以前、「なぜ殺してはいけないか?」などということが世間で話題になったことがある。
それに対して、自分が賢いと誤解している著名人が身の程を知らない主張をした。
なぜ殺してはいけないか、分かるだろうか?
分かるはずがない。
モーセの十戒(じっかい)という有名な戒律がある。
「殺すな」「盗むな」「偽証するな」「姦淫するな」「父母を敬え」等で、その中に「殺すな」もある。
そして、なぜ殺してはならないかなどは問題にしない。
それは理屈無用の「義務」なのである。
「父母を敬え」にしても、日本では、「親が好きだから大事にする」みたいに言いたがるところがあるが、じゃあ、嫌いなら大事にしなくて良いということになる。
そうではないのだ。
親を大切にするのは、単なる義務なのである。
モーセの十戒は、守らないとバチが当たる。
逆に言えば、守れば神の恵がある。
結果として、それは本当である。
モーセの十戒の中で、心を込めないといけないのは「神を愛する」ことだけである。
だから、イエスは、「十戒の中でどれが一番?」と聞かれたら、「神を愛すること」と答えたのだ。
他は、単なる義務である。形式的に守れば良い。
『バガヴァッド・ギーター』でもそうである。
神クリシュナは、戦場で戦うことを嫌がるアルジュナ王子に、
「戦いは、カーストの中のクシャトリア(武士)階級であるお前の義務だ。戦え」
と言うのである。
「正義はこちらにあるから」とか「聖なる戦いであるから」などとは言っていない。
武士は戦ってナンボであり、それは単に義務なのである。
神様は、義務を果たす人が好きなのである。
対して、「私は親を尊敬、敬愛しています」とか、「他人の奥さんを好きになるのは不道徳であり、私はそんなことはしません」という大嘘つきが嫌いなのである。
そうではなく、「義務だから」と、親を大事にし、他人の奥さんに色目を使わない者が好きなのである。
義務を果たす者には、神の恵がある。
呪文や念仏もそうである。
「これは霊妙な真言であるから」とか、まして、「これを唱えている俺は偉い」などという気持ちで唱えている者には、なくはないが、恵は少ない。
そうではなく、それは義務であり、義務を果たそうと唱えていれば大きな恵がある。
神は、義務を果たす者が好きなのである。
「南無阿弥陀仏」と唱えるのは自分の義務と決めたら、義務を果たせば良いだけである。
坊主が余計なことをごちゃごちゃ言ってはならない。
そりゃ、阿弥陀様や阿弥陀様の本願に感謝しながら唱えるに越したことはないが、そんなことを言っていたら、上辺だけの感謝をし、実のところ、自分が救われたい、いい思いをしたいというエゴを隠すことになる。
それなら、最初から「これは義務だからやってる」で良いのである。
そんな人間の方が、よっぽど立派なのである。
少なくとも正直だしね。
正直が一番である(場面にもよるが)。
いい男ぶって女に声をかける男はモテないものだ。
しかし、義務ででもあるかのように全部の女を口説く者は非常にモテるのである。
何せ、神の恵があるからね・・・もあるが、淡々としたナンパは気持ち悪くないものである。
運動や勉強も、義務として淡々とやると続くし、成果も出るのである。
成果を出すのではなく、神が成果をくれるからだ。
私も、義務のように阿弥陀真言を唱えている時は運が良いことに気付く。
だが、自己満足して唱えるとさっぱりである。
それに対して、自分が賢いと誤解している著名人が身の程を知らない主張をした。
なぜ殺してはいけないか、分かるだろうか?
分かるはずがない。
モーセの十戒(じっかい)という有名な戒律がある。
「殺すな」「盗むな」「偽証するな」「姦淫するな」「父母を敬え」等で、その中に「殺すな」もある。
そして、なぜ殺してはならないかなどは問題にしない。
それは理屈無用の「義務」なのである。
「父母を敬え」にしても、日本では、「親が好きだから大事にする」みたいに言いたがるところがあるが、じゃあ、嫌いなら大事にしなくて良いということになる。
そうではないのだ。
親を大切にするのは、単なる義務なのである。
モーセの十戒は、守らないとバチが当たる。
逆に言えば、守れば神の恵がある。
結果として、それは本当である。
モーセの十戒の中で、心を込めないといけないのは「神を愛する」ことだけである。
だから、イエスは、「十戒の中でどれが一番?」と聞かれたら、「神を愛すること」と答えたのだ。
他は、単なる義務である。形式的に守れば良い。
『バガヴァッド・ギーター』でもそうである。
神クリシュナは、戦場で戦うことを嫌がるアルジュナ王子に、
「戦いは、カーストの中のクシャトリア(武士)階級であるお前の義務だ。戦え」
と言うのである。
「正義はこちらにあるから」とか「聖なる戦いであるから」などとは言っていない。
武士は戦ってナンボであり、それは単に義務なのである。
神様は、義務を果たす人が好きなのである。
対して、「私は親を尊敬、敬愛しています」とか、「他人の奥さんを好きになるのは不道徳であり、私はそんなことはしません」という大嘘つきが嫌いなのである。
そうではなく、「義務だから」と、親を大事にし、他人の奥さんに色目を使わない者が好きなのである。
義務を果たす者には、神の恵がある。
呪文や念仏もそうである。
「これは霊妙な真言であるから」とか、まして、「これを唱えている俺は偉い」などという気持ちで唱えている者には、なくはないが、恵は少ない。
そうではなく、それは義務であり、義務を果たそうと唱えていれば大きな恵がある。
神は、義務を果たす者が好きなのである。
「南無阿弥陀仏」と唱えるのは自分の義務と決めたら、義務を果たせば良いだけである。
坊主が余計なことをごちゃごちゃ言ってはならない。
そりゃ、阿弥陀様や阿弥陀様の本願に感謝しながら唱えるに越したことはないが、そんなことを言っていたら、上辺だけの感謝をし、実のところ、自分が救われたい、いい思いをしたいというエゴを隠すことになる。
それなら、最初から「これは義務だからやってる」で良いのである。
そんな人間の方が、よっぽど立派なのである。
少なくとも正直だしね。
正直が一番である(場面にもよるが)。
いい男ぶって女に声をかける男はモテないものだ。
しかし、義務ででもあるかのように全部の女を口説く者は非常にモテるのである。
何せ、神の恵があるからね・・・もあるが、淡々としたナンパは気持ち悪くないものである。
運動や勉強も、義務として淡々とやると続くし、成果も出るのである。
成果を出すのではなく、神が成果をくれるからだ。
私も、義務のように阿弥陀真言を唱えている時は運が良いことに気付く。
だが、自己満足して唱えるとさっぱりである。