ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ベン・ハー

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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1日中、1年中やれること

修行と言うとイメージが悪いかもしれないが、何かの行を1日24時間、永遠にやるという気持ちでやれば、不可能はなく想いのままだ。
「岡田式静坐法」で知られた、本物の賢者であった岡田虎二郎が「生活しながら静坐してはいけない。静坐しながら生活するようでなければならない」と言ったのが、至高の教えだと思う。
法然の念仏がまさにそうで、法然は、生活しながら念仏を唱えていたのではなく、念仏を唱えながら生活していたのだ。

時々取り上げる、「神様の奇跡が起こる」と1日中唱えていたホームレスが、宝くじで一億円当て、ローマ法王に謁見し、さらに一億円当たったのも、「神様の奇跡が起こる」と唱えながら生活していた・・・というよりは、生活らしい生活もしていなかったので、まさに、「神様の奇跡が起こる」と唱えるためにだけ生きていたからだ。

初音ミクさんと同じ8月31日生まれの漫画家、大島弓子さんの短編漫画『裏庭の柵をこえて』(『夏のおわりのト短調 』収録)で、とみこが中学生になるまで、となりの家のおにいちゃんは、とみこの夏休みの宿題をするためだけに生きていた。
好きな生き方である(笑)。
ちなみに、とみこの誕生日も8月31日で、大島先生はとみこに思い入れがあったのだと思う。

アメリカ映画『ベン・ハー』(1959)で、高貴な貴族であったユダが、奴隷に身を落とし、何年も、来る日も来る日もガレー船のオールを漕ぐだけに生きたが、最後に、メッサラとの戦車競技の対決で勝ったのは、そのオール漕ぎで得た握力と引く力のおかげだった。

保江邦夫さんという、今、精神世界で人気があるらしい物理学者がいる。
私は彼が嫌いなのだが(笑)、たまに、彼の言うことが分かることがある。
彼は、子供の時からだと思うが、ずっと耳鳴りがしているのだったと思う。
そして、その耳鳴りをずっと聞いていたおかげで、何かスピリチュアルな能力が開かれたのだと思う・・・嫌いな人の本に書いてあったことなので、あまり真面目に読んでおらず、曖昧にしか覚えていないが。
私も、4歳位の時、ずっと耳鳴りがすることに気付いた思い出がある。
私は、耳鳴りをそれほど熱心に聞いていた訳ではないが、そこそこには意識的に聞いていたかもしれない。
それで、これまで何度か書いたが、超能力としか言えないことを、何度もやっていた。

初めて日本武道館でコンサートをしたバーチャル・シンガーはもちろん初音ミクさんだが、初めて日本武道館でプロレス興行が行われた時のメイン・イベンターはジャイアント馬場さんで、その対戦相手は「鉄の爪」フリッツ・フォン・エリックだった。
そのエリックは、元々2流レスラーだったが、握力を生かしたアイアンクロー(相手の顔や胃袋を掴む技)でトップレスラーになった。エリックは、常に野球ボールを持ち歩き、握力を鍛えていたらしい。
ある有名な陸上短距離選手は、普段歩く時にも、膝を高く上げて歩いて鍛えたらしい。
普段の訓練こそ、最高のものである。

インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは、「常に存在の感覚にしがみつけ」と言った。
それで神になれる。
また、アメリカの実業家で精神世界指導者のネヴィル・ゴダードも、それと同じことを言い、それで、いかなる願いも叶えられる・・・というより、世界を自由に創造出来ると言った。
あなたにも、このやり方を薦めする。

「何をやるか」はどうでもいい。
1日中、1年中やれば報われる。でも、合うことでないと続かない。
それを見つけることだ。








木枯らし紋次郎はなぜ腕が立つのか

笹川佐保さんの時代劇『木枯し紋次郎』のヒーロー、紋次郎は腕の立つ渡世人である。
渡世人とは、本来、博打打ちという意味で、紋次郎も博打は重要な収入源なのだろう。
しかし、紋次郎の場合は、旅先でヤクザの親分の家に宿泊し、翌朝、出立の時に草鞋銭をもらう場面が多い。
なぜ、それで金がもらえるのかと言うと、宿泊中に、出入り、つまり、ヤクザ同士の喧嘩が起こったら、必ず加勢する義務があるからだ。
紋次郎ほどの腕があれば、どこでも歓迎され、草鞋銭も、要求せずとも高価になる。
実際、紋次郎の腕は素晴らしく、並のヤクザなら、十人程度では太刀打ち出来ない。
元々、武士として剣術の修行をした浪人や渡世人で、その剣が達人レベルであれば、紋次郎も自分の我流の喧嘩剣術が通用しないことはよく知っているが、大した腕前でなかったり、腕が錆びついた武士なら恐れはしない。
しかし、正式に剣の修行をしたことがない紋次郎が、なぜ、そんなに強いのだろう?
小説とはいえ、全くの空想ものでないだけに興味があった。

ところが、『木枯し紋次郎』の第二部とも言えるシリーズの『帰って来た木枯らし紋次郎』で、その謎が解けた気がする。
『木枯し紋次郎』では、30歳そこそこであった紋次郎も、『帰って来た木枯らし紋次郎』では38歳になり、衰えが忍び寄ってきていた。また、栄養が十分には程遠いこともあってか、心臓が弱っていた。
それである日、本来なら、何でもないはずのヤクザ者数名の敵を相手に苦戦し、挙句、刺されてしまう。
急所は外れていたが、そのままでは死んでいたはずだった。
ところが、倒れて気を失っていた紋次郎は、10年前、なりゆきで盗賊の浪人から命を救ってやった友七という豪商の主に見つけられる。人格者で、紋次郎に深い恩を感じていた友七は、紋次郎を医者に治療させ、命を取り留めると、紋次郎を手厚く遇した。
紋次郎は快適で豪華な住居を与えられ、三度の食事もデラックスなものが振る舞われた。
友七は紋次郎に、生涯、自分の家に居るよう、心から勧めた。
だが、紋次郎は少し元気になると、友七への義理もあって、出て行きはしないながら、仕事をさせてくれと友七に願う。
友七は「とんでもない。お客様に仕事などさせられない」と断るが、紋次郎もそこは譲らない。
止む無く、友七は、紋次郎が薪割(まきわり)をすることを認めた。
友七は旅館を商っていて、当時の旅館では、薪は大量に必要だった。
ところが、ちょっと驚いたことになった。
紋次郎の仕事振りは恐ろしく優秀で、毎日、良質な薪が大量に出荷されたのだ。
実は、紋次郎は、若い頃、無宿渡世人になる前、木こりで食べていた。
毎日、山に入り、木を切り倒し、それを運び、そして、薪を割った。
木を運ぶことで足腰が鍛えられ、長時間、熱心に薪を割ることで「切る」能力が身に付いたのだ。
それが、剣の達人をして、紋次郎の戦い振りを見て「やるな」と言わせた、紋次郎の実力の秘密だった。

1920年代、テニスプレーヤーとして全英ベスト4、全米ベスト8、世界ランキング4位にまでなった清水善造は、海外の一流プレーヤーと比べれば、明らかに技術は劣っていても(良いコーチに就いたことがなかった)、これほど強かったのは、中学生の時、毎日長時間の草刈りをしたからで、それで、清水のスナップ(手首を捻って効かせる力)が鍛えられ、実際、清水のラケットの振り方は草刈りの形が色濃く残っていた。

2016年の映画『ベン・ハー』で、最後、戦車競技(馬車をぶつけ合いながら走るレース)で、ユダがメッセラに勝った要因は、ユダが5年の間、ガレー船(戦艦)を漕ぐ奴隷をして身に付けた、「引く力」だった。その力で手綱を引いて離さなかったことで、ユダの戦車(戦闘用馬車)は姿勢を維持し、メッセラの馬車は転倒した。
イチローやテッド・ウィリアムズ(メジャー最後の4割打者)は、少年時代から誰よりも多く素振りをした。
木村政彦の腕立て伏せ毎日千回や、カール・ゴッチのヒンズースクワット毎日1万回は、彼らの異常体質が可能にした面はあるが、やはり、それが彼らの恐るべき強さの秘密だろう。
大東流合気術の達人で数学者の木村達雄さんは、四股(相撲のものとはかなり異なる)を毎日2千回踏んでいたという。
いかなる超人、達人にも、必ず、このようなものがあるのだと思う。









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人生のチャンスは2回から4回くらい

『ベン・ハー』は、ルー・ウォーレスが1880年に発表した小説で、これを基に何度も大作映画が作られた。
ルー・ウォーレスは、Wikipediaによれば、「弁護士、州知事、南北戦争のときの北軍将軍、アメリカ合衆国の政治家および著作家」と、社会面で実に優れた人間のようだ。
『ベン・ハー』のクライマックスは、主人公の元貴族ユダ・ベン・ハーと、ユダの幼馴染だったメッサラの戦車競技の対決だ。
戦車と言っても、近年の大砲の付いたアレではなく、基本は馬車なのだが、荒っぽいレース用に作られ、ぶっつけあって戦うように作られている。
ユダは名門貴族の跡取り息子だが、メッサラはその家で拾われた孤児で、ユダと兄弟のように育つが、そこはやはり孤児で、ユダはそうではなくても、メッサラに対する家の中での扱いは違ってくる。
それに耐えられず、メッサラは家を出て、ローマ軍に一介の兵士として加わり、何度も死の危機に直面しながら武勲(戦場でのてがら)を立てて、のし上がっていく。
一方、不運もあり、ユダの家は取り潰され、ユダは奴隷としてガレー船のこぎ手にさせられる。
つまりユダは、ガレー船(昔の軍艦)の中に鎖でつながれ、ひたすらオールで船をこがされるのである。
ユダは5年間もガレー船をこぎ、乗っていた船が衝突で破壊された時、逃げることに成功し、運よく生き延びた。
そして、いろいろあったが、遂に、ユダは、今や憎む敵どうしとなったメッサラと共に、トップクラスの騎手達が出場する戦車競技に参加し、他の戦車が次々に破損し退場する中、最後の2人となり、1対1の対決になる。
良い勝負であったが、メッサラはやはり強い。
2016年作品の映画で、ユダとメッサラの戦車が押し付け合い、障害物にぶつかって壊れていく中、不意に、ガレー船をこぐユダの映像が現れる。
オールを力強く引き寄せてこぐユダの姿だ。
最後の勝負を決めたのは、手綱を引くユダの腕力だった。それは、ガレー船で5年の長きに渡って鍛えられたものだ。
ユダは勝ち残り、メッサラは重傷を負い不具者になる。

長々と書いたのは、ユダが、望んでやった訳ではないが、5年、ガレー船をこぐことで得た腕力で大勝負に勝利したことを言いたかったのである。
ガレー船のこぎ手という苦しさなら5年で十分であるが、普通は10年である。
しかし、どんなことでも10年、欠かさず続ければ大きな力を得る。
トータル1万時間と言う説も有力であるが、毎日3時間を10年で、だいたい1万時間だから、同じことである。
ビートルズとビル・ゲイツの、修行時代の演奏とプログラミング時間も、そんなものだったようだ。
ユダは、毎日6時間こいだとすれば、5年で1万時間だ。

私もプログラミングを1万時間超えたあたり(かなり年数を要した)で、恥ずかしくないレベルになった。
だが、サラリーマン10年、いい加減な主婦10年、やる気のない教師10年など、ゆるんだ10年、やらされた10年では駄目と思う。
ユダは、命がかかっていたし、チームとして他のこぎ手のことも考えたので、意思の力が違っていた。
たとえ「妙なこと」でも、10年、想いを込めてやればモノになる。
そして、今後は「妙なこと」が良いかもしれない。
ある程度は、「これでいいのか」と考えることも必要だが、1万時間をかける価値があるなら、人がどう言おうとやれば良い。
まあ、人生で2~4回のチャンスがあるだろうから、1回くらいは駄目でも・・・








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2日連続で見たイエスが超能力を発揮する映画

今日の午後は、2016年のアメリカ映画『ベン・ハー』を観た。
私は『ベン・ハー』は、1959年のチャールトン・ヘストン主演の作品しか知らなかったが、1959年のものが、『ベン・ハー』の3作目で、2016年のものが6作目ということになるらしい。
2016年の作品は、ジャック・ヒューストン主演で、日本ではなんと未公開だ。

昨日、『キング・オブ・キングス』を観たので、イエス・キリストの磔を2日連続で見た訳である。
今日観た、2016年作品であるが、仕方がないこととは思うが、俳優達があまりに健康そうで(肌や髪の艶が良過ぎるし、肉付きもいい)、リアリティに欠けたが、面白かった。
そして、『キング・オブ・キングス』も、今日の『ベン・ハー』も、保江邦夫さんの言うキリスト活人術のようなものを見せてくれたし、1959年の映画でもそうだった。
2016年の作品で言えば、乱暴に連行される途中に倒れたジュダ・ベン・ハーに、彼の恋人のエスターが水を飲ませようとするがローマ兵に阻まれると、イエス・キリストがジュダに水を与えようとする。すると、やはりローマ兵がイエスを追い払おうとするが、イエスに触れられると、ローマ兵は何も出来なくなり、イエスはジュダに水を飲ませる。
1959年の映画では、灼熱の砂漠を歩いて護送され、渇きに苦しむジュダが水を求めるが、護送隊長がこれを阻み、ジュダが気を失った時、イエスがジュダを介抱し、水を与えようとする。護送隊長がこれを見てイエスを蹴散らそうとするが、イエスが護送隊長に向かって立つと、護送隊長は怯んで何も出来なくなる。
まあ、実際は、これらは、保江さんの説くキリスト活人術とは違うかもしれないが、相手の魂に働きかけ、身体を支配するという原理では同じであると思う。

キリスト教では活人術をマスターするには、厳しい修行が必要であるとするが、保江さんは、それを簡単に習得する道を示したのである。
とはいえ、その易しい方法も、私には無理が大きい。
普通の人は、まずは自分の魂を知り、心と魂を統合し、確立しなければならない。
それは、どうやっても出来ない人が実際にいる。
私もそうなのだが。
そこで、手を(どちらの手でも、あるいは、両手で)、胸の中央から指2本分右に当てるか、合掌するかを、なるべく頻繁に行うことをお薦めする。
それで、他者を支配は出来ないかもしれないが、自分が支配されないようにはなれるだろう。









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神秘的威圧はどんな時に起こるか

感動的・・・と言うよりは、神秘的な威圧シーンを、私は2つ覚えている。
1つは、映画『ベン・ハー』の中で、権力を傘に横暴を働く囚人護送団の隊長の前に、ただの市民の男が立ちはだかり、隊長はそれを蹴散らそうとするが、なぜか威圧されて身動き出来ないというものだ。その市民の男は、後で分かるが、イエス・キリストだった。
もう1つは、笹川佐保さんの時代劇小説『木枯し紋次郎』で、町人の使用人が、武士にぶつかるか何か無礼をしてしまい、怒った武士がその使用人を切ろうとした時、その使用人の主であるという少女が、「使用人のことは主の責任。切るなら私を」と武士の前に座り、頭に血が昇ったままの武士が「そうかそれなら」と刀を振り上げるが、武士は威圧されて動けなくなり、惨めに去って行った。
(ちなみに、武士の「切捨御免」は実際には有り得なかった)

これらでは何が起こったのかというと、イエスや町人の少女は、無、あるいは、無我になっていたのだろう。
無になった人間相手に逆らったり敵対したりは出来ない。
無とは、心が完全に静まった状態だが、それに近ければ近いほど強い。
では、どうすれば無になれるのか?
それには死ぬことだが、本当に死んだ気になるか、死んだ状態になることである。
では、死んだ状態とか何か?
生きていることを「息をしている」と言うように、死ぬなら息をしなければ良い。
ただし、無理に息を止(と)めるのは、むしろ息をすることが前提である。
死人が息を止(と)めたりはしない。ただ、息をしないのである。
死ぬとは「息を止(や)める」ことである。
つまり、何の力も使わないまま、吸気、呼気がない・・・呼吸器官に空気の流れがなくなっている状態である。
もっと具体的には、軽く息を吐いた状態で、呼吸の流れを止(と)めてしまうことである。

人間は、生きているから問題が起こる。
ではなぜ問題が起こるのかというと、死ぬ練習をするためである。
何かあった時、息を止(や)めてしまえば、問題は消える。問題は生きた人間にしかとり憑けない。
ちなみに、借金や刑罰は問題ではない。働いて返せば良いし、罪は償えば良い。

人間の唯一の問題は、心がぐらぐら揺れることだ。
不動心であれば、何の問題もあり得ない。
心がぐらぐら揺れたら、息を止(や)めることだ。
そこまで行かなくても、限りなく息を止(や)めたような、微かな呼吸をすれば良い。
息をしていない人間には、悪魔だって手を出せない。
だから、悪魔は何としても、人間の呼吸を乱そうとするのである。
「アジマリカン」の呪文や念仏を唱えるのも良い方法だが、息を乱して唱えては何にもならず、ごく身近にいる人にも聴こえないくらい微かな声で唱えれば無敵である。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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