世の中には、「願いが叶う方法」とか「希望が実現する方法」といったものがあるように言われ、それを商売にしている者も多い。
そういった者の中には、イエス・キリストこそ、希望、願望を実現させる力を持つ代表的な存在であると述べる者もよくいる。
イエスは、いかなる難病も即時に治し、数個のパンと数匹の魚を数千人に食べさせて満腹させ、水をぶどう酒に変え、死人すら蘇らせた。
しかし、イエス自身は、実際は何もしていない。
例えば、イエスは、弟子に、「この先を行くと、子ロバがつながれているから、それを解いて連れて来なさい」と言い、弟子が行くと、やはりつながれた子ロバがいる。
それで、その子ロバを解こうとしたら、持ち主が、「何してんだ?」と言うので、やはりイエスに教えられたとおり、「主がお入用だ」と言うと、邪魔されずに連れてくることができた。
しかし、それは別にイエスの力によるものではなく、はじめからそうなると決まっていたと、ちゃんと福音書に書かれている。
イエスに起こった一切の出来事は、イエスが起こした奇跡を含め、全ては最初からそうなると決まっていたのであり、主だったものは、大昔に書かれた聖書(旧約聖書)に書かれていたのである。
我々も同様だ。
我々には、人生や世界に対し、何のコントロールをすることもできない。
願いが叶ったように見えても、それは、最初からそうなると決まっていたことでしかない。
だから、願ったことが叶ったように見えることがある一方、願いもしなかったことが叶ったり、願っても叶わないことの方が圧倒的に多いのである。
いうなれば、我々は、シナリオ通りに演じる舞台の役者である。
シェイクスピアやイェイツは、それを深く感じていて、人生が舞台のようなものである、あるいは、舞台のようなものでしかないと度々言っていたものだ。
イェイツは、人生は悲劇だが、演じる役者が泣いていてはいけないと言った。ただの舞台なのだから。
シナリオは完全に決まっていて、役者がそれを変えられる訳がない。
つまり、我々個人個人の思いの通りに世界が変わるはずがない。
我々の運命は、全て完全に決められているが、それの何が不満なのだろう?
そりゃ、金持ちになったり、可愛いあの子と結ばれることは無いかもしれず、病気になり失業して悲惨な目に遭うのが運命かもしれない。
しかし、全て受け入れていれば、たとえどんな状況でも、心晴れやかで喜びすら満ちるのである。
シラーの詩をベートーヴェンが歌にした『歓喜の歌』でも、別に億万長者になったり、美女を侍らせたから歓喜するのではなく、内なる魂を知ることで喜びに満ちるのである。
一方、金持ちになり、名誉を受けた者ほど惨めで不幸なのかもしれないのだ。
『灼眼のシャナ』という小説・アニメで、ベルペオールという名の、大変な力を持つ3眼の美女は、大きな計画が最後にいつも躓くのだが、そんな時、「やはり世の中はままならぬ」と言って、多少の無念さは見せるが、案外サバサバしていた。この「ままならぬ」は彼女の口癖のようなものだったが、最後の最後は、ままならぬままで良いと受け入れたのか、実に幸福そうであった。
イエスとて、自我では、「ままならぬ」と思っていたはずだ。
イエス自身、「私の想いではなく、あなた(神)の想いがなされますように」と祈ったのである。
つまり、イエス個人の願いや希望があっても、それが叶うということではなく、既に神が決めた通りになるのであり、イエスはそれを完全に受け入れていたから神のキリストだったのである。
キリストになるとは、つまり、こういうことなのである。
イエスの秘法を一言で言えば、スコットランド出身の聖者マード・マクドナルド・ベインの身体を借りて言ったように、「私自身は無だ。神が全てを為す」であると思う。
我々はキリストになるべき時であり、そうでなければ、どうも危ないようなのだ。
そんな時、邪まなことを言って、我々を惑わす者が多いことも予言されている。「あなたの願いは必ず叶う」とか「望みを全て実現する法」とか言って商売する者達もまたそうなのかもしれないが、そんな連中は下っ端なのであり、本物の強敵はその後で出てくるかもしれない。
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そういった者の中には、イエス・キリストこそ、希望、願望を実現させる力を持つ代表的な存在であると述べる者もよくいる。
イエスは、いかなる難病も即時に治し、数個のパンと数匹の魚を数千人に食べさせて満腹させ、水をぶどう酒に変え、死人すら蘇らせた。
しかし、イエス自身は、実際は何もしていない。
例えば、イエスは、弟子に、「この先を行くと、子ロバがつながれているから、それを解いて連れて来なさい」と言い、弟子が行くと、やはりつながれた子ロバがいる。
それで、その子ロバを解こうとしたら、持ち主が、「何してんだ?」と言うので、やはりイエスに教えられたとおり、「主がお入用だ」と言うと、邪魔されずに連れてくることができた。
しかし、それは別にイエスの力によるものではなく、はじめからそうなると決まっていたと、ちゃんと福音書に書かれている。
イエスに起こった一切の出来事は、イエスが起こした奇跡を含め、全ては最初からそうなると決まっていたのであり、主だったものは、大昔に書かれた聖書(旧約聖書)に書かれていたのである。
我々も同様だ。
我々には、人生や世界に対し、何のコントロールをすることもできない。
願いが叶ったように見えても、それは、最初からそうなると決まっていたことでしかない。
だから、願ったことが叶ったように見えることがある一方、願いもしなかったことが叶ったり、願っても叶わないことの方が圧倒的に多いのである。
いうなれば、我々は、シナリオ通りに演じる舞台の役者である。
シェイクスピアやイェイツは、それを深く感じていて、人生が舞台のようなものである、あるいは、舞台のようなものでしかないと度々言っていたものだ。
イェイツは、人生は悲劇だが、演じる役者が泣いていてはいけないと言った。ただの舞台なのだから。
シナリオは完全に決まっていて、役者がそれを変えられる訳がない。
つまり、我々個人個人の思いの通りに世界が変わるはずがない。
我々の運命は、全て完全に決められているが、それの何が不満なのだろう?
そりゃ、金持ちになったり、可愛いあの子と結ばれることは無いかもしれず、病気になり失業して悲惨な目に遭うのが運命かもしれない。
しかし、全て受け入れていれば、たとえどんな状況でも、心晴れやかで喜びすら満ちるのである。
シラーの詩をベートーヴェンが歌にした『歓喜の歌』でも、別に億万長者になったり、美女を侍らせたから歓喜するのではなく、内なる魂を知ることで喜びに満ちるのである。
一方、金持ちになり、名誉を受けた者ほど惨めで不幸なのかもしれないのだ。
『灼眼のシャナ』という小説・アニメで、ベルペオールという名の、大変な力を持つ3眼の美女は、大きな計画が最後にいつも躓くのだが、そんな時、「やはり世の中はままならぬ」と言って、多少の無念さは見せるが、案外サバサバしていた。この「ままならぬ」は彼女の口癖のようなものだったが、最後の最後は、ままならぬままで良いと受け入れたのか、実に幸福そうであった。
イエスとて、自我では、「ままならぬ」と思っていたはずだ。
イエス自身、「私の想いではなく、あなた(神)の想いがなされますように」と祈ったのである。
つまり、イエス個人の願いや希望があっても、それが叶うということではなく、既に神が決めた通りになるのであり、イエスはそれを完全に受け入れていたから神のキリストだったのである。
キリストになるとは、つまり、こういうことなのである。
イエスの秘法を一言で言えば、スコットランド出身の聖者マード・マクドナルド・ベインの身体を借りて言ったように、「私自身は無だ。神が全てを為す」であると思う。
我々はキリストになるべき時であり、そうでなければ、どうも危ないようなのだ。
そんな時、邪まなことを言って、我々を惑わす者が多いことも予言されている。「あなたの願いは必ず叶う」とか「望みを全て実現する法」とか言って商売する者達もまたそうなのかもしれないが、そんな連中は下っ端なのであり、本物の強敵はその後で出てくるかもしれない。
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