テレビ、新聞といったマスメディアが偏向報道でなかったことはないが、特に今はひどい偏向振りで、偽情報だらけと言えるかもしれない。
一方、インターネットの、特にSNSに沢山の情報があるが、こちらは玉石混交だ。
大手メディアの「我々は正しい」という権威的な姿勢に対し、SNSでは、発信する情報の根拠を示す謙虚さがある場合が多い。
だから、SNSは、見る者が情報の真偽を判断出来るが、SNSでも人気インフルエンサーになると、傲慢にも根拠を示さず「俺が言うのだから正しい」というマスメディア的な態度だったり、真面目そうに見える発信者であっても、根拠自体がフェイクだったりすることも多い。
特に、根拠を、事実ではなく、論理で示す場合は、いくらでも巧妙な嘘がつける。
マスメディアの情報の根拠は、現地取材をしているとか、映像や音声を示すといった、いかにも信頼性が高いように見えるものが多いが、映像や音声の一部を切り取ったり、それらを組み合わせれば、事実と真逆の情報を作ることが出来、実際、それが行われている。さらに、映像や音声自体が、本物らしい偽物であることも珍しくはなくなった。それが、マスメディアで堂々と行われれている。
そして、重要なことは、マスメディアの情報を否定することは難しく、また、マスメディアの嘘がバレても、マスメディアの権威はいささかも揺るがない。その理由は、国民が馬鹿だからであるとしか言えない。
SNSは、とにかく、情報の根拠を見ることだ。
マスメディアでさえあることだが、SNSでは、「関係者によれば」という言い方が多い。だが、そう書かかれていれば、最初からフェイクだと断定するしかないと思う。
その「関係者」が具体的であることが信用するための最低条件であることは、子供でもない限り分かるはずだ。
そんなわけで、あらゆる情報・・・特に大手メディアの情報に対する私の態度はこうである。
「別に疑わない。だが、信用もしない」
最初から疑ってしまったら、良い情報や、デタラメの中に混じった正しい情報も見逃してしまう。
だが、疑いようのないほど真でない限り、信じてはならない。
デカルトの情報に対する態度はこうだった。
「疑いようもないほど正しくなければ、全て偽」
「よって、単に確からしく思えるものは、全て虚偽とする」
だが、ここまでやってしまえば、日常生活を送ることも出来ないので、我々としては、
「疑いはしない。だが、信用もしない」
が、最良の態度と思う。
そして、「疑いようもなく真であるなら信じる」に関しては同じであるはずだ。
デカルトは、「疑いようもないほど真」というものがなかなか見つけられなかったが、最後に、「疑っている自分がいることは、疑いようもなく真」とし、
「疑っている我は、確かに存在している」
を真理とした。
これは、今日では、「われ思う、ゆえにわれあり」として知られている。
だが、これはやはり実用的でない。
では、我々は、どう考えれば良いのか?
それは簡単ではないだろうか?
魂の声を聞けば良いのである。
我々の中には、魂、聖霊、神・・・何と呼んでも良いが、絶対的に正しいものが存在する。
デカルトだって、「自分の中に絶対的に正しいものがあるから、疑うことが出来るのだ」と言ったが、この言葉は、我々の魂の声も正しいと言っているのではないかと思う。
魂の声を聞くなんて、本来、当たり前のことであったはずが、現代の、特に文明国では、皆、それを忘れてしまった。
現代の悲惨の原因はそこにある。
逆に、魂の声を聞けば不安はないはずである。
一方、インターネットの、特にSNSに沢山の情報があるが、こちらは玉石混交だ。
大手メディアの「我々は正しい」という権威的な姿勢に対し、SNSでは、発信する情報の根拠を示す謙虚さがある場合が多い。
だから、SNSは、見る者が情報の真偽を判断出来るが、SNSでも人気インフルエンサーになると、傲慢にも根拠を示さず「俺が言うのだから正しい」というマスメディア的な態度だったり、真面目そうに見える発信者であっても、根拠自体がフェイクだったりすることも多い。
特に、根拠を、事実ではなく、論理で示す場合は、いくらでも巧妙な嘘がつける。
マスメディアの情報の根拠は、現地取材をしているとか、映像や音声を示すといった、いかにも信頼性が高いように見えるものが多いが、映像や音声の一部を切り取ったり、それらを組み合わせれば、事実と真逆の情報を作ることが出来、実際、それが行われている。さらに、映像や音声自体が、本物らしい偽物であることも珍しくはなくなった。それが、マスメディアで堂々と行われれている。
そして、重要なことは、マスメディアの情報を否定することは難しく、また、マスメディアの嘘がバレても、マスメディアの権威はいささかも揺るがない。その理由は、国民が馬鹿だからであるとしか言えない。
SNSは、とにかく、情報の根拠を見ることだ。
マスメディアでさえあることだが、SNSでは、「関係者によれば」という言い方が多い。だが、そう書かかれていれば、最初からフェイクだと断定するしかないと思う。
その「関係者」が具体的であることが信用するための最低条件であることは、子供でもない限り分かるはずだ。
そんなわけで、あらゆる情報・・・特に大手メディアの情報に対する私の態度はこうである。
「別に疑わない。だが、信用もしない」
最初から疑ってしまったら、良い情報や、デタラメの中に混じった正しい情報も見逃してしまう。
だが、疑いようのないほど真でない限り、信じてはならない。
デカルトの情報に対する態度はこうだった。
「疑いようもないほど正しくなければ、全て偽」
「よって、単に確からしく思えるものは、全て虚偽とする」
だが、ここまでやってしまえば、日常生活を送ることも出来ないので、我々としては、
「疑いはしない。だが、信用もしない」
が、最良の態度と思う。
そして、「疑いようもなく真であるなら信じる」に関しては同じであるはずだ。
デカルトは、「疑いようもないほど真」というものがなかなか見つけられなかったが、最後に、「疑っている自分がいることは、疑いようもなく真」とし、
「疑っている我は、確かに存在している」
を真理とした。
これは、今日では、「われ思う、ゆえにわれあり」として知られている。
だが、これはやはり実用的でない。
では、我々は、どう考えれば良いのか?
それは簡単ではないだろうか?
魂の声を聞けば良いのである。
我々の中には、魂、聖霊、神・・・何と呼んでも良いが、絶対的に正しいものが存在する。
デカルトだって、「自分の中に絶対的に正しいものがあるから、疑うことが出来るのだ」と言ったが、この言葉は、我々の魂の声も正しいと言っているのではないかと思う。
魂の声を聞くなんて、本来、当たり前のことであったはずが、現代の、特に文明国では、皆、それを忘れてしまった。
現代の悲惨の原因はそこにある。
逆に、魂の声を聞けば不安はないはずである。