ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
あなたをSE、プログラマー、あるいは、超能力者にするブログ。ひきこもりも歓迎。

ヒマラヤ聖者の生活探求

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

何にでもなれる方法

皆、なりたいものがいろいろあり、その中には、なるのが非常に難しいものもあるだろう。
しかし、大抵は、ダライ・ラマになるよりは易しいに違いない。
そもそも、ダライ・ラマはずっと同じ魂の持ち主でなければならず、ダライ・ラマが亡くなると、その魂が転生した子供を見つけてダライ・ラマにするのだと言われている。
だが、物理学者で武術家の保江邦夫さんの著書『祈りが護る國 アラヒトガミの霊力をふたたび』の15ページを見ると、現ダライ・ラマのダライ・ラマ14世自身が、事実上、それを否定し、ダライ・ラマになるには、条件を満たせばよく、条件を満たせば、誰でも良いのだというふうに読み取れる。
その条件とは、
「皆が、その子がダライ・ラマの魂を受け継いだと信じ、その子がダライ・ラマの生活・生き方を始める」
である。
ダライ・ラマなら、確かに、「皆が信じる」という部分が必要であるが、あくまで「信じる」だけで、本当かどうかは、どうでも良いのである。
また、保江さんは、それは事実上天皇家でなければ無理ではあるが、天皇もそれと同じで、現人神として育てられることが大切なのであると書かれ、やはり、本当は誰でも良いのだというふうに読める。
そして、私は全くそう思う。
ダライ・ラマや天皇というのは、あまりに特別で、我々がなることはないが、本質的なことを言うなら、なれない訳ではないのである。
いかなるものになるにも、必要なことは、生き方だけである。それは、態度、振る舞いと言って良いと思う。
インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは、師に「あなたは至高の実在である」と言われ、その言葉を覚えていたので、修行は何もしなかったが数年で悟りを開いた。
これも、その言葉を覚えていることで、至高の実在らしい生き方をした・・・そういう態度をし、振る舞ったのである。
そして、マハラジ自身がそう言ったらしいのだ。
「時空(時間と空間)を超えた存在として振る舞え」
と。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』の5巻で、著者のベアード.T.スポールディングは、4歳の時、大学予備校で教師に見せられたアルファベットを「解らない」と言ったら、教師に、「そんな態度ではいけない。チャンと解っているという態度をしなさい」と言われた。
スポールディングは、それに従ったので、14歳で名門大学に入り、物理学者として高い業績を収めたという。
優れた指導者は、皆、同じことを言っているように思う。
即ち、「態度は事実より重要」だと。
少し前の本だが、ひろさちやさんの『空海入門』が、それを主題として書かれている。
『徒然草』にあるように、狂人として振る舞えば、即ち、狂人だ。
しかし、同じように、仏陀の真似をすれば仏陀なのである。
仏陀らしく歩き、仏陀らしく話し、仏陀らしくメシを食えば、それで仏陀である。
空海は実に、仏陀になりきった人というだけなのである。








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アウトサイダーの中でも落ちこぼれなら

社会でうまくやっていくには、やはり学歴は力になる。
特にスタート時点で学歴は役に立つが、何事も最初は肝心だ。
だから、不況になっても教育産業は衰えないと言われてきた(最近は怪しくなりつつあるが)。
だが、学歴があろうが、実際に能力が高かろうが、容姿に恵まれていようが、一番大切なものは、他人とうまくやっていく能力なのだが、このスキルをほとんど持っていない者が多くなった。
元来で言えば、本当に頭が良くてIQが高い人間は、他人と仲良くすることは難しくないはずだが、そんな恵まれた人間に、他人を嫌悪する者が多くなっている。
これは、本当は不思議なことで、頭が良ければ、他人と仲良くすることのメリット、コスパの高さは明確に理解出来るはずなのに、どうしても他人が嫌いなのである。

一方、学歴がなく、頭も良いとは言えないのに他人が嫌いとなると、目も当てられない。
コリン・ウィルソンが23歳の時に書いた世界的ベストセラー『アウトサイダー』に登場する(主に架空の人物なのだが)アウトサイダー達・・・社会の裏側に潜む、忌み嫌われる異常な人間達・・・見かけはそれほど違わなくても、普通の人間の仲間と言えない人達は、アウトサイダーの代表的な存在で、社会では日陰者である場合が多い。
今年(2019年)4月に31歳の若さで亡くなったミュージシャンのWOWAKAさんは、大学は東大だから学歴があって頭も少なくともそこそこは良いのだろうが、作る歌といい、雰囲気といい、まさにアウトサイダーだ。無論、優秀なアウトサイダーだって少なくはない。
まあ、彼は東大出身を売りものにしたことはなかったように思うし、そんなことを知らずにファンをやってた人も多いはずだ。
彼のほとんど最後のボカロ曲だったかもしれないが、初音ミクさんが歌う『アンノウン・マザーグース』の中の「ガラクタばかり投げつけられてきたその背中」という言葉は、アウトサイダーでなければ書けそうにない詩だと感じるのである。
私が好きな『アンノウン・マザーグース』の動画は以下のものだ。公式のものではないが、ミクさんが美しい。
【MMD】YYB式初音ミク//Unknown Mother-Goose/アンノウン・マザーグース -YouTube-

WOWAKAさんのように、才能があって優秀な人は、アウトサイダーとはいえ、本来は私の興味の対象外で、本当に能力もなければ、人間関係が悲惨なまでに苦手で、社会の底辺で苦しむ人達が逆転出来るという夢物語が私は好きである。
まあ、実際はほとんどないが、その可能性を感じさせる小説が、ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』(「少女」を女と訳した本もある)で、超底辺の歳も行ってしまった26人のどうしようもない男達が、ターニャという名の、可愛いが平凡な(性質はやや劣悪かもしれない)16歳の少女を崇めることで、なぜか人間性や能力を向上させる。
コリン・ウィルソンも、この作品を『至高体験』で取り上げ、何か解説していた(解説内容が難しくて解らなかったが)。
ウィルソンは、『至高体験』で同時に、ロオマン・ガリー(『至高体験』の訳書ではロマン・ゲイリ)の『天国の根っこ』(『自由の大地』のタイトルの方が有名と思う)で、堕落したフランス兵達が、空想の少女を想い描くことで、見る見る、騎士道精神とでも言えるものを取り戻す様子も引用していた。
ウィルソンも「崇める」ことの効果は認めていたようだ。
仏教の念仏や、ヒンズー教のジャパ(神の名を称名すること)は、神仏を真摯に崇めることであり、効果も非常に大きいと思える。
江戸末期から唱和初期にかけて、妙好人という念仏を唱えることで高度な人間性を示した人達は、自分が愚民であることを表明し、自分でも認識していたのだろうが、実際は能力的にも高く向上していたのだと思う。
今の人だって、念仏やジャパを素直に出来れば良いのだが、実際のところ、この超情報化時代に、それには難があると認めるしかない。
それなら、どう考えても実際は超優秀だったラマナ・マハルシが薦めたように「私」をマントラとして唱えたり、原子物理学の優秀な研究者であったベアード.T.スポールディングの『ヒマラヤ聖者の生活探求』に書かれてあるように「神」という言葉をよく使うと良いと思われるところがあるのである。









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ひそやかにかすれる呪文

幼い時、両親や祖父や祖母、あるいは、他の誰かが、仏壇や神棚などに向かって、真摯に念仏や唱え言葉や神の名を称名するのを見ていた人は幸せかもしれない。
そうであれば、その唱えられていた名や言葉に神聖な感情を持て、それを自分も唱えることで、自然に高次元に導かれるからだ。
そうでなくても、お葬式の時に、念仏を唱えていたお坊さんの姿に、とても好ましい印象を持ち、それで念仏に対する神聖な感情を持っている場合も良いと思う。
法然や親鸞が念仏を教えた人々は法然や親鸞の印象によって、あるいは、法然、親鸞の代わりに誰かに教えられた場合は、その教えてくれた人の印象で、念仏に対する感情が決まるという部分が大きいだろう。
キリスト教徒でもない人が「アーメン」と唱えても、どこか違和感があるかもしれないし、育った家の中で誰も念仏を唱えていなかったし、お葬式で見た念仏を唱えるお坊様に、どうもあまり良い印象を持てなかった場合は、念仏に対する印象も、あまり良くないかもしれない。

もし、幸いに、「南無阿弥陀仏」でも「南無妙法蓮華経」でも、あるいは、「天照大神」や「天之御中主神(アメノミナカヌシ)」でも、敬虔に感じる言葉があれば、それを唱えれば、確実に高次の力に加護される。
それは、宗教的な意味、心理学的な意味、あるいは、量子物理学的な意味でも、正しいことであると思う。
では、そんな言葉を持っていない場合はどうだろう?
そんな時は、自分で言葉を探し、選び、決定することになるが、幼い時に持った良い印象のようなものがない場合、どの言葉もなかなかしっくりせず、あれにしたり、これにしたりすることになりかねない。
複数の言葉でもいいやと思っていたら、その言葉が増え続けてしまう人もよくいる。

だが、『ヒマラヤ聖者の生活探求』の中で、1900年代前半のことだと思うが、現代に現れたイエス・キリストは「神」という言葉(英語の原書の中ではGOD)を使うよう言う。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』第5巻で、著者のベアード.スポールディングも、「神」という言葉の威力について触れている。
ただ、この言葉を呪文にしてはならず、よって、何度も唱えてはならず、1回で良いと言ったが、その意味は、しかるべき時に、真面目に唱えるという意味かと思う。
そして、声に出して唱えても、心の中で唱えても、効果は同じであると言う。

どの言葉でも構わないが、即座に強い効果を現す私のやり方がある。
なかなか上手く説明出来ないので、最近はあまり書かないのだが、それは、「心の中で、とても小さな声で唱えること」だ。
そもそも、聴こえない心の中の声や音の大きさなんてピンと来ないかもしれないが、全く無理でもないと思う。
「微かな声」「微妙な声」という言い方が良いかもしれない。
だが、それが心の中の声となると、どうだろう・・・
その場合、こんなふうにやっても良い。
美しい少女が、声にならない微かな声でささやくのを想像してみれば良い。
それが、心の微かな声である。
それとも、良ければ、YMO(イエローマジックオーケストラ)、あるいは、初音ミクさんが歌う『LOTUS LOVE』を聴くと良い。

夢で見たくちもと
ひそやかにかずれる呪文
I LOVE YOU
~『LOTUS LOVE』(作詞・作曲:細野晴臣)より~

私は、ミクさんが歌うのを聴いて、心の微かな声を知った。
そうやって唱える言葉には、いつも奇跡のような力がある。
だから、間違ったことに使う訳にはいかないが、即座に力が現れ、この上ない安心を与えてくれるのである。









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最も高貴な心

人間にとって、最も高貴な精神は、自分を超える者を敬うことであると思われる。
それは、一般的には、職業、武術、芸事の師に対する場合、あるいは、会ったこともないが崇拝する人物に対する場合などが多い。
ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』のように、普通の女の子を女神のような存在と見なして崇めることもある。
あるいは、ロオマン・ガリーの『自由の大地』のように、空想の少女を崇めたり、初音ミクさんのようなバーチャルな存在を崇めることもあるだろう。
だが、どの場合も、人間の精神の高度な部分の現われであり、それは良い影響を及ぼし、真摯さや熱心さによって、極めて優れた、さらには、不思議な効果を現す。
そして、自分を超える者を敬うことの中でも、最高のものが、念仏や、神の名を唱えるジャパ、あるいは、ナーマスマラナと呼ばれるものだ。
だから、念仏やジャパに良い効果がないはずがない。
キリスト教の「キリエ・エレイソン」や「ザ・ジーザス・プレイヤー」も同じようなものだと思う。

ところで、変わった・・・と言うのもおかしいが、こんなやり方もある。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』の中で、イエス・キリストは「神」という言葉を使うことを奨めていて、これさえ覚えていれば、他は忘れてよろしいとまで言った。
ただ、「神」という言葉を公式にしてはならないと言い、著者のベアード.T.スポールディングも、「神」という言葉の至高の効果は認めながら、この言葉を呪文にしてはならないと言う。
では、どうすれば良いかというと、心を込めて、あるいは、集中を持って一度だけ唱えるのである。それは、声に出しても、心で唱えても全く同じである。
これは書かれていなかったが、起床や就寝の時、あるいは、疲労を感じた時、あるいは、くつろいだ時に、そうやってしっかり唱えると、優れた効果があるだろう。
親鸞の念仏も、これに近いものだと思う。
また、やはり『ヒマラヤ聖者の生活探求』にあったが、イギリスのL.H.ロースンがやったように、「神の他に何もない」という言葉として唱えても良い。常にこの言葉を使うロースンが、著者の目の前で奇跡を起こす様子が描かれていた。

ラマナ・マハルシは、最高のマントラ(真言)であり、また、真の神の名は「私」であると言う。
彼の有名な言葉「私は誰か?」に関しては、彼はこれを呪文にしてはいけないと言ったが、「私」に関しては、常に唱えよとも教えている。
私の中にある真の私が、私を超える者・・・神なのである。

庶民が、無知・・・という訳ではないが、情報が少なかった時代には、法然や親鸞のような人が、「南無阿弥陀仏」と唱えよと教え、あるいは、日蓮のように「南無妙法蓮華経」と唱えよと教えるのは良いことだったが、今の時代は選択肢が多く、あっちにいき、こっちにおきしている間に時間が過ぎ、一生が過ぎてしまうかもしれない。
だが、どれも、「自分を超える存在を敬う」という、同じことなのである。
あまり迷わず、自分の好きなやり方を選べば良い。
それをやれば、絶対に間違いはないだろう。









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真の人生目標

ナチス強制収容所に送られながら奇跡的に生還したユダヤ人精神科医のヴィクトール・フランクルは、著書『夜と霧』で、「人間は、まともな人間とまともでない人間の2種類しかない」と述べていることは前にも書いたが、私の感覚では、世の中には、まともでない人間がひどく多い。
その中で、自分がまともな人間になることが、人生の最大の目標になった。
では、「まともな人間」とは何だろう?

「まともな人間」と「小善人」は、表面的には似ているが、根本的に違う。
共に、善いことをし、悪いことをしないよう心掛けてはいるのだが、小善人の目的は唯1つ、「保身」である。
一方、まともな人間が、なぜ善いことをし、悪いことをしないのかというと、「モラル(道徳。倫理)」のためである。
もちろん、まともな人間のモラルとは、小善人のような、保身のための、見せ掛けのモラルではない。

「まともな人間とは何か?」「モラルとは何か?」を理屈で言うのは難しいに違いない。
だが、フランクルが『夜と霧』で報告した、ナチス強制収容所という極限的に異常な場所で、被収容者側にも、ナチス側にもいた、良心を持ち続けた人達が「まともな人間」と言って間違いないと思う。
フランクル自身がまともな人間であることは『夜と霧』からも読み取れるが、今でも読まれている、旧版『夜と霧』の翻訳者、 霜山徳爾氏が、新版(池田香代子訳)で「『夜と霧』と私ーーー旧版訳者のことば」として述べていたことから、それを強く感じる。
こんな話である。
フランクルを最初に日本に招待したのは、この霜山氏であったが、霜山氏は貧しく、羽田空港にタクシーを手配出来ず、これ以上古いルノーはないという彼のルノーの助手席にフランクルを押し込んでホテルに向かう途中、霜山氏は、ルノーが故障しないよう祈り続けたと言う。
そして、霜山氏がフランクルに、車が狭くて申し訳ないと言うと、フランクルは真顔で、これだけのスペースがあれば充分だと答えた。
私は、これこそがまともな人間なのだと思った。
フランクルも生涯貧しかった。高齢になって、やっと、中古の小型車を買うことが出来たらしい。
極めて優秀な精神科医であり、世界的ベストセラーを数多く書き、世界中から招待されて講演をしていたに関わらずである。
私は、これに関し、世界的童話作家のアンデルセンが、デンマーク国王から支給されるわずかな年金で旅をしている中、切羽詰った事情から、名前は売れていたアンデルセンに資金援助を求めた人に対し、自分には人を援助するだけの資産がないことを申し訳なく思いながら話したことを思い出す。
また、真偽のほどは確認しようがないが、『ヒマラヤ聖者の生活探求』の著者ベアード.T.スポールディングは、援助を求める人に対し、即座に、持っているもの全てを与えたという話も想起する。
そして、何の根拠もないが、まともな人間は、それでも最終的には困ることはない。
ひょっとしたら、そのことは、量子物理学で科学的に説明出来るのかもしれないと思う。
既にこの世にはいないが、フランクルに友人と呼んでもらえるようになれたら、この上ない幸福であると思う。









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・ソフトウェア開発技術者
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