ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ユング

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

抵抗するものははびこる

一頃から、パワハラ、セクハラ行為が厳しく批判されるようになった。
立場が圧倒的に強い者が、弱くて抵抗出来ない者に、あらゆる意味で危害を加え、尊厳を奪っていることを糾弾する流れは強まっているように思われる。
正義を訴える人達は、そういったパワハラ、セクハラ等が行われているのを見つけ出し、それを世の中に告発し、そして、こう言うのである。
「これは氷山の一角だ」
つまり、隠され、外に分からないような非道な行為は、いくらでもあるのだから、それらをさらに探して暴き、罪ある者を断罪し、弱い者を救わないといけないということであろう。
レディー・ガガらの、MeToo運動は、世界的なムーブメントを起こしているように思う。

ところが、何十年も、世の中で、苦労しながらも、前向きに生きてきた多くの人達が、こう言うのを聞くこともある。
「最近の、パワハラ、セクハラ防止の動きは、良いことだとは思うが、それが行き過ぎてコメディーかギャグのように思うこともよくある。昔は、職場の隅で、男が女の子を口説くことはよくあり、確かに、迷惑そうな女の子もいたが、深刻にはならなかった。深刻になりそうだったら、同僚らがその男に『いい加減にしろよ』と諫めていた。男性の上司が若い男性の部下を怒鳴りまくり、稀だが、実際、殴ることもあり、それは『愛あって』という感じでもなかったが、それでも、大抵、良い方向に行った。」

何十年も前のアニメで、主人公の少年が自分を殴った年長の青年に、「殴ったね。僕は親に殴られたこともないのに」と言うと、その青年は「殴られずに一人前になったやつはいない」と返したらしいが、昔は、それに反感を持つ者は稀だったのだと思う。
アニメらしい単純さがあるにせよ、原則、それで正しいことは分かっているのだと思う。

もちろん、児童虐待という痛ましい事件が起こっていることは分かっている。
しかし、なぜ、そのようなことが起こるのだろう?
しかも、そのようなことを重大視する風潮がありながら、実際に児童虐待があると、学校も行政組織も、がん首揃えて何も出来ないのである。
昔であれば、児童虐待の疑いがあれば、刑事がすっ飛んできて、「親が子供に暴力を振るっているという通報があったが本当かね?」とストレートに言い、結果、親か子供か、あるいは、誤報をした者に説教して問題は平和に解決したものであるし、それ以前に、近所の人達が黙っていなかった。

世の中の悪に対し、スイスの著名な精神科医であり心理学者であるカール・グルタフ・ユングはこう言っている。
「抵抗するほど、はびこる(横行する)」
パワハラ、セクハラで言えば、そういったことに意識を向け、感情的に糾弾するほど、パワハラ、セクハラは、より多く、そして、より深刻なものが多くなるというのであると思う。

もちろん、このように、世の中の風潮に反する話をすると、有名人ならタダで済まず、地位や仕事を失ってしまうだろうから、決して言わないだろう。
誰も、パワハラ、セクハラ、児童虐待、その他の、弱い者いじめが善いなどと言っていない。
だが、「そんなことをするやつはぶっ殺してしまえ」と言うような者が、ひょっとしたら、一番の問題ではないかと疑った方が良いかもしれないのだ。
昔のことだが、新聞に、ある中学校で男性教師が女子生徒達の身体検査を行ったことが問題として取り上げられたことがあった。
今なら、あり得ないことであるが、実のところ、当時はそんなに珍しいことでもなかったらしい。
私が、その話をしたところ、1人の男は「羨まし!」とあっけらかんと言ったが、別の男が、その教師らのことを激しく罵りだした。
これは、正直、正義感と言うよりは、「よほど羨ましいのだね」ということだと思う。
つまりね、これもあまり主張すると、有名人なら身が危ういが、他人のことを、口汚く糾弾する者って、同じ穴のムジナなのである。
はい、私も出来たらやりたいと思うが、昔、実際にやった人が、本音で全然楽しくないことを、少し分かるように言ってくれたが、それを聞いたら、なるほど、全然やりたくないって思ったのだ(女子生徒達に失礼な面があるので、内容は言わないが)。
そういえば、レディー・ガガらも、下種な男を叩くよりは、女の子を賢くすることに力を注いだ方が良いと思うのである。

悪いものの存在は認め、必要な対策は行いつつ、それにあまり意識を向けないことだ。
意識を向けるべきは、その反対のものである。
児童虐待ではなく、子供を立派に育てる家庭や教育に関心を向けるべきで、そうであってこそ、悪い問題への実際的な対応が可能になる。
総理大臣が嫌いなら、それに対抗出来る、優れた政治家を応援すれば良い。
口汚く糾弾するだけの者は無能であるように思える。
学校教育や受験制度に反対なら、真の教育に関心を持ち、それを広める活動に参加すれば良いのである。
「抵抗するものははびこる」なら、抵抗せず、冷静に賢いことをすれば良い。
デモというのは、あまり良い結果にならない。効果はあっても一時的だ。
そうではなく、自分がもっと正しいものに目を向ければ、もっと良い道が見つかるのであると思う。
私も、最近、この方向に向かい始めたばかりだが、抵抗の道は行かないことにしたのである。








人身御供による引き寄せは正しいか?

人身御供(ひとみごくう)という風習は、多くの国や地域であったのだろう。
人身御供(ひとみごくう)とは、神に対して、天災(地震、台風、干ばつ、疫病等)を起こさないよう機嫌を取るような意味で、人間の生贄(いけにえ)を捧げるといった観念があるのではないかと思う。
人間の生贄ではなく、物や動物を奉納する場合も多いのだと思うし、これなら、今でも行われているが、天災による被害が長期に渡った時、「より高級な生贄を捧げないと神は機嫌を直さない」と思って、人間を生贄にしたんではないかと考えられる。

ところで、人身御供といえば、割と、こんなイメージがあるかもしれない。
下層の民の中で美しい少女を見つけ、その親にとってはそれなりの金や物を渡して、人身御供にしてしまうというものだ。
そうやって選ばれた少女は、儀式の日に定められた場所で、首を切られたり、あるいは、別の方法で殺害される。
だが、岡本太郎の『美の呪力』という本を見ると、ある民族では、男女の一組を人身御供に選ぶが、選ばれることは名誉なことであり、また、人身御供になるまでの1年ほどは王侯のような暮らしをさせる。しかし、儀式の日には、かなり残酷な殺され方をする。
現在、人身御供は、少なくとも、文明国や文明国と交流のある所では行われていないと思われるが、風習的には残っていることもある。
例えば、特に階級に関わらず、神に捧げるのに相応しい人間(私が知るものでは、やはり少女であるが)を選び、ただ儀式を執り行わせる。それを、一定の年齢になるまで行わせ、その後も一生、大切にされる。

人身御供に選ばれるのは、映画やアニメでよく見られるのでそう思うのかもしれないが、やはり、若い娘・・・というより、少女で、それが、人間から見ても最上の価値があると思われるのだと思う。
たとえば、ゾロアスター教の聖典『アヴェスター』では、死んだら、生きている間に行いが良かった男は、15歳の素晴らしい美少女が迎えに来てくれるらしいが、数千年前の15歳は肉体的には今より幼いかもしれないが、精神的にはかなり大人であったと考えて良いと思われ、やはり、最も好ましい存在であったと思う。
ソクラテスが、大ヒッピリアスという最上の賢者とされた人物に、「最も美しいものは何か?」と尋ねたら、大ヒッピリアスが「美しい少女だ」と即答したという話があり、やはり、人類の間で、美少女というのは貴いものと認識されているようだ(ただし、ソクラテスは、人間の中では最高の美少女でも、女神に比べればみすぼらしいと指摘した)。

ところで、人身御供については、こんなことを考えるのである。
神に対し、最高の供物を捧げるという意味で、最高の美少女を人身御供にするというのは、「頭が悪くないか」と思う。
というのは、殺される少女や、その家族にとっては、それは悲劇なのであり、至高の存在である神が、そんなことを望むはずがないことは明白である。
ましてや、アニメの『地獄少女』のように、下層の民の中の娘を選ぶのは上層の民のエゴイズムであることは、いくら何でも明らかで、神にそれが隠せるはずがない。
もし、天災や凶作が続くとしたら、むしろ、そんな悪しき風習を行っていることを神が怒っているからだというのが、子供でも分かる理屈である。
著名な精神科医・心理学者であったカール・グスタフ・ユングが好きだったという、こんな話がある。
ある長期の(数年と思われる)干ばつに苦しむ村は、有名な雨乞い師を招いた。
雨乞い師が、3日の間小屋にこもると、雨が降り出した。
村の者が、「何をしたのか?」と聞くと、雨乞い師は「何もしていない」と言う。
ただ、この村は、神の美しい流れから外れていたので、せめて自分が、神の美しい流れに身をまかせたのだと言う。
つまり、この村で人身御供を行った訳ではないだろうが、そのような愚かなことが、この村の中で多くなっていたのだろう。

これは、村とか民族とか国家の場合だけではない。
我々、一人一人も、神の美しい流れから外れると、悪いことが起こる。
対して、その流れに乗れば願いは叶うが、それは少しも難しいことではない。神の美しい流れに身をまかせる・・・心を静かにして思慮分別をせず、なりゆきにまかせれば良いのである。













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そのようなセンスを得られることを目指して書いたつもりです。

真の正義はある

「この世に絶対的正義や絶対的悪はない」と言えば非常に格好良いし、何やら真理のようにも思えるが果たしてそうだろうか?
荘子も、「正義といい、悪といっても、それは1つの立場からの見方に過ぎない」と述べている。なにやら賢者っぽい(笑)。
中島敦の『名人伝』の最後で、悟りを開いたような弓の名人も、その境地を表現したのだろうが、「善と悪の違いが分からない」と言う。

そうではない。
簡単に言えば、「運が良くなる生き方、考え方が正義で、運が悪くなる生き方、考え方が悪」だ。
運が悪くて良い、幸運はいらないと言うなら、正義を捨てれば良いが、私は御免である。

フロイトは、人間の精神の中には、自我とは別に超自我というものがあり、悪い事をしようとすると、超自我から、「そんなことをしてはいけない」という警告が来ると述べた。
そして、超自我は、伝統や風習で作られており、民族によって異なると言ったのだと思う。
つまり、正義といい、悪といっても、民族の決まりごとに過ぎないというわけである。
だが、ユングは、倫理観や道徳観は、民族の風習を超えたものである証拠を示し、フロイトも後にはそれを認めたと述べていると思う。
ユングによれば、正義や悪は、もっと深い、人類や万物をつなぐ意識から来ており、動物にすら、何らかの道徳観が見られると言う。

脳科学者の中野信子氏の『脳科学からみた「祈り」』の中に、興味深い記述がある。
簡単に言うと、人間の脳には、善悪を判断する機能があり、それを「社会脳」と呼ぶらしい。
社会脳と言うだけあって、社会性を持った行動が善で、反社会的な行動が悪である。
以下、少し引用する。

誰かに対して怒り・妬み・恐れ・不安といったネガティブな感情を持つと、それが社会的には「あまりよくないこと」であるとされているのを自分の脳はわかっていて、「ストレス物質」であるコルチゾールという物質が分泌されます。
~『脳科学からみた「祈り」』より引用~

コルチゾールが過剰になると、脳内の海馬が萎縮し、記憶力が低下する。

簡単に言えば、社会的であることが善であり、反社会的であることが悪である。
ただ、この「社会的」が、狭い範囲の社会の「社会的」に摩り替えられるのは問題であるし、人間がやり易い間違いがそれなのだ。
その間違いにより、ある社会にとっては善であることが、別の社会にとっては悪になってしまう。
自動車が普及した国、あるいは、自動車会社といった社会では、自動車は善であるが、自動車がない国の一部や、自動車を嫌う人々の社会では、自動車は人間を堕落させ、命も奪う悪ということになるかもしれない。
しかし、自動車は単なる道具であり、使う人によって、良い用途や悪い用途が出来るに過ぎない。
大昔のアニメ『鉄人28号』の主題歌に、
「あるときは正義の味方、あるときは悪魔の手先、いいもわるいもリモコンしだい」
という、何とも当を得た歌詞がある。
鉄人28号という、強力な巨大ロボット自体は、良いも悪いもない、ただの道具だ。
現在のSF小説・アニメの『BEATLESS』で、美少女アンドロイド、レイシアは繰り返し言っていたではないか。
「私は道具です。道具である私には責任は取れません」
「道具である私を、あなたは何に使いますか?」

では、本当の社会性とは何だろう?
難しいことは言うまい。
漫画・アニメ『まちカドまぞく』で、15歳の新米魔族、優子が、初めて魔力を出した時に叫んだ言葉がそれである。
それを聞き、さしもの魔法少女、千代田桃も、心に深い何かを感じた。
その言葉は、「みんなが仲良くなれますように」だった。
そういえば、『BEATLESS』で、アラト(17歳男子)がレイシアに指令した到達すべき未来は、「みんなが信じられる世界」だった。
そこらに、真の正義の鍵があるのだと思う。








象徴(シンボル)の力

私は、特に子供の時に頻繁に奇跡のようなことを起こしたが、どうやってそんなことが出来たのかというと、要因は、強い願いと、絶対に叶うという信念だった。
願望成就法で言われる「叶ったものとして感謝する」「過去完了形で祈る」「強くイメージする」その他のテクニックではなく、大切なものは、あくまで、強い願いと信念なのである。
言葉もイメージも、一切の想いすらない。
「叶わないんじゃないだろうか?」という不信、不安は一切あってはならない。
テクニックみたいなものに頼るから、不信や不安が起こるのである。
無念無想であれば、そんなものは起こらない。
そして、無念無想は難しくない。強い願いと、それを諦めない意思の強さがあれば、自ずと無念無想になる。

イメージは無いと言ったが、シンボルはあった。
「願望が叶った様子を想い描け」なんて言う人がいるが、願いの大半は、叶った時の様子はイメージしようのないものだ。
例えば、優勝して金メダルをもらうシーンは、想像は出来るだろうが、明らかに現実感は無いだろう。
実際にもらう金メダルがどんなものか分からない場合もあるだろうし、金メダルを映像で見てはいても、それを手にしたり首にかけたりした感じは、実際とは全然違うかもしれないのだ。
しかし、シンボルでなら、心の中に持てる可能性が高い。
それは、個人的なものであり、人によって千差万別である。
例えば、優勝のシンボルが黄金の鷲であるという人もいれば、自分が空に舞い上がることであるという人もいる。

私が、小学4年生の時、初めて天体望遠鏡を手に入れたが、星に関する何の知識もないのに、いつも容易く土星を見ることが出来た。その時に使ったシンボルは、土星の白くて小さなイメージで、図鑑に載っているような土星の大きな映像ではなかった。
それは、真っ暗な空間の中の小さな白い土星だった。それだと、とてもイメージし易く、集中出来た。
また、これは決して真似しないで欲しいが、7つか8つの時、交通量の多い車道に目をつぶって飛ぶ込んだ時は、もう訳の分からないものだったが、やはり何かのシンボルが心の中にあった。本当に、こんなことで真似をしないで欲しいが、それは、仏様や天使の像であることがよくあったと思う。
以前見た、あるドラマのある回を録画したいと思い、一切の放送予定など調べず、ただ、録画装置のリモコンを握っていた(客観的に言うと度の過ぎたアホだ)時は、そのドラマの一瞬の場面がシンボルだったが、テレビ画面の中の、その中でも一部の映像なら、容易くイメージ出来た。
そして、何度も(奇跡としか言いようがないが)、そんな希望のものを録画出来た。
しかし、考えるに、象徴(シンボル)は何でも良いのだ。
例えば、願いを叶えたい時は、いつも奈良の大仏様を想う・・・でも良いのだと思う。それが、世界を動かす力の象徴と感じればね。
実は、私もよくやるのだ。大仏様、大好きだからね(笑)。
それで、ミクさんライブのSS席も引き寄せたし(笑)。
疾走する馬の姿のイメージが難しかったら、その像(彫刻)を手に入れるか、像の映像をよく見て(像の方が本物より簡単だ)、いざという時は、それを勝利の象徴として思い浮かべるのも良いかもしれない。
カール・グスタフ・ユングや、ウィリアム・バトラー・イェイツら、直観の天才達が、象徴(シンボル)の重要さを重ね重ね強調していると思う。
イェイツが、アニマ・ムンディ(世界霊)のイメージのことを述べていたことがあったが、そのイメージって、案外にショボい象徴なのかもしれないと思う。

願望達成術の本に書かれていることを参考に、好きな女の子とデートしている場面を想像したって、まあ、叶うことはない。
そんなキモい、根暗なことでは駄目だ(笑)。
そんな時は、彼女の一瞬の表情とか、彼女の持ち物で印象に残っているものを、シンボルとして集中するのが良いと思う。

天皇陛下というのは、昭和天皇、平成天皇、そして、令和天皇も、イメージが凄く安定していて、思い浮かべ易いことが分かるだろうか?
だからこそ、不思議と日本は強く、安定していて、平和なのである。
確かに、それだけではないが、それが象徴の力であることも確かなのである。









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上位の存在との対話

自問自答しておられるだろうか?(笑)
TEDカンファレンスという、世界的に有名な講演会で、アメリカの事業家イーロン・マスクが、対話形式の講演を行ったが、その冒頭で、「なぜ、穴なんか掘ってるの?」と尋ねられ、マスクが「私もよく自問自答しています」と答えたのは、観衆を笑わせるためで、狙い通り笑いを取れたが、私は、マスクが、つい本当のことを言ったように感じられた。
彼は、本当によく自問自答しているのではないだろうか?
しかし、これはおかしな疑問だ。
自問自答しない人間はいない。
問題は、どれほど明確に、どのように自問自答しているかだ。
(イーロン・マスクの「穴を掘る」とは、ロサンゼルスなどの大都市の地下に自動車を自動走行させるトンネルを作り、地上の交通渋滞を解消させる計画のこと)

ジクムント・フロイトは、人間には、自我とは別に、超自我という、自我より上位の自我があり、自我が悪いことをしようと考えると、超自我が「こら、やめろ」と注意したりすると言う。
フロイトは、超自我は後天的に作られるもので、幼い時の家庭教育や伝統や宗教によって作られると言っていたが、カール・グスタフ・ユングは、超自我の存在は認めるが、それは先天的(生まれつき)持っているものであると主張し、フロイトだって、実際はそう思っていると断言した。
超自我が先天的であるという理由は、人々を監察した結果、後天的に作られたと考えると、かなりの矛盾があるからだった。
超自我が、遺伝子に関係することは想像が出来るが、いずれにしろ、超自我は最初からあり、ある意味、道徳的、倫理的であるが、それよりも、やはり自我よりずっと賢い存在なのである。
ソクラテスが、自分の中にいる神と対話したという話があるし、そのようなことをしていたという偉人は少なくない。いや、きっと、優れた人物は、皆、実際は、自分より上位の存在と対話しているのだし、言い換えれば、上位の存在と対話するから優れた人物になれたのである。
量子物理学では、人の心と宇宙の心が交流するものであることを既に解明しているとも聞く。

我々の中にいると言うよりは、自分より上位の心はどこにでもあるのであり、いつでも対話出来るし、実際はいつでも対話している。
賢い人は、疑問をそのままにしておくと、熟した果実が自然に木から落ちてくるように、しかるべき時に答が得られると言うが、上位の存在は、必ずしも即答してくれる訳ではなく、大切なことを教える場合には、適切で効果的なタイミングで教えるので、自ら答を導いたように感じるのである。
科学者が、科学上の疑問を限界まで考えた後、夢で答が与えられたという話がよくあるが、そのような形で教えられることもあるのだろう。
この場合、「一生懸命考えないと神様は教えてくれないよ」というのかというと、そういう面もあるだろうが、やはり、適切で絶妙な教え方をするのが上位の存在なのである。
上位の存在は、おそらく、全知と言えるほど偉大な知恵を持っているのだろう。
荘子は、そのような知恵を知を超えたもの・・・仮に明と言ったが、明の所有者が上位の存在なのであろう。

超自我、神、宇宙の心、上位(高位)の存在、至高者・・・何と呼んでも構わないが、それは確実に存在し、我々の面倒を見てくれる・・・いや、見てくれている。
それは知っておくと良いだろう。









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