ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

フローレンス・スコーヴェル・シン

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

人間がやるべきことは僅かである

アメリカの作家、マイク・ハーナッキーは、若い時から、成功を目指し、成功哲学をしっかり学びながら努力した。
まず、教師になったが、全く面白くなく、給料も少なかったので、広告業界に転職してバリバリ働いたが成果が出なかった。
そこで、大学の法学部に入って勉強し、弁護士になって、「今度こそ」と思ったが、これも駄目で、ついには、病気になって入院する始末。
成功哲学は全く効果がなく、自分は人生の敗北者ではないかと思い始めていた時、不意に天啓を得て、究極の成功の秘訣を発見。
すると、自分が本当になりたかったのは作家だと気付き、作家になると決めて、弁護士事務所から退職。
そして、作家として成功したのである。
彼が発見した究極の成功の秘訣は次の通り。

何かを成し遂げようとするには、
必要なことはすべて
進んで実行する自発的な態度が必要である。

ただし、必要なのは、あくまで「態度」であって「行動」ではない。
ただし、「態度」と「行動」の線引きが難しいことが、次の話から分かる。
この究極の成功の秘訣が説明されたハーナッキーの著作『成功の扉』を読んで、書かれている通りに実行したが、成果が得られないという読者からの手紙を、ハーナッキーは沢山受け取ることになった。
ハーナッキーが、そういった、成功出来なかった読者と対話してみると、「いくら何でも、これくらいはやれよ」と言わざるを得ないほど、彼らが本当に何もしていなかったことにハーナッキーは呆れたが、読者の方は、そう言われても心外かもしれない。その読者にも、確かに甘い考えはあったのだろうが、そうは言っても、どこまでやる必要があるのかが分からず、下手に余計なことをやっても、無駄骨になって、無力感を感じるだけだろう。
ハーナッキーは、明らかに、言葉が足りなかった。

自分がすべき行動について理解するのに参考になるお話が、仏教の経典にある。
私はそのお話を、昔、ホテルの部屋に置かれている『仏教聖典』で読んだ。
そのお話は、簡単に言うとこうだ。
竹藪が大火事になった時、そこに棲んでいた一羽のオウムが、長年、棲み処を与えてくれた竹藪の恩に報いようと、池に飛び込んで身体を濡らしては燃え盛る炎の上で羽ばたき、水しぶきをかけて、火を消そうとした。
それを見て神が、「その程度の水ではどうにもならない」と言う。
しかし、オウムは、いつまでかかっても、死んでも生まれ変わって断固やると言う。
それを聞いて感動した神は、オウムと力を合わせて火事を消した。

神が、オウムと力を合わせて火事を消したといっても、実際には神が消したのだ。
つまり、実行するのは、ほとんど神なのである。
ハーナッキーの究極の秘訣にも、そうであることが込められてはいるのだが、ハーナッキーの究極の秘訣を知った者は、どうしても、自分がやる・・・つまり、自分のちっぽけな力でやろうと思ってしまうのだ。
それでは、何も起こらない。
このオウムのお話のように、自分がやることは、実際は無に等しい。しかし、無に等しくても、やることがある。それがちょっと難しいのに、ハーナッキーは、それに気付かなかったのだ。

実際は、あなたは何もしなくていいし、しようとすら思わなくていい。
何でもやってくれるのは、優秀で強い神であり、無能で弱いあなたではない。
あなたがやるべきことは、願いが叶った楽しい気分になることだけだ。
だが、そうなるために、とりあえず、何かやった方が良いのである。
これに関しては、成功哲学の分野で、ジョセフ・マーフィーやジェームズ・アレンと並ぶとも言われ、能力が低い人にも適切な教えを説いたフローレンス・スコーヴェル・シンの『成功への秘密の扉』に、こんな話がある。
海外旅行に行きたいという男がいたが、彼は必要なお金を持っていなかった。
そこで、シンは、男に、旅行カバンを買うよう勧め、彼はその通りにした。
そして、彼は、旅行に行けることを肯定するアファーメーション(積極的断言)を行った。
彼のアファーメーションは、
「神の御恵みのもと、私の旅行が完璧に準備され、旅行資金も調っていることに感謝します」
だったが、正直、何でも良い。自分に合いさえすれば。
それこそ、「神様の奇跡が起こる」で良い。
アファーメーションをしながら、買ったスーツケースを見ると、自分は外国に行くんだと思って気分が良くなった。
そうなるために、スーツケースを買ったのである。
そして、彼はまもなく大金を手にし、旅行に出かけて行った。

マイク・ハーナッキーの究極の秘訣は、神の境地に立った者であれば、極めて正しいのだが、普通の人は、それとはほど遠いのである。
だが、上のオウムや海外旅行に行きたかった男のように、力がない者でも、自分に出来ることをすれば、気分が良くなる。
そして、良い気分になることだけが必要なのである。
だから、あなたも、自分に出来ることで、気分が良くなることをやれば、願いは叶ったも同然である。
結婚したい女性が婚活をするのは、自分のちっぽけな力を頼ることであり、大抵、芳しい成果を見ない。だいたい、婚活なんて面白くなく、気分が悪くなるだけじゃないか?
それよりも、妻や母親になるのに相応しい勉強をするとか、女を磨くとか、自分が良い気分になることをすれば良いのである。

だが、ハーナッキーの究極の秘訣は、彼の悟りの境地であるだけに、捨てるのは惜しい。
「私は神と一体である」というアファーメーションと共に、ハーナッキーの究極の秘訣を使えば、実際にやるのは神ということになり、受け入れ易くなると思う。








ナーマスマラナ、真言、アファーメーションの融合

良い本とは、どんな本だろう?
そもそも、最も優れた本はどれだろう?
それは聖書である。
なぜか?
『ヒマラヤ聖者の生活探求 第3巻 因果の超克』で、イエス・キリストが語ったその理由が素晴らしかった。
それは、聖書には、「神」という語(英語なら“GOD”)が最も多く使われているからである。
「神」という語は、最も高い生命力とエネルギーを持った言葉なので、使えば使うほど、言えば言うほど良いのである。
つまり、内容が本の価値を決めるのではない(もちろん、内容がどうでも良いと言うのではないが)。
『コーラン』も『ギリシャ神話』も『古事記』も、不滅の生命を保っているのは、やはり、「神」という語が多く使われているからである。
人間も、「神」という言葉を多く想い、語る者ほど、優れていて、力があり、幸運である。
トランプ大統領は「神」という言葉を多く使うが、ジョー・バイデンはそうではない。そこからも、両者の実体や格が分かるのである。

『ナーマスマラナ』の中で、サイ・ババは、最も重要なものは神の名であると訴えている。
個々の神、あるいは、仏の名も、当然、「神」という語に匹敵する。
よって、数多く唱えるほど良く、それで、世界への支配力が増す。
真言も、多くは、それぞれの神仏を、直接、あるいは、象徴する言葉を含む。
例えば、弥勒菩薩真言の「オン、マイタレイヤ、ソワカ」のマイタレイヤは弥勒菩薩のことである。
観世音菩薩真言の「オン、アロリキャ、ソワカ」のアロリキャも、良く見る(=観世音)という意味で、観世音菩薩を指す。
阿弥陀如来真言の「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」のアミリタも、阿弥陀如来を示す。
もちろん、真言には、それ以外の効果も込められていて、特別な恵みを得られるように出来ている。
だが、やはり、神仏を指す言葉が含まれている意味が大きいのである。

次に、アファーメーションと呼んで良いのか、祈り言葉とでも呼ぶべきか迷うが、「力ある言葉」がある。
例えば、このブログでも度々取り上げる、あるホームレスが唱え続け、一億円を2回当てた言葉として知られる「神様の奇跡が起こる」は、無意識に浸透する暗示的効果も重要であるが、やはり、「神」という語を含むことで、威力を最大化していると思えるのである。
他にも、トランプ大統領が崇拝するノーマン・ヴィンセント・ピールの世界的ベストセラー『積極的考え方の力』で、ピールが打ちひしがれた人々に教え、蘇らせた聖書の言葉、
「もし神が我々の味方であるなら、誰が我々に敵し得ようか」
「私は神の手のなかにある」
などに、「神」の語が含まれ、また、
「私を強くして下さる方によって、私はどんなことでもできる」
の、「私を強くして下さる方」は、直接に「神」を指しているのである。

「神」の語を含むアファーメーションの力を最も効果的に人々に使わせたのは、フローレンス・スコーヴェル・シンだと思う。
「神は道なきところに道を作られる」
「奇しき御業もて神はなしたまえり」
「予期しない御業もて神はなしたまえり」
「神よ与えたまえ」
「神の御手は巧みで、神の御業は過ちがない」

このように、ナーマスマラナ、真言、アファーメーションは関連したものであり、同じものだとも言える。
だから、自分に合ったやり方を選ぶと良い。
ただし、毎日継続し、なるべく多く行うことが大切である。
「神よ与えたまえ」と言うだけで、決して、がっかりさせられることはないだろう。
(神は与えたがっているのであり、人間が受け取ろうとしないことが問題なのである)
これらの理論面に関しては、上記の『ヒマラヤ聖者の生活探求 第3巻 因果の超克』ではイエスが、また、第6巻あたりでも、著者が量子力学的に説明しており、やや難しいが、教科書的な書き方をしているのではないので、よく読めば、直観的に分かると思う(逆に言えば、教科書の通りでないと受け付けない人は不満であろうが)。
著者のベアード.T.スポールディングは、14歳で大学を卒業した原子物理学者であるようだ。








幸福になる最高の準備とは

幸せになるために、常に考えておくべき価値あることは「準備する」ことだ。
このブログで何十回引用したか分からないが(それほど重要と思う)、ハリウッド俳優のバート・レイノルズが駆け出しの頃、既に大スターだったクリント・イーストウッドに、
「成功するまでどうしていたか?」
と尋ね、イーストウッドは、
「成功するための準備をしていた」
と答えた。
それで重要なことを悟ったレイノルズは、準備をすることで成功した。

この話は、アメリカの作家・事業家のチン・ニンチュウが書いた『誰でも小さなことで大切な願いがかなえられる』という本に書かれていたが、そのエピソードを読んで、私も何かを感じたが、はっきり言ってよく分らなかった。
まあ、別に難しいことではなく、普通に捉えれば良いことなのだが。
そして、チン・ニンチュウよりずっと古い人である、作家・画家のフローレンス・スコーヴェル・シンが世界的ベストセラーの『ゲームの法則』の後に書いた、『成功への秘密の扉』で、準備について、福音書のイエスのお話を引用している。
「5人の賢い乙女と5人の愚かな乙女」のお話だ。
10人の乙女が、夜、外で、花婿の到着を待っていた。
だが、花婿の到着が遅れ、乙女達が持っていたランプの油が切れかけた。
10人の乙女のうち、5人は、予備の油を持っていたが、後の5人は持っていなかった。
つまり、5人の乙女は、予備の油の準備をしていたが、5人の乙女は、予備の油の準備をしていなかったのだ。
予備の油を準備していなかった5人の乙女達が油を買いに行っている間に花婿が到着し、予備の油を準備していた5人の乙女達だけが、花嫁として迎えられた。
そんな話である。
・・・分かるような分からないような(笑)。
で、フローレンス・スコーヴェル・シンは、もっと簡単な話で示した。
世界一周旅行に行きたがっていた男に、準備として、旅行カバンを買わせたのだ。
つまり、世界一周旅行の願いを叶えるための準備が、カバンを買うことだったのだ。
すると、この男は不思議ななりゆきで大金を掴み、世界一周旅行に出かけたのだった。

準備が出来ていない愚か者の教訓を知りたければ、芥川龍之介の『六の宮の姫君(ろくのみやのひめぎみ)』を読むと良いと思う。
短いお話だ。
ある良家の姫君(六の宮の姫君と呼ばれていた)は、何不自由ない生活をしていたが、父親が急死し、さらに、母もすぐに亡くなった。
そうなった時の準備を何もしていなかったので大変だ。
収入もなく、使用人は、屋敷にあるものを持ち逃げしつつ、全員いなくなった。
姫君に残されたのは、姫君を愛する乳母だけであったが、2人とも、何の準備もしてこなかったので、全くの無能力だ。
引用はここまでにするので、後は、読むことをお勧めする。
面白いのは、芥川は、話の最後に、内記の上人(ないきのしょうにん)を登場させることだ。
内記の上人が実在の人物かどうかは分からないが、法然、親鸞と並ぶ念仏者、空也上人(くうやしょうにん)の高弟ということになっている。
内記の上人が最後、姫君に念仏を教えたが手遅れだった。

一方、江戸時代の観相(顔や身体の相で占う運命鑑定)の大家、水野南北(少食開運法で知られる)に、こんな話がある。
水野南北には、元武士の弟子がいた。
この元武士というのが、無能な男で、武士は務まらず、落ちぶれてヤクザの子分になっていたが、そこでも、良い想いはしなかったのだろう。
そんな中、運良く、水野南北の最初の弟子になったが、水野南北の弟子としても能力不足だった。
だが、この元武士は、絶えず念仏を唱えていた。
そして、この元武士の弟子は、能力がなくても、良い人生になったのだ。

念仏もその1つなのだが、神仏の名を真言として唱えることは、幸福になる最高の準備だ。
そもそも、最初のレイノルズとイーストウッドの話を書いたチン・ニンチュウが、「神の子羊として、神様にしっかり面倒を見てもらえば良いだけ」と悟って幸福になったのだ。
その具体的、かつ、誰でも出来るなやり方が、神仏の名を唱える真言である。

尚、『六の宮の姫君』は、芥川龍之介の著作権が切れているので、安価、あるいは、無料の電子書籍もあるが、一応、岩波のを下に紹介する(解説もあると思うので)。








人生という映画のシナリオ変更法

人生が映画だというのは、本当に良い譬えだ。
いろんな聖者、賢者、神秘家も、人生や世界を映画に喩えたが、もっとうまく喩えろと言いたい気持ちもある(笑)。

人生、あるいは、世界という映画の主人公は我々一人一人だ。
そして、映画は、初めからシナリオが決まっているのが当たり前だ。
シナリオがないのに映画を作るはずがない。
それは人生映画も同じである。
我々の人生のシナリオは初めから決まっていると考えるべきである。

しかし、映画は、製作途中でシナリオを変えることが絶対に出来ないだろうか?
原則論で言えば出来ないが、実際は、案外に行われているのではないだろうか?
「いやあ、シナリオはこうだけど、こう変えた方が良くはないか?」
といった感じである。
しかし、変えられる範囲には自ずと限度がある。
「3月9日のシーンでは、主演の君は、彼女をハグするシナリオだが、チューまでいってみよう!その方が後の展開に活気が出る」
という場合もあるだろう。
だが、そこで、あなたが、
「いえ、どうせならもっといろいろ!」
と言っても、監督である神様は、
「いや、それはいかん。後のシナリオ変更が大変だ。それに後のお楽しみも取っておかないと・・・」
などと言うのである。

シナリオを変える権限は、監督である神様にある。
しかし、主演役者がシナリオを変えて欲しいと思う場合だってあるだろう。
その場合、やりようによっては、監督(神様)にシナリオを変えてもらうことが出来る。
ただし、一定の範囲でということになるはずだ。
だが、一定の範囲とはいえ、シナリオを変えれば、随分違った映画になる。
チュー出来る相手は2人と決まっているのに、3人に変わればどんなに良いか・・・いや、レベルが低すぎた(笑)。

では、どうすれば、シナリオを変えられるのか?
例えば、お金がなくて、当分の間、家でじっと引きこもるシナリオになっているが、旅行に行くシナリオにしたいと思う。
旅行に行けたら、旅行先で可愛い女の子と出会い、彼女とチューを・・・いや、これはあくまで1つの例題である(笑)。
この場合、例えば、旅行バッグを買えば良い。
そうしたら、監督(神様)も、「しょうがないなあ」と思い、お金がどんと入って来るシナリオにするなど、自然に旅行に行く展開にしてくれるかもしれない。
このように、役者である自分が、シナリオを変える準備をすることが有効であることが、沢山の成功者を演じた役者が保証してくれている。
チン・ニンチュウの『誰でも小さなことで大切な願いをかなえられる』という本では、クリント・イーストウッドがこれで成功し、イーストウッドは駆け出し俳優のバート・レイノルズに教え、レイノルズも成功したことが書かれている。
イーストウッドは名優だけに、直観的にそんなことが分かったのだ。
また、フローレンス・スコーヴェル・シンの本では、沢山の事例が書かれている。
H.G.ウェルズの自伝的小説『ポリー氏の人生』では、ポリーは「人生が気に入られなければ変えてしまえば良い」と言い、英国の作家コリン・ウィルソンは、この言葉を座右の銘として、人生を変えた。

ところで、他に、とっておきのシナリオ変更法がある。
実際の映画ではやっちゃいけないが・・・有効ではある(笑)。
それは・・・主演役者であるあなたが「シナリオを忘れる」ことだ(笑)。
そのために、ずっと、お経や祝詞を唱えたり、マントラを唱えれば、シナリオを思い出さない(笑)。
もう、メチャクチャだ(笑)。
だけどねえ、シナリオを忘れるにしても、監督(神様)への敬いを忘れないことが絶対に大切だ。
だから、お経や祝詞や、真言が良いのだ。
例えば、監督が阿弥陀如来とすれば、「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」と阿弥陀如来の真言を唱える。
尚、阿弥陀如来というのは、人間の概念としては、一仏の仏様だが、実際は、あまりに大きく普遍的な、そして、偉大な存在で、宇宙全体と言って良い。
だから、監督が阿弥陀如来だと思えば阿弥陀如来だ。
ところで、シナリオ変更に親切に動いてくれる存在が観世音菩薩で、阿弥陀如来(監督)に対する観世音菩薩は、助監督とか、ジブリで言えば、宮崎駿監督に対する鈴木敏夫プロデューサーのような関係と思っても良いと思う。
宮崎駿氏と鈴木敏夫氏はとても仲良しだそうだが、阿弥陀如来と観世音菩薩もそうである。
そんなわけで、観世音菩薩の真言「オン、アロリキャ、ソワカ」を唱えても良いし、「般若心経」や「十句観音経」を唱えても良い。
だが、大切なのは、敬う心である。
だから、この通りでなくても、自分なりに誠意を示せば良いのだと思う。
迷うなら、日本人の場合、自分の干支の守り本尊(【Wikipedia】十三仏参照)の仏様や菩薩様の真言を唱えるということが昔から行われている。
あるいは、「十言の神咒(とことのかじり)」といって、天照大神のお名前である「アマテラスオオミカミ」と唱えるものがある。
また、昔から、運命を好転させる「サムハラ」のお札を持ったり、同時に、「サムハラ」と唱えるというやり方もある。
いずれも、敬意を持って行わなければならない。
それらを常に行いながら「これで運命を変えて下さる」と信頼してお任せすれば良いと思う。








天才、吉川英治が宮本武蔵にやらせた超成功法

成功法則のテクニックの中には、凄くピンと来ると感じ、しかもそれが、複数の大物教師達の間で共通に語られていることであり、また、直接言ってはいなくても、信頼ある教師達が同じことを示唆しているのだと思わせるものがある。
それが、「願いが叶った時のための準備をする」だ。

私が最初に、そのテクニックを見たのは、中国出身の女性作家で世界的な自己啓発指導者のチン・ニンチュウの著書『誰でも小さなことで大切な願いがかなえられる』の中だったが、実は、私は、その本を読むより先に、知り合いの国際ビジネスコンサルタントに、「この本にこんなことが書いてある」と教えてもらっていた。
こんな話である。
ハリウッドの大俳優バート・レイノルズが駆け出しの頃、既に大スターだったクリント・イーストウッドに、「成功するまでの間、何をしていたか?」と尋ねたら、イーストウッドは「成功するための準備をしていた」と答えたのだった。
それを聞いて、レイノルズは成功への階段を駆け上ることが出来たという。
しかし、ニンチュウの本では、これだけで、何かは感じるが、ちょっと不親切というものだろう。

だが、最近、度々取り上げる『とんでもなく全開になれば、すべてはうまくいく』の著者である、女性占星術師で神秘家のトーシャ・シルバーが崇拝する、女性画家で自己啓発分野でも極めて著名なフローレンス・スコーヴェル・シンは、このやり方を重視しており、それを、簡単な、分かり易い例で説明している。
例えば、海外旅行に行きたいがお金がない男性がいた。
シンは彼に、旅行カバンを買うことを勧めた。それが、願いが叶った時のための準備になるのは明らかだ。
男が、シンのアドバイス通り、素晴らしい旅行カバンを買うと、その後、彼は、不思議な流れで大金を掴み、実際に旅行に行くことが出来た。
シンは、いつも、このような単純な実例で示してくれるのでありがたい。
そして、シンは、このやり方は、新約聖書の「マタイによる福音書」に書かれていることであると言う。
イエスは、「良いことに備えている者」が願いを叶えると言っていると述べる。
よく知られている、イエスの願いの叶え方は、「既に叶ったと思え」である。
しかし、普通の人は、なかなか「既に叶った」とは思い難い。
けれども、叶った時の準備をするということは、願いが叶ったと思うことを示すに他ならない。
イエスの話は「5人の賢い乙女」の話として知られている。
十人の乙女が花婿を待っていたが、花婿の到着が遅くなり、乙女達が持っているランプの油が切れたが、そのうちの5人は予備の油を持っていたので大丈夫だった。
しかし、残りの5人の愚かな乙女達が油を買いに行っている間に花婿が到着し、賢い5人の乙女達だけが花嫁に迎えられた。
賢い5人の乙女達は、良いことのための準備をし、愚かな乙女達は、その準備を怠ったのである。

吉川英治の創作ではあるが、巌流島で宮本武蔵を迎え撃った佐々木小次郎は、長剣の鞘を投げ捨てた。
その時、武蔵は、
「小次郎破れたり。勝って帰る者が鞘を捨てたりはしない」
と言った。
これは、一般には、武蔵が小次郎を動揺させる作戦と思われているが、それよりも、吉川英治の天才的発想であったから、これほど有名なのだ。
つまり、小次郎は、勝った時の準備を放棄してしまったのである。
一方の武蔵はどうであろう?
小次郎を倒しても、小次郎の仲間がすんなり帰してくれないことを予測し、船を待たせ、勝った後に、その船に乗り込んで引き上げた。
つまり、勝った時の準備が万全であった。
吉川英治、さすが天才である。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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