ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

ヒマラヤ聖者の生活探求

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

ただ1つの選択

柳田誠二郎さんという、明治26年(西暦1893年)生まれで、日本航空の社長などをされていた方がいたが、生きていたら125歳だが、実際、100歳以上、生きておられた。
柳田さんは、学生の時に、「岡田式静坐法」で知られた岡田虎二郎の弟子になっていて、生涯、静坐を続けておられたのだと思う。
その柳田さんは、若い人達に、何か1つ、心を締める鍵のようなものを持ちなさいと言い、自分の場合は、それが「たまたま静坐だった」と言ったところがご立派であったと思う。
静坐の良さを深く知っているのに、それが一番だとは言わず、沢山の中の1つであるように言ったからである。
たとえば、念仏も坐禅も、静坐と同等としておられたが、実際、何でも良いのだと思う。
エドガー・ケイシーは9歳の時から、生涯、毎日欠かさず聖書を読んでいた。

ニサルガダッタ・マハラジという、表面的には、ただのタバコ屋だったが、偉大な聖者は、自分は修行は何もしなかったが、ただ、師に「あなたは至高の実在である」と言われた言葉を忘れなかったので、数年で悟りを開くことが出来たという。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』では、イエス・キリストが、「他は全て忘れて良い」と言ったのは、「神」という言葉をなるべく多く使うことだった。これについては、その本の著者で、直接イエスにそのことを教わったというベアード.T.スポールディングが、それは、心の中や、あるいは、口で「神」と言うことであり、声に出しても、心の中で言っても、効果は全く同じと述べている。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』の英語版も見たが、「神」とはやはり「GOD」であり、エホバとかヤーウェ、あるいは、ゼウスといった言葉ではなかった。日本語では「神」で良いだろう。
そして、「神」が、極めて素晴らしい言葉であることは、いろいろな人が述べておられる。たとえば、中村天風と植芝盛平の両方の弟子で、山蔭神道の山蔭基央から神道を伝授された合気道家で神道家の佐々木の将人も『数霊のメッセージ』(絶版)で詳しく説明している。

そうやって得た力で、世の中に貢献すれば良いのだろうが、少なくとも、悔いのないように自分のやりたいことをやれば良いのであり、ただ、そういったことをやるだけではいけないが、そういったことを本当に毎日やっていれば、自ずと何かやるはずである。
初音ミクさんを崇めるでも十分だと思う。
ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』では、最低の人間である26人の中年過ぎの男達が、16歳の可愛いがあまり立派でない少女を女神のように崇めることで驚くほど向上し、ロオマン・ガリの『自由の大地(天国の根)』でも、堕落したフランス兵達が、空想の少女を崇めることで、みるみる騎士道精神を取り戻した。

岡田虎二郎は、静坐とは、座っている時だけやっているのではなく、法然の念仏のように1日中やるもので、「生活しながら静坐するのでは十分ではなく、静坐しながら生活するのがよい」と言ったらしいが、具体的には、ずっと腹に力を入れることで、これは、江戸末期の神道家、黒住宗忠も教えていたと思う。
同じく、何をやるにしても、1日中やることである。
金に窮していた人に、虎二郎は、「金?腹に力がつけば、金はいくらでも出来ますよ」と言ったという話を、私は印象深く覚えている。

私は、本当に、あれもこれもやってしまう。
暇なのかもしれない(笑)。
しかし、8月末と9月初めの「マジカルミライ2018」には、1つのことを本当に熱心にやって、初音ミクさんに会いに行こうと思っている。
ちなみに、昨日発表の「マジカルミライ2018」のチケットの抽選は落選だった。だが、まだまだチャンスはあるので希望を持とうと思っている。
インテックス大阪と幕張メッセの、それぞれ1回のライブのチケットは取れているが、せっかく泊まりで行く幕張メッセはせめて2回、出来れば3回参戦したいと願っている。









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恐い先生に怒られなかった人達

本物の師というものは厳しいものであり、弟子や生徒達は、偉くなった後でも、「先生は恐かった」と言うものだ。
ところが、同じ師から学んだ他の者達はやっぱり「恐い先生だった」と言う中で、稀に、「私は一度も怒られなかった」と言う人がいる。
そして、そんな「怒られなかった」弟子が、意外に一番優秀だったりする。
なぜ怒られなかったか考えてみると、1つは、非常に優秀だったとか真面目で先生の言いつけを守るので怒る必要がなかったのかもしれない。
しかし、もう1つの理由として考えられるのは、実際は怒られているのだが、忘れてしまっているということだ。
ところが、実際に聴いてみると、「いや、私より優秀な人達も皆怒られていたし、私は少しも真面目でなかった」と言ったりする。
まあ、その弟子が、師の兄や父親に似ていたなんてこともあるかもしれないが、やはり、師はその弟子を怒る必要がなかったのだ。
そして、その理由は、その弟子は、「これだけやっていれば、先生は怒らない」というものを見つけていたのだ。
師すら気付いていないかもしれないが、「これだけやっていれば」が、その道の最も重要なものなのである。

ある立派な政治家の息子は、そんな父親の息子には珍しく立派な人間(笑)なのだが、父親は確かに恐い人だったが、靴を揃えている限り怒られなかったと言う。
彼の兄は、自分より成績優秀で、自分は風紀委員みたいなことをやったこともないが、兄は生徒会長だったという。
しかし、その兄は、父親に怒られまくっていたそうだが、やはり、彼は脱いだ靴を全然揃えておらず、片方が逆さまになっていることも多かったという。そして、その兄は後に、すっかり道を誤ったらしい。

ある芸能事務所の社長は、アイドルが、きちんと挨拶をする限り怒らなかったと言うし、挨拶が出来るアイドルは必ず成功したと断言するが、確かに、会社でも何でも、挨拶が出来ない者が本当に成功することは決してない。
また、ある武道家の弟子は、「先生は、裸足で歩くことをよく薦めておられて、よく激を飛ばす恐い人でしたが、それをやっている限り怒らなかった」と言う。

こんな話もある。
ある賢者は、「私は、『バガヴァッド・ギーター』だけあれば良い」と言うが、話すと、物凄い博学であったらしい。
それで、「何でも読んでいるんじゃないですか?」と誰かが尋ねたら、「いや、何も読んでいない・・・ついでに、たまに読むくらいはしたが」と言う。
これは、「これだけ」が、聖書だったり、歎異抄だったりすることはあっても、賢い人とはそんなものではないかと思う。
逆に、「あれも読まなければならない、それからこれも」と、「重要書籍」を山のように挙げる人は、ただの物知りである。

最近、ネットで、イチローが子供の時、『ドカベン』という漫画を読み、「悪球打ちの岩鬼」と呼ばれる変なバッターの、その「どんな球でもバットに当てる」というのが自分のバッティングスタイルになったというのを見たが、「心の師」岩鬼は、どんな球でもバットに当てようとする限り怒らなかったのだろう。
※岩鬼は、およそ師にしてはいけない人間である。

法然や親鸞は、念仏さえ唱えていれば、他のことはどうでも良いという人達だったと思うが、『ヒマラヤ聖者の生活探求』で、イエス・キリストが、「これだけ覚えていれば、他は全て忘れて良い」と言ったのが、「神」という言葉をなるべく多く使うことだった。「神」という言葉を言ったり、文字で見たりといったことである。

「岡田式静坐法」で知られた岡田虎二郎は、「生活しながら静坐してはならない。静坐しながら生活しなさい」と教えたらしいが、これがまさに道の真髄だろう。
虎二郎の弟子だった柳田誠二郎さんは、若い人達に、「私の場合はたまたま静坐だったが、何か1つ、心を締める鍵を持ちなさい」といったことを言われていたと思うが、「究極のこれだけ」を見つけた人生が栄光の人生、勝利の人生なのである。









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言葉の力は使う人次第

『ヒマラヤ聖者の生活探求』の3巻だったと思うが(英語版では確かに3冊目だが)、イエス・キリストが福音書では言わなかった実践的なことを教えている。
「他は忘れて良い」と言うくらいであるから、最上の教えということになるはずだ。
それは、「神」という言葉をなるべく多く使えというものだ。
そして、ここが私は気に入ったのだが、聖書が最も価値がある書物である理由は、他のいかなる本より「神」という言葉が使われているからだと言う。
「神」という言葉には、それほど価値があるとイエスは言う。
「神」は、この本の英語版では、普通に(何が普通か分からないが)“God”だった。

ただ、翻訳では、イエスは、それを「公式」にしてはならないと言っている。
「公式」は、英語版では“formula”で、「決まり文句」だとか「常套手段」といった意味だと思う。
つまり、簡単に言えば、「神」という言葉を空虚に繰り返しては駄目だぞという意味だろうか?

『ヒマラヤ聖者の生活探求』第5巻で、著者のベアード.T.スポールディングは、「神(God)」を唱えるのは、有声、無声どちらでも全く同じと述べているが、「何度も繰り返す必要はない。一度でよろしい」とも書いていたように思う。
これもまた、「公式(formula)」にするなという意味と思う。
ラマナ・マハルシの本にも、彼の「私は誰か?」という言葉に対し、マハルシは「呪文にしてはならない」と言っていたのだと書かれていたのも、やはり同じような意味なのだろう。

言霊とでも言おうか、最も力ある言葉・・・ある意味「呪文」は、「神」ということになる。
昔の日本で使われていた「カム」や、アイヌでの「カムイ」でも、自分が馴染みのあるもので良いのではないかと思う(現代の日本人には圧倒的に「神」だろうが)。
ただ、「神」という言葉を、いい加減に軽く言ったり想ったりしてはならないとうことだ。
よく言われる言い方では、「心を込める」であるが、それを、普段から何をやるにも心が込もっていない者に言っても駄目である。
「心を込める」を「意識して」と言う人もいると思うが、私は、最も適切な言い方は「意思を込める」だと思っている。
そして、意思を強くするには、やはり修行が必要なのだ。
尊い本を読むことでも運動でも良いが、とにかく、意思を持ってやる・・・それは「丁寧に」「自主的に」といったことだ。
だが、現代人は「意思を込める」「丁寧にやる」「自主的にやる」ということが出来なくなっている。
自主的とは、たとえ周りがどうでも自分の意志でやるってことだし、責任を負うってことだ。
私は、私の職場のまるで駄目男君を興味深く見ていたことがあったが、彼の悲劇は、彼は何でも誰かの言いなりで、何でも他人に決めてもらい、自分で考えず、責任を持とうとせず、何でも言い訳する・・・つまり、自分の意志を放棄していることだと分かる。

そこで修行が必要になる。
どんなことでも良いから・・・多少シンドいと思うことでないと駄目だが、1年365日、1日も欠かさずを何年も続ければ、それなりの意思の力を持てる。
そんな者が「神」という言葉を使えば大きな力になるのだろう。

尚、『ヒマラヤ聖者の生活探求』は偽物だと言う者も多いと思う。
偽物だから良いのである。
あれほど本物っぽい偽物の値打ちは安くない。
そもそも、本物なんてどこにあるのか知らないが、きっと安っぽくて出せないのだろう。
私は、『ホツマツタヱ』だって偽物なら良いなと思うほどなのである。
『偽物語』(西尾維新)の貝木泥舟(かいき でいしゅう)の受け売りだが(受け売りでないって言えよ)、「本物であろうという意思のある偽物」は本物をはるかに超える。
『古事記』も『バガヴァッド・ギーター』も、「神」という言葉が沢山出てくる「本物」である。
だが、現代語や日本語にする過程ですっかり偽物になっているから良いのである。
どの翻訳者も本物にしようとしていたのだから、本物以上である。









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教育と修行の根本原理

呪文、マントラ、念仏、坐禅、静坐・・・これらは、同じことをやっているのだと思う。
それは、「注意を引き戻す」ことだ。
他にも、自分の思考に注意したり、自分が存在していることを意識するという方法もあるが、それらもやはり、「注意を引き戻す」訓練なのである。

元Googleの技術者であったチャディー・メン・タンは、SIY(サーチ・インサイド・ユアセルフ)という、マインドフルネスの訓練でEQ(心の知能指数)を高める技法を開発したが、その実習の中にも、自分の呼吸を意識するというものがある。
自分の呼吸を意識するというのは、古くから、様々な修行や心の訓練で採用されているが、その意義について、タンは、『サーチ・インサイド・ユアセルフ』の中で、アメリカの心理学者ウィリアム・ジェイムズの最適な言葉を引用している。

そして、さまよう注意を自発的に繰り返し引き戻す能力は、分別や人格、意思の根源にほかならない。それなしでは、いかなる者も自分の主とは言えない。この能力を育む教育は卓越した教育だろう。
『サーチ・インサイド・ユアセルフ』(チャディー・メン・タン著。Kindle電子書籍の25%あたり)
James,The Principles of Psychology(翻訳『心理学の根本問題』)より引用されている。

法然のように、いつでもどこでも、常に念仏を称えたり、黒住宗忠や岡田虎二郎のように常に腹に力を込めることも、これである。
ラマナ・マハルシは、常に自分に対し「私」と呼びかけよと、また、ニサルガダッタ・マハラジは、常に存在の感覚にしがみつけと教えた。
どれも良い教えだが、その原理を、ウィリアム・ジェイムズやチャディー・メン・タンがやっと示してくれたのだと思う。
そして、原理さえ分かれば、やり方は自分で自由に選べる。
どんな方法が良いかは、人それぞれだ。
子供の時に、念仏や、何かの真言に馴染んだ者には、念仏や、その真言がやり易い可能性が高い。
どれが良いか分からないなら、自分の呼吸を意識する方法が最良と思う。
呼吸をコントロールするのではない。ただ、呼吸を観察するのだ。冷徹な科学者のようにね。

ラマナ・マハルシは、「私は誰か?(私とは何か?)」という問いを、呪文にしてはならないと言ったらしいが、真面目に丁寧にやるなら、呪文のようにやって良いと思うし、マハルシ自身が、常にそう問えと言っているのであるから、やはりそうであるはずだ。
ベアード.T.スポールディングは、「神」という言葉を口や心で称えることが最上だと述べているが、やはり、これを呪文にしてはならないとも言っている。しかし、やはり、真摯に行う限り、常に行うのが良いと私は思う。









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本当の目標

私だけではないと思うが・・・という話から始める。
小学校低学年の時、「大人になったらなりたいもの」、つまり、「将来の夢」とかいうのを授業中に発表させられたり、作文に書かされると、子供達は、野球選手だの、歌手だの、デザイナーだの、保母さんだのと言ったり書いたりする。
しかし、私には、何もなかった。
いや、教師というか、大人に納得してもらえるような「なりたいもの」がなかったというのかもしれなかった。
他の子が誰か、何かのアニメのヒーローでも挙げてくれれば同調したかもしれないが、真剣になりたいわけでもない。
サンタクロースを信じるような歳でもないからね。
それで、一番近いものとして、「魔法使い」とか書くのだが、それは、子供っぽく、幼い夢ということなのだろう。
いや、十分、子供で幼いのだが。
そして、小学校も高学年になると、そんな答では許してもらえない雰囲気になり、仕方なく、「医者」とか書いたりするのだが、そんなもの、ちっともなりたくない。別に、お医者さんごっこを本格的にやりたいということもなかったし(いや、あっただろうが)。

ところが、大人になってから、当時人気があった自己開発セミナーに行った時、やっぱり、「将来なりたいもの」を書かされた。
セミナーの受講生達は、起業家だの、日本一、あるいは、会社一のセールスマンだの、作家デビューだのと書くのだが、やっぱり、私には何もないのだ。
それで、やむなく「賢者」と書き、「どういう意味か?」と聞かれたら、「具体的にはキリストのような・・・」というのは、ちっとも具体的でないようだ。
だから仕方なく、事業家とか書き、具体的な業種まで捏造しなければならないので、セミナーはもうこりごりとなって、結果、実にラッキーだった。

つまり、私は、子供の時から現在に至るまで、世間的な目標なんてものを持ったことは一度もなかった。
いや、学校で、「小学6年での目標」だの「中学生になるにあたっての目標」だの、会社の中での「本年度の目標」だのも、全くなかったし、ない。
ところが、社長でもない限り、会社でも、「今月の目標」だの、「今年の目標」なんてものを書かされる。
好きな漫才師の大木こだまさんではないが、本当に、「往生しまっせ」だ。

キリストも、なかなか大変そうなので、自分がなろうとは思わない・・・まあ、なれるはずがないというのは置いておいてね。
もっと一般的な聖者というのも、嫌悪感を感じるほどの馬鹿にしか見えないので、ちっともなりたくない。
つまり、やっぱり、なりたいものは何もないのだ。
一応、コンピュータープログラマーというかシステムエンジニアと呼ばれるものになったが、別に、「プログラマーになるぞ」とか思ってなったわけではない。
いや、思ったかもしれないが、それは単に、「自分が出来る範囲で、他の仕事よりマシそうに思えた」というのと、後は、なりゆきだった。
ひょっとしたら、プロスポーツ選手や芸能人、あるいは、政治家なんかでも、案外、そんな人は多いのではないかと思う。
大俳優の丹波哲郎さんなんて、「楽な仕事はないかな?」「そりゃ、俳優くらいだろう」「じゃあ、俳優だ」から俳優になったらしいし、プロレスラーのジャイアント馬場さんは、プロ野球でクビになった時、「そういえば、力道山にプロレスラーにならないかと言われたことがあったな」と思い出して、プロレス入りしたといったものらしい。

魔法使いとか、キリストや仏陀でも良いのだと思う。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』や、『マスターの教え』を読めば、実際のマスターの姿が分かるので、マスターになりたいと「具体的」に思える。
ちなみに、『ヒマラヤ聖者の生活探求』に登場する大師も、英語ではマスターだ。
それら全てまとめて、マスターと言える。
つまり、マスター像というのは、人それぞれだ。
なら、人間はマスターになれば良い。
ただ、世間では、それは黙っているように。
そして、しれっと、社長になるだの、売上○千万円達成だのと言っていれば良い。
そんな目標、気が向けば、ついでに達成すれば良いのである。









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