ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ユング

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

ドナルド・トランプの勝ち方

前回のアメリカ大統領選挙で、トランプは、共和党の大統領候補に指名されることすら苦戦し、一時は、選挙スタッフから撤退を提案された。
しかし、トランプは自信満々で、弱気なスタッフ達に、「俺が勝ち方を教えてやる」と言い、最後、地滑り的に共和党大統領候補に指名された。
そして、4年前の2016年の10月後半・・・つまり、今くらいの頃、ヒラリー・クリントンに世論調査で10ポイントのリードを許していたところは、今回と全く同じだったが、選挙の数日前に互角に追いついた。
それでも、マスコミ各社がヒラリーの圧倒的優位を予測する中、全く危な気なく勝ってしまった。

さて、トランプの「勝ち方」とは何だろう?
現在、多くの著名人がトランプを非難している。
トップクラスの科学者、英雄的ポップスター、有名批評家や政治学者、その他のビッグネーム達がトランプを批判・・・というより、ほとんど糾弾している。
だが、これは、トランプの思うつぼなのだ。
なぜ、トランプが、あれほど、非難されて当たり前のことを、堂々とやるのかというと、注目を集めるためだ。
簡単に言うと、「注目されさえすれば勝ち」なのだ。
これは、誰しも、少なくとも、思い当たるところはあると思う。

芸能界でも、嫌いなスターランキングなんてものがあるが、あれでトップなら、間違いなく大人気ということだ。
AKB48総選挙でも、スキャンダルや問題発言のある人の方が上位に行くものである。
そもそも、芸能人にとって、スキャンダルは、あればあるほど良いのである。
ただし、批判されたスター自身が、「自分は駄目」と思ったら、本当に駄目になる。
そうではなく、「騒がれてこそスター」と開き直れば、そこから急上昇するのである。

「憎まれっ子世に憚る(にくまれっこ、よに はばかる)」は、実は基礎的な科学であると思う。
どんな形であれ、多くの人の強い意識を集めることで、高いエネルギーを持てるのである。
なぜなら、人々は、悪玉の破滅ではなく、悪玉が強力になることを想像して恐れるからだ。
思考は現実化する。
大衆の想像通り、悪玉は強くなって勝利するのである。

トランプに関して言えば、まず、熱狂的支持者達の強いエネルギーは、そのままトランプの力になる。
そして、トランプは、自分を嫌う者達には、「単にトランプが嫌い」ではなく、わざと(それも全力で)、「徹底的に嫌い」になってもらうことで、その者達のエネルギーをも集めることになるのだ。
強烈な反トランプの人々は、トランプにとって、熱狂的なトランプ支持者と同等に嬉しいのである。

トランプが恐れることは、無視されること、そして、敵が注目を集めることだ。
4年前、ヒラリー・クリントンが、個人メールアドレスを公務に使ったことを、トランプは「犯罪行為」「ヒラリーを刑務所へ」と、徹底攻撃はしたが、人々に、ヒラリー自体を憎ませなかった。
もし、ヒラリーが、本当に犯罪に問われるギリギリまで行ったら、ヒラリーの注目度が上がってしまう。それはまずいのだ。
そうではなく、ヒラリーを「逮捕されて当然」と罵ることで、ヒラリー支持者を激怒させ、そうでない人達にも「トランプはいくら何でも言い過ぎ」と思わせることで、自分への注目度を高めたのである。
今回も、今後、トランプは、バイデン父子のウクライナ疑惑を徹底攻撃するが、あくまで、バイデンの影を薄くする手法で行い、トランプはむしろ自分は、悪玉の雰囲気の攻撃者であることを印象付けるはずである。

トランプは、昔から派手なパフォーマンスが好きで、それは、ファンからは称賛されると共に、大きな反発も引き起こした。
大統領選にも出馬した大事業家ロス・ペロー(昨年7月逝去)は、トランプを「ニューヨークの目立ちたがり屋」と言ったが、あれは、案外に誉め言葉だったのかもしれない。
その反発のおかげで、トランプは若くしてニューヨークの不動産王と呼ばれるまでになったのである。
だいたい、ロス・ペローも大した目立ちたがり屋だったはずだ。だから、彼も、事業で驚くほど成功し、IBMすら出し抜いたのである。
大統領選では、ペローは無党派から出馬し、一時は支持率のトップになったが、無党派で指名されるはずがなく、本気だったのかどうかも怪しい。
しかし、彼は大いに目立ったのである。

今後、大きな戦いを予定している方は、上に述べたことが参考になると思う。
そうでない人は、大衆の憎悪に乗っかってはいけないということを覚えておいていただけたらと思う。
反戦集会は、戦争を起こそうとする者達への憎悪で、かえって戦争を起こしてしまう。
反ドラッグ運動も同じで、それが強力になるほど、ドラッグは蔓延るのである。

今回のことを、一言で言ったのが、スイスの偉大な心理学者・精神科医であるカール・グスタフ・ユングだ。
『ザ・シークレット』では、ユングの、
「反抗するものは蔓延る」
という言葉が紹介されているが、まさにその通りなのである。








釈迦やイエスの教えの神髄は簡単過ぎて伝わらなかった

いかに賢い人、偉大な人の教えであっても、どこか欠けたところがあり、しかも・・・一番重要な部分が欠けているかもしれない。
釈迦やイエスが、その大事なところを言わなかった訳ではないのだが、それが、あまりに簡単であるために、教えを伝える立場の者が、敢えて書こうとしなかったのかもしれない。
その大事なこととは、もちろん、気分(心地)である。
人間は常に良い気分でいなければならず、もし、気分が悪ければ、すぐに気持ちを切り替えて良い気分にならなければならない。
その理由はこうだ。
人間の内部に存在する、ある偉大な力が世界を作っているのだが、その偉大な力は、人間の気分に同調した世界を作るのである。
だから、気分が良ければ、さらに気分を良くしてくれる状況が、気分が悪ければ、さらに気分が悪くなる状況が現れるのである。

ここで、カール・グスタフ・ユングが好きだったという雨乞師(あまごいし。祈祷などで雨を降らせる特異能力者)の話を取り上げる。
これは、チン・ニンチュウの『誰でも小さなことで大切な願いがかなえられる』の最初のところにあるお話だが、これも「気分」という観点が抜けているので、曖昧で、誤魔化したような話で終わってしまっている。
だいたい、こんな話だ。
5年も干ばつが続く村で、有名な雨乞師を呼び、雨を降らせてくれるよう頼んだ。
雨乞師が、4日の間、テントにこもると、見事に雨が降った。
村の人が、雨乞師に、「何をしたのですか?」と尋ねたら、雨乞師は「何もしてない」と言う。
困惑する村の人達に、雨乞師はこう言った。
「この村は、神の意思に沿っていない。私は神の意思に身をまかせた」
なんて駄目な説明なんだ!(笑)
「神の意思に身をまかせる」って、具体的にどうすんじゃい!
・・・と文句を言いたくもなる。
似非賢者は、みんなこんな説明をするのだ。
「あるがままに」なんてね(笑)。
「あるがままに」なんて、格好良いから歌の歌詞には良いが、こんなんじゃ誰も救えない。

雨乞師は、こう言うべきだった。
「あんたら、みんな、気分が悪そうな顔しとったでしょ?わしはテントの中で気分良く過ごしたんじゃよ」
つまりね、雨が降らないから気分が悪いんじゃなく、気分が悪いから雨が降らないのだ。
ところで、雨乞氏がそう言わなかったのは、こんなことバラしたら、商売あがったりになるからかもしれない。
これが、雨乞師の秘中の秘だからだ。
これさえ知っていれば、雨乞師は不要になってしまう。
それを私がバラシてしまった(笑)。
とはいえ、一般の人は馬鹿だから、簡単過ぎるという理由で、馬鹿にして重視せず、結果、覚えないから、やっぱり雨乞師は儲かるのだ。
雨乞師が、テントの中で何をしてたのかは知らないが、ニコニコと笑顔になり、ガッツポーズでもしてたのだろう。
時々、舌を思いっきり出して、身体をしゃきっとさせたりもしたかもしれない。
そして、5年も干ばつが続く場所で、4日で雨を降らせることが出来るのだから、どんな願いだって叶うだろう。








抵抗するものははびこる

一頃から、パワハラ、セクハラ行為が厳しく批判されるようになった。
立場が圧倒的に強い者が、弱くて抵抗出来ない者に、あらゆる意味で危害を加え、尊厳を奪っていることを糾弾する流れは強まっているように思われる。
正義を訴える人達は、そういったパワハラ、セクハラ等が行われているのを見つけ出し、それを世の中に告発し、そして、こう言うのである。
「これは氷山の一角だ」
つまり、隠され、外に分からないような非道な行為は、いくらでもあるのだから、それらをさらに探して暴き、罪ある者を断罪し、弱い者を救わないといけないということであろう。
レディー・ガガらの、MeToo運動は、世界的なムーブメントを起こしているように思う。

ところが、何十年も、世の中で、苦労しながらも、前向きに生きてきた多くの人達が、こう言うのを聞くこともある。
「最近の、パワハラ、セクハラ防止の動きは、良いことだとは思うが、それが行き過ぎてコメディーかギャグのように思うこともよくある。昔は、職場の隅で、男が女の子を口説くことはよくあり、確かに、迷惑そうな女の子もいたが、深刻にはならなかった。深刻になりそうだったら、同僚らがその男に『いい加減にしろよ』と諫めていた。男性の上司が若い男性の部下を怒鳴りまくり、稀だが、実際、殴ることもあり、それは『愛あって』という感じでもなかったが、それでも、大抵、良い方向に行った。」

何十年も前のアニメで、主人公の少年が自分を殴った年長の青年に、「殴ったね。僕は親に殴られたこともないのに」と言うと、その青年は「殴られずに一人前になったやつはいない」と返したらしいが、昔は、それに反感を持つ者は稀だったのだと思う。
アニメらしい単純さがあるにせよ、原則、それで正しいことは分かっているのだと思う。

もちろん、児童虐待という痛ましい事件が起こっていることは分かっている。
しかし、なぜ、そのようなことが起こるのだろう?
しかも、そのようなことを重大視する風潮がありながら、実際に児童虐待があると、学校も行政組織も、がん首揃えて何も出来ないのである。
昔であれば、児童虐待の疑いがあれば、刑事がすっ飛んできて、「親が子供に暴力を振るっているという通報があったが本当かね?」とストレートに言い、結果、親か子供か、あるいは、誤報をした者に説教して問題は平和に解決したものであるし、それ以前に、近所の人達が黙っていなかった。

世の中の悪に対し、スイスの著名な精神科医であり心理学者であるカール・グルタフ・ユングはこう言っている。
「抵抗するほど、はびこる(横行する)」
パワハラ、セクハラで言えば、そういったことに意識を向け、感情的に糾弾するほど、パワハラ、セクハラは、より多く、そして、より深刻なものが多くなるというのであると思う。

もちろん、このように、世の中の風潮に反する話をすると、有名人ならタダで済まず、地位や仕事を失ってしまうだろうから、決して言わないだろう。
誰も、パワハラ、セクハラ、児童虐待、その他の、弱い者いじめが善いなどと言っていない。
だが、「そんなことをするやつはぶっ殺してしまえ」と言うような者が、ひょっとしたら、一番の問題ではないかと疑った方が良いかもしれないのだ。
昔のことだが、新聞に、ある中学校で男性教師が女子生徒達の身体検査を行ったことが問題として取り上げられたことがあった。
今なら、あり得ないことであるが、実のところ、当時はそんなに珍しいことでもなかったらしい。
私が、その話をしたところ、1人の男は「羨まし!」とあっけらかんと言ったが、別の男が、その教師らのことを激しく罵りだした。
これは、正直、正義感と言うよりは、「よほど羨ましいのだね」ということだと思う。
つまりね、これもあまり主張すると、有名人なら身が危ういが、他人のことを、口汚く糾弾する者って、同じ穴のムジナなのである。
はい、私も出来たらやりたいと思うが、昔、実際にやった人が、本音で全然楽しくないことを、少し分かるように言ってくれたが、それを聞いたら、なるほど、全然やりたくないって思ったのだ(女子生徒達に失礼な面があるので、内容は言わないが)。
そういえば、レディー・ガガらも、下種な男を叩くよりは、女の子を賢くすることに力を注いだ方が良いと思うのである。

悪いものの存在は認め、必要な対策は行いつつ、それにあまり意識を向けないことだ。
意識を向けるべきは、その反対のものである。
児童虐待ではなく、子供を立派に育てる家庭や教育に関心を向けるべきで、そうであってこそ、悪い問題への実際的な対応が可能になる。
総理大臣が嫌いなら、それに対抗出来る、優れた政治家を応援すれば良い。
口汚く糾弾するだけの者は無能であるように思える。
学校教育や受験制度に反対なら、真の教育に関心を持ち、それを広める活動に参加すれば良いのである。
「抵抗するものははびこる」なら、抵抗せず、冷静に賢いことをすれば良い。
デモというのは、あまり良い結果にならない。効果はあっても一時的だ。
そうではなく、自分がもっと正しいものに目を向ければ、もっと良い道が見つかるのであると思う。
私も、最近、この方向に向かい始めたばかりだが、抵抗の道は行かないことにしたのである。








人身御供による引き寄せは正しいか?

人身御供(ひとみごくう)という風習は、多くの国や地域であったのだろう。
人身御供(ひとみごくう)とは、神に対して、天災(地震、台風、干ばつ、疫病等)を起こさないよう機嫌を取るような意味で、人間の生贄(いけにえ)を捧げるといった観念があるのではないかと思う。
人間の生贄ではなく、物や動物を奉納する場合も多いのだと思うし、これなら、今でも行われているが、天災による被害が長期に渡った時、「より高級な生贄を捧げないと神は機嫌を直さない」と思って、人間を生贄にしたんではないかと考えられる。

ところで、人身御供といえば、割と、こんなイメージがあるかもしれない。
下層の民の中で美しい少女を見つけ、その親にとってはそれなりの金や物を渡して、人身御供にしてしまうというものだ。
そうやって選ばれた少女は、儀式の日に定められた場所で、首を切られたり、あるいは、別の方法で殺害される。
だが、岡本太郎の『美の呪力』という本を見ると、ある民族では、男女の一組を人身御供に選ぶが、選ばれることは名誉なことであり、また、人身御供になるまでの1年ほどは王侯のような暮らしをさせる。しかし、儀式の日には、かなり残酷な殺され方をする。
現在、人身御供は、少なくとも、文明国や文明国と交流のある所では行われていないと思われるが、風習的には残っていることもある。
例えば、特に階級に関わらず、神に捧げるのに相応しい人間(私が知るものでは、やはり少女であるが)を選び、ただ儀式を執り行わせる。それを、一定の年齢になるまで行わせ、その後も一生、大切にされる。

人身御供に選ばれるのは、映画やアニメでよく見られるのでそう思うのかもしれないが、やはり、若い娘・・・というより、少女で、それが、人間から見ても最上の価値があると思われるのだと思う。
たとえば、ゾロアスター教の聖典『アヴェスター』では、死んだら、生きている間に行いが良かった男は、15歳の素晴らしい美少女が迎えに来てくれるらしいが、数千年前の15歳は肉体的には今より幼いかもしれないが、精神的にはかなり大人であったと考えて良いと思われ、やはり、最も好ましい存在であったと思う。
ソクラテスが、大ヒッピリアスという最上の賢者とされた人物に、「最も美しいものは何か?」と尋ねたら、大ヒッピリアスが「美しい少女だ」と即答したという話があり、やはり、人類の間で、美少女というのは貴いものと認識されているようだ(ただし、ソクラテスは、人間の中では最高の美少女でも、女神に比べればみすぼらしいと指摘した)。

ところで、人身御供については、こんなことを考えるのである。
神に対し、最高の供物を捧げるという意味で、最高の美少女を人身御供にするというのは、「頭が悪くないか」と思う。
というのは、殺される少女や、その家族にとっては、それは悲劇なのであり、至高の存在である神が、そんなことを望むはずがないことは明白である。
ましてや、アニメの『地獄少女』のように、下層の民の中の娘を選ぶのは上層の民のエゴイズムであることは、いくら何でも明らかで、神にそれが隠せるはずがない。
もし、天災や凶作が続くとしたら、むしろ、そんな悪しき風習を行っていることを神が怒っているからだというのが、子供でも分かる理屈である。
著名な精神科医・心理学者であったカール・グスタフ・ユングが好きだったという、こんな話がある。
ある長期の(数年と思われる)干ばつに苦しむ村は、有名な雨乞い師を招いた。
雨乞い師が、3日の間小屋にこもると、雨が降り出した。
村の者が、「何をしたのか?」と聞くと、雨乞い師は「何もしていない」と言う。
ただ、この村は、神の美しい流れから外れていたので、せめて自分が、神の美しい流れに身をまかせたのだと言う。
つまり、この村で人身御供を行った訳ではないだろうが、そのような愚かなことが、この村の中で多くなっていたのだろう。

これは、村とか民族とか国家の場合だけではない。
我々、一人一人も、神の美しい流れから外れると、悪いことが起こる。
対して、その流れに乗れば願いは叶うが、それは少しも難しいことではない。神の美しい流れに身をまかせる・・・心を静かにして思慮分別をせず、なりゆきにまかせれば良いのである。













当ブログオーナーKayのAI書。5月30日発売。
現在のAIは、新型コロナウイルス感染の収束を予測することも可能で、それを行っているデータサイエンス企業、AI開発会社などもあると思います。
なぜ、そんなことが出来るのか?どうすれば、そんなことが出来るのか?
この本により、それが分かり、データを集めることが出来れば(概要データであれば公開されている)、あなたにもそれが出来ます。
そのようなセンスを得られることを目指して書いたつもりです。

真の正義はある

「この世に絶対的正義や絶対的悪はない」と言えば非常に格好良いし、何やら真理のようにも思えるが果たしてそうだろうか?
荘子も、「正義といい、悪といっても、それは1つの立場からの見方に過ぎない」と述べている。なにやら賢者っぽい(笑)。
中島敦の『名人伝』の最後で、悟りを開いたような弓の名人も、その境地を表現したのだろうが、「善と悪の違いが分からない」と言う。

そうではない。
簡単に言えば、「運が良くなる生き方、考え方が正義で、運が悪くなる生き方、考え方が悪」だ。
運が悪くて良い、幸運はいらないと言うなら、正義を捨てれば良いが、私は御免である。

フロイトは、人間の精神の中には、自我とは別に超自我というものがあり、悪い事をしようとすると、超自我から、「そんなことをしてはいけない」という警告が来ると述べた。
そして、超自我は、伝統や風習で作られており、民族によって異なると言ったのだと思う。
つまり、正義といい、悪といっても、民族の決まりごとに過ぎないというわけである。
だが、ユングは、倫理観や道徳観は、民族の風習を超えたものである証拠を示し、フロイトも後にはそれを認めたと述べていると思う。
ユングによれば、正義や悪は、もっと深い、人類や万物をつなぐ意識から来ており、動物にすら、何らかの道徳観が見られると言う。

脳科学者の中野信子氏の『脳科学からみた「祈り」』の中に、興味深い記述がある。
簡単に言うと、人間の脳には、善悪を判断する機能があり、それを「社会脳」と呼ぶらしい。
社会脳と言うだけあって、社会性を持った行動が善で、反社会的な行動が悪である。
以下、少し引用する。

誰かに対して怒り・妬み・恐れ・不安といったネガティブな感情を持つと、それが社会的には「あまりよくないこと」であるとされているのを自分の脳はわかっていて、「ストレス物質」であるコルチゾールという物質が分泌されます。
~『脳科学からみた「祈り」』より引用~

コルチゾールが過剰になると、脳内の海馬が萎縮し、記憶力が低下する。

簡単に言えば、社会的であることが善であり、反社会的であることが悪である。
ただ、この「社会的」が、狭い範囲の社会の「社会的」に摩り替えられるのは問題であるし、人間がやり易い間違いがそれなのだ。
その間違いにより、ある社会にとっては善であることが、別の社会にとっては悪になってしまう。
自動車が普及した国、あるいは、自動車会社といった社会では、自動車は善であるが、自動車がない国の一部や、自動車を嫌う人々の社会では、自動車は人間を堕落させ、命も奪う悪ということになるかもしれない。
しかし、自動車は単なる道具であり、使う人によって、良い用途や悪い用途が出来るに過ぎない。
大昔のアニメ『鉄人28号』の主題歌に、
「あるときは正義の味方、あるときは悪魔の手先、いいもわるいもリモコンしだい」
という、何とも当を得た歌詞がある。
鉄人28号という、強力な巨大ロボット自体は、良いも悪いもない、ただの道具だ。
現在のSF小説・アニメの『BEATLESS』で、美少女アンドロイド、レイシアは繰り返し言っていたではないか。
「私は道具です。道具である私には責任は取れません」
「道具である私を、あなたは何に使いますか?」

では、本当の社会性とは何だろう?
難しいことは言うまい。
漫画・アニメ『まちカドまぞく』で、15歳の新米魔族、優子が、初めて魔力を出した時に叫んだ言葉がそれである。
それを聞き、さしもの魔法少女、千代田桃も、心に深い何かを感じた。
その言葉は、「みんなが仲良くなれますように」だった。
そういえば、『BEATLESS』で、アラト(17歳男子)がレイシアに指令した到達すべき未来は、「みんなが信じられる世界」だった。
そこらに、真の正義の鍵があるのだと思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんを愛す
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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