ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ビッグデータ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

人間に分かる唯一のことは人間には何も分からないということだけだ

スポーツ、演芸、芸術、武道等には「名コーチ」というものがいて、子供の才能を見抜くなどと信じられている。
しかし、はっきり言っておくが、そんなことのできる者はいない。
たまたま才能のある生徒を指導したら、その生徒が超一流になった等ということが2~3度あると、名コーチにされてしまうのである。
そして、コーチ自身も変な自信を持って、生徒を集めても、才能ある生徒のほぼ全てを潰してしまうのである。
それでも、生徒の数が多いので、たまたま才能がある生徒がいて、しかも、そのコーチと相性が良く、上手く育って活躍すれば、「名コーチ」の評判は維持できる。
そして、名コーチは言うのだ。
「本当に才能ある子は千人に一人、万人に一人だ」
ってね。
実際は、才能なんてもっとありふれている。
たかが人間に分かることなんて知れているのだ。
神を恐れよと言いたい。

あることについて、専門家に見解を聞けば、専門家達は、みんな違うことを言うのである。それぞれが真逆(逆を強調する俗語)であることすら珍しくない。
しかし、まぐれ当たりした者だけがクローズアップされ、「やっぱり専門家は正しい」となってしまうのである。
早い話が、誰も、何も分からないのだ。
ある名医が、自分の誤診率は14%だったと言ったらしいが、その時、医者と医者以外の両方が歓声を上げた。
医者以外の者達は、その誤診率の高さに。
そして、医者達は、その誤診率の低さにである。
だが、普通の医者は、もっとはるかに誤診をするのだ。
私は、その名医の誤診率が14%だなんて、全く信じない。
単純な症例は別として、実際は、ほとんど正しく診断できなかったはずなのだ。
いくらかまぐれ当たりがあるだけである。

だが、ビッグデータが正しく使われるようになりデータが十分に多くなれば、いつも正しい答が得られる。
ただ、その答がなぜ正しいのかは決して分からないのだ。
誤解してはならないのは、ビッグデータとは、コンピューターが推論や計算で正しい答えを出すことではなく、コンピューターが正しい答を見つける方法に過ぎないのである。
確かに真理は存在するが、なぜそれが真理であるのかは誰にも分からないのである。
だが、それによって、人間の知性など、卑小過ぎて何の力もないことを認識し、謙虚になれればそれで良いのである。

そして、人間が完全に謙虚になって、自分の知性を蔑み、ソクラテスのように、
「私は、自分が何も知らないということだけを知っている」
と本当に理解すれば、やはり、ソクラテスのような賢者になる。
それは、人間の知性ではなく、神の叡智と一体化したということである。

『ソクラテスの弁明』は、下記にご紹介した藤田大雪さんのKindle版が安価ながら素晴らしいと思ったし、評判も良いので推薦する。
ビッグデータに関しては、やはり下記にご紹介した、クター・マイヤー=ショーンベルガー、ケネス・クキエの著書の翻訳をお薦めする。









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食を慎めば幸福になるというのは真実だが、その理由は分からない

江戸時代の高名な観相家(顔や身体の相で運命を鑑定する占術師)であった水野南北が、食の多少で運勢が決まると言ったのは、ややデータ量は少ないが、今で言う、一種のビッグデータのようなものかもしれない。
ビッグデータとは、あらゆるデータを集め、そこに現れる相関関係から真理を読み取るというものだ。
つまり、南北の場合、食の量が少なく、粗食であることと、幸運、長寿、繁栄、健康に正の相関関係が見られることが分かったということだ。
そして、南北自身が検証した数万の鑑定において、例外は1つもなかったというから、相関関係は完璧ということになる。
現代であれば、このことについて、本物のビッグデータの収集も可能であると思うが、そうなると、「何を持って、少食、即ち、食を謹んでいると言えるか?何を持って運勢が良いと言えるか?」といった定義も必要になるのだろう。
しかし、いずれにせよ、ビッグデータからは、食の多少と何らかの意味の幸福状態との相関関係は必ず明らかになると思う。
つまり、ビッグデータを収集するまでもなく、そのくらいのことは明らかなのだが、本当にビッグデータ解析を行うと、もっととても興味深いことが分かるに違いない。
ただ、ビッグデータとは、答は分かるが、理由は分からない。
水野南北は、食を慎めばなぜ幸運になれるかについて、神道、儒教、仏教の教えがそれを証明すると言うが、本当は、理由はどうでもよく、ただ、「食を慎めば幸運」という答だけ分かっていれば良いのである。

この世界のものごとは、それぞれが関係のありそうなもの、あまり関係のなさそうなもの、関係があるとは思われないものといった全てのことにおいて、必ず、何らかの関係はあるのである。
例えば、あまり信じてもらえないだろうが、サハラ砂漠の全ての砂の動きを解析できれば、ニューヨークの株価の変動と何らかの関係は認められるのだと思う。
量子力学の分野で、天才的な科学者が、この世界の仕組みを解明しようとしている。
しかし、いかな天才といったところで、この世界を創った神と比べれば、あまりに卑小な知恵でしかなく、実際は、ほとんど何も分からないはずだ。
だが、ビッグデータでは、法則は分からないが、真理は分かるのである。
そして、神でない人間には、所詮、理由は分からないのだ。

ところで、ビッグデータとは、必ずしも、大企業がよくやるように、ネット上で、無料サービスを提供して会員登録をしてもらい、その会員からデータを収集するといった方法を取る必要はない。
あくまで例えだが、般若心経を一万回も唱えれば、数億、数十億、あるいは、それよりはるかに多い何らかの情報が自動的に集まり、それが、心の深奥にある何かと作用し合い、重要な真理とつながるのである。
それを悟りというのである。
繰り返しの力をくれぐれも軽く見てはならない。









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過去の知識など一切通用しない

新しいことを理解するために、既に知っていることで喩(たと)えると分かり易いことがある。
例えば、電圧を理解するために水圧に喩えるなどだ。
しかし、電圧と水圧とは根本的に違うものだ。

イエスや釈迦はたとえ話の名人だったらしい。
深い真理を、誰にでも分かる喩えで分かり易く説明した。
しかし、喩えはあくまで喩えでしかない。

傲慢な年寄りは、新しいものを、何でも自分が分かるもので喩えようとし、
「たとえば、自動車で言うと、こういうことだな?」
とか言い、それで、相手が自分の喩えを肯定すべきだと思っている。
その喩えが、馬鹿げたほど的外れであってもだ。

本当に新しいことを理解しようと思ったら、自分の知っていることは捨てなければならない。
特に、今の時代の新しいことは、既知のもので役立つものがないことが多い。
例えば、ITで言えば、CGM(消費者構築型メディア)やビッグデータを理解しようと思ったら、過去にある何かで喩えようとしても、それは不可能で、そんなことをすれば、滑稽な大誤解をするだけだ。
過去のもので、本質において近いものがないからだ。
新しいことを理解するためには、謙虚でなければならない。
それなのに、高慢な人間は、自分が知っていることに喩えれば、一足飛びに分かるものだと自惚れている。
CGMやビッグデータを知りたければ、実物を見、自分でやってみれば良い。
ところが偉い年寄りには、自分が劣った立場になるのが嫌だから、決して、そのものを見ようとしたり、まして自分でやろうとしない。
そして、自分が知っているもので喩え、その喩えが適切であると、強引に認めさせようとするのだ。
しかし、全く、的外れだよ。

新しいことを知りたければ、自分の無知を認め、謙虚になることだ。
そうであれば、年がいくつであっても、決して古い人間にはならない。









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座禅も静坐もTMもあなたには合わない

世の中には沢山の瞑想法があり、それぞれに独自のやり方がある。
道元の座禅や、岡田虎二郎の静坐は、細部まで厳格な取り決めがあるが、他の多くの瞑想法もそうである。
比較的自由なやり方のものもあるが、それでも、守らなければならないことは、それなりにあるはずだ。
マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーのTM(超越瞑想)は、これのマーケティングを託されたという船井幸雄氏が、「自然瞑想と呼び方を変えた方が良い」と著書で述べておられたが、それはどうだろうと思う。
TMは、1日2回の空腹な時、つまり概ね、朝食前と夕食前に20分行うこととし、背筋を伸ばして座り、心の中で自分専用のマントラをずっと繰り返すというもので、その他の注意を含め、十分に制約が多く、私には、自然なものとは感じられない。

道元や岡田虎二郎が偉大だったといっても、現代の我々がそれに従うのは時代遅れかもしれない。
道元の時代と違い、虎二郎の時代は、既に十分な本があり、虎二郎も非常に多くの書を読んでいた。
特に彼は、明治34年に渡米し、そこでも多くの本を読んだようだ。
しかし、今の世の中にある本や、その他の印刷物の数は、虎二郎の時代とは比較にならないだろう。
無論、私もだが、現代人の大半は虎二郎のように多く勉強してはいないが、触れる情報に関しては桁違いに多いのだ。
ほとんどの人は聞いたら驚くかもしれないが、現在の世の中にある情報のうち、印刷されたアナログ情報は、なんと全体の2%以下で、後はデジタル情報なのだ。
確かにデジタル情報には、下らない情報も多い。
しかし、情報は雑多でも量が多いことに価値があるというのが、少し前から注目されているビッグデータによって分かってきたことだ。
そして、虎二郎の時代は、情報量が圧倒的に少ない上、その情報のかなりのものが、やはり正確さに甚だしく欠けるものであったはずなのだ。
私は、道元や岡田虎二郎、その他の古い時代の偉人達に、おそらく大きな敬意は持っていると思うが、絶対的に崇拝するというのは、明らかにおかしなことと思う。
彼らの誰もコンピュータープログラミングなどは想像もしなかった。
プログラミングの能力を持てば、それが彼らに対しても圧倒的なアドバンテージになる。
プログラミングには、それだけの力がある。

瞑想であれば、道元の座禅、岡田虎二郎の静坐、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーのTMをはるかに超えるものを、それぞれが作れなければおかしいと思う。
これらの(座禅等の)瞑想法が合う人もいるが、そうでない人もいるはずだ。
どれも、ぴったりと適合する人は、せいぜい数パーセントで、割合に合う人でもせいぜい4割程度、後は、あまり合わないか、致命的に合わずに、悪い影響があることも少なくないはずだ。
もちろん、ものを深く考える習慣がなく、性急であったりする者も少なくないので、何でも我流というのは勧められないかもしれない。
しかし、これからは、自分独自のものがなければいけない時代だ。
最初は失敗することがあり、また、リスクもあるとしても、自分だけのものを創り出さないといけないのだ。
今、人生がうまくいっていない人というのは、そんな進取の気性に欠けているのである。

私は、瞑想は、座禅でも静坐でもなく、TMはやったことはあるがとおに捨て、私にとっては、これらよりはるかに良いやり方でやっている。
しかし、私は瞑想の指導で儲けて豪邸に住もうなどと思わないので、それを他人に教えようとは思わない。
そして、瞑想程度のことは自分に最も合ったやり方を自分で見つけなければならない。
瞑想自体は価値あることだ。
自分で考えた自分に適した瞑想を行うことは、あらゆることを自分で考え、自分の世界を創造することにもつながるはずである。









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不誠実と冷淡ではどちらがマシか?

アインシュタインは、一般の人に相対性理論の時間の伸縮について説明する時、
「熱いストーブの上に座っている10分は長いが、美女と一緒にいる1時間は短いようなもの」
と言ったらしいが、彼はそう言った後、自分の不誠実さに自己嫌悪に陥ったのではないかと思うのだ。
ただ、現代ですら、相対性理論を本当に理解する者などほとんどいないのに、人類が初めて、時間が相対的なものだと聞かされた時代の人にとって、理解以前にどんなイメージも湧かなかったはずで、本当のことを言えば、アインシュタインがそんな人達に説明するという状況そのものがおかしかったのではあるがね。

国産OSのTRONを開発したことで有名な偉大な科学者である坂村健さんが著書で、社会的地位のある人が、何かの科学理論について、
「俺は知識ゼロだ。それを前提に俺に分かるように言え」
という人間の傲慢さを批判されていたように思うが、確かにそんな人間は多いだろう。
自分は、そのように知識ゼロで、それを改善する気もないのに、自分はそれを知る権利があるとか、専門家は自分に分かるように説明する義務があると思っているような、高慢で、実に迷惑な人達だ。
だが、坂村教授も真面目な人なのだろう。
アイシュンタインのように、適当に相手を煙に巻くことを言っておけば良いのにと思うが、彼の立場でそうもいかない状況だったのかもしれないし、やっぱり、科学的に重要なことに関し、いい加減なことを言えない性格なのかもしれない。

以前、私が、少しビッグデータについて話していた時、その相手の中の、私のことを犬かネズミと見なしている偉い人が、
「ビッグデータって、いったん何なんだ!俺に分かるように言え」
と言ったものだった。
私が何か説明する度に、
「それのどこに良いところがあるんだ」
「デタラメなデータなんか集めたら駄目に決まっとるだろ」
と難癖を付けて来る。
それで、私は、
「申し訳ありません。ビッグデータの話は不適切でした。私が間違っておりました」
と言って、思いっきり見下されながら、さっさと引き上げた。
私は、アイシュンタインのようにウィット(機知)がないので、そういう言い方しかできないのだが、もし、うまいことを言って誤魔化すことができたとしても、やはり、私は自分の不誠実さが嫌になるだろう。
とは言え、私の言い方も不誠実なのだろう。
いや、私は、不誠実というより、冷たいのかもしれない。
木枯し紋次郎がよく言っていた、「あっしには関わり合いのねえことでござんす」というのと同じようなものだろう。
私は、年長の人に、
「あんたは愛がないよ」
とよく言われるのだが、それは全くそうである。
尚、下にご紹介した『アインシュタイン物語』は、短くて読みやすいから選んだが、最初に述べたエピソードは載っていない。
また、ビッグデータの入門としては、一貫して下にご紹介したものをお奨めする。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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