英国の著名な物理学者スティーヴン・ホーキングは、神はいないと言ったそうだ。
もし神がいるなら、その証拠があるはずとでも考えたのだろうか?
例えば、太陽が存在することは、視覚に頼らなくても、熱や光、あるいは、引力からその存在が証明できる。
では、神が存在するなら、どんなことからその存在が証明できるのかと考えたのではないかと思う。
多分、ホーキングの考え方はそうだろう。彼は、宗教と科学の違いは、権威と観察の違いだと言ったのだからね。
しかし、宗教だって観察するし、科学こそ権威にまみれた世界だ。この両者に違いがあるとは思えない。例えば、NLP(神経言語プログラミング)の創始者リチャード・バンドラーも著書にそう書いていた。
神の存在を疑う人々は、もし、神が存在するなら、神が何をしてくれるのかを聞きたいのだろうと思う。しかし、なぜ、神様が何かしないといけないのだろう?
神が何かすると言うなら、どんなことをするのだろうか?
恵みを与えること?
救うこと?
奇跡を起こすこと?
これがおかしな考え方であることを、喩えでお話しよう。
『神無月の巫女』というアニメで、ソウマという16歳の少年が、呪いで石になってしまう場面がある。彼は、愛する姫子(16歳)を守って戦うことで、敵の呪いを受け、そういう結果になることは分かっていたのだった。
そして、姫子は、ソウマの気持ちにも応えなかった。彼女は、別の人(女の子だが)への愛を選んだのだ。
硬く冷たい石になってしまったソウマの前に、兄のツバサが現れ、哀れな弟に尋ねる。
「これで満足か?ソウマ」
身動きでない身体になった上、好きな女の子からも愛も得られなかったソウマを蔑むような声だった。
しかし、ソウマは心で答える。
「ああ」
曇りのない、明るい思念だ。
「なぜだ?」
ツバサの声は険しい。
だが、ソウマは穏やかに答える。
「姫子が生きている」
別に、ソウマは、姫子を守れたことに満足しているというのではない。
もしそうなら、それは自己満足でしかない。自己満足なら、完全に心が晴れたりはしない。
では、何がそんなに嬉しいのだろう?
姫子は、自分ではなく、千歌音(ちかね)を選んだというのに。
しかし、姫子に愛される必要はない。
なぜか?姫子は、ソウマにとって、愛そのものだからだ。愛そのものである姫子が愛する必要はないのである。
神の場合も同じことだ。
恵みそのものである神が、恵みを与える必要はない。
救いそのものである神が、救う必要はない。
奇跡そのものである神が、奇跡を起こす必要はない。
姫子が愛そうが、愛すまいが、ソウマにはどうでも良かったという話から、このことが推測できれば良いことと思う。
もし、あなたに好きな人がいれば、そのように考えると良い。
アイルランドの詩聖W.B.イェイツは、愛は神の領域なので人には分からないと言ったが、何のことはない。ちゃんと分かるのである。
もし、あなたが男性であって、好きな女性がいたとして、彼女から何かしてもらわないと満足しないだろうか?
あるいは、彼女に性的な行為をしなければ満足しないだろうか?あるいは、彼女が、別の男性と性的行為をすれば悲しいだろうか?
もしそうであれば、それは愛ではない。
彼女がただ存在するだけで満足であれば、あなたは、彼女の姿をとった神を見ているのである。神は存在することが至上の美徳なのである。そして、その働きは人の与り知らぬことである。
愛されようとして、金や物や身体を与えても、愛されることは決してないだろう。
愛する人がいれば、その存在だけに満足し、後は、なりゆきに任せることだ。何かをすることが自然であれば、そうせざるを得ないが、自然でない行いは慎まなければならない。
人は、思うがままに結ばれたり別れたりはできない。だが、大きな力に従っていれば、がっかりすることもないだろう。
神は存在するし、イエスは存在する。クリシュナも存在するし、天照大神も存在し、阿弥陀如来も存在する。
全ては自己の内に存在する。
無限の英知と力が、我が内にあり、我々はそれと1つであるのだ。
在ることが至福なのである。それを多くの人々は逃してしまっているのだ。ホーキングも例外ではないのだろう。
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もし神がいるなら、その証拠があるはずとでも考えたのだろうか?
例えば、太陽が存在することは、視覚に頼らなくても、熱や光、あるいは、引力からその存在が証明できる。
では、神が存在するなら、どんなことからその存在が証明できるのかと考えたのではないかと思う。
多分、ホーキングの考え方はそうだろう。彼は、宗教と科学の違いは、権威と観察の違いだと言ったのだからね。
しかし、宗教だって観察するし、科学こそ権威にまみれた世界だ。この両者に違いがあるとは思えない。例えば、NLP(神経言語プログラミング)の創始者リチャード・バンドラーも著書にそう書いていた。
神の存在を疑う人々は、もし、神が存在するなら、神が何をしてくれるのかを聞きたいのだろうと思う。しかし、なぜ、神様が何かしないといけないのだろう?
神が何かすると言うなら、どんなことをするのだろうか?
恵みを与えること?
救うこと?
奇跡を起こすこと?
これがおかしな考え方であることを、喩えでお話しよう。
『神無月の巫女』というアニメで、ソウマという16歳の少年が、呪いで石になってしまう場面がある。彼は、愛する姫子(16歳)を守って戦うことで、敵の呪いを受け、そういう結果になることは分かっていたのだった。
そして、姫子は、ソウマの気持ちにも応えなかった。彼女は、別の人(女の子だが)への愛を選んだのだ。
硬く冷たい石になってしまったソウマの前に、兄のツバサが現れ、哀れな弟に尋ねる。
「これで満足か?ソウマ」
身動きでない身体になった上、好きな女の子からも愛も得られなかったソウマを蔑むような声だった。
しかし、ソウマは心で答える。
「ああ」
曇りのない、明るい思念だ。
「なぜだ?」
ツバサの声は険しい。
だが、ソウマは穏やかに答える。
「姫子が生きている」
別に、ソウマは、姫子を守れたことに満足しているというのではない。
もしそうなら、それは自己満足でしかない。自己満足なら、完全に心が晴れたりはしない。
では、何がそんなに嬉しいのだろう?
姫子は、自分ではなく、千歌音(ちかね)を選んだというのに。
しかし、姫子に愛される必要はない。
なぜか?姫子は、ソウマにとって、愛そのものだからだ。愛そのものである姫子が愛する必要はないのである。
神の場合も同じことだ。
恵みそのものである神が、恵みを与える必要はない。
救いそのものである神が、救う必要はない。
奇跡そのものである神が、奇跡を起こす必要はない。
姫子が愛そうが、愛すまいが、ソウマにはどうでも良かったという話から、このことが推測できれば良いことと思う。
もし、あなたに好きな人がいれば、そのように考えると良い。
アイルランドの詩聖W.B.イェイツは、愛は神の領域なので人には分からないと言ったが、何のことはない。ちゃんと分かるのである。
もし、あなたが男性であって、好きな女性がいたとして、彼女から何かしてもらわないと満足しないだろうか?
あるいは、彼女に性的な行為をしなければ満足しないだろうか?あるいは、彼女が、別の男性と性的行為をすれば悲しいだろうか?
もしそうであれば、それは愛ではない。
彼女がただ存在するだけで満足であれば、あなたは、彼女の姿をとった神を見ているのである。神は存在することが至上の美徳なのである。そして、その働きは人の与り知らぬことである。
愛されようとして、金や物や身体を与えても、愛されることは決してないだろう。
愛する人がいれば、その存在だけに満足し、後は、なりゆきに任せることだ。何かをすることが自然であれば、そうせざるを得ないが、自然でない行いは慎まなければならない。
人は、思うがままに結ばれたり別れたりはできない。だが、大きな力に従っていれば、がっかりすることもないだろう。
神は存在するし、イエスは存在する。クリシュナも存在するし、天照大神も存在し、阿弥陀如来も存在する。
全ては自己の内に存在する。
無限の英知と力が、我が内にあり、我々はそれと1つであるのだ。
在ることが至福なのである。それを多くの人々は逃してしまっているのだ。ホーキングも例外ではないのだろう。
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