陀如来真言の「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」も、アミリタが、アムリタという阿弥陀如来の別名であると思われる。実際、阿弥陀如来の陀羅尼(だらに。長い真言)では、アムリタという言葉が何度も使われている。
アムリタだけでも力のある真言であることは知られている。

最近、YouTubeなどで、「トホカミエミタメ」という祝詞(あるいは祓詞)に力があることが、よく投稿されているが、実際、素晴らしい力があるので、唱えていただきたい。
ただ、この言葉は、祝詞ではなく、神の名である。
しかも、8柱の神である。つまり、この一語一語が神の名なのである。
そして、正確には、「トホカミヱヒタメ」と思う。「トホカミエミタメ」では、「ミ」の神が重なり「ヒ」の神がいない。
とはいえ、「トホカミエミタメ」で力がないわけではない。7柱の神の名なのだから。
だが、よろしければ、「トホカミヱヒタメ」と唱えていただければと思う。

細かい原理は気にせず、ただ、神仏の名を唱えれば、一切の問題は解決し救われる。
今朝も書いたが、「ア(アー)」の神の名だけでも、唱えれば悩みは消える。
こういったことを、直観が肯定すると思う。
それなら、大いに実践していただきたい。
人生、何もかもうまくいかないと思うなら、むしろ幸いである。それなら、この方法に賭けてみると良い。
親鸞も言ったものだ。
「法然上人に騙されたとしても(念仏に効果がないとしても)、どうせ私には、他には何も出来ない」








自分以外の何物にも従わない

世界は実体ではなく幻のようなものであるというのは、はるか昔のインドで断定的に語られていた。
ところが、実際は、インドだけでなく、およそあらゆる文明発祥地で、何らかの形では、古くからそう言い伝えられている。
そして、科学的実証がないまま、哲学や思想において、それ(世界は幻であり実体でない)が真実であることは、かなり確固としたものになっていった。
その後、物理学において「人間原理(「宇宙が人間に適しているのは、そうでなければ人間は宇宙を観測し得ないから」という人間本位の論)」の解釈として、世界の有り様が人間に依存していると考えられ、また、精神科学や量子論などで、世界は脳、あるいは、心が作り出す幻のようなものであることが、理論、ないし、仮説として説明出来るようになった。
日本においては、思想家の吉本隆明氏の『共同幻想論』や、それをヒントにしたと思われる心理学者の岸田秀氏の『唯幻論』が一般の知的層に人気があるが、これらを、彼らと近い年代の解剖学者の養老孟子氏の『唯脳論』と併せて考えると、話が噛みあう部分が多いと思う。

インドのラマナ・マハルシによれば、世界は心が作り出した幻想であるが、心が活動しているなら、真の自己である真我は隠れてしまっている。
心が消えることで、(隠れていた)真我が現れるが、そうなれば、心に依存する(つまり、心が作った幻である)世界は消える。
そして、真我が神なのである。
よって、世界が実在として現れている時、人間は神ではなく惨めで卑小な人間であり、人間が神になれば、世界は存在しない。
世界は、(偽の自己である)心が作った夢のようなものであるが、実際、マハルシは、夢と現実世界に何も違いはないと言う。

世界が幻であると言っても、誰もが楽しい夢を見たがるように、世界が楽しい幻であることを望むだろう。
では、楽しい幻とは何だろう?
それは、自由であることだ。言い換えれば、何者にも隷属しないということだ。
しかし、我々は、嫌悪する者達に隷属させられていると感じており、よって、この世界は楽しくない夢で、自殺してさっさと終わらせたがる者も増えてきた。

それなら、隷属を止めれば良い。
それには、どうすれば良いか?
神仏の名を唱えるナーマスマラナしかない。念仏もこれに含まれる。
なぜ、神仏の名を唱えると隷属から解放されるかというと、割と簡単な理屈である。
つまり、絶えず、心で神仏の名を唱えている者は、神仏にのみ従うと深い心で選択しているのであり、深い心で絶えず想うことは嫌でも実現される。
そして、ラマナ・マハルシが言う通り、神仏は真の自己であるのだから、神仏の名を唱える者は、実際は、自分が自分に従うことになるのである。
それこそが、本当の自由であろう。
だから、ナーマスマラナを行っている者は自由自在であり、そうやって世界を愉しむことで世界への執着から解放されれば、世界の一切は、真の自己である神仏なのである。












一番大切なもの

人間にとって一番大切なものは何だろう?
「もちろん命に決まっている」と言う者が多いと思うが、それが間違いとは言えない。
しかし、命より名誉を重んじる人もいれば、「いや、愛である」と言う者もいる。
まあ、「いや、一番大事なのはお金だ」と言うのは、なかなか共感や賛同を得られないかもしれないが、他人が否定出来ることではないかもしれない。
どの回答にも、明確な反論は不能で、議論を始めたらキリがない。
だが、一番大切なものは名誉や愛、あるいは、お金だと言う者は、極限まで行ったことがないのだ。つまり、それなりに恵まれていたはずだ。
それは、一番大切なものが命だと言う者でもそうである。
なぜなら、極限まで行けば、人間は割と容易く自分で命を絶ってしまえるからだ。

貧しく無知な女性であるサックバーイーは「一番大切なもの、それは神の名です」と断言し、それを聞いて震撼した偉大な聖者ナーマデーヴァは、サックバーイーの弟子になった。
本当に苦しい時、人は神に祈るとしても、何々を下さいとか、何々をして下さいなどとは言わないものだ。
せいぜいが、「ヘルプ!(助けて!)」と言うし、本当の極限状態では、それすら言わない。
ただ「神様!」と、普通は心で言うだろう。
純真無垢な12歳の少女だったサックバーイーが非道な家に嫁がされた時は、まさにそんな状況だったと思われる。
サックバーイーはパーンドゥランガ(クリシュナ神)を信仰していたので、パーンドゥランガの名を心で唱え続け、そして、救われたのである。
ナーマデーヴァは、神の名を唱えることの教義や、それに隠された原理を『聖なる名前の哲学』という短い手記にまとめた。
短いながら、それは偉大な聖典であり、一度読んで分かるようなものではないが、ナーマデーヴァ自身が神の名を唱えていたことが分かれば、同じことをすれば良いことはすぐに分かる。
仏教で言えば、仏の名を唱えることになる。
真言宗、浄土宗、浄土真宗の始祖とも言われる龍樹が、『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』の『易行品』で、「阿弥陀仏などの仏、菩薩の名を称せよ」と記しており、それが、後に念仏になったのである。
(ただし、龍樹はそれを『観無量寿経』や『阿弥陀経』など、『浄土三部経』を元にしたと考えられている)
従って、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えることが、サックバーイーやナーマデーヴァの神の名を唱えることと同じだし、「阿弥陀仏」「阿弥陀」「阿弥陀様」と唱えても良い。
同じく、観世音菩薩を信仰するなら(あるいは単に好きなら)、「南無観世音菩薩」「観世音菩薩」「観音様」と唱えれば良いのである。
家の宗派が何であるかは関係ない。神仏の名は心で唱えるのであるから、どの仏の名を唱えているかは誰にも分からず、よって、問題が起こることもない。

親鸞の教えが書かれた『歎異抄』と併せて考えると、我々は神仏の名を唱えること以外、何もやることはない。
何もやる必要はないということに関しては、ナーマデーヴァを心から崇拝していたインドの聖者ラマナ・マハルシも同じことを述べている。
ただ、正確に言えば、マハルシの場合、実際に、我々は何もしていないのだと言う。
為されるべき行為は為されてしまい、起こるべき出来事は起こってしまう。
それを、自分がしている、自分がしなければならないと思うのは迷いである。
大人になれば、働かなくてはならないと言われる。
だが、マハルシは、「働く運命にあれば仕事は避けられないが、働く運命になければ、いくら仕事を探しても見つからない」と言う。
マハルシ自身、社会的な仕事に就いたことはないし、私も、会社勤めをしていた時でも、仕事をしたことはほとんどなかった。
何もしなくて良いが、敢えて言えば、神仏の名を唱えることだけはした方が良い。それも、出来るだけ多く。
そうすれば、全てはうまくいくだろう。








少女が奇跡を起こした方法

ラマナ・マハルシ(1879~1950)は、C.G.ユングも崇拝した世界的に知られるインドの聖者で、広大な彼のアシュラム(道場)は今もきれいに保管され、世界中から巡礼者が絶えない。
マハルシは「沈黙の聖者」と言われるほど、ほとんど会話をしなかったが、そのわずかな会話の内容が、今も日本でも、書籍として発行され続けている。
マハルシは、少年時代、学校で、黒板に書かれたことを一度見ただけで完全に暗記してしまえたという話があるが、その驚異的な記憶力のおかげで、自分で聖典を持っていなくても、一度見せてもらえば内容を覚えてしまったらしい。
そのマハルシが、14世紀の聖者ナーマデーヴァ(ナームデーヴ)が書いた『聖なる名前の哲学』という、4つの文から成る、日本語の翻訳なら730文字ほどの小冊子を発見すると、それを自ら書き写し、小さな書棚に置いて大切に保管し、度々朗読して聞かせたという。
この話からも、ナーマデーヴァがいかに優れた聖者であるかが分かる。
『聖なる名前の哲学』の全文は書籍『あるがままに』や『ラマナ・マハルシとの対話 第2巻』(共にナチュラルスピリット刊)に収められていて、私は、PDFおよび画像にしてスマートフォンに入れている。

サイババの『ナーマスマラナ』(サティヤ・サイ出版教会)によれば、上に述べたナーマデーヴァの教えは、神の名を唱えることであった。
ナーマデーヴァは、サックバーイーという、牛糞(燃料にされる)を作る一般労働者によって神の名を唱えることの重要性を知り、サックバーイーの弟子になったのだという。
サックバーイーは、パーンドゥランガという神を信仰し、その名を常に唱えていた。
パーンドゥランガは、クリシュナ神の別名のようだ。
サックバーイーは、純真無垢な少女であった12歳の時、酷い家に嫁がされ、そこで辛い日々を送っていたが、パーンドゥランガに祈り続けた・・・彼女の場合、パーンドゥランガの名を心で唱え続けたのだと思われる。
それで、サックバーイーは、家を抜け出してパーンドゥランガの聖地パンダルブルに行くことが出来、そこで直接パーンドゥランガに会ったという。
『ナーマスマラナ』の104ページによれば、パーンドゥランガ(クリシュナ)はサックバーイーの姿になって家事を行い、そのスキにサックバーイーは家を出たということだ。
『ナーマスマラナ』に、ナーマデーヴァに関する面白いエピソードがある。
彼が、兄のグニャーナデーヴァと森を歩いていた時のことだ。
喉が渇いた2人に、古井戸が目に入った。
覗いてみると、その井戸の底の方に少し水があった。しかし、桶のようなものはなかった。
すると、グニャーナデーヴァは、鳥に姿を変え、井戸の底に降りて水を飲むことが出来た。
だが、ナーマデーヴァは、
「私の神は私の中におわす。神のところに行かなくても、私には神がそばにおわすことを保証できる」
と言って、座って神の名を唱え始めた。
すると、井戸の水が上昇してきて、ナーマデーヴァは水を飲むことが出来た。
福音書のイエスの奇跡同様、このお話をそのまま受け取っても別に構わないが、なかなかそうもいかないかもしれないので解説すると、この場合の水は神を喩えたものだろう。
グニャーナデーヴァは自分が神のところに行ったが、ナーマデーヴァは、神の名を唱えることで、神を連れて来ることが出来たのである。
サイババは、ナーマデーヴァのようでないといけないと述べた。
ナーマスマラナとは、神の名を唱えることであるが、書籍『ナーマスマラナ』には、念仏はナーマスマラナそのものであると書かれている。
無論、あらゆる神仏の名を唱えることがそうであろう。
祈るとか、信仰するというのは、どういうことか分からない人も多いだろうが、『聖なる名前の哲学』を読めば、ナーマスマラナが最も優れた祈り、あるいは、信仰であると分かるのである。








生きる気になるには

しっかりと社会人をやっていたら、「懸案事項」「懸念事項」に苦しんでいるだろう。
とはいえ、本当は、たとえ子供にだって、それらはあり、我々同様、それらは、暗くのし掛かる重い影である。

実際は、「懸案事項」「懸念事項」という四文字熟語があるわけではない。
「懸案」「懸念」に「事項」(一つ一つの事柄)をくっつけただけだ。
それで、「懸案」と「懸念」の意味は、
懸案・・・前から問題になっていながら、まだ解決されていない事柄
懸念・・・気にかかって不安に思うこと
だ。
違いは微妙だが、特に社会人にとっては、聞くと嫌な気分になる言葉だ。
つまり、誰もが、「重い問題」「憂うつな問題」を抱えているのだ。
「お前は悩みがなくていいねえ」なんて言う者がいるが、間違いなく、言われている方は心外だろう。
悩みのない人間はいない。
悩みも適度だと、むしろ良いものである。それが人間を賢く、強くする。
しかし、度を越した・・・つまり、自分の能力でどうにもならない悩みの場合は、深刻になってストレスを溜め、それで病気になることもある。

だが、イエス・キリストは「重荷がある者は、それを私に預けよ」と言った。
ラマナ・マハルシは「神はいかなる重荷にも耐える」と言った。
だが、「そう言われてもねえ」と思う者が多いだろう(笑)。

だが、私は、少し前から、よくこんな体験をしている。
確かに、現実に、懸案事項、懸念事項があり、非常に憂うつに思っていたが、急にそれが消えて、心が軽くなり、安堵感を心ゆくまで味わっている。
だが、その懸案事項、懸念事項が何であったか、分からない場合が多い。むしろ、憶えている方が稀だ。
神様や仏様が背負って下さったのだろうか?
分からないが、おそらくそうだ。

今朝も、こんなことがあった。夢であるが(笑)。
懸案事項、懸念事項の夢だが、惨憺(さんたん)たるものだった。
こんなものだ。
会社で、ある親しい人が、ある見込み客である会社に、その日に営業に行かないといけないが、その人は、忙しくて行けない。
そこで私は、自ら、「私が代わりに行こう」と申し出、その人は、有り難く、それに同意した。
ところが、その日、午後5時半になって私は、その約束を忘れてしまっていたことに気付いて慌てた。
ところが、そもそも、今、5時半だが、何時に行けば良かったのか分からない。あまりに私がいい加減なため、その確認すらしていなかったのだが、午後5時半なら、間違いなく、約束の時刻はとおに過ぎているはずだ。
無責任にもほどがある。さすが私だ(笑)。
とにかく、先方、また、その約束をした親しい社員に連絡をしなくてはいけないが、そのどちらの連絡先も分からない。カバンを探ると、やたら古いガラケーがあるが、それには、どちらの連絡先も入っていない。
万事休す(万策尽きる)である。
そして実は、私自身、私がこの約束を果たさないことで、ある非常に拙いことに巻き込まれてしまうことが分かっていた。
奈落に突き落とされた気分とは、こういうものだと思った。
その時、私は目が覚めたのである。
「ああ、もう問題は消えたのだ」とは思ったが、しばらくは、なかなか実感出来ずに不安が残った。しかし、むしろそのために、それが消えていく快感を味わえた。
そして、ようやく気が楽になり、素晴らしい安堵感に包まれた。
『新世紀ヱヴァンゲリオン』で、葛城ミサトは晩酌でビールをぐっと煽った後、「このために生きているようなものね」と言ったが、そうではなく、今日の私のような、解放感、安堵感を味うために生きているのだと思える。

そして、私は、この安堵感、解放感を、たびたび現実でも味わっているのだ。
どうやってかというと、やはり、神仏に重荷を託しているのだが、そのために何をすれば良いかというと、真言を唱えることによってだ。
最高の真言は、神仏の名である。
それらの神仏の力は無限であり、想像も出来ない。
我々の懸案事項、懸念事項など、あまりに簡単で、子供の遊びですらないだろう。
言い換えれば、神仏と一体になった者にとっては、世間のことは、あまりに簡単なので、子供の遊びのようなもので、自動的に進んでいくのだ。
ラマナ・マハルシも、そんなことを言ったのだと思う。

どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。神の至高の力がすべてのものごとを動かしているというのに、なぜわれわれはその力に身をまかせず、何をどうすべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか?
われわれは列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。
列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭にのせて苦労する必要がどこにあろう。荷物をおろして安心しなさい。
~『私は誰か?』(ラマナ・マハルシ述)より~

神に重荷を託す手段は真言である。
他にもやり方はあるし、マハルシも違うやり方を説いたように思うが、最も簡単で、唯一、誰でも出来ることは真言なのである。
例えば、念仏である。
岡田虎二郎が言ったのだと思うが、「念仏を唱えさえすれば、一切の問題が解決し救われる」のである。
荒唐無稽に思えるかもしれないが、そう思う者は試したことがないだけだ。
もちろん、1回や2回唱えただけでは足りないだろう。
だが、神仏の名は、神仏そのものである。
そして、阿弥陀仏の力は無限である。
それなら、むしろ、念仏を唱えれば、どんな問題も解決して当たり前である。
それは、観世音菩薩でも、クリシュナでも同じである。
実際、貧しい労働者が、神の名を唱えると、神が自ら、その者の日常の煩いを片付けてくれるのを目撃した聖者もいる。
そして、どうも、私の問題も解決してくれている。
心からほっとした時、人は本当の感謝を感じ、生きる気になれるのである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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