ピカソの奇妙な絵を見たことがあると思う。
しかし、ピカソは、本当は上手過ぎるほど上手い天才画家だった。
ところが、ピカソはある時期から、だんだん単純な絵を描くようになり、ついに、あの抽象画に至った。
さらに、80歳を過ぎても旺盛に版画を大量に制作したが、それらは、子供の落書きにしか見えないものだった。それを見て、「ピカソはもうろくした」と思った人達が多かったが、池田満寿夫さんは、そして、分かる者には、あれは人類の至った究極の芸術だった。
ピカソが、なぜあんな抽象画を描き始めたのか、専門家の方々は色々言うが、私はどれも覚えていない。多分、全部間違いだからだ。
岡本太郎の言ったことすら覚えていない。
ただ、岡本太郎は、ピカソに、「年々、下手に描けるようになって良かった」と言われたと述べていた。実は、lこれが本当の理由だ。
昔から、最高の画家達は、どうやれば本物のような絵が描けるのかと考えた。しかし、どんな天才も、皆、失敗した。
どんな名画を見ても、本物の光景だと思う人はいない。
ものを立体的に見せるには、陰影を付ければ良いというのは、すぐに分かった。しかし、いくら巧みに陰影を付けても、所詮、「巧みな陰影」だ。
人間の感覚器官や知覚能力は、彼らが考えるより、はるかに凄いものなのだ。
この点、インドの神のごとき聖者達すら、同じ間違いをしている。彼らは、人間の身体や心を粗雑なものと言う。確かに、神と比べればそうだ。しかし、彼等は、神が造った人間の身体や心を見くびっている。魂そのものと比べれば価値の低い肉体や感覚や心とはいえ、あまりに高機能、あまりに高性能なのだ。
こういったことは、コンピュータが発達し、自然現象の複雑さが理解できるようになって、初めて人間にも分かったことだった。
現在の三次元コンピュータ映像は、「本当に」立体に見える。
私は、実は3D映画を見にいたことが一度もないが、さぞ、過去のものと違って凄いと思う。
ただ、私は、3D映像の研究を見たことはあり、目の前を魚が泳いだり、鳥が顔の横をかすめて飛んでいくのを見たりはした。
これらは、コンピュータを使って、過去の天才達が描くことのできなかった、自然の姿に近い映像を作ることで可能になったことだ。
ピカソは、絵に決して影を付けなかった。直線的、平面的な絵を描いた。
よほど、彼は、神の腕との差を思い知っていて、人間の出来る最上のことを目指したのだろう。
だから、若い頃に鍛えた上手い絵を描く腕を捨て、下手に描けるようになったことを喜んだのだ。
彼が抽象画を描いた本当の理由は、そんなところだと思う。
ギリシャ神話に、工芸の神でもある女神アテーナと腕を競う愚を犯して、身を滅ぼした女がいた。アテーナは、この女にせめてもの情けをかけ、彼女を蜘蛛に変え、織物を織れるようにしてやった。
このお話にも、人と神との違いを思い出させるものがある。人間は、木の葉1枚すら、科学でも技術でも芸術でも作り出すことができない。
ピカソは、懸命にも、アテーナや、芸術の神アポローンに挑まなかったのだ。人間として最高の腕を持ったピカソだからこそ、神に挑戦する愚かさを知っていたのだ。
また、科学技術においても、政木和三さんは、神経を調べ、「どんなに科学が発達しても、こんなものは決して作れない」と言っていたものだった。
インドの聖者の言う通り、「私は身体ではない。心ではない」と言ったところで、それらは、自分ではないと言って捨てるには、あまりに見事に出来ているのだ。
身体や心に対する執着を捨てるのは、思ったより難しいのだ。
だが、それが出来た時の報いも、我々の予想とは比較にならないくらい大きい。
食べたいものを食べるのを控え、性欲を満足させることを諦めれば、ついに、40世紀の科学技術も及ばない身体機能や感覚・思考作用を超える。
L.ロン.ハバートのSF小説『バトル・フィールド・アース』では、30世紀の地球の軍隊が、サイクロ星人に対し、9分も持たずに敗れた。しかし、旧石器時代に戻った人類は、サイクロ星人から地球を奪還する。
2万年前のアトランティス人トート(トス)は、やがて宇宙から襲い来る敵を撃退するためのものを隠したと書き残しているという。それは、宇宙船だとも、波動装置とも言われるが、それが何かは、彼の書いた『エメラルド・タブレット』をよく読めば分かるだろう。
科学技術が少し発達した今こそ、我々は悟りの時期にあるのかもしれない。
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しかし、ピカソは、本当は上手過ぎるほど上手い天才画家だった。
ところが、ピカソはある時期から、だんだん単純な絵を描くようになり、ついに、あの抽象画に至った。
さらに、80歳を過ぎても旺盛に版画を大量に制作したが、それらは、子供の落書きにしか見えないものだった。それを見て、「ピカソはもうろくした」と思った人達が多かったが、池田満寿夫さんは、そして、分かる者には、あれは人類の至った究極の芸術だった。
ピカソが、なぜあんな抽象画を描き始めたのか、専門家の方々は色々言うが、私はどれも覚えていない。多分、全部間違いだからだ。
岡本太郎の言ったことすら覚えていない。
ただ、岡本太郎は、ピカソに、「年々、下手に描けるようになって良かった」と言われたと述べていた。実は、lこれが本当の理由だ。
昔から、最高の画家達は、どうやれば本物のような絵が描けるのかと考えた。しかし、どんな天才も、皆、失敗した。
どんな名画を見ても、本物の光景だと思う人はいない。
ものを立体的に見せるには、陰影を付ければ良いというのは、すぐに分かった。しかし、いくら巧みに陰影を付けても、所詮、「巧みな陰影」だ。
人間の感覚器官や知覚能力は、彼らが考えるより、はるかに凄いものなのだ。
この点、インドの神のごとき聖者達すら、同じ間違いをしている。彼らは、人間の身体や心を粗雑なものと言う。確かに、神と比べればそうだ。しかし、彼等は、神が造った人間の身体や心を見くびっている。魂そのものと比べれば価値の低い肉体や感覚や心とはいえ、あまりに高機能、あまりに高性能なのだ。
こういったことは、コンピュータが発達し、自然現象の複雑さが理解できるようになって、初めて人間にも分かったことだった。
現在の三次元コンピュータ映像は、「本当に」立体に見える。
私は、実は3D映画を見にいたことが一度もないが、さぞ、過去のものと違って凄いと思う。
ただ、私は、3D映像の研究を見たことはあり、目の前を魚が泳いだり、鳥が顔の横をかすめて飛んでいくのを見たりはした。
これらは、コンピュータを使って、過去の天才達が描くことのできなかった、自然の姿に近い映像を作ることで可能になったことだ。
ピカソは、絵に決して影を付けなかった。直線的、平面的な絵を描いた。
よほど、彼は、神の腕との差を思い知っていて、人間の出来る最上のことを目指したのだろう。
だから、若い頃に鍛えた上手い絵を描く腕を捨て、下手に描けるようになったことを喜んだのだ。
彼が抽象画を描いた本当の理由は、そんなところだと思う。
ギリシャ神話に、工芸の神でもある女神アテーナと腕を競う愚を犯して、身を滅ぼした女がいた。アテーナは、この女にせめてもの情けをかけ、彼女を蜘蛛に変え、織物を織れるようにしてやった。
このお話にも、人と神との違いを思い出させるものがある。人間は、木の葉1枚すら、科学でも技術でも芸術でも作り出すことができない。
ピカソは、懸命にも、アテーナや、芸術の神アポローンに挑まなかったのだ。人間として最高の腕を持ったピカソだからこそ、神に挑戦する愚かさを知っていたのだ。
また、科学技術においても、政木和三さんは、神経を調べ、「どんなに科学が発達しても、こんなものは決して作れない」と言っていたものだった。
インドの聖者の言う通り、「私は身体ではない。心ではない」と言ったところで、それらは、自分ではないと言って捨てるには、あまりに見事に出来ているのだ。
身体や心に対する執着を捨てるのは、思ったより難しいのだ。
だが、それが出来た時の報いも、我々の予想とは比較にならないくらい大きい。
食べたいものを食べるのを控え、性欲を満足させることを諦めれば、ついに、40世紀の科学技術も及ばない身体機能や感覚・思考作用を超える。
L.ロン.ハバートのSF小説『バトル・フィールド・アース』では、30世紀の地球の軍隊が、サイクロ星人に対し、9分も持たずに敗れた。しかし、旧石器時代に戻った人類は、サイクロ星人から地球を奪還する。
2万年前のアトランティス人トート(トス)は、やがて宇宙から襲い来る敵を撃退するためのものを隠したと書き残しているという。それは、宇宙船だとも、波動装置とも言われるが、それが何かは、彼の書いた『エメラルド・タブレット』をよく読めば分かるだろう。
科学技術が少し発達した今こそ、我々は悟りの時期にあるのかもしれない。
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