ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

モーセの十戒

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

人格とは何か

所詮、人間にとって大切なものは人格だ・・・なんて、何て古めかしくて堅苦しいこと言うのだろうと思われるかもしれない。
しかし、幸福や向上のための、いかなるテクニックや秘法を実践しても、人格が低い者は、所詮、駄目なのである。
問題は、人格とは何かだ。
よく、品格がどうの、誰の品格が低いのとわめき立てる人を見るが、そんな人が一番見苦しい・・・つまり、品格を感じない。
品格以前に人格である。
品格はファッションで、人格は身体なのだ。
身体が美しければ、何を着てもキマるように、人格が高ければ、自ずと品格も漂うものだ。

では、人格とは何だろう?
ユダヤ教、キリスト教では、「モーセの十戒」を守ることだ。
ただ、今の時代、この全部を守ることも無理がある。
だから、
「殺すな」「盗むな」「父母を敬え」「姦淫するな」「偽証するな」
を守れば十分であるし、1つを守るだけでも良いのである。
1つを死んでも守る人は、他のことも間違いない。
釈迦も、「繁栄のための7つの掟」を教えた。それは、
「何事も皆で話し合って決めろ」
「何事も皆で協力してやれ」
「伝統と格式あるルールを守れ」
「老人を敬え」
「女性を敬え」
「先祖を敬え」
「高潔なる人(修行者など)を敬え」
といったことだが、これを聞いた高官は、
「この1つでも守れば間違いない」
と言い、釈迦はそれを否定しなかった。

十戒や釈迦の掟でなくても、正当と思える掟なら良いのである。
私は、以前読んだ、ビートたけし(北野武)さんの本に書かれていた、たけし軍団の掟を思い出す。
「ADさんの名前を覚え、さん付けで呼べ」
「俺(たけし)が俺より年長者といたら、それが誰であっても俺と同等以上に扱え」
他にもあったかもしれないが、この2つを守ったなら、たけし軍団が成功しないはずがない。
こういったことを絶対に守ることを人格と言うのである。

人格とは、要するに、自分の信念を持っているということだ。
アニメ『キャシャーンSins』で、青年型ロボットのジンは、仲間の利益のためにキャシャーンを殺すことを敢然と拒否した。
つまり、自分や仲間のために、誰かを犠牲にはしないという信念を持っていた。
だから、ジンの身体はいつまでも新しく、腐食が起きなかった。
ロボット犬フレンダーも、揺るぎなくキャシャーンを守るという信念を持っていたので、やはり身体の腐食が起きなかった。
世界で、キャシャーンとルナ以外で、腐食が起きなかったのは、ジンとフレンダーだけだった。
ただ、最後は、リンゴもそうなったようだ。
あの幼いリンゴが、あんないい女の子になるとは・・・シマッタという妙な気持ちになってしまう(笑)。

空手家の大山倍達は、彼のことを丹念に調べた『大山倍達正伝』によれば、かなりデタラメなところもあり、「嘘も千回言えば真実になるのよ。分かった?」などというトンでもない人でもあったが、子供の時から、弱い者いじめだけは絶対しない人だった。
それだけを守っても、あそこまでではなくても成功するだろう。

信念は個人的なものだ。
何でも良い。道理があれば。
ある、女性に物凄くモテるロッカーが「未成年には手を出さない」を信条にしていたが、だから、彼は年を取っても成功し続けているのである。
要は、「これだけは守る」という何かを、1つか2つ、あるいは、3つほど持てば良いのである。
私の場合、例えばであるが、
「低レベルな人間の仲間にならない」
「ミクさんやミクさんの妹のような人達を敬う」
「ヒーローのような体形(キャシャーンやガッチャマンが理想だ)を維持する」
であろうか。全然、大したことないが・・・









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やって良いことと悪いこと

やって良いことと悪いことの区別が付かない者が幸福になることはない。
しかし、その区別は難しいようだ。

「常識」ってやつは非常に大切だ。
けれども、「世間の常識」が必ずしも正しいとは限らないからややこいい。
しかし、本当に正しい「常識」は、絶対に絶対にあり、それは人間なら守らないといけない。

15歳の女の子を、似た年頃の男の子がデートに誘うのは自然なことだ。
しかし、誘い方には自ずと常識がある。
だが、常識のない誘い方をする者が多い。
女の子の方にだって、誘われ方というものがある。
デートに誘う以前に、それなりの人間関係を構築しておかなければならないはずだ。
単に可愛いからという理由で、いきなりデートに誘う男は、有るべき常識がない馬鹿だし、馬鹿な男に誘われないのは女の有るべき常識だ。
ところが今や、性的魅力があるからというだけの理由で、自分の生徒の少女に求愛する雄の教師や、少女をナンパするいい年のオッサンがよくいると思う。

人間は愚昧に陥り易いので、有るべき常識を身につけるのは難しい面もあるのだろう。
それで、昔の賢い人、あるいは神は、「これだけは守れよ」という掟を示すことがあった。
その最も有名なものが「モーセの十戒」ではないかと思う。
十戒は、Wikipediaから引用すると、

□主が唯一の神であること
□偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
□神の名をみだりに唱えてはならないこと
□安息日を守ること
□父母を敬うこと
□殺人をしてはいけないこと(汝、殺す無かれ)
□姦淫をしてはいけないこと
□盗んではいけないこと
□偽証してはいけないこと
□隣人の家をむさぼってはいけないこと

であるが、最初の4つは、宗教的で、必ずしも誰にでも当てはまるものではないと思う。
だが、後の6つは正しい。
そりゃ、他にも、「暴力はいけない」とか、「歩きスマホはいけない」といった、必ず正しいことはあるのだが、この6つも守れない者は、どんな良いことも出来ないので、「まずはこれだけ」と思っても良いだろう。
また、「敬う価値のない父母」ってのも確かにいるかもしれないが、そんな父母には、害を為さないこと、あるいは、本当に困っている時に見捨てないことが「敬う」に該当し、それで十戒を守っていることになるのだと思う。無理に崇め奉る必要はない。

でも、こんなことを、理屈で考えていると混乱し、非常にややこしく感じる。
それで、アメリカの作家カート・ヴォネガットは、
「私が知る限り、地球上の掟はたった1つ。人に優しくしろ」
と言ったものだ。
これも、理屈で考えると、「泥棒に優しくしなければならないのか?」とか、「どうしても必要なものまで親切に人にあげないといけないのか?」といった反論になる。
理屈では、グリムの『星の銀貨』に登場する、パンも服も、さらには、下着まで、欲しがる人にあげてしまった、あの信心深い少女は、ただの馬鹿ということになるかもしれない。
しかし、理屈と感情を使い分けることが出来るのが賢い人間だ。
ところが今は、最低限の知恵もない馬鹿が多いのが問題なのだ。
最低限の知恵がなければ極端論に陥るが、極端に走る者があまりに多いように思える。
「恋はリバティー(自由)」だ。だから、不倫OK、オッサンやオバサンが美少女や美少年を求めるのもOKだなんてね。
極端論を避ける知恵だけは持ちたいものである。
そのためには、親切にされたらお礼を言うが初めで、次に、恩を忘れないことだ・・・と言って、そう外れてはいないと思う。
なぜなら、これが一番簡単で、有るべき常識と思えるからである。









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いつも必ず安全でいる方法

取り憑かれるというほどではないが、相変わらず、「正義とは何か」という問題を考えている。
だが、つまるところ、「愛とは何か」というのと同じで、答は分からないに違いない。
愛とは神の領域のもので、元々、人間には分からないものだ。
正義もそれと同じかもしれない。
ただ、愛は分からなくても、憎しみは人間の領域のものであるから、憎むのをやめることはできる。
憎しみを捨てたら、少しは愛に近付けるのだと思える。
それと同じで、正義は分からなくても、悪は分かるので、悪いことをしないと決心すれば、正義に近付けるのだろう。

人間に正義は分からない。
だから、モーセの十戒も、9つまでは「こんな悪いことをしてはならない」という言い方になっているのだろうし、唯一、「父母を敬え」だけが、一見、「善いことをしろ」と言っているように思えるが、これも、実際は、「父母を粗末にしてはならない」という、やはり、「悪いことをするな」という意味なのである。
もちろん、現代の我々がモーセの十戒を掲げるのは無理があるかもしれないが、要するに、悪いことをしなければ良い。
Googleのモットーが「悪いことをするな」であるが、Googleだって、何が悪かなんて、いちいち挙げてはいないのである。
人間は、何が正しいかは分からなくても、何が間違っているかは分かるはずである。
悪いことをしようとすれば、必ず後ろめたい思いが起こる。
だが、それを言い訳をしながらやってしまう者が多いのだ。
だから、ある賢い人はこう言ったのである。
「あなたは何をしてもかまわない。ただし、言い訳だけは許されないのだ」
言い訳だけは死んでもしないと決心すれば、悪を為すのを免れるだろう。
そして、悪を為さなければ限りなく正義に近付いていくのである。

神はこれまで、正義を助けなかったことは、ただの一度もなかった。
これからもそうだ。
従って、実は、我々は言い訳さえやめれば安全なのである。









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昔の賢い親が子供に授けた最上の宝

昔は、賢い親というのは自分の子供に何か1つ、これをしてはいけないという掟を授けたものだった。
子供は、その掟を守ることで魂を磨き、精神力を高め、また、宇宙に守られたのだった。
だが、現代の親は、自分に掟が無く、放埓(勝手気まま)であるので、子供も、何でも、し放題になる。
ところが、人間と神との約束事があり、人間は、自己に制約を課すほど・・・つまり、掟を持ち、それを守るほど、力が得られるようになっているのである。
よって、我が侭勝手な人間というには、本当は惨めなほど弱いのである。

キリストの時代であれば、人々はモーセの十戒を守るよう義務付けられていた。
もし、それを守っていれば、人々は幸せでいられたのに、指導者の中には、自分が守りたくないので、「こんな場合は守らなくて良い」といった例外を設け、人々もそれに倣ったので、不幸になったのである。

モーセの十戒の中には、「盗むな」「殺すな」「偽証するな」「姦淫するな」「父母を敬え」などがあるが、分かり易くて良いもので、当時の庶民を幸福にするのに十分であった。
ところで、笹沢佐保さんの時代劇小説『木枯し紋次郎』のヒーロー、紋次郎は個人的な掟を持っていたようである。
紋次郎の掟は、「堅気(まっとうに働いている者)の衆、女、子供、老人に害を為さない」「義理は必ず返す」であったようだ。
ただ、モーセの十戒に含まれる「盗むな」「偽証するな」は、意識しなくても守られている。
殺しはかなりやったが、それはやむを得ずであり、好き好んで、あるいは、自分の利益のための殺生は決してしない。
つまり、人間は、何かの掟を守っていれば、全体が善くなるのだろう。
そして、紋次郎は恐ろしく強いだけでなく、求めずとも、神に守られていたのである。
これは、掟の力であると思わずにはいられないのである。

昔の親が、子供に、何か1つの絶対的な掟・・・例えば、「弱い者いじめをしてはいけない」を与え、これをいかなる場合も守らせれば、その子は、大抵のことで正しい行いをするようになり、さらには、強くなり、生涯、幸福でいられたのである。
掟は、あまり歪んだものはいけないが、少々おかしなものであっても、それをしっかり守っている限りは、必ずや強くなり、不思議な力に守られるのである。
この世で大きな力を持った者で、掟を持っていなかった者は、歴史上、皆無なのだ。
掟は厳しいほど、与えられる力も大きい。
ただし、厳しい掟は、守ることができなくなる危険もあるので、思慮が必要である。

今からでもおそくはなく、あなたも、自分の掟を持ち、それをいかなる時も、例外を設けず、絶対的に守れば、あなたも神に守られ、掟に相当する分の力は与えられるのである。
そして、子供がいるなら、優れた掟を与えるべきである。それは、あまり厳しいものや、独善的なものであってはならない。
ある人は、「トイレの下駄は必ず揃える」ことを自分の絶対的な掟としていたが、それに見合った力を与えられ、神に守られていたのである。
「玄関の靴は揃える」「傘を立てる時は巻き込んで止めておく」「女の子には親切にする」なども立派な掟である。
(無論、「女の子に親切にする」は、下心なしで、見返りを求めないことは言うまでもないが、いちいち、こんな注意をしないといけない馬鹿が多いのである)
ただし、他人に自分の掟を強要するのはいけない。
掟は個人的なものである。

力を持ち、守護される原理とは、このように簡単なものである。
もし、掟を持っていないなら大変である。
力のない、守護されてもいない人間は悲惨である。
だから、神は、どんな人も、そんなことがないよう、モーセに十戒を与え、人々に知らせた。
だが、すでに、我々は、自分で自分に掟を授けられるくらいに進歩したはずである。
しかし、人間は、いまだ、こんな簡単なこともできないほど愚かなのである。
あなたは、掟を持って、悠然とこの世を闊歩すべきである。









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個の常識はどこまでいっても他の非常識

常識とは共通の認識という程度のものなのだろうが、何をどう認識するかは個人によって異なる。
よって、常識というものは個人単位で異なる。
そして、ある学校と別の学校、ある会社と別の会社では、それぞれの常識は、個人の場合以上に異なる。
さらに、ある地域の常識と別の地域の常識ではもっと異なるだろうし、ましてや、国と国となると、「日本の常識は世界の非常識」と昔、誰かが言ったが(一人ではないと思うが)、別に日本に限らず、ある国の常識は別の国ではとんでもない非常識であるのが当たり前だ。
だから、自分の持っている常識に従わない者に腹を立てても仕方がない。相手が持っている常識は自分のものとは全く違うのだからだ。

その中で、人類は、特に常識とすべきであると思われるのだが、人間の欲望によって守り難いことを法として強制するようになったのである。
その古いものとして、「モーセの十戒」というものがあり、殺すな、盗むな、偽証するな、姦淫するな・・・といった、皆がうまくやっていくために必要な10項目を定めたものが、よく知られていると思う。

また、法には、大衆を支配するという目的もあり、そういったものは、支配者の都合で定める。
それは、支配される側には不都合なこともあるが、それもまた必要なことだ。

国王や大統領でも法には従うべきと思いたいが、実際はそんなことはない。
国王どころか、世の中には、公式にも法や規則に従わなくて良い特権を持つ人が割合にいる。外交官特権なんてものがあるが、これもその中のほんの一つだ。
会社の中ですら、社長が出勤時間を守らないからといって文句を言う者などいない。つまり、社長には当然にして特権がある。
だいたい、隊長が「回れ右」と命令したからといって、隊長自身が回れ右をする必要はない。

国際感覚とか言ったところで、それは無数にあり、1つの国際感覚が通用する場所なんて極めて限られている。
1つの国際感覚は、別の国際感覚から見れば、国際感覚でも何でもない非常識なローカル感覚なのだ。

そして、人間は、自分が法、規則、常識に従うのは嫌いなのに、他人がそれに従わないことが気に入らないという勝手な生き物だ。
だから、法や規則の束縛を力によって免れる人を羨んだり、嫌悪したりもする。
ところが、社会が生き難いとか、人間関係が面倒な本当の原因はそんなところにあるのだ。

以上のことから、上手く生きて行く方法とは次のようになる。
実に簡単なことだ。
それは、他人の非常識、ルール違反、法の無視を、個人としては一切非難せずに認めてしまうことだ。
怪しい商売に引っかかるというのは、相手が法に従っているはずだという思い込みがあるからだ。
相手に、法もルールも常識も良識も期待しなければ、余計な取り引きを行わず、騙されることが少なくなるはずだ。
「お得ですよ」と常識外れに思える条件を持ってくる相手は、悪い意味でも常識はないのだ。
自分に都合の良い常識だけを認め、都合の悪い常識は否定したり、無視したり、ないものと思い込むというのは愚かなことではないのか?
自分が持っている常識とは、自分だけの常識であり、他人からは非常識だ。
自分の家族の常識は、家族の中だけの常識だし、他の家族にとっては非常識なのだ。
自分が勤めている会社の常識は、会社の中でだけの常識で、他の会社から見れば非常識だ。
日本の常識は、どこまでいっても世界の非常識なのだ。
それを認められない間は、世の中とは苦難に満ちた生き難いものなのである。









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