ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ファクトチェック

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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騙されないために必要な当たり前のこと

テレビ、新聞といったマスメディアが偏向報道でなかったことはないが、特に今はひどい偏向振りで、偽情報だらけと言えるかもしれない。
一方、インターネットの、特にSNSに沢山の情報があるが、こちらは玉石混交だ。
大手メディアの「我々は正しい」という権威的な姿勢に対し、SNSでは、発信する情報の根拠を示す謙虚さがある場合が多い。
だから、SNSは、見る者が情報の真偽を判断出来るが、SNSでも人気インフルエンサーになると、傲慢にも根拠を示さず「俺が言うのだから正しい」というマスメディア的な態度だったり、真面目そうに見える発信者であっても、根拠自体がフェイクだったりすることも多い。
特に、根拠を、事実ではなく、論理で示す場合は、いくらでも巧妙な嘘がつける。

マスメディアの情報の根拠は、現地取材をしているとか、映像や音声を示すといった、いかにも信頼性が高いように見えるものが多いが、映像や音声の一部を切り取ったり、それらを組み合わせれば、事実と真逆の情報を作ることが出来、実際、それが行われている。さらに、映像や音声自体が、本物らしい偽物であることも珍しくはなくなった。それが、マスメディアで堂々と行われれている。
そして、重要なことは、マスメディアの情報を否定することは難しく、また、マスメディアの嘘がバレても、マスメディアの権威はいささかも揺るがない。その理由は、国民が馬鹿だからであるとしか言えない。
SNSは、とにかく、情報の根拠を見ることだ。
マスメディアでさえあることだが、SNSでは、「関係者によれば」という言い方が多い。だが、そう書かかれていれば、最初からフェイクだと断定するしかないと思う。
その「関係者」が具体的であることが信用するための最低条件であることは、子供でもない限り分かるはずだ。

そんなわけで、あらゆる情報・・・特に大手メディアの情報に対する私の態度はこうである。
「別に疑わない。だが、信用もしない」
最初から疑ってしまったら、良い情報や、デタラメの中に混じった正しい情報も見逃してしまう。
だが、疑いようのないほど真でない限り、信じてはならない。
デカルトの情報に対する態度はこうだった。
「疑いようもないほど正しくなければ、全て偽」
「よって、単に確からしく思えるものは、全て虚偽とする」
だが、ここまでやってしまえば、日常生活を送ることも出来ないので、我々としては、
「疑いはしない。だが、信用もしない」
が、最良の態度と思う。
そして、「疑いようもなく真であるなら信じる」に関しては同じであるはずだ。
デカルトは、「疑いようもないほど真」というものがなかなか見つけられなかったが、最後に、「疑っている自分がいることは、疑いようもなく真」とし、
「疑っている我は、確かに存在している」
を真理とした。
これは、今日では、「われ思う、ゆえにわれあり」として知られている。
だが、これはやはり実用的でない。
では、我々は、どう考えれば良いのか?
それは簡単ではないだろうか?
魂の声を聞けば良いのである。
我々の中には、魂、聖霊、神・・・何と呼んでも良いが、絶対的に正しいものが存在する。
デカルトだって、「自分の中に絶対的に正しいものがあるから、疑うことが出来るのだ」と言ったが、この言葉は、我々の魂の声も正しいと言っているのではないかと思う。

魂の声を聞くなんて、本来、当たり前のことであったはずが、現代の、特に文明国では、皆、それを忘れてしまった。
現代の悲惨の原因はそこにある。
逆に、魂の声を聞けば不安はないはずである。








疑わず、信じず

ファクトチェック(事実確認)なんて言葉が流行っているが、ファクトチェックなんて、どのくらい可能なのだろう?
フランスの数学者・哲学者のルネ・デカルトの結論は、「ファクトチェックは一切不可能」だった。
私もこれに同意する。
だが、デカルトは、何か1つくらい、ファクト(真実)が分かるのではないかと探し続け、それなら、「ファクトかどうかと疑っている私は存在する」ことだけは確実にファクトだとした。
この説は、
「疑っている私は確かに存在する」
と言い表された。しかし、どういう経緯かは分からないが、これが、
「われ思う、ゆえにわれあり」
として、現在も伝えられている。
これに対し、思おうが思うまいが私は存在しているという主張もある。
インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは、それを(思おうが思うまいが私は存在する)さらに洗練させ、こう言ったらしい。
「あなたが本当に納得出来ることは、あなたが存在しているということだけだ」
私も、いったんは、これに納得した・・・つもりでいた。
しかし、今は全く信じていない。
一方、ルドルフ・シュタイナーは、形としては、「われ思う、ゆえにわれあり」へのアンチテーゼ(否定の主張)としてかもしれないが、
「われ思う、ゆえにわれなし。われ思わず、ゆえにわれあり」
と言ったようだが、私も、むしろ、こっちに与する(あくまで「むしろ」だ)。
ただし、このシュタイナーの言葉は、いかなるファクトチェックも出来ない。
まず、「われ思う、ゆえにわれなし」であるが、「思っているわれがない」ことのファクトは証明しようがない。
次に、われが思わなければ、われがあることを証明出来ない。

『荘子』の中で、賢者に対し、「全ては不可知ということですか?」と尋ねると、賢者は、「そんな判断を求めるな」と言う。
余計だが言っておくと、「全てが不可知か?」に対し、イエスと言えば、不可知でないことが1つ出来てしまうし、ノーと言っても「全てが不可知かは分からないことが分かっている」という矛盾が生まれる。まあ、こんな話が好きな人もいるようであるが。

今、マスメディアでもネットでも、ロシアのウクライナ侵攻のニュースが多量に飛び交っているが、何が本当かは全く分からない。だが、分かったつもりになっている人が多いだろうし、分かっているような顔でペラペラと解説する識者やインフルエンサーもいっぱいいる。
私は、どの情報も解説も、疑いはしないが、信用もしない。
ヒトラーが悪魔のような人物であったというのは世界の常識であるが、これも捏造かもしれない。しかし、たとえそうであっても、我々には絶対に分からないのだ。
だから、いかなることも「疑いはしないが、信じもしない」というのが正しい態度である。
これは、笹沢佐保さんの時代劇小説『木枯らし紋次郎』のヒーロー、紋次郎がよく言った言葉だ。
学校に行ったことも、本を読んだこともない紋次郎が最も賢いということになるが、そのはずだと思う。
実際、紋次郎は恐ろしく賢い。
もちろん、学校も本も役に立つこともあるが、害になることも多い。それを認識した上でなら、学校や本で遊ぶのも良いだろう。

何も信じず、一切の判断をしなければ、自ずと正しくなる。
なぜなら、そんな時にのみ、意識の数万倍(あくまで喩え)賢い無意識が出てくるからだ。
腕振り運動というのは、淡々と数を数え、努力なく腕を振ることで、判断を離れる行である。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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