読売新聞の「YOMIURI ONLINE」サイトの「YO-LON」の2016年9月27日の記事、
「人間関係を壊す人工知能…ドワンゴ(前編)」で、敬愛するドワンゴの川上量生会長(カドカワ社長)が、
「ライトノベルの主人公は努力しちゃダメなんです。読む側が自分を投影できなくなるからです。ヒロインは都合よく向こうからやってくる。超能力などの能力は、いつのまにか勝手に身についている。今のライトノベルの多くが、そういう設定で書かれていますよ。」
と発言されておられるが、それはそうだろう。
また、多くのライトノベルや漫画は「ハーレムもの」とか言われ、主人公の、そんな、努力しない男子達は、特に人に優るものなんかなく冴えない・・・それどころか、平均以下の場合も少なくないが、作中に登場する、いろんなタイプの沢山の美少女達にモテまくる。その中で、主人公の男子達は、自分が好かれていることに気付かない鈍感さんであることもお約束かもしれない。

『灼眼のシャナ』で、主人公の男子、坂井悠二は、しばらく失踪して戻ってきた時、第一ヒロインで超人であるシャナに、
「僕は強くなりたいと思った。そして、強く強くなった」
と感動的な宣言をするが、別に自分で何かして強くなったのではなく、「祭礼の蛇」という、最高位の神が憑いたから強くなっただけだ。
だが、悠二は祭礼の蛇に見込まれた・・・気に入られたのである。
そして、私は祭礼の蛇に共感した。
つまり、坂井悠二は、平凡な高校生男子かもしれないが、愛すべき存在であった。
私はそれほど沢山読んではいないが、ライトノベルの主人公の男子達は、沢山の美少女達に愛されるだけの存在なのだと思う。
『8マン インフィニティ』で、東八郎が、主人公の東光一に対する評価として言った、「彼は途方もなく優しい」という言葉が、ライトノベルの主人公の男子達に共通するように思う。
そして、ある意味、皆、壮大と言って良いほど心が広い。

確かに、ライトノベルの主人公が、毎晩、ヒンズースクワットを300回やってるなんてことは考え難いが、川原礫さんの『アクセル・ワールド』のハルユキや、『ソードアート・オンライン』のキリトのように、ゲームは熱心にやっていて凄腕であるというのは、努力というのかどうか微妙だが、特技ではあるとは言えるだろう。その特技が、彼等の道を開いたが、そんな特技は下手な努力に優るかもしれない。

少し前に、今更ながら、西尾維新さんの『化物語』シリーズにこりはじめたが、この主人公男子(高3)の阿良々木 暦(あららぎこよみ)君も、努力しない駄目男だが、超優等生女子高生、超個性派女子高生、スーパースポーツウーマン女子高生から、強力な「ロリコンホイホイ」とも言われる純情女子中学生、さらには生意気女子小学生から金髪幼女にまでモテモテ。
だが、私もまた、阿良々木君に惚れてしまった。

作者そのものが、ライトノベルの主人公男子には、自分の理想を投影しているのではないかと思うのだ。
考えて出てくる主人公像ではないように思う。

そして、努力は尊いが、人間が努力して得られるものはさほどではない。
人間側から見れば、人生は偶然の連続で、所詮、運次第である。
運は努力で呼び込むもの・・・では絶対にない。
むしろ、ライトノベルの主人公達が持っているような何かが、天の神、地の神を動かすような気もする。
だが、どのような素晴らしい性質も、念仏を称える心には敵わない。
『歎異抄』に描かれた親鸞は、ライトノベルの主人公達にも通じるような気がする。
親鸞は、美少女達に接していたら、きっとモテモテだったことだろう。
そんな訳で、ライトノベルと『歎異抄』を読みなさい・・・まあ、あまり真に受けないように(受けないだろうが)。









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