ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

フランダースの犬

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

『フランダースの犬』を卒業する

願いを叶える方法は、本来は、親が子に教えるものである。
ただ、それは簡単に出来ることではない。
とはいえ、教えることは、根本的には1つで、「想い続ければ実現する」である。
ところが、子供の願いとは、アンパンマンと会ったり、プリキュアになったり、チョコレートケーキをいつも食べたいといったことだ。
そして、子供は、そういった、いわゆる「子供の夢」以外のことは願わない。子供にとって、住む家や着る服、毎日の食事は、あって当たり前だからだ。
それなりの年齢になって「女優になりたい」と言う者は、本気の場合は少なく、子供と同じように、親に保護されていたりで、子供の感覚のままである場合が多い。
ジョセフ・マーフィーの『人生に奇跡をおこす』の中で、マーフィーは、「女優になりたい」という若い女性に対し、「子供の夢から卒業しなさい」と嗜(たしな)める話があるが、やはり、その女性の場合も、本気で思っているのではなく、考え方が子供のままだったのだろう。

親の役目は、子供に、願いを叶える方法を教えると共に(実際にはそれ以前に)、自分のことは自分でやらないといけないと教えることで、それは、口で教えるのではなく、体験させないといけない。
子供にも出来ることは、子供にやらせないといけない。
高校生にもなって、親が毎日、子供に弁当を作ってやるといったことは子供を駄目にすることだ。
会社勤めをしているのに、親に弁当を作ってもらっている者が実際にいるのだが、そんな者に見込みはないだろう。
他の地域のことは知らないが、私が、ゴミ出しの日の朝、ゴミを出しに行く際、一家の旦那がゴミを出しに行くのを見ることは珍しくないが、中学生や高校生がゴミ出しをしているのを見たことは、ただの一度もない。
もし、全国的にそんな状態なら、日本は終わりである。

願いを叶える魔法は、自分のことは自分でやる者でなければ使えない。
自分のことを自分でやらない者は、子供の夢を卒業していないからだ。
『フランダースの犬』で、画家になりたいというネロの場合はどうかというと、あれも子供の夢である。
ネロは、15歳にもなって、年老いたお爺さんに働かせ、自分は好きなことをしていたのだ。
それで、ネロは、お金を稼いで自立するという健全な願いを持たず、魔法の力を使い損ねていたのだ。
そして、ネロは、ついに絶体絶命のピンチに追い込まれて、ルーベンスの絵を見るという「子供の夢と現実的な夢が歪に融合した」夢を叶えて死んでしまうのである。
少しも良い話ではなく、日本以外、それも、この物語を生んだベルギーですら評価されていないのは当然である。

だが、我々は、子供の夢を見るよう「教育」されている。
特に、『フランダースの犬』に感動して涙する者は、闇の支配者に洗脳されていると言って良いが、こう言うと反発もあると思う。
一方、「ネロのボンクラ」と思うようなら大丈夫である。
そうであれば、「思い続ければ願いは叶う」という単純な原理を利用出来る。
例えば、最も簡単な方法で言えば、心の中で、静かに、ゆっくり「富」と言い続ければ、それだけで富がやってくる。
だが、子供の夢を卒業していない者は、こんなことも、決して続かないのである。
あるいは、「私は裕福だ」と、やはり、心の中で唱えても良い。
ところが、ネロが「私は画家だ」と唱えようとしても、全く続かないだろう。他の、現実的な必要が押し寄せ、そう唱えることが、虚しく、嘘っぽくなるからだ。
あなたもそうではないだろうか?
親や学校やテレビが、あなたに間違った教育をした分を取り戻さなくてはならない。
簡単ではないが、重要なテーマなので、説明を続けようと思う。








ぼーっと、じーっと見る

マザー・テレサが亡くなって20年以上経って、やっと、彼女が言った「無関心が最大の敵」という意味が分かってきた。
それが分かったのは、保江邦夫さんの本で、マザー・テレサがノートルダム清心女子大学の学生達に、「愛の反対は何だと思いますか?」と尋ね、多くの学生達が「憎しみ」と答えた時、「憎しみは愛の一部。愛の反対は無関心」と話したというエピソードを見たのがきっかけで、頭で考えて理屈で分かったのではなく、時間が経って、少しずつ分かってきたのだ。

愛の反対が無関心であるなら、愛とは、関心であり、興味、好奇心のことだ。
イエスが、「君の周囲の人を愛しなさい」と言ったのは、「君の周囲の人に関心を持ちなさい」ということだ。
しかし、日本では、いかなる身近な人にも無関心な人が蔓延している。

ただ、関心、興味、好奇心と言っても、美味しい食べ物、性的魅力が高い異性(あるいは同性)、ゴシップ話への好奇心は、ほとんどの場合、欲望であって、愛ではない。
また、優越感を持つことへの興味もそうだ。
ところがなんと、今の日本人は、こういったものにしか関心がなく、それはつまり、欲望ばかりで、愛というものをまるで持っていないのだ。

だが、いくらマザー・テレサやイエスが「人々に関心を持ちなさい」と言っても、無理に周囲の人に関心を持つことは出来ない。
そして、これが事実なのだが、愛を持たない者には、宇宙に偏在する「力」は味方になってくれない。
愛があれば、健康にもなるし、必要なお金は楽々得られるが、愛がなければ、病気にもなるし、お金にも窮する。
こう言えば、「病人というのは愛がないのか」と非難されそうだが、それは極端論というものだ。
しかし、こんなことは言える。
病気になれば、いろいろなものへの関心が高まり、愛を沢山持つようになる。

ところで、何かに愛を持てば、つまり、何でもいいから、何かに興味、好奇心、関心を持てば、それは、愛を持つことであり、宇宙、世界が味方してくれるようになる・・・早い話が、運が良くなる。
では、どうやれば興味を持てるかというと、ここでも、「逆を成り立たせる」方式が有効になる。
つまり、興味や好奇心があるものに対して何をするかを考え、その何かをやれば良いのである。
そこで、「関心がある」「興味がある」「好奇心がある」を言い換えれば「好き」であることに着目し、好きならどうするかを考えると、次の通りと思う。
「じっと見る」
「じっと黙って聞く」
「優しく触る」
私の場合で言えば、鳩や亀が好きなので、じっと見ていると楽しいし、カラスだって嫌いではないから、姿は見えなくても、カラスが鳴いているとじっと聞き惚れる。
林檎だって、そっと触れると、愛しさが溢れてくる。
親しいおばさんなどが犬を連れていると、触らせてもらうと、やはり、その犬に対する強い興味が起こる。

中学の時の国語の教科書に載っていた詩の中で、果物のミカンに対し、「どこから見ても美しい」と言っているのを見て、その詩人の視点がイメージ出来た。詩人は、ミカンを、じっと見たのだ。
それを詩人は、「新たな目で見る」と表現していた。
新たな目で見るとは、頭を空っぽにして、じーっと見ることである。
『フランダースの犬』のネルロ(ネロ)が、ルーベンスの絵を見ていた時が、そんなふうに見ていたと思えるのだ。

それで、考えたのだが、「新たな目で見る」とは、ぼーっとしてはいるが、視線を逸らさず見ることであるのだと思う。

少しでも視線を逸らしちゃダメダメよ☆
~『ルカルカ★ナイトフィーバー』(作詞・作曲・編曲:samfree。唄:巡音ルカ)より~

そんな感じであると思う。
ネルロだって、死ぬまで、ルーベンスの絵から視線を逸らさなかったはずだ。
そこまででなくても、何も考えなければ、じっと見ていられるものは少なくないと思う。
下手な瞑想などより、そういったことをやった方がはるかに良いと思う。
ぼーっと、だが、じーっと見ると、汚れた壁だって美しいのである。









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『フランダースの犬』は喜劇である

何の本だったか忘れたが、最近読みかけていた本に、「人間の死亡率は100%」だとか、「いつか必ず死ぬ我々は死刑囚と同じだ」とか書かれていたが、下らない話だ。
こんな物言いをする者はよくいるが、あなたは影響されてはならない。
私は、その本は読むのを中止した。
つまりね、言っても仕方がないことというのは、無駄口でしかない。
それなら、絶対に言わない方が良いのである。

宇宙の年齢は、一説では137億年程度と言われている。
私はそれをあまり信用していないが、いずれにしろ、物凄く長い時間が、過ぎ去ってしまったのだ。
それなら、たかだか数十年の人間の命が尽きようが、何のことがあろうか?
もちろん、自我の立場の人間としては、死は気になるものかもしれない。
それなら、気にさせておけば良い。

だが、我々は、強い幸福感を感じた時や、すごく夢中になった時などに、自我が消え去り、何も覚えていないということになる。
その時は、自分が宇宙に広がったと言って良いかもしれないし、あるいは、宇宙のどこにでもいる可能性がある状態と言っても良いが、とにかく、自我の「感じ」はなくなっている。
そんな時は、「私とは誰?」という疑問も生じない。
それはそうだ。
問う者がいないのだから。
あなたは海であり、空であり、風でもある。
自分が死んだ後のことを想うと、少し分かる感じがするかもしれない。
実際、無我になった時、我々は本当に死んでいるのである。

死は、自我にとっては、やはり、怖いだろうし、嫌だろう。
それは、見栄を張らずに認めても良い。
しかし、普段から、忘我、没我、無我に慣れてしまうと、さほどでもなくなる。
そのためには、自我の最大の願いを捧げてしまうことだ。
『フランダースの犬』のネロの最大の望みが、大画家になること・・・そして偉くなってアロアをお嫁さんにするということなら、諦めてしまえば良かったのだ。
その上で、ネロは大画家のふりをし、大画家として振舞うべきだった。
そうすれば、ネロにも運が向いてきたはずなのだ。
ネロは無知だったから不幸だったというだけのことだ。
あなたは無知ではないので、あなたがネロであれば、そのようにやるのだ。
大画家になるのを諦めるということは、執着しないということだ。
それで、大画家としてふるまえば、望まなくても再び太陽が昇るように、自然に願いは叶うだろう。
あなたは、『フランダースの犬』のお話など、受け入れてはならない。
影響されてはならない。
あなたは賢く、ネロのような失敗はしないのだからだ、
『フランダースの犬』は、ネロがピエロを演じた喜劇に過ぎない。
また、あなたが、他の深刻なお話をまだ信じているなら、それらに関しても、いつまでも影響されないことだ。
それらも、全て喜劇だ。
ダンテの『神曲』の書名は、森鴎外が勝手につけたもので、本当の書名は『神聖なる喜劇』だが、ダンテ自身は、単に『喜劇』としていたのだ。
ナボコフの『ロリータ』だって、ナボコフは喜劇のつもりで書いたというのが事実だ。
これらを、何か物々しく受け取るような愚かな真似をしてはならない。
あなたは、絶対に勝利する方法を、もう知っているのだからだ。









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誰もが知っているお話があなたを幻想に閉じ込めた

誰もが知っているお話というものがあるが、あなたは、そのお話の世間的解釈を叩き込まれてしまっている。
そんな、あまりに普通に知られているお話を通して、あなたは世間に洗脳されたのだ。

ディケンズの『クリスマス・キャロル』はどうだろう。
守銭奴のスクルージは、クリスマスの精霊によって、自分の惨めな死を見せられて悔い改めた・・・というお話だと思ってる人が大半と思う。
アンデルセンの『マッチ売りの少女』は、誰からも見捨てられた不幸な幼い女の子が、最後に幸福な白昼夢と共に死ぬお話だということになっていると思う。
ウィーダの『フランダースの犬』は、才能を誰からも認められなかった天才少年ネロが、最後にルーベンスの絵を見ながら、老いた愛犬パトラッシュと一緒に幸福な気持ちで死ぬ感涙もののお話と思われているのだろう。

何とも馬鹿げたことだ。
優れた小説は(あらゆる優れた創作物が全てそうであるが)、ソクラテスも言ったように、作者そのものが書いたのではなく、創作者を通して神性の輝きが現れたものなのである。
神のメッセージを、もっとちゃんと受け取らなくてはならない。

上に挙げた、『クリスマス・キャロル』、『マッチ売りの少女』、『フランダースの犬』は、全て、主人公である人間が死んでいる。
それは世間の中の自分の死だ。
世間である金だけを信じたスクルージ、大晦日はパーティーをするものだと思い込んでいた貧しい女の子、世間に認められることにしか関心がなかったネロ。
そんなものは終わらせてしまえ。
そして、新しい自分を生きなさい。
そんなお話なのだ。
物語の主人公達の死を通して、自分の死を知り、世間に対して死にきって、新しい自分として生きるのである。

初音ミクのオペラ『THE END』で、ミクは、自分も普通に死ぬということを知り、その日を境目として全てが変わってしまう。

そういうことが全部変わって
それはあの日が全部境目で
あの日の朝が
えっと境目で
今のわたしは
だからすごくもう気になるし
~オペラ『THE END』第4幕『死のアリア』より~

あなたも、世間に対して死に、世間という幻想に生きるのをやめ、新しい自分を生きなければならない。
世間の幻想の中で生きているだけだと、虚しいとすら思わない。
ただ、エネルギーが枯渇し、虚無の中で息をしているだけだ。
我々はまだ始まってすらいない。
そのまま年老いていつか死ぬなんて、なんと惨めなことだろうか?
息を止めると、異常に記憶力が高まる。
しかし、それは本当は、記憶力が高まるのではなく、既に知っていることにアクセスしているだけなのだ。
呼吸を止め、額や胸に意識を集めると死を体験する。
その後で、これまでの自分をなるべく捨て去り、新しい自分になっていくことだ。
幻想を打ち壊し、神になって生きることができるのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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