ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ヨブ記

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

なかなか思考を消せない人へ

思考を消せば全知全能であるが、それを達成するのは難しいかもしれない。
それが本当に難しいのではなく、我々は思考するよう教育され、思考することが素晴らしいと洗脳されているから難しいのだ。
そこで、イエスはそこ(思考を消してしまうこと)までいかなくても済む方法を教えている。
それは、新約聖書の福音書に書かれていることで、イエスが言ったことから読み取れる。

イエスは「神殿を壊せ。私は3日で建て直す」と言った。
すると、人々は笑った。
その地の神殿は、建てるのに何十年もかかったからである。
だが、イエスが言った神殿とは身体のことで、実際、イエスは処刑されてから3日後に蘇った。
イエスの身体だけが神殿なのではなく、人間の身体は神殿なのである。
だから、望めば神はいつでも来てくれて、一緒に食事をしてくれる。

ジョセフ・マーフィーの『あなたも金持ちになれる』だったと思うが、進歩的な人々は、神を遠い天に居る気難しい老人ではなく、年長の大変な知恵と力を持ってはいるが、親しいパートナーであるとみなしている。
その神は、宇宙に遍在するが、我々の身体にも宿るのである。
だから、頭が悪く、力もない我々は、神に一切をまかせて安心すれば良いのである。
同じことを、ラマナ・マハルシは、「列車に乗ってまで、自分の荷物を担いでる必要はない。荷物を下ろして安心しなさい」と言ったのだ。
また、矢追純一さんが「僕は頭が悪いから考えることを放棄した」と言ったが、それにより、矢追さんは神という言い方はお好きではないようだが、我々の頭がパソコンなら、スーパーコンピューターに匹敵する存在が考えてくれると言っているのであるから、これもイエスらが言ったことと同じと思って良い。

空に溶ける少女
AIアート443
「空に溶ける少女」
Kay


『バガヴァッド・ギーター』で、クリシュナ神は、「私は心臓に棲む」と言ったが、心臓の内部に広大な亜空間があると思い、そこに神を迎え、親しくすれば良い。
旧約聖書の『ヨブ記』の22章21節に、
「さあ、あなたは神と和(やわ)らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう」
とあるようにである。
このように、どの宗教も本質では同じなのである。
同じような教えは、神道にも仏教にも当然ある。








忘れる力

私は、今年(2021年)10月初めに、酷いアレルギー性の皮膚炎になり、その後、いったん収まったが、今月(2021年12月)5日頃から、乾癬(かんせん)と思える皮膚病が再発した。
乾癬は、7年くらい前に、ほぼ抑え込むことに成功していたが、完全には治っていなかった。しかし、日常生活には支障がなかった。
しかし、ここにきての本格的な再発には困ったものだ(笑)。
乾癬の辛さに自殺した人の話もあるが、私も気持ちは分かるのである。

ところで、私が自分の皮膚病のことを書くと、「こうすれば治りますよ」という投稿がよくあり、有り難く参考にさせてはいただくが、出来ればやめていただきたい。
私の皮膚病には、おそらく有効でないし、そもそも、私は、外的な方法で皮膚病を治すことに、あまり関心がないのだ。
それよりも、興味を持っていることがあるのだ。
アトピーや乾癬など、生きる上で障害にこそなれ、なんのメリットのないものを、理由もなく生体が作り出すはずがない。
どんな理由で、こんな厄介な病気になるのか、突き止めたいのである。
そして、それが分かれば、他の人の、様々な病気を消すヒントになるかもしれない。
それに、アレクサンダー・ロイド博士のヒーリングコードを行えば、しばらくの間は少し軽くなるので、余裕がある。
皮膚病と言えば、聖書では『ヨブ記』のヨブが、サタン(悪魔)によって酷い皮膚病になったが、サタンは神の許可を得ていたのである。
つまり、神は、ヨブは、どんな目に遭っても、神を裏切らないと見込んでいたのだ。

ところで、これほどの乾癬になっても、気を逸らせれば・・・つまり、乾癬を忘れてしまえば、苦しくなくなる。
そして、乾癬を忘れるためには、好きなことに熱中するしかないと思われる。
無理に何かを必死でやっても、苦しみは続くが、好きなことに熱中すれば、もう苦しみはない。
ネヴィル・ゴダードは『世界はどうしたってあなたの意のまま』で、「牢獄に閉じ込められている者が牢獄から出るには、牢獄のことを忘れないといけない」と書かれていた。
貧乏から抜け出すためには、自分が貧乏であることを忘れないといけない。
貧乏な人がいつまでも貧乏なのは、自分が貧乏だと覚えているからだ。
嫌いな人が、いつまでも近くにいるのは、嫌いな人のことを考え、覚えているからだ。
まるで駄目な者が、いつまでもまるで駄目なのは、自分がまるで駄目であることを覚えているからだ。

ルイス・キャロルは、少女への手紙の中で、
「私は、忘れ方を教えてくれる先生に、忘れ方を教わりに行っています。先生は、月謝を払うことだけは忘れないようにと言いますが、先生の教えがあまりに素晴らしいので、私は月謝のことも忘れてしまいました」
と書いているが、月謝を払うことを忘れたと自分で言えば、それは、覚えているということだ。
その手紙をもらった、多くとも13歳までの少女には、それが分かっただろうか?(笑)

忘れるためには、ひたすらマントラを繰り返し唱えたり、「ナ・ダーム」のような、何の意味もない言葉を唱えるという手もある。
そうやって、癌のことを忘れ、末期癌が消えてしまったという話もある。
また、腕振り運動を、ひたすら数を数えながら繰り返すのも良い。
関英男博士は、これで難病が治ったという報告を沢山受けていたし、自身の胃癌も治した。

ヒーリングコードを毎日やっているうちに治るかもしれない。
ヒーリングコードは、無意識の中のストレスを癒すものであるが、そのストレスが大きければ、癒すのに多少の時間はかかるだろう。
とりあえず、自分のことを客観的に、実験動物のように眺めながら、なりゆきを見守ろうと思う。








願いが叶う肝心な条件

大切な願いが叶わない時、どんな心構えでいれば良いのか?
大切な願いが叶わないとは、彼女が出来ないだの、高級車が手に入らないといった浮ついたことではなく、死刑判決を受けた者が死刑の取り消しを求めるといったもので、まして、冤罪であれば、その願いは大きいであろう。

大切な願いが叶わない典型的な例が、聖書(旧約聖書)の『ヨブ記』のヨブという名の信心深い男の場合だろう。
ただ、『ヨブ記』の場合は、神が、ヨブが次々に災難に遭い、ヨブがそれから逃れられないようにすることを、悪魔に対し許可しているのである。
神と悪魔の賭けの対象にされてしまったのだから、ヨブは大変だったわけである。

また、この作品によってノーベル賞を決定的にした、カミュの小説『異邦人』の主人公の青年ムルソーのように、ものごとが思い通りに行かないこと(そのため社会の理不尽な扱いを受けてしまう)によって分かることもあり、ムルソーは、ほとんど悟りを開いたと言えるかもしれない。私としては、非常に好きなラストなのだが、実際にムルソーの立場になれば、多くの人はやはり、奇跡で救われることを願うだろう。

「楽あれば苦あり、苦あれば楽あり」で、悪いことは業消しになって、次は良いことが起こるとか、どんな悪いことも、時が経てば良い思い出になる場合が多いなどというのは、気休めにもならない本当に辛い状況にある人もいるだろう。

アニメ『エル・カザド』で、賞金稼ぎの娘ナディ―が、占い師の老女にカードで占ってもらいながら、「おばちゃん、魔女なんでしょ?だったら、ぱーっと幸せにしてよ」と言うと、老女は微笑んだ。
すると、ナディ―は不満げに「だから、笑ってないでさ」と言う。
ナディ―は、若くて快活ではあるが、子供の時から相当な苦労をして疲れているという面も確かにあるのだった。

皆、大なり小なり、苦労をしていて、「ぱーっと幸せになりたい」と思っているのである。
つまり、「幸せになるスイッチ」が欲しいのである。
それを押しさえすれば、お金が儲かり、健康も愛も得られるスイッチが。
そんなスイッチがあるだろうか?
良識ある大人なら「ない」と言うだろうが、引き寄せの法則を信じているなら「ある」と思いたいだろう。
そして、実は、ここが重要なところだ。
次の話が大きなヒントになる。
著名な心理学者の河合隼雄のところに、小学生か中学生の不登校の息子を持つ父親が相談に来ていた。
父親は、「先生、息子が学校に行くスイッチがありませんかね?」と言ったようだ。
こういう例だと、ポイントがはっきりし易いのだ。
そんなスイッチ、あるはずがない。
そして、本当の問題は、そんなスイッチを欲しがっている父親にあることも、簡単に分かってしまう。
河合先生も、「スイッチ」を欲しがる人が多い、あるいは、「スイッチ」を押す役だけしたい人が多いと言う。
スイッチを押したがる人に共通することがある。
それは、「当事者意識に欠ける」ことだ。
上の、不登校の息子を持つ父親がまさにそうだろう。
息子の問題を、自分の問題と捉えていないから、「スイッチさえ押せば、息子が学校に行くようになれば良い」などと思うのである。

だが、当事者意識を持てば、問題解決は割と容易いのである。
その、不登校の息子を持つ父親の場合、息子と真面目に話し合えば良いだけのことだが、この父親は、絶対にそれをしていない。
いや、父親は「している」と言うかもしれないが、間違いなく、息子を自分の視点だけで捉え、考えを押し付けているだけなのだ。
それなら、神に祈ろうが、念仏を唱えようが、息子が学校に行くはずがない。

お金が欲しいと願って得られない場合も同じだ。
お金を得るスキルも、大金を得るに相応しい信頼もないのに、押しさえすれば大金を得られるスイッチがあったら大変だ。
お金が欲しいなら、お金を得るスキルを持つこと、あるいは、そのスキルを持つ人の信頼を得ることが必要だ。
そう考えるのが当事者意識というものだ。
カミュの『異邦人』も、ムルソーは最後に当事者意識を得たに過ぎない。
だが、それが感動的なのだ。
当事者意識を持っていなければ、神も助けようがない。
逆に言えば、それがあれば、神は必ず助けるだろう。
「神は自らを助ける者を助ける」と言った有名な人の有名な本があるが、それは不正確だ。
「神は当事者意識を持つ者を助ける」のである。








赤い目をした金色の猫からのメッセージ

私は、昨日、暇だったので(年中暇だが)、最上の呪文、「私は在る」を1日心の中で唱えていると、心の中から「私は誰か?」という声がする。
ラメッシ・バルセカールだったと思うが、「私は誰か?」という問いは、無理に起こすものではなく、自然に起こると述べていたように思うが、それなら本当だ。
ラマナ・マハルシも、「私は誰か?」を呪文にしてはならないと言っていたらしいが、その理由のところとなると、マハルシから聞いた人が理解できなかったり、翻訳者の訳がうまくいってなかったりで、さっぱり分からない文章になっていたかもしれず、私は覚えていない。
だが、私に分かったことで言えば、とにかく、「私は誰か?」という想いは自然に出てくるものであり、自分で問う必要がないし、問わない方が良いのだろうと思う。

「私は在る」あるいは「我、在り」という想いを持ち続けると、私は時々、幻を見る。
その幻に意味があるのかどうかは分からないが、なかなか面白いものだ。
昨日は、ものすごく綺麗な金色の猫を見た。
あまりにリアルなので、現実かと思ったが、その猫の目が、鮮やかな赤だったので、やっぱり幻だと分かった。
そんな幻は、単に想念を消す時に現れる価値のないものだと言う聖者がいたが、美しいものには価値がある。
せっかく良いものを見たのだから、つれなく無視することもない。
とはいえ、捕まえようとも思わないがね。
以下、猫のメッセージを補足説明する。

「我、在り」は、神様やイエス・キリストが自己の名乗りとして言う言葉だ。
人間が言うべき言葉じゃないと思われるかもしれない。
キリスト教では、人間は忌むべき罪人であり、せいぜいが、神に飼われる子羊だ。
インドの聖者も、自我は消えてなくなるべき悪魔のように言う。
そりゃ、確かに、騙してでも金を欲しいと思うのが自我だったり、可愛い女の子のいる家に小さな可憐なパンティーでも干してあれば誰も見ていないなら持って行こうと思うのが自我かもしれないが、そんなに貶めるのも可愛そうだ。
不良少年や不良少女、あるいは、悪い大人だって、こっちがにっこりとして友人扱いすれば、案外にいいやつなのだ。
ただ、その後でまた、彼らはまた自己中心的なことをするので、世間は彼等を抑え付けようとするが、そんなことは限界がある。
なんとか、もっとうまくやれないものか?
世間で揉まれると正しくなると言う人もいるが、実際はひねてくるだけだし、道徳や宗教なんてものを説くと、どうしようもなく歪んでくるだけだ。
ところで、旧約聖書のヨブ記には、「神と仲良くしないさい。そうしたら幸せになるよ」と書かれているが、これは妙にキリスト教らしくない。
ムチや棒で叩いて従わせるべき人間が、神と仲良くできるのだから、実はキリスト教にとっては革命的なことなのに、どうもスルーされているようだ。
だが、それ(神様と仲良くしたら幸福になる)は本当だ。
江戸末期の神道家、黒住宗忠は、人は天照大神と一体であると言い、追い剥ぎに「十両出せ」と言われたら、「今、五両しかないから、残りは明日」と言って、翌日、借金して五両を用意し、追い剥ぎに対し、別に咎めもしなければ、怒りもしなかった。
仏教の妙好人と呼ばれるような人達も同じだし、『レ・ミゼラブル』のミリエル司教もそうだったが、彼等は、優しいというより、楽しくやっているだけなのだ。
彼らは悟りを開いている。
仏教の無量寿経にも、心がそのまま仏と書かれていて、これは浄土宗の経典だが、宗派の違う一休さんも、いつも、心が仏と言っていたものだ。
密教の経典には、どれかは忘れたが、女を邪まな目で見る想いもまた仏だといったことが書かれている。
じゃあ、どんどんおやんなさいと言うつもりもないが、さりとて、いちいち悔い改める必要もない。
「私は在る」と神様のようなことを想い続けると、なんのことはない、そんな心は自分でプログラミングしたのだと分かる。
「私は在る」と言うのは、本質では、「我、神なり」という意味だが、イメージとしては、立派な神殿の中で、神様と同じテーブルで親しく食事でもしている感じである。
私と神様の区別がつかないという状態だ。
これを、どう表現すれば良いだろう。
ハチが巣を作るのは、労働のように見えるが、楽しいというよりも、快感なのだそうだ。
そっとやそっとでやめる訳にはいかないのである。
それは、人間というか、日本人でいえば、一生懸命阿波踊りを踊っている状態だ。
あれって、熱心にやっていると、楽しいだけでなく、快感で、それが神と一体になった状態だ。
そして、実に良いことに、人間は、どんなことも、そんなふうにできるらしい。
これはグッドニュースと思う。
まあ、慌てず、呪文を唱えることだ。









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芸術家の魂は嘘をつかない

私は読んでいないのだが、『横尾忠則対談集 芸術ウソつかない』という本のタイトルだけを何年も憶えている。
実際は、これを私は「芸術家ウソつかない」というタイトルと間違えて憶えていた。
そのタイトルを見て、「インディアン、嘘つかない」という言葉を思い出していたから間違えたのかもしれない。
ところで、芸術家が嘘をつかないかというと、そうだとも言えるし、全くの嘘だとも言える。
個人としての芸術家という意味で、「芸術家ウソつかない」と言うなら、それは真っ赤な嘘である。
だが、全ての人の心の中に住む真の芸術家は嘘をつかない。
この真の芸術家を「芸術」と表現すれば、あの本の題名通りになる。

個人としての芸術家はかなり嘘つきである。
だが、ソクラテスが言ったように、芸術作品というものは、作者とされる芸術家が創ったのではない。
その芸術家の中にいる、隠れた真の芸術家が創ったのである。

人の心の中に住む真の芸術家・・・それは、真のあらゆるものである。
真の哲学者、真の教師、真の建築家、真のコンピュータープログラマー、真の父親、真の料理人、真の清掃人、真のビジネスマン・・・・等々である。
ジョセフ・マーフィーの、潜在意識による成功法則というものがある。
マーフィーが著書や講演で訴えたことは、誰の心の中にも、想像もつかない巨大なを持つ何かがあるということだった。
そして、我々は、それさえ知れば良いのである。
マーフィーが本当のことを述べたか、また、本当のことを知っていたかはどうでも良い。
ただ、我々の心の中に全知万能の意識が存在する・・・ということは、マーフィーが言った通りなのである。
その巨大な力の意識を、とりあえず、潜在意識と言ったのだ。

しかし、その潜在意識を使うなどといった空恐ろしいことなどできるはずがない。
逆に、人間である自我、あるいは、顕在意識は、潜在意識に使われているのである。
だから、聖書には、「(顕在意識であるあなたは)神(潜在意識)と和らぎ(親しみ)、平和でいなさい。そうすれば幸福になる」という、この上なくシンプルで偉大な真理が書かれているのである。
これは、ヨブ記に書かれていることだが、ジョセフ・マーフィーはこの言葉が特に好きなようで、著書の中によく引用している。

渋谷慶一郎さんが制作したオペラ『THE END』は、渋谷さん自身がそんな思想を持っているのかどうかは分からないのだが、フィーリングとしては全くの真理で、私は毎日、その中のアリアを聴くのだが、聴く度に私は驚くのである。
ソクラテス流に言えば、本当は渋谷さんが創ったのではないし、芸術家である渋谷さんも、それは了解しているのではないかと思う。
敢えて言えば、このオペラのプリマドンナである初音ミクが真理を知っているのである。

一休が念仏の真義(本当の意味)を、「心が仏である。念仏を称えれば、仏の光が輝き、ここが極楽浄土になる」と言ったが、これほどシンプルに真理を表現した言葉もない。
念仏は、上に述べた、ヨブ記にある「神と和らぐ」ことでもある。
表現は全く異なるのだが、『THE END』で初音ミクも同じことを叙情的に歌ったのだと分かる。
もちろん、理屈で考えれば両者は全く異なるし、それだと、仏典に書かれている通り、極楽浄土は10億の仏国土を越えた先である。
しかし、ミクの歌や念仏は、その無限の距離を飛び越えてしまうのである。

念仏に限らず、神の名や真言を真摯に調べれば、それは驚くべき力を秘めた科学であることが分かる。
もちろん、現代の人類の科学ではない。
想像を超えた未来の科学であり、弥勒仏が降臨する56億7千万年後の科学であるが、念仏はその時間を無にしてしまうのである。
だから、空海は「(般若心経の)真言は不思議である」とだけ言い、親鸞は念仏を「不可思議」と言ったのである。
不思議、不可思議なもののみが真理なのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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