ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
あなたをSE、プログラマー、あるいは、超能力者にするブログ。ひきこもりも歓迎。

ラマナ・マハルシ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

人生は芝居、あるいは、バーチャル・ゲーム

インドや中国では、古代の賢者達がそう言ったからかもしれないが、人生は夢のようなものだという考え方があると思う。
日本でも、室町時代の歌謡集である閑吟集(かんぎんしゅう)に、「なにせうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ(人生は夢だ。深刻にならずただ狂え)」というものがあり、それはインドや中国の(仏教や道教の)影響もあるだろうが、やはり、人生は儚い夢と考えることもあるのだと思う。
私の場合は、誰かに教えられた訳でもないと思うのだが(実際は何かの影響はあったかもしれないが)、子供の時から、人生は芝居の舞台のようなものだと思っていた。
我々は皆、舞台で演技をする役者なのだが、人生が芝居であることを忘れてしまっている。
しかし、舞台での自分の役割が終わると・・・即ち、死ぬと、普通は、「ああ、これは芝居だった。つい真剣になって本物の世界だと思い込んでしまった」などと言うのだと「解っていた」。
芝居が終わった後の世界のことがよく分からないような気もするが、そうでないと芝居が面白くならないのだろう。

アイルランドの「20世紀最大の詩人」と言われたW.B.イェイツも、やはり人生は芝居だと思っていたのかもしれない。
彼は、人々が自分が舞台の役者であることを忘れ、ハムレットやリア王のように悩んでいる様子を滑稽だという詩を書いている。
だが、優れた役者・・・即ち高度な人間は、人生が芝居であることを自覚し、「良い役者は(観客は泣かせても)自分が泣いたりしない」と詩の中で述べている。
映画『燃えよドラゴン』で、ブルース・リー演じる、少林寺の拳法の達人リーが師に、「良い闘いは少人数で真剣に演じる劇に似ている」と言ったのも、何か面白いと思う。

いかに人生が芝居だとしても、盗みでもやったら、かなり嫌な役割になる・・・いや、実は、盗みをするのも、その後、悪い展開になるのも既定のシナリオであるのかもしれない。これもまた、古代の賢者達がよく言ったことである。

じゃあ、辛い役柄にある人は、どうすれば良いかと言うと、先程の閑吟集の歌のように、「真面目くさってないで、ただ狂え」ということになる。
また、やはり上で取り上げたイェイツは「リア王もハムレットも陽気なのだよ」と言う。つまり、悲劇を演じていても、醒めているばかりか、内心では演技を楽しんでいるのである。
芝居なんだから、隣の美人の奥さんにちょっかいを・・・出したら、まあ、ロクでもない展開が待っている。しかし、そんな役割が決まっているなら避けられない。
ラマナ・マハルシは、「働く運命なら仕事は避けられないが、働かない運命なら、いくら探しても仕事は見つからない」と言ったらしい。
なら、ニートも運命なのであるから、ニートも、その親も、真面目くさって深刻にならず、陽気で・・・とは、なかなかいられない。普通の人は三流の役者なのだ。

もちろん、現代では、人生は芝居というより、バーチャル・ゲームであるという認識に進みつつある。
『ソードアート・オンライン』などを見て、隠しコマンドを探してみても良いかもしれない。
そういえば、昔にだって『ゲームの達人』なんてものがあったのだよ。










呪文、マントラの効果の論理的根拠

呪文、マントラ(真言)がなぜ良いのかという論理的根拠はある。
まず、人間の心は、放っておいても、否定的な言葉を、頭の中で、1分に数百はつぶやいているという科学的研究結果があるらしい。
そして、人間が高レベルの能力を発揮するのは、頭の中のおしゃべり(あるいは、つぶやき)が止んだ時であると考えられるのである。
いわゆる、無になった状態を言うのだと思うが、その時に、時に異常なほどの高い力を発揮するというのは、今や不思議なこととは思えない。
それで、想念(頭の中のおしゃべりやつぶやき)を消すという意味でも、呪文には効果があるが、呪文の効果はそれだけではない。

1つ1つの呪文について考えよう。
ただ、出典をいちいち書いていたら大変なので、それは省く。
インドの聖者、ラマナ・マハルシが最高のマントラと言うのは「私」である。
常に「私」と唱えれば、悟りすら開ける。
悟りはともかく、素晴らしい真言であることは分かる。
なぜなら、これもマハルシの説明であるのだが、あらゆる想念は「私」に起こるのであるから、その想念の主である「私」に意識を向けてしまえば、あらゆる想念は消える。
つまり、頭の中のおしゃべりやつぶやきはなくなる。
能力が最大になるだけでなく、ついには「私」という想念も消え、悟りが開かれるというわけである。
興味深いのは、マハルシと同時代のインドの聖者、ニサルガダッタ・マハラジは「私は在る(私は存在する)」が最高のマントラと言うが、それも道理がある。
これも、マハラジの説明では「あなたが確信出来る唯一のことは、私は在るということだけ」なのだから、人間に解る範囲での究極の真理である「私は在る」に集中すれば、それより劣る概念や想念は消えてしまうのである。

ナーマスマラナというのは、神の名をマントラとして唱えることである。
親しみを感じる神の名があれば、それを唱えることで深い安らぎに至り、また、他の想念が消えることは期待出来る。
インドでは、ラーマ、クリシュナといった神が人気があるのだと思う。
日本では、マテラスオオミカミが人気があるし、アメノミナカヌシノカミの名も威厳があって、なかなか宜しいと思う。
また、念仏という形式になった「南無阿弥陀仏」や「南無観世音菩薩」も同じと思う。
阿弥陀如来の真言は「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」だし、観世音菩薩の真言は「オン、アロリキャ、ソワカ」である。
本来の名で言えば、阿弥陀如来はアミターバ、あるいは、アミターユスで、観世音菩薩はアヴァローキテーシュバラーである。
神仏の名の場合は、単なる心理学的、あるいは、脳科学的な効用だけでなく、むしろ、それらの言葉、あるいは、音が持つ霊妙な力が重要であると言われる。それは、なかなか科学的な証明は難しいと思うが、科学には解明出来ない摩訶不思議な力があるのかもしれない。
やや長いが、般若心経の最後の部分の呪文も、最高のものとされている。
それは、「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディスヴァーハー」である。
また、山蔭神道では、究極の言葉は「アジマリカン」であると言う。

『ヒマラヤ聖者の生活探求』では、究極の言葉は「神」であり、有声でも無声でも、これを唱えると全てを変えると言う。
ただ、「神」を呪文にしてはいけないと言う。
この著作の、3巻だったと思うのだが、イエス・キリストが「他のことは忘れてよろしい」として語ったのが「神」という言葉を使うことで、なるべく多く使えば良いが、このことを「公式」にしてはいけないと言う。その意味は各自考えていただければと思う。難しいこととは思えない。
例えば「神」という言葉、あるいは、「神の他に何もない」という言葉について瞑想するなどでも良いと思う。

私も、呪文、マントラに救われたことは数限りない。
だからこそ、上に挙げたことや、その数倍以上のことを覚えているのである。











陽気に狂え

ゲーテの『ファウスト』の序章に書かれていたが、人間は怠り勝ちで、すぐに休みたがる。
その結果、進歩が止まり、硬直した状態になってしまうのだろう。
では、それを防ぐにはどうしたら良いだろう。
一般的には、「本を読め」「人と会え」「新しいことにチャレンジしろ」とか言う。
東浩紀さんは、『弱いつながり』で、インターネット時代にGoogleに取り込まれてしまわないようにといった意味で言われていたが、移動する・・・つまり、旅が良いと書かれてたと思う。
未来工業という、残業禁止、ホウレンソウ(報告、連絡、相談)禁止という面白い会社では、全従業員のアイデア1つを500円(仕事と直接関わりないことでも良い)で買うことで会社を活性化しているらしいが、これも、停滞・硬直化を免れ、変化・進歩する方法だろう。
「遊べばいいんだ」と得意気に言う者もいる。
あるいは、「仕事が一番じゃ」と言う者は多いだろう。
しかし、いくら本を読もうが、沢山の人と会おうが、ずっと旅をしようが、遊ぼうが、働こうが、ある時期からは進歩しなくなるし、未来工業の従業員の全部が進歩している訳でもないだろう。

一方、E.E.スミスのSF『レンズマン』シリーズに登場する、宇宙で最も進歩した生命体アリシア人は、1つのことを百年見続ければ宇宙的な進歩があると言う。
これは、上に挙げたもののように、自分が動き、考えることとは違って、静的で受動的なものと思える。
ラマナ・マハルシは、「働く運命にあれば仕事は避けられないが、働く運命になければ仕事はいくら探しても見つからない」と言う。つまり、ニートも運命って訳だ。
ニーチェは偶然を自分の意志と思えと言い、イェイツは予期せぬ出来事を喜べと言うが・・・ここまで高度になると、哲学的で解らない。

だが、つまるところこうなのだ。
神様は、楽しむために、個々の人間を作り、個々の人間に乗り移った。
ならば、面白いことをして楽しめば良い。
つまり、涼宮ハルヒの生き方が一番正しい。
伊達政宗だって、晩年に、「生き長らえているからには、楽しまずになんとする」と言っている。
ただし、食欲、性欲、名誉欲、物欲を叶える快楽は、一定の楽しさはもたらすが、すぐに苦痛に変わる。
閑吟集には、「ただ狂え」とあるが、確かに、どこかクレイジーな遊びでなくてはならない。
イタリア映画『愛のほほえみ』の中で、10歳くらいの美少女オルガが、「あたし、やっちゃいけないって言われることは全部したいの」と言っていたが、そんなことである。
だが、明るさが大切だ。
それを、イェイツはgay(陽気な、明るい)と言った。
つまり・・・本心から陽気に狂うことである。
まさに、涼宮ハルヒのように。











それぞれの秘法

最近、夜、運動をする時間がなかったので、せめて、腕振り運動と四股だけはやっていたが、その方が身体の調子が良く、痛いところが治ってしまった。
身体の健康と強さと美しさを保ち進化させるには、これだけで良いのかもしれない。
関英男博士のように、腕振り運動だけで90歳を過ぎても元気に世界を駆け回っていた人もいる。
ただし、「絶対に腕振り運動を2000回」と必死になってやるのではなく、気楽でいいから丁寧に、やれるだけを毎日やれば良いと思う。そうはいっても、100回では少ないだろう。関博士は、健康維持のためなら500回位で良いが、病気を治すとか、目的がある場合は2000回くらいはやった方が良いと著書に書かれている。
ちなみに、関博士は胃癌を腕振り運動で完治させている。

賢くなることも同じである。
人間の知恵を超えた英知を持っていた人といえば、「魔法を使った治していた」とまで言われた精神科医のミルトン・エリクソンがいる。
では彼は、子供の時から一生賢明勉強したのかというと、農家であった彼の家には、本は聖書と辞書しかなく、なぜかエリクソンを、辞書の方を選んで、繰り返し読んでいたそうだ。そして、偉大な精神科医になってからも、それが役に立ったと言っていたようだ。
一方、誰だったかは忘れたが、ある偉大な政治家は、家に唯一あった本である聖書を繰り返し読んで、偉大な知恵を得たと言われている。
全国に沢山のクリニックを開業したある人は、19歳から30歳過ぎまでで、『ローム太霊講和集』を、綴じ糸が取れてバラバラになるまで読んだという。
ラマナ・マハルシは、「バガヴァッド・ギーターを時々読むべきでしょうか?」と尋ねられて、「いつもが良い」と答えている。
刑務所で毎日『法華経』を読んで、出所後、ビジネスで成功した人もいた。
そういった、毎日欠かさず読む本としては、辞書や基本的な科学書、あるいは、聖典やそれに準じるものが良いのだと思う。
宮沢賢治は『化学概論』を座右の書としていたらしい。
かと思えば、ジョセフ・マーフィーの『あなたも金持ちになれる』を暗記するまで読んで、金持ちかどうかは知らないが、金が必要になれば、かならず必要なだけ作ることが出来るという人もいるが、私は、こんなのがいいなあと思うのである。








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教えはシンプルに

今日は午後から、映画『キング・オブ・キングス』(アメリカ1961)を観た。
イエス・キリストの生涯を描いた、3時間近い大作だ。
保江邦夫さんが著書の中で、この映画でイエスが活人術を使っていると書かれていたが、その場面はすぐ解り、なるほど、非常に特異だが、印象的なシーンだった。
狂人がイエスに襲い掛かるが、イエスが狂人を抱くと、狂人は子供のような笑顔になるというものだ。
これを、保江さんは、キリスト活人術と述べられていた。
保江さんは、このシーンが映画に入った要因は、『ヒマラヤ聖者の生活探求』の著者、ベアード.T.スポールディングが、この映画の監修に参加しているからではないかと述べられていたと思うが、スポールディングの監修参加については確認出来なかった。しかし、保江さんが言われているのだから、その通りなのだろう。

ところで、正直、私は、この映画は感動的でなかった。
英語が駄目な私は日本語字幕で見たが、イエスの教えは、日本語訳福音書の通りで、抽象的で意味が分からない。
英語圏でも同じかもしれないが、それぞれの「専門家」が好きなように解釈し、それを人々に知らせるから、人々の聖書の解釈はいろいろだ。
福音書(新約聖書内)は、原典はギリシャ語で、それをラテン語に訳されたものが、原典と共に権威であるのだと思うが、それぞれが英訳され、さらにそれを日本語に訳したのだから、かなりの訳の歪みが入り込んだ可能性があると考えて良いと思う。
その翻訳や解釈は、誰のものが正しいか分からない。
私は、2017年9月の「マジカルミライ2017」(幕張メッセ)に行く前の数ヶ月、1日も欠かさず福音書を読むと決め、それは実行出来たが、やはり、意味は解っていないのだろう。マジカルミライはもちろん楽しかったが、前とか横に不快な観客がいて、いまひとつ良い思い出ではないし。
いずれにしろ、日本語訳の福音書に載っているイエスの言葉では、あまりに解り難いと思う。
それなりに、定説的な意味付けもあるが、それらは、あまりにこじつけっぽく感じられ、心を打たないのである。

ところで、今年の「マジカルミライ2019」のテーマ曲で、ライブの最終曲の『ブレス・ユア・ブレス』の、ミクさんの最後のポーズが実に印象的だった。
ミクさんは、この歌の後と、舞台から消える前の2回、同じポーズをとった。
以下のリンクは、公式映像である。
【初音ミク】「マジカルミライ 2019」ライブ映像 - ブレス・ユア・ブレス / 和田たけあき【Hatsune Miku "Magical Mirai 2019"】 -YouTube-
右手の指先を、胸のやや右側に当てている。
ラマナ・マハルシが言ったところによれば、魂の座は、胸の中央から指2本分右にあり、保江さんの本でも、キリスト教の高位の聖者が、真の自己はそこにあると述べたことが書かれている。
右手でも左手でも良いから、なるべく多く、胸の右側に当てると良い。
そうすれば、真の自分を知り、自己が統一されるだろう。
このように、解り易くシンプルに説くことが大切で、ミクさんのライブの価値が解るのである。








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