ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ヒマラヤ聖者の生活探求

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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人生というストーリーの設定方法

信じ切ることが出来れば、どんなことでも実現する。
文字通り、どんなことでもであり、宙に浮いたり、大きなダイヤモンドの塊を出現させることも出来る。
信じ切ることが出来れば。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』で、ヒマラヤの大師達は、手に持ったコップの水を凍らせ、流れの速い川の上を歩いて渡り、種を発芽させ見る見る成長させた。
また、瀕死の重傷の少年を直ちに完全な健康体にし、あばら家を消すと立派な新しい家を「にょきにょきと」出現させた。
新約聖書の福音書では、イエスが様々な奇跡を起こしているが、それらは全て、出来ると信じ切れば誰でも出来ることである。
もちろん、人間が信じなくても、高次の精神がそんなことを起こすこともある。
それは丁度、漫画の中で、人間が自力で空を飛ぶ時には、その者が飛べると信じるか、漫画の作者が意図すれば飛べるようにである。
人間世界の漫画では、登場人物が信じても空を飛べない場合があるかもしれないが、この世界と言う漫画では、そんなことはあり得ない。
この世界は漫画であり、映画やゲームと言っても良い。
あなたは、自分が存在する漫画の世界でお金持ちになりたいとする。
それなら、お金持ちになれると信じ切れば、強制的にお金持ちになる。

ただ、信じ切ることが難しく、信じ切ることが出来るかどうかは、作者にまかされている。
だが、事実を言えば、あなた自身が作者なのだ。
サルトルは気付いて言った。
「小説を読むことは、小説を書くことである」
ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』という小説があり、それは、『ネバー・エンディング・ストーリー』という映画にもなったが、ある本を読んでいた少年が、その本の中に入ってしまい、自分で物語を作るのである。
実は、我々はもう、そんな本の中に入ってしまっているのだ。

何かを信じて、ストーリーを書き換える方法はこうだ・・・と言ってもいろいろなやり方があるのかもしれないが、これは昔は、一般の人は出来なかった(させてもらえなかった)簡単な方法だ。
ルドルフ・シュタイナーが言う通り、昔は、福音書(新約聖書のイエスの物語部)を読むことは禁止されていた。
しかし、今はおおっぴらに読める。
まあ、自分の世界で禁止した人は別なのだが。
そこで、福音書を読み、イエス自身が「これは譬喩である(事実ではないたとえ話である)」と言っていない限り、全て事実として捉える。
想像の中でイエスとして振る舞い、イエスのようにすることを実感出来るまでになれば、もうイエスのようなことが出来る。
女性の場合は?
イエスが女性であっても全く問題ない・・・というより、私は、イエスが女性であったという世界を見たことがある。

荒唐無稽と思われる人は、冗談だと思っていただけば良い。確かに、そんな人にとっては、ただのおとぎ話であるが、それはそれで良いのかもしれない。








夢と現実を支配する簡単な練習方法

トップレベルの頭脳の持ち主達が、この世界も夢の世界も、コンピューターが作ったVR(仮想現実)世界であると断言するようになってきた。
もし、それが事実だとしても、そうであることは万全に隠されているが、時折、世界がVRであることがバレてしまうような出来事が起こる。それは、あなたも、一度や二度は見たことがあるかもしれない。
昨日も書いたが、私や、量子物理学者のフレッド・アラン・ウルフは、幼い時に、テレポーテーションを明確に体験している。無論、それは錯覚とか、記憶の改ざん現象であるかもしれないが、私の場合は、自分では憶えていないが、周囲の者が教えてくれたのである。

こんな話もある。
ある少女は、草を踏みつぶさずに、その上に乗れるという(M.M.ベインの『解脱の真理』か『神癒の原理』のいずれかにあったと思う)。
どのようにやるのかというと、ただ、「乗せて下さい」と思うのだそうだ。
そこらに、この世界というVR世界の設定を変更する鍵がありそうである。
なぜ、そんな「ほころび」とも言える、世界の設定を変える方法があるのかは分からないが、それが、この世界の製作者のミスではないと思えることがある。
つまり、意図的に、世界の設定を変更出来る者が大勢いる場合だ。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』では、流れの速い、広くて深い川の上を歩いて渡る人々の話があるが、その人々は、それを見て驚くアメリカの人達に対し、「一緒にやりませんか?あなたにも出来ますよ」と誘ってきたらしい(アメリカ人達は、恐ろしくて断った)。
私は、草とか水の上に乗ったことはないが、空中に浮き上がるということは普通にやっていたと思う。
たとえば、階段のとんでもない高い段に飛び上がったりであるが、よほど仲の良い子供にしか見せなかった。
しかし、走り高跳びで活用していて、特に運動が出来るわけでもない私が、走り高跳びで失敗したことは一度もなかった。ただ、他の子がついてこれなかったので、あまり高く飛んだことはない。
だが、浮き上がる方法を忘れたのは、中学1年生の時だ。
しかし、それは、わけあって意図的に封印したような気がし、やろうと思えば出来るのだと思う。

夢の中では、常に、世界の標準設定を変えることを試みると良い。
たとえば、空を飛ぶとか、サイコキネシス(念動力)を使うとかである。
夢の中でそういったことが自在になれば、この世界でも、かなりのことが出来、引き寄せなんかも楽に出来ると思う。
私は昨日、寝落ちした時に、半覚醒の状態で、現実世界を意識しつつ、夢を見ていることに気付いていた。
私は、剣を出そうとした。
すぐには出てこなかったが、やがて、日本刀のような剣が現れ、その柄(つか。ナイフでいうハンドル)を握っていた。
さて、ちゃんと切れるだろうかと思った。
目の前に白い壁があって、切っても問題なさそうなので、剣を突き立てて刃の方向に動かしたら、切るというより、壁が崩れた。
では・・・と思うと、目の前にベッドであったので、その中央あたりを横に切ったら、見事に切れた。
これは良いと思い、もっと大物を切りたくなった。
大きな窓があったので、それを開けると、右の方と左の方の、いずれも遠くに、レーザー光線の放射装置が見える。
これは良い。高出力レーザーを切るのかと思うとワクワクし、やる気十分だった。
見れば、持っている剣は、美しく輝いている。
その後の記憶がないが、何かとんでもないことをやらかしたのだろう。

普段から、思考を止める練習をしておけば、夢の中でこんなことが簡単に出来る。
そして、本当は、夢でも現実でも同じなのだ。
思考を止める練習とは、例えば、呼吸をゆっくりにして、呼吸の回数を減らすとか、非常に微かな呼吸をする。
あるいは、今に集中する。
あるいは、丁寧にマントラ(真言)や念仏を繰り返すなどの方法がある。








究極の力ある言葉

私は、合氣道家の藤平光一氏の著書『氣の威力』で知ったが、「真理の言葉」を唱えると、何らかの原理で心身の力が拡張され、ちょっとした奇跡のようなことも起こる。
藤平氏の著書には、極めて単純な真理の言葉「重みは下にある」によって、藤平氏流には「氣が出て」、精神や肉体の力が高まるが、それだけでなく、不思議なことも起こる。
そのような状態では、引き寄せの力も強まるはずであり、藤平氏も、引き寄せとは言わないながら、それを示唆するようなことも書かれていたと思う。
それで私は、昔から、では、最上の真理の言葉は何であろうかと考えてきた。
その言葉が真理であればあるほど、また、高度な真理であるほど、発揮する力は大きいと思われる。

しかし、「愛は世界を救う」なんて、CMでよく見るような言葉はどうかというと、愛の定義にもよるのだろうが、こんな言葉が使われる場面での雰囲気を見ていると、あまり真理の言葉とは思えないのである。特に、庶民が「愛」という場合、あるものを愛すると同時に別のものを憎むということを平気でやる。確か、愛とは、分け隔てをしないものであったはずだが・・・
「愛の反対は憎しみではなく無関心」とか言う人もいるが、これだって、何かを愛するがゆえに、愛することが出来ないもの、価値がないと思うものを無視するだけのことである。
いずれにせよ、普通の人が言う「愛」自体が真理でないのだから、「愛は永遠」だの「愛こそは全て」だのは、いかがわしかったり、ハリボテだったりする。

デカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」を究極の真理としたが、これの本来の言葉である「疑っているわれは確かに存在する」なら、かなり良いが、思おうが思うまいが「われ」は存在するという簡単な指摘に対しても、なかなか反論出来ない。
面白いのは、ルドルフ・シュタイナーが「われ思う、ゆえにわれなし。われ思わず、ゆえにわれあり」と言ったことで、私は「ああ、これは真理だ」と思ったが、一般的には禅問答のような言葉だろう。

そして、ニサルガダッタ・マハラジは「私は在る」こそ、最高の真理であり、即、これが最高のマントラだと言った。
本当にそうなら、この言葉を唱えれば、超人、マスター、大師になり、引き寄せも自在になるはずだ。
しかし、そうはならない。
この言葉の問題は、「私は在る」の「私」が、自我か真我(魂)かはっきりしないことだ。
どちらかというと、自我を指していると思われるが、自我はあったりなかったりするし、仏教の立場では、自我は本来、存在していないし、自我が消えることが目標である。

『ヒマラヤ聖者の生活探求』5巻で語られているが、イギリスの偉大な技術者で思想家と言えるF.L.ローソンは、
「神の他に何もない(There is nothing, but GOD)」
という言葉を真理とし、この言葉によって奇跡を起こした。
「神の他に何もない」は、「全ては神である」を言い換えた言葉と言えるが、確かに真理である。
しかし、自我にとって、これほどピンと来ない言葉もないし、自我が最も反発する言葉でもある。
その自我が黙るまで、粘り強く唱えれば、引き寄せ自在の超人になるのかもしれないが、いったい、どれだけの時間がかかるか分からない。

そこで、私なら、次の言葉を推したい。
「私は世界で唯一の考える主体である」
これは、ジョセフ・マーフィーの何かの本に載っていたのだと思う。
これに似た言葉と思ったのは、ラルフ・ウォルドー・エマーソンの『History(歴史)』というエッセイの中の、
「私はスフィア(天球)の所有者( I am owner of the sphere)」
だ。入江勇起男氏は、これを「私は世界の所有者」と訳しておられ、意味としてはその通りであると思う。
この「私」は、自我と言えば自我だが、エマーソンは自我と魂の融合をよく説いていたので、この「私」は、自我であり魂であると言え、自我も良い意味で満足するのであり、とても調和のとれた言葉だ。
それも含めた深い意味で、この言葉は「私は世界で唯一の考える主体である」と似ていると思う。
ただ、「私は世界の所有者」と言うのは、エマーソンのように精神が発達した者でないと、やはり抵抗がある。

そこで、私は、最高の真理の言葉は、やはり、
「私は世界で唯一の考える主体である」
と思う。
この言葉に馴染めば、あらゆる引き寄せを行う力になる。
他の引き寄せ法や鍛錬と共に、1日数度でも唱えれば、大きな力になると思う。
もちろん、この言葉だけ唱えるのも、非常に良いことと思う。








神か悪魔になる時代

神とか仏、あるいは、神や仏の名を出すと、即座に宗教とみなされる傾向が日本では強い。
しかし、私は、宗教とは何か全く知らないので、そんなふうに思うことはない。
昔の、神とか仏という字が面白い。
神は神(示+申)で、「示」は祭壇とも言われるが、そのまま見れば「申して示す」となる。
仏は佛(人+弗)で、「弗」は「不」であり、「人ではない」という意味だ。

神と仏は違ったものではなく(宗教では違うのかもしれないが)、人でないものは全部、神であり仏である。
ただ、神の声とはよく言うが、仏の声とはあまり言わないように、神は直観や閃きとして感じるのかもしれない。

で、「私は神だ」という言い方は不遜と思うかもしれないが、聖者達は我々に「事実だからそう言え」と言うのである。
とはいえ、インドでは、直接そう言わず、「私は彼だ」「私はそれだ」などと奥ゆかしく言うし、英語でも、言うとしても、「God AM I」のGODは略し、「AM I」と言うという話がある。
ところが、日本では、人と神は親しいし、人間は神の子孫だし、あらゆるものに神は宿る。
しかし、日本では、「仏」が「人でないもの」と言うのと同じで、人だけが神でない。
ただし、この人は自我のことで、自我がなければ神、あるいは、仏なのである。

それで、神になる・・・というか、元々、神なのだから、なるもないのだが、神を実現する、神に復帰する最上の方法がある。それは呼吸と言霊を組み合わせたものだ。
何度か書いたことはあるが、再度述べる。
それは、
(1)息を静かに吐きながら「私はこれではない」と心で唱える。
(2)息を静かに吸いながら「私は誰か?」と心で唱える。
(3)息を吸いも吐きもせず「私は神である」と心で唱える。
である。
行えば行うほど、自分が神であることを思い出す絶妙な方法だ。
当然ながら超能力とか創造の力が高まるが、それに囚われて困った方向に行く者が多いらしく、それもあって、あまり教えられることがなかった。
しかし、今は、「おかしな方向に行かないようにやれ」という注意だけ与えて教えるしかない。
どういうことかというと、それだけ、人が、人であり過ぎる・・・つまり、自我が強くなり過ぎて、もう、慎重な方法では救えないからだ。
だから、地獄に行きたい者は行ってしまえとしか言えない。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』を読めば出て来るが、ある時期を過ぎれば、手のひらの上に金貨を出現させたり、さらに進めば、家を出現させることも出来るようである。
ところが、その力と自我との折り合いを巧妙につけてしまうものが悪魔というものかもしれない。
だから、悪魔はなかなか厄介なのである。

いきなり「私は神である」と言っても、良い意味でも悪い意味でも心が反発し、何も起こらない場合が圧倒的だ。
しかし、上に述べたようにやれば、心の抵抗をうまく回避出来、やればやるほど自我が消えていく。
問題は、自我が一気に勢力を盛り返すことだが、それは割とあるので、注意が必要だ。だが、さきほど述べた通り「注意しながらやるしかない」のである。
『スター・ウォーズ』で、ヨーダが若きルークに「フォース(力)の暗黒面に飲み込まれるな」と言ったのも、その意味があるのかなあと思う。
だが、これからの世の中は、神か悪魔にでもならないと悲惨だ。
そんな世界になるのである。








物質生成装置

人類は、昔から、「安心」「優越感」「満足」「自己重要感」「幸福」等を得るために、「集める」という行為に精を出した。
集めたものは、
・人気
・奴隷(兵士、臣下、国民と呼ばれることもある)
・お金
・エネルギー
・米(日本独自)
・牛等の家畜
・気、プラーナ
・魔力
・愛、忠誠
などであった。
自分が価値あると思い込んだものを、多く集めれば集めるほど良いと思ったのである。

ところがだ。
数千年の昔から、優れた想像力を持つ人間は、なぜか同じようなことを考えていた。
時代によって、いろいろに表現されるのだが、割と近年では、アメリカのSF作家エドモンド・ハミルトンが、『キャプテン・フューチャー』(1940~1951)の中に書いているものだ。
ハミルトンは天才で、10歳で高校に、14歳で名門ウェストミンスター・カレッジの物理学科に入学している(17歳で放校になったが)。
彼は、日本では大正時代という時に、今日でいうシミュレーション仮説に近いことを考えてたフシがある。
シミュレーション仮説とは、この世界はコンピューターが作った仮想世界であるというものだが、ハミルトンの時代はコンピューターが無かったので、この世界は、科学者が実験室で作って運営しているミニチュアの宇宙と考えたのだ。
そのハミルトンが『キャプテン・フューチャー』で、宇宙のどこかにある「物質生成装置」というものを書いている。あらゆるものが、この物質生成装置から出現するが、何が出現するかは、人間の思考のままだ。
おそらく、「物質生成装置」で出現するのは、物質そのものというよりは、エネルギーとか霊的物質といったもので、人間が想像したものがエネルギー体になり、それが何等かの作用で物質化するのだろう。
だから、宇宙の彼方に出かけ、物質生成装置(エネルギー生成装置と言うべきかもしれない)を手に入れれば、思考するだけでいかなるものでも得られる。
日本のおとぎ話で言えば、「打ち出の小槌」が物質生成装置で、今日では「思考は現実化する」という考え方が広く普及している。

だが、宇宙の彼方などに行かなくても、実は、脳が物質生成装置である。
これは、斎藤一人さん流に言えば「信じられない人は信じなくていいから」である。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』の中に、考えるだけで家(新しく快適な家)を出現させる少女の話があるが、本来は誰でもそんなことが出来る。
もちろん、精神レベルの低い人間が、みだりにそんなことをしない(出来ない)ような仕組みにはなっているのだろうが。
しかし、物質生成装置としての脳を動かすのに必要なことは、コマンド(指令)を与えるだけである。
私も、モノというのではないが、現象として、脳にいろんなものを作ってもらったことがある(何度も書いた、天体観測やテレビ放送に関係するものだ)。
良いコマンドであれば、即座に、希望したモノや現象が出現する。
そうでなくても、いろいろな相互作用を起こしながら、結果、希望のものが現れるのである。
物質生成装置の働きを制限するリミッターを外す方法は、思考空間を広げる・・・というよりは、思考空間を制限するものを外すことだ。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』の隊員達も、そうやって、物質生成装置としての脳を使えるようになったのである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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