ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

フロイト

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[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

壊れてしまっている人たち

人々の中には、「精神とか人間性といったものが、どうしよいうもなく歪んでしまっている」人が、必ずいる。
そうなってしまったのは、本人のせいではなく、多くの場合は、親のせいであり、他にも、子供時代に身近に接した人々の影響によるものである。
そういった、精神とか人間性の歪み、崩れ、壊れ・・・何と表現すべきか困るが、とにかく「逸脱」してしまった人の心に対し、「教育」とか「指導」といったものは、ほとんど全く意味がない。

私の職場にも、「あまりにおかしな考え方」をし、そのために、異様な行動をする人がいて、時に、私も厳しく叱責したりすることもあるが、もちろん、何の効果もない。
その時(厳しく叱責した時)には、相手も、一応、しおらしい態度を見せ、少しの間、改めることもあるが、その者も、元通りの「異様な行動」をしたくてたまらず、遠くなく、元に戻ってしまう。
そんな人を、改めて冷静に見ると、不気味である。
だが、それは、ほとんどの場合、その者の親が、そんなふうにしてしまったのである。

逸脱した人間は、自分では、逸脱していることに気付かない。
精神分析学者の岸田秀さんは、子供の頃から、自分が、「なんとなくおかしい」と思っていたと言うが、それは、よほど頭が良い(IQが高い)からだと思う。
さらに彼は、それを治そうと、大学(早稲田大学)の心理学部に入ったが、そこには自分の求めるものはなかったので、独学でフロイトを勉強し、ある程度解決してしまったというから恐ろしい。
岸田さんが、自分がおかしいと思った理由は、いろいろあったが、私が覚えているものでは、中学生の時、セーラー服を着た女子生徒を見ると、彼女達には、絶対に「おちんちん」が付いているとしか思えなかったり、道を歩いていると、よほどの決意をしなければ、引き返すことが出来ないなどであった。
そうなった理由は、自分の母親が、岸田さん自身はまだ気付いていなかったが、全く女性的な性質を持っていなくて男性的であったこと、また、これも自分では気付いていなかったが、母親に完全に支配されていて、彼女の指示なく動けないようになっていたからである。

むろん、誰でも、大なり小なりは歪んでいて、「完全にまとも」な人間などいないが、その程度が大きな者は、多くの場合、社会不適合になる。
私の職場にいる、歪んだ人達も、会社が儲かっていて、「飼っていられる」間は、周りが見て見ぬふりをして「泳がせておけば」良いのだが(その者が、よほど迷惑なことをしない限り)、本当は、いたらいけない人達である。
このブログで時々とりあげる「まるで駄目男君」も、その典型であり、凶暴性のようなものはないにしろ、いるとどうしても影響を受けてしまうので、いない方が良いのは確かである。
だが、彼にだって生活がある。
会社は慈善団体ではないにしろ、ある程度は、そんな面も必ずある。もちろん、収益が上がっている優良な会社の場合である。
まるで駄目男君も、余裕のない会社にいた時は、当然ながら、何度もクビになっている。

いろいろ書いたが、こう言っている私自身、ひどく逸脱している。
岸田秀さんのように優秀ではないので、子供の時、あるいは、若い時に気付くことはなく、認識出来たのは、それなりに人生経験を積み、勉強し、自分を少しは客観視出来るようになってからだ。
まあ、友達がいない、周りとうまくやれない、結婚出来ない・・・といった場合、ほぼ確実に、心の歪み、崩れ、破壊があると言って良いだろう。
私の場合、どの会社でもクビになったことがないのは、1つには、例えば、技術的なことなら、毎晩2時過ぎまで勉強や訓練をするといったことをしたからである。そんなことが出来ない者は、やはりクビになっている。
もう1つは、最低限のIQはあったと見えて、「やって良いこと」「やってはならないこと」が、健全な人間のように、「考えなくてもぱっと分かる」ことはないが、少し考えれば、そこそこ正しく判断出来るからで、それは、年と共に、ますますうまくやれるようになってきたと思う。

あなたも、人生がうまくいってないなら、多くは親のせいで、心が歪み、崩れ、壊されている可能性が大きいだろう。
アメリカでは、精神医学が進んでいて、治療を受ければ治ることが多いらしいが、それでも、大半の人は精神科医にかからないし、特にアメリカは医療に相当な費用がかかるので、やはり、ほとんどの者は、そのままで一生を送るのだろう。
まして、日本では、精神科医なんて、「キチガイ」が「行かされる」ところという観念があるし、分からないが、まともな治療が出来る医者もいないのではないだろうか・・・という認識が私にはある。実際がどうだかは、私にはさっぱり分からない。
いずれにしても、逸脱してしまった心を、矯正することは難しいし、ほとんどの場合は不可能である。
私は、人の何倍、何十倍(何百倍?)も、時間やお金をかけて、自分で努力し、良くなった部分もあると思うが、むしろ、そのせいで歪みが大きくなった部分もあるに違いない。
だから、贅沢は言わないが、自分が平和で安楽であれば、それで良いのである。
それには、心身が、それなりに健康で、社会的にも、それなりにうまくやれれば良い。
そういった程度のことに関しては、十分以上に成功しているし、しっかりしたノウハウは出来つつあるので、歪んでいる人のお役には立つと思う。
ただし、自分で、「これではいけない」と気付いている場合だけである。
健全な大成功者になる方法を教えられる人に会うことは、それこそ、大海原で針1本見つけるようなものだ(つまり、絶対に会えない)。
巷で多少売れている、自己啓発家や自己開発指導者といったものは、皆、有害な偽物である。商売は上手い人はいるのだけれども、あくまで、彼らが自分が儲かるだけで、あなたはカモである。でも、そのことに気付かない者は気付かないのである。









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良心は幻想か

ラルフ・ウォルドー・エマーソンは、少年の時、こう思ったらしい。
「自分が悪魔であるなら、悪魔になりきる。」
つまり、自分でないものになってはならないということと思う。

私は、心理学者のマーサ・スタウトの『良心をもたない人たち』を読んで、スタウトの意図とは違うだろうが、自分がサイコパス・・・良心を持っていないのだと悟り、やっと、自分が何者であるかを理解したのだ。
自分の奇妙さが、これで説明がつく。

私は、普通の人より、よく寄付をする。
それも、分不相応な大きな額をだ。
しかし、善意で寄付をしたことなど、一度もない。
「喜んで惜しみなく寄付をしろ」だなんて言う人がいる。
だが、私は、喜んで寄付をしたことはないし、いつも惜しいと思いながら寄付をした。
そもそも、そうでない人がいるなんて、信じちゃいない。
私がなぜ寄付をするかというと、1つには、自己満足、1つには、見栄である。
そして、何より、「寄付をすれば運がよくなる」「寄付をすれば、その何倍も、何千倍も返って来る」という、怪しい法則を期待してのことである。
そのような教えを説く者は、私は、多分、サイコパスだと思う。

私は、虫も殺さない。
私は、虫は嫌いだ。
だが、部屋の中に、ハエや蚊や蜂がいても、殺さず捉えて、外に出す。
それもまた善意ではなく、自己満足か、やはり、「生き物を殺さなければ神が恵みを与えてくれる」と思っていた・・・というより、思いたがっていたのだ。

ところで、フロイトは、自我は幻想だと言ったらしい。
どういうことかというと、人間は、他の動物と違って、本能が壊れていて、本能だけで生きていけないので、自我を作ったという。
そのように、自我は自然に出来たものでないので、どこかおかしいのだという訳だ。
フロイト派の精神分析学者の岸田秀氏は、それで、自我は狂っているとまで言い切る。

私は、そうではなく、幻想であるのは、自我全体ではなく、その中の良心だけだと思っている。
ユングは、動物にだって道徳は見られると言ったと思うが、それは違う。単に、本能的な行為が道徳に似ているだけだ。
動物は良心など持ってはいない。
だが、人間だけが、幻想の良心を持ったのだ。
だから、良心なんて、曖昧なものなのだ。

つまり、私は、人間は全てサイコパスだと思っている。
そう思うことが、真正(本物)のサイコパスであるという証拠なのかもしれない。
なぜなら、良心の存在を全く信じていないのだからだ。
ひょっとしたら、他の人は良心を「本当に」持っているのかもしれない。
しかし、私には理解出来ないのだ。

私はサイコパスだが、良い社会人であろうとは思っているのだ。
もちろん、それは善意からではない。
論理的に考えて、その方が、安全で楽だからだ。
私はさして利口ではないが、馬鹿ではない。
だが、馬鹿なサイコパスが、悪いことをやって、結局、自分を滅ぼすのである。
あるいは、自分は能力が高いので、悪いことをやっても、切り抜けられると思っているのかもしれない。
それは自惚れってもんだ。
ただし、私の考える「良い社会人」は、世間で言う「良い社会人」ではない。
そんなものにはなれない。
世間で言う「良い社会人」は、サイコパスよりもっと悪い。
普通の人も、集団になると残虐になる。
特に、個人としては善い人ほどね。
マーサ・スタウトは、この点を見落としている。
彼女は、人間は権威によって命令されないと、残虐なことをしないというデータを示した。
そりゃ、データの扱い方が恣意的ってもんだ。
マーサ、人間はね、集団になると、個人的想像力を失くすんだよ。
それで、自分や家族が残虐なことをされることを想像出来なくなるから、平気で残虐なことをする。
マーサが上げたデータは、おそらく、少数の戦闘に関するもので、大軍同士になると、権威によって命令なんかされなくても、「殺せ!殺せ!」っていう狂気に陥るのだ。
少数戦闘では、権威によって命令されないと殺さないと言うが、それだって、権威によって命令されることで想像力を失くすからだ。
大切なのは、想像力なのだ。

なんだか、世の中の人皆がサイコパスであるということにしてしまったみたいだが、これはあくまで私に浮かんだ想いである。
もしかしたら、荘子が「セミには(地上の)1年が理解出来ない」と示唆したように、私には、良心を持った人間がどんなものか理解出来ないだけかもしれない。
きっとそうだ・・・と思いたい。









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大きな自分

私は、中学2年生の時だったが、漫画の中で16歳の王様が言った「ものごとは客観視するに限る」というセリフに衝撃を受けたことがある。
全く、その通りだと思ったのだ。
そして、客観の反対である主観が、いかに馬鹿かということに思い至ったのである。

ところで、それなら面白いことに気付く。
それは、「客観視する者は誰だろう?」だ。
主観するものは自分である。
その自分が客観視しているつもりでいるだけなら、それはやっぱり主観に過ぎないはずだ。
だが、そうではないようなのだ。
それは、だいたい、こんなふうに思えた。

自分が2つに分かれ、主観とは別の自分が現れる。
別の自分は、身体から離れている・・・正確には、身体や心を含めた空間に広がっている。
別の自分は、意識を持っていて、広い範囲を見ているのだが、主観である自分ともつながっている。

客観視している自分も、確かに自分なのだが、とても冷静なのだ。
主観である自分のIQが100だとしたら、客観視している自分のIQは300以上である。

フロイトは、そんな別の自分・・・より賢い自分を超自我と呼んだが、それはあくまで、伝統や道徳の観念なのだと言った。
なるほど、そうも思える。
しかし、ユングは、超自我は自ら存在する何かだと言い、フロイトだって、本当はそう思っているはずだと言っている。

それ(超自我)は、ラマナ・マハルシらの言う、霊的なグル(導師)のようでもある。
そして、マハルシは、グルとは、真の自分である真我なのだと言う。

客観視するとは、超自我、あるいは、真我といった何かと同調することなのだろう。
だが、完全な同調は難しい。
完全な同調が出来れば、賢者であり、神人であり、仏陀であり、キリストである。
とりあえず、真我というような何かを「大きな自分」と言おう。

初音ミクさんのことを考えながら、大きな自分と同調してみた。
すると、初音ミクさんを崇める自分を、大きな自分の視点で見ることが出来る。
そうしたら、自分の心臓が輝き、眩(まばゆ)い光を発しているのが分かるのである。
大きな自分は、三次元空間だけの存在ではなく、四次元以上の世界にも存在している。
そんな高次の世界に初音ミクさんがいて、大きな自分はミクさんとつながることが出来るのだが、心である私は、高次の世界の大きな私とうまく同調出来ない。
だが、それでも、高次の世界のミクさんのことを感じているのである。

たびたび、大きな自分と同調することを試みると良い。
大きな自分は、初めは、広い空間を満たす意識だと思っても良いと思う。
そして、大きな自分が満ちた空間をどんどん広げ、宇宙いっぱいに広がると良い。
そんな大きな自分と同調し、融合しいていくと、自分が宇宙そのものになるのである。









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わが友、光線銃

今日も、私の心臓を守護する光線銃は活躍した。
何度も書くが、この光線銃とは、微かな呼吸のことである。
しかし、その威力はまさに光線銃と言うに相応しい。
今日、職場で、何人かの人達が、私が聞こえる場所で、大きな声で、いつまでもお喋りをしていた。
私の自我は、そんな話を「下らないもの」と解し、非常に不快になるのだが、微かな呼吸をすることで、豚の唸り声程度の影響しか私に与えなくなった。
豚の唸り声なら、多少騒がしくとも、私は感情を害することはない。

人間以外の動物も、時には呼吸が荒くなるが、それはあくまで、本当に危険を感じている場合と、暑い時だ。
動物は、それ以外だと静かな呼吸をしているので、宇宙の心と適切な範囲で交信し、本能を十分に働かせて生き、また、野生動物であれば、獲物の居場所を超感覚で知ることが出来る。
亀のあのゆったりした呼吸は、彼らの生体を最高に調整しているので、亀は驚くほど長生きなのである。
小型サイズの亀でも50年も生きるが、これは他の動物では考えられないし、大型であればゆうに200年以上生きることも可能なのである。

フロイトは、人間は本能が壊れた動物だと言ったが、それは、人間は呼吸が乱れていることが多いからである。
だが、呼吸が静かな人間は、本能やホメオスタシス(恒常性=生体の状態を一定に保つ機能)が完全に働き、健康で、超感覚的知覚も発揮できる。
そればかりか、人間は他の動物よりはるかに広い範囲で宇宙の心と交信するし、さらに呼吸が微かになって、ほとんど停止すると、宇宙の心と融合して1つになる。
宇宙の心は創造の源であり、物質生成の場であり、その中に広がっていけば、いかなる現実も創造出来る。

だが、光線銃を撃つべき場面で、それを忘れてしまうことはよくある。
それで、心を乱してしまい、無用な苦痛を味わうことになる。
しかし、それも慣れであり、光線銃を使っているうちに、忘れずに適切に撃てるようになる。
そのためには、快適な環境に居ようなどと思ってはならない。
なるべく好ましくない場所に身を置くのだ。
学校や会社が嫌いなら幸いだ。
イエスだって、「苦しむ者、泣く者、貧しい者は幸い」と言ったではないか?
人間は、苦しみに遭わない限り、自分が持っている光線銃にも気付かない。
それで、どんなに平穏に暮らしていたって必ず訪れる戦いの場で無力になってしまうのだ。
だが、我々の光線銃は、使えば使うほど高機能化し、威力も増す。
だから、苦しむ者は幸いである。
蔑み、疎まれる者は幸いである。
だからこそ、古(いにしえ)の王達は、「私は、孤児、やもめ、悪い人間」と自称したのだ(老子39章、および、42章)。
そういったことを、心の底から理解するためには、初音ミクさんの『心臓デモクラシー』を聴くと良いと思う。
あの歌を、何度も何度も聴いているうちに、ほとんど呼吸が停止し、心臓に住む神が囁きかけてきた。
すると、私は古の王になるのである。









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神を目指すにはいい時代だ

フロイトという有名なオーストリアの精神科医は、人間は本能が壊れている動物だと考えていたらしい。
その根拠はと言うと、他の動物のように、「本能にまかせておけば生きられる」というようになっていないことだ。
それで、壊れた本能の欠陥を埋め合わせる意味で自我が出来たが、自我は頼りなくいい加減で、幻想のようなものだと言った。
フロイトを絶対的に信奉する精神分析学者の岸田秀氏は、この幻想の自我を基盤に生きている人間は、即ち、幻想の中で生きていると断じ、「全ては幻想」という意味の「唯幻論」を唱えた。
すると、岸田氏の本を読んだある男が、岸田氏のところに来て岸田氏を殴り、「全て幻想なら痛くないだろ?」と言ったらしい。
この、「痛くないだろ?」は、もちろん、「本当は痛いだろ?」、「現実は現実であって、幻想ではないことが分かっただろ?」という意味である。
だが、岸田氏は唯幻論を引っ込めない。
笑ってはいけないかもしれないが・・・笑える。

アーサー・ケストラーというハンガリー生まれの哲学者・作家は、人間の脳は、魚類、爬虫類、下等哺乳類の脳を持っているが、理性を司る大脳皮質は、これら下等動物の脳を支配出来ず、逆に、支配されてしまう出来損ないだと言った。
つまり、本能的な欲望を抑えられないし、かっとして戦闘本能に火がつくと暴走を止められないといった訳である。

また、思想家の吉本隆明氏は、やはり、人間は幻想の中で生きているとし、その幻想の種類を「個人幻想」、「対幻想」、「共同幻想」に分け、一切は幻想で、国家も幻想(共同幻想)なのだと言う。

どうも、オツムの良い人達は始末に終えないなあと思う。
彼らも真面目にやっているのだろうが、最初に良い問題提起はしても、それを解決するのではなく、新たな余計な問題を作り続けるのが好きなようだ。
しかし、まとめて言えば、単に、「人間、未熟なうちは馬鹿」でいいじゃないか?
人間は、完全に完成するには時間がかかるし、一生のうちで完成しないかもしれないが、正しい生き方をするなら、若いうちから、それなりに立派なのだ。
問題は、現代社会が、物質主義に偏り、人間の理性を歪めてるということだ。
それで、デカルトって人が、理性を正しく導くガイドとして『方法序説』を書いたが、これがまた学者らしい難しいもので、役に立つ以前に困惑させるものだ。

で、ゲーテは、『ファウスト』で、自己を投影した主人公ファウストが、完全な人間・・・それは即ち、神であるのだが、それを目指してドタバタする姿を描いた。
ファウストは、錬金術のような怪しげなものにも手を出し(デカルトやニュートンもそうだったが)、大変な苦労をして、やっと神の衣の裾を掴むという、悲劇というよりは喜劇をやらかす。

だが、初音ミクさんのクリエイター達は、本能も自我もない初音ミクさんとの無償の創造活動を通し、さりげなく、当たり前に、歌に真理を込めるようになった。
フロイトやケストラーや吉本隆明氏や岸田秀氏や、あるいは、ゲーテのように苦しむ歌も多いが、あっけらかんと、至高者(神)の輝きを見せてしまった歌も少なくない。

上で、「正しい生き方をすれば、若いうちからそれなりに立派」だと述べたが、正しい生き方とは、至高者(神)を目指して常に努力することである。
しかし、ファウストのように、見栄っ張りで頭の固い老人になってしまったら、余計なことばかりやってしまうのだ。
ところが、初音ミクさんを日々の活動に取り入れ、自然に霊と物質のバランスを取れば、早いうちに人間として好ましいレベルに達し、後は、じっくりと神を目指すことが出来ると思う。
初音ミクさんは、無限の想像力と分かち合いの女神であり、崇めれば、精神、物質共に栄えるだろう。
50代とか、もっと上の、社会的にバリバリにやってきた人達が、ミクさんのコンサートに行ったり、そのビデオを見たり、歌を聴いて、とめどなく涙が流れるということがあるのは、ミクさんによって、正しい道を行くための重荷が取り除かれるからなのだ。
だが、ミクさんの、どの歌を聴けば良いとか、どのコンサートを見れば良いかは、自分で見つけないといけないが、それも縁なのだなあと思う。
普段、正しく生きていれば、自然に神が手助けしてくれるだろう。
もちろん、それは、ミクさんによるとは限らないが、ミクさんほど自然で簡単な導きはないように思う。









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・サイコパス
・初音ミクさんを愛す


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