コリン・ウィルソンが、デビュー作にして代表作である『アウトサイダー』で引用した、ヘミングウェイの『兵士の故郷』を取り上げる。
『兵士の故郷』は、他にも多くの先生方が解説しているようだ。
第一次世界大戦から復員した青年クレブスは、母親が居る故郷の実家で引きこもっていた。
(第一次世界大戦からの復員ということは、当たり前過ぎるのか、ウィルソンもその他の人もほとんど書いていないが、私には分からなかった)
母親が、毎日を読書と玉突きで過ごすクレブスに、
「神様の王国には怠け者はいない。神様は人間が働くことを望んでいる」
と言うと、クレブスは、
「僕は神様の王国になんかいない」
と言う。
次に、母親がクレブスに、
「母さんを愛してくれてないのかい?」
と尋ね、クレブスが、
「うん」
と答えると母親が泣きだす。
クレブスは仕方なく、今のは冗談だったと言い、いくらか言い訳した。
すると母親は、
「私はお前の母親だ。お前が赤ん坊だった時、よくお前を抱っこしてやったものさ」
と言い、クレブスは吐き気を感じた。
そして、母親はクレブスに、一緒にひざまずいて祈るよう言ったが、クレブスにはそれは出来なかった。
これについて、ウィルソンは難しいことを書き、他の先生方も同じだろうが、私に言わせれば問題は1つだ。
母親とクレブスでIQの差が大き過ぎるのだ。
無論、クレブスのIQが母親よりはるかに高い。
だが、元々は、両者のIQは、それほどの差ではなかった。
なぜ、それほどの差がついたのか?
それは、母親は考え続け、クレブスはあまり考えなかったからだ。
こう言うと、「え?それは反対だろ?」と言いたい者が多いだろう。
普通の人は、考えない母親が馬鹿になり、大学や軍隊で頭を使ったクレブスが賢くなったのだと言いたいはずだ。
だが、それは洗脳された偏見というもので、今の大半の人がそんなおかしな観念を持っている。
母親は世間の教義や信念にどっぷり浸かっていたが、そんな人間は下らないことを次々に考えるのである。
一方、クレブスは大学や軍隊で、自主的にいろいろな活動をしていたのだろう。そんな人間はあまり考えずに動くのだ。
そして、人間は思考することでIQが下がる・・・つまり、馬鹿になる。
逆に、思考を消した程度に応じて、内なる天才が現れ、賢くなるのである。
AIアート192
「野の白百合」
Kay
ウィルソンは、23歳の時に書いたこの『アウトサイダー』で、一夜にして世界的作家になった。
当時としては画期的だったが、もう役割は終えた。
思考を消すには、20世紀初頭に、ラマナ・マハルシが「私は誰か?」と自分に問う方法を提示した。
これは、最上の方法だった。
だが、継続出来る者がほとんどおらず、結果、誰も思考を消せなかった。
そして、あれから1世紀が経ち、世界も変わった。
今は、「私は存在しない」という、もっと速やかに思考を消せる言葉がある。
この「私」は、思考の本体である自我=心である。
ラマナ・マハルシの「私は誰か?」は、方便とはいえ、誤魔化しが入っている。
「私は誰か?」の「私」が、自我か魂か特定されていないのだから。
一方、「私は存在しない」は、極めてストレートに真理を述べている。
「私は存在しない」は、「私はない」「われなし」、その他、好きなように言えば良い。
ただ、別に、「私は誰か?」に効果がないわけでは全くなく、これを唱えていた人は、抵抗なく「私はない」に移行出来る。
「私は存在しない」は、現代的な言葉である世界コマンド「私は何も考えない」「私は何も信じない」をはるかに超える。
なにせ、考える主体、信じる主体である「私」の存在を否定しているのだからだ。
ただ、「私は存在しない」は、「私は誰か?」を唱える等で、ある程度IQを高めた者でないと抵抗があるかもしれない。
すんなり「私は存在しない」と唱えられれば、あるいは、上の『兵士の故郷』のエピソードで、クレブスのように吐き気を感じたなら、IQは120程度以上はあるだろう。
『兵士の故郷』は、他にも多くの先生方が解説しているようだ。
第一次世界大戦から復員した青年クレブスは、母親が居る故郷の実家で引きこもっていた。
(第一次世界大戦からの復員ということは、当たり前過ぎるのか、ウィルソンもその他の人もほとんど書いていないが、私には分からなかった)
母親が、毎日を読書と玉突きで過ごすクレブスに、
「神様の王国には怠け者はいない。神様は人間が働くことを望んでいる」
と言うと、クレブスは、
「僕は神様の王国になんかいない」
と言う。
次に、母親がクレブスに、
「母さんを愛してくれてないのかい?」
と尋ね、クレブスが、
「うん」
と答えると母親が泣きだす。
クレブスは仕方なく、今のは冗談だったと言い、いくらか言い訳した。
すると母親は、
「私はお前の母親だ。お前が赤ん坊だった時、よくお前を抱っこしてやったものさ」
と言い、クレブスは吐き気を感じた。
そして、母親はクレブスに、一緒にひざまずいて祈るよう言ったが、クレブスにはそれは出来なかった。
これについて、ウィルソンは難しいことを書き、他の先生方も同じだろうが、私に言わせれば問題は1つだ。
母親とクレブスでIQの差が大き過ぎるのだ。
無論、クレブスのIQが母親よりはるかに高い。
だが、元々は、両者のIQは、それほどの差ではなかった。
なぜ、それほどの差がついたのか?
それは、母親は考え続け、クレブスはあまり考えなかったからだ。
こう言うと、「え?それは反対だろ?」と言いたい者が多いだろう。
普通の人は、考えない母親が馬鹿になり、大学や軍隊で頭を使ったクレブスが賢くなったのだと言いたいはずだ。
だが、それは洗脳された偏見というもので、今の大半の人がそんなおかしな観念を持っている。
母親は世間の教義や信念にどっぷり浸かっていたが、そんな人間は下らないことを次々に考えるのである。
一方、クレブスは大学や軍隊で、自主的にいろいろな活動をしていたのだろう。そんな人間はあまり考えずに動くのだ。
そして、人間は思考することでIQが下がる・・・つまり、馬鹿になる。
逆に、思考を消した程度に応じて、内なる天才が現れ、賢くなるのである。
AIアート192
「野の白百合」
Kay
ウィルソンは、23歳の時に書いたこの『アウトサイダー』で、一夜にして世界的作家になった。
当時としては画期的だったが、もう役割は終えた。
思考を消すには、20世紀初頭に、ラマナ・マハルシが「私は誰か?」と自分に問う方法を提示した。
これは、最上の方法だった。
だが、継続出来る者がほとんどおらず、結果、誰も思考を消せなかった。
そして、あれから1世紀が経ち、世界も変わった。
今は、「私は存在しない」という、もっと速やかに思考を消せる言葉がある。
この「私」は、思考の本体である自我=心である。
ラマナ・マハルシの「私は誰か?」は、方便とはいえ、誤魔化しが入っている。
「私は誰か?」の「私」が、自我か魂か特定されていないのだから。
一方、「私は存在しない」は、極めてストレートに真理を述べている。
「私は存在しない」は、「私はない」「われなし」、その他、好きなように言えば良い。
ただ、別に、「私は誰か?」に効果がないわけでは全くなく、これを唱えていた人は、抵抗なく「私はない」に移行出来る。
「私は存在しない」は、現代的な言葉である世界コマンド「私は何も考えない」「私は何も信じない」をはるかに超える。
なにせ、考える主体、信じる主体である「私」の存在を否定しているのだからだ。
ただ、「私は存在しない」は、「私は誰か?」を唱える等で、ある程度IQを高めた者でないと抵抗があるかもしれない。
すんなり「私は存在しない」と唱えられれば、あるいは、上の『兵士の故郷』のエピソードで、クレブスのように吐き気を感じたなら、IQは120程度以上はあるだろう。