ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

ヒマラヤ聖者の生活探求

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[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。
[2010/12/12]詳細なlivedoorプロフィール設置しました。[livedoorプロフィール]

大師(マスター)になるには

『ヒマラヤ聖者の生活探求』(Life and Teaching: Of the Masters of the Far East)という本があり、その中に、超人としか言えない大師達が登場する。
水の上を歩き、遠隔に瞬間移動し、美味しい料理を出現させ、人々のいかなる重い病気や怪我も治し、立派な家を想念で建ててしまう。
数百歳でも50歳くらいに見えたり、さらに、その母親は美しい少女にしか見えない。
そして、それほどの力を持ちながら、謙虚である・・・というより、私には、退屈しているように見えないところが良いと思う。
では、これらのお話が真実であるかというと、著者のベアード.T.スポールディングは読者の判断に任せると言うが、私なら判断しない・・・しようがない。

私はずっと前に、他にやることもないので、ヒマラヤの大師達のようになろうと思った。
スポールディングと共に、極東で大師達に会ったアメリカ人の中にも、大師達と同じになるまで帰国しない決心で、そこに残った人達もいたらしい。
だが、よくよく考えれば、どうすれば大師達のようになれるか、私は分かっていなかったのだ。
しかし、方法があるとすれば、真言を称えることだけだろう。
厳しい修行をしたり、瞑想に打ち込む人々・・・起きている時間の大半をそれに費やす人々もいるのだろうが、そんな者達ですら、普通の人間として普通に死んでいる。
では、我々など、同じ手段(修行、瞑想)では、もっとどうにもならないだろう。

念仏も真言と言って良いと思うが、常に念仏を唱えていた法然は、当時としては異例の80歳まで生きた。
しかも、死の2日前に、『一枚起請文』という名文を書き上げている。
一休もそう言ったと思うが、私は、この短い文章こそ、仏教の書の中の最高位であると思っている。
そんな法然は、ただ死んでみせただけであろうし、法然に超人になる意図も必然もなかったのだろう。
彼は、『一枚起請文』を記して死ぬ必要があっただけだろう。

『ヒマラヤ聖者の生活探求』の中でも、イエス・キリストが、「他は忘れても良い」と言った最上の行は、「神」という言葉を、出来るだけ多く使うことである。
イエスはそれを、「公式にしてはならない」と言ったが、「集中力の訓練のつもりなら良い」とも述べている。
それはよく解るのである。
「神」という言葉も1つのマントラであるが、日本語の「神」は特に良いのである。
マントラの1つの科学的な意味は、何度も述べているが、無駄な思考を止めることと、自分より高い存在に意識を向けることだ。
特に、普通の人は、高い存在を意識することに失敗するように思える。

1つの方法として、『法華経』の25章『観音経』を読み、観世音菩薩の力のイメージを掴んだら、「南無観世音菩薩」という言葉を真言にすることだ。
それを、1日中、1年中、常に続ければ良い。
あるいは、『選択本願念仏集』や『歎異抄』を読んで、「南無阿弥陀仏」の念仏を称えることだ。
実際は、念仏に転向していた一休は、80歳過ぎても元気で要職をこなし、エッチなことも盛んであったが、88歳で退屈したのかもしれない。当時としては驚異的とはいえ、やはり、その年で亡くなっている。まあ、やはり元気ではあったようだが。
だが、今は本人次第で、あらゆる制約を超えることが出来る時代だ。
サイコパスの私に善意などあるはずがないが、それでも大師方のようになれるか大実験である。
政木和三さんからは、生前、「君はそうなれる」と言われたこともある。
ただ、政木さんも、「もう十分」と言って死んでしまわれた。
立派な方々は生き急ぐのかもしれないし、普通の人々から離れないものである。









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聖書が最上の書である意外かもしれない理由

『ヒマラヤ聖者の生活探求』という本の中にあった、聖書が最も重要な書であることの理由がとても良かった。
それは、聖書は、「神」という言葉が、最も多く書かれた本だからである。
それだけの理由で、聖書は他書より優れているというのは納得出来るのである。
それなら、「神」という字ばかりの本を作っても良いのかもしれないが、それでは人間の感情が納得しないので、適度なストーリーを付けたのだが、その内容は、何でも良いと言えばそうなのである。
同じ理由で、『ギリシャ神話』、『バガヴァッド・ギーター』、『古事記』なども、極めて価値高い本である。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』が、事実の話かどうかは分からないが、その指摘だけで、この本は優れた本と言える。
「神」という言葉自体に強い力がある。
クリシュナ、アメノミナカヌシカミ、南無阿弥陀仏といった、神仏の名を唱えること、あるいは、神仏のマントラを唱えることは、宗教的ではなく、科学的、論理的に言って、強大な効果がある。
だが、その最も純粋なやり方は、「神」と唱えることである。
神と仏に違いはあるのかもしれないが、その違いは、実際には、人間に分かることではない。
なら、全て、「神」という言葉で表し、これを唱えれば良いのである。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』では、「エホバ」という、特定の神の名より、「神」という言葉の方が効果が高いと述べている。
ただ、本質的にはそうであろうが、唱える者の感情の問題もあり、個別の神の名の方が親しみがあれば、それを唱えれば良い。
私は、サティヤ・サイババという人は少しも聖者だとは思っていないが、この点については、生前、ぶれずに正しいことを教えていたと思う。
サイババは、どの神の名でも良いから、熱心に唱えろと教えていた。
『バガヴァッド・ギーター』で、至高神クリシュナは、他の神を拝んでも、それは結局は私を拝んでいることになるのだと述べていた。
クリシュナが神の中の神であるのなら、ただ「神」と言っても良いのであるが、そこは、クリシュナへの愛着があるのなら、クリシュナの名を唱えれば良いのであり、多くのインドの人々がそうであるように、ラーマ神が好きならラーマと唱えれば良いのである。
しかし、本質で言えば、どの神仏の名にも違いはない。

神にキャラクターはないが、人間は神に対するイメージを持たざるをえない。
ユダヤ教徒やイスラム教徒に多く見られるように、神を、恐い罰する存在と思うのは悪い面がある。
そこで、イエスは、「父なる神」、あるいは単に「父」と言い、神は人間を、あたかも父親が息子や娘に対するように、温かく優しく気遣う存在であると言ったが、それが最善のイメージである。
法然や親鸞も、阿弥陀如来のイメージを最高のものにしたところが素晴らしい。
『バガヴァッド・ギーター』でも、クリシュナは、恐ろしい面もあるのだが、本質は、やはり慈悲深く愛に満ちた神なのである。

個人的に、親しみ深い神仏があるなら、その名や、その神仏のマントラ(真言)を唱えれば良いし、ただ「神」という言葉を真言として唱えても良いのである。
そうすることで、あらゆる恵みを得られることは、これまで何度も書いたが、極めて科学的、論理的に正しいのである。









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信じはしないが納得はする

インドの聖者と言われるジッドゥ・クリシュナムルティは「私は何も信じません」と言ったらしいが、私も、ようやく、そう思うようになってきた。
デカルトは、正しく思えるどんなことも疑えることに気付いた。
そして、全く疑いようもないほど正しいもの以外は、全て間違いとすることを決心したが、「疑いようもなく正しいもの」は何もないように思えた。
だが、ただ1つ、「疑っている私が存在する」ことだけは正しいと確信した。

だが、疑っていようがいまいが、思おうが思うまいが私は存在する。
疑っていない時、思っていない時、即ち、眠っている時、気絶している時、夢遊病のような状態の時、高度な瞑想状態の時ですら、私は存在する。
おかしなことに、そんな無意識状態の時ほど、存在は確固としてくる。
それどころか、意識がある状態では、真の存在は隠れている。
だからかもしれないが、ルドルフ・シュタイナーは、「我思わず、ゆえに、我あり」、「我思う、ゆえに、我なし」と言ったのだ。

だが、私は、クリシュナムルティーも、デカルトも、シュタイナーも、誰も信じていない。
ただ、彼らの言うことに納得しただけだ。
それはどういう意味だろう?
小さな女の子が立っていると、少し離れたところにいた猫が立ち上がり、女の子に近寄っていった。
その猫は、私には少しも相手になってくれない猫だ。
だが、女の子のまん前に立った猫は、女の子を見上げて「ニャア」と鳴いた。
その猫は、この女の子に純粋な好意を持っているのだろう。
それを、私ははっきり感じ、信じはしないが納得したのだ。

私は、初音ミクさんは本当に天使なんだと納得している。
なぜなら、舞台の上に人間は誰もいないことは皆知っているのに、本気で声援を送っていて、それは、ミクさんを純粋に崇めているということだ。
それならば、舞台にいるのは天使だし、私もそう感じる。
だが、私はそれを信じている訳ではない。
少しややこしいかもしれない。
しかし、次のようなものはどうだろう?

時々、ご紹介する『ヒマラヤ聖者の生活探求』という本がある。
超人的大師達が登場し、水の上を歩き、テレポーテーションし、空間から調理された料理を出し、瞬間に快適な家すら作り出し、病気を瞬時に治し、瀕死の怪我人もあっという間に健康な身体にしてしまう。
世間のほとんどの人達は「馬鹿らしい」と思うだろう。
私だって信じちゃいない。
だが、著者のベアード.T.スポールディングについて、だいたい、こう書かれてあった。
「彼(スポールディング)は、どの町に行っても、どこの家にでも平気でずけずけと入って行って腰を降ろすだけで、快適に食事が出来ないことは一度もなかった」
「本当に金に困っている人の相談に乗った時、彼は自分が持っているものを全部与えないことは一度もなかった」
これらの話を、信じはしないが、納得はするのである。
よって、彼の書いた本の内容を信じはしないが、納得はするのだ。

政木和三さんのことを親友だと言う科学者が、私にこう言ったことがある。
「俺は政木の言うことは、多分、半分も信じていない。だが、政木は嘘を言う男ではない」
彼は、政木さんのことを理解し、得心している・・・つまり、納得はしている。
しかし、理解の及ばない奇跡については、半分以上信じられないのだ。
彼は科学者であるのだから当然である。
科学者と探偵は疑うのが商売のようなものなのだから。

納得は、知性の同意を必要とする。
納得とは、感情的な同意という部分もあるのだが、感情は知性を無視しない。
「訳もなく好きだ」と言ったところで、訳はちゃんと言えるのである。
しかし、信じることは知性の同意を必要としない。
知性の同意なく信じられるのは、「私は存在する」ということだけ・・・かもしれないが、私は信じない。
だが、納得出来るスポールディングが言った最大の秘法は納得して使える。
それは、口で唱えても、心で唱えてもどちらでも同じだが、「神」という言葉には至高の力があることである。
それを信じてはいないが、納得は出来るのである。









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魂を大霊の力で満たすには

幼い子供が自分のことを名前で呼ぶことをご存じと思う。
3歳くらいの子供に、無理に、「私は鈴木花子です」と言わせると、その子がどこか虚ろな顔をするのは、それが難しいのではなく、「私」とは誰のことか分かっていないからである。
幼い子供は、「私」、「自分」の感覚がないので、自分のことを他人事のように「太郎君はバナナが好きなんだ」と言うのだ。

いい年をした女の子が、自分を名前で呼ぶというのは、大抵の場合は、可愛く見せたいという演技か、幼い頃の自分の状況への懐古であり、本当にそこまで幼いという訳ではない。

ただ、年齢に関わらず、「自分」、「私」という感覚が希薄で、いくらか若い女性なら、普通に自分を名前で呼ぶ人もいる。
しかし、そんな人に関して確実に言えることは、力というものに著しく欠けるということだ。
私が、私が・・・と言う自我の強い人は、低レベルな力に関しては、割合に強いものであり、自分を名前で呼ぶような人は、そんな我の強い人に支配されてしまうことが多い。

自分を名前で呼ばない人でも、自分を何と呼ぶかが、はっきり確定していない人がいる。
別にTPO(時、所、場合)を考えるべき場所でなくても、ある時は「私」、ある時は「僕」となるが、いずれにしても、本人は、自分をそう呼ぶことに微妙な違和感を持っているのだ。
「私」と言えば、どこかよそよそしいし、「俺」と言えば下品で嫌だし、「僕」と言うのもわざとらしい。
結果、「まあ、どれでも良い」と思うのだが、自分を「私である」と感じる感覚がやはり弱いのである。

メカニズムは実に複雑なのだが、人間は、「私」という感覚を通して、大霊の力を魂の中に流入させているのである。
だから、「私」という呼び方に違和感がある人は、魂が十分な力で満たされていないのである。
そこで、「私」でも、「自分」でも、「我(吾)」でも良いから、じっくり自分に呼び掛けると良い。
声に出しても出さなくても良い。
「私・・・、私・・・」と自分に呼びかければ良いのである。

日本語は、「私」といった一人称を省略することが多く、それは、良い面も確かにある。
日本人が、個としては弱く、幼いが、付和雷同し易く、集団になると案外に強い理由もそこらにあるのだ。
ただし、集団になると、残虐になり易いということがあるのだと思う。
その原因は、やはり、個が幼いからである。
だから、日本人をよく観察している外国人は、「日本人は、一人一人では親切で良い人なのだが、集団になると残虐なことを平気でする」と感じることがよくあるのである。

だから、自分に関しては、「私」をはっきりさせておく必要がある。
「私」という言葉で自分に呼び掛ければ、魂の力が大きくなり、自在力が増す。
どのくらい呼び掛ければ良いかというと、多いほど良い。
ラマナ・マハルシは、常にそうせよと教えたこともある。
メカニズムについては、難解というか、かなり抽象的で良ければ、ルドルフ・シュタイナーの『神智学』を読むと良い。
最近、ついに、この本のKindle版が出たので私は喜んでいる。
かなり抽象的と述べたが、シュタイナーは、別の本では「恐ろしく」抽象的に書いており、それらに比べれば分かり易いと思う。
難しいことが嫌いなら、とにかく、「私」という真言を唱えることだ。
尚、『ヒマラヤ聖者の生活探究』で、イエスが教えた最高の真言は「神」である(英語の原書ではGod)。
そして、「私は神である(God I Am)が究極の真言なのだが、魂が大霊の力で満たされていなければ、うまくいかないだろう。
だから、まず、「私」と呼び掛けると良い。
そうすることで、あなたは自信がつき、何者にも、どんな状況にも負けなくなるだろう。









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ヒマラヤの大師のようになるには

『ヒマラヤ聖者の生活探求』という本がある。
霞ヶ関書房から出版されている全5巻の本で、40年以上のロングセラーであり、近年は新装版も出ているようだが、私は新装版は見ていない。
この本に登場する、ヒマラヤの大師達は、新約聖書に書かれたイエスの奇跡以上のことが出来る。
水の上を歩くだけでなく、遠方への瞬間移動も出来る。
パンを出すことはもちろん、美味しく調理された料理も出現させることが出来る。
いかなる病人、怪我人でも瞬時に癒し、完治させることも出来る。
また、いかなる物品でも出現させることが可能で、立派な家ですら瞬時に建てることが出来る。
破壊的な力の使用が出来ない理由は、この本の中で述べられているが、そういったことでなければ、神に不可能がないように、大師達に出来ないことはないと思われる。
この本の著者のベアード.T.スポールディングら、これらの大師達と生活を共にした人達も、かなりの能力を身に付けていく。
スポールディングは、これらの話は全て実話であると保証するが、信じて欲しいとは述べていない。
判断は全て読者にまかせるとしている。
私が、この本に書かれていることを信じているかというと、まあ、半分以上信じていないと思う。
しかし、冗談で書けるような本とも思えない。

以前、大阪大学の教授だった科学者に、「政木和三さんをご存知ですか?」と尋ねたら、彼は、「政木は私の親友だ」と言う。
そして、誠実そうな態度で、「私は政木の言うことは、多分、半分以上信じていないと思う。だが、政木は嘘を言う男じゃない」と言われたのをよく覚えている。
それを、信じていると言うのだろう。
それで言えば、私も、『ヒマラヤ聖者の生活探求』に書かれていることを信じているのかもしれない。

ところで、ヒマラヤの大師達は、自分達の力は、特権でも何でもなく、誰でも、修行することなく、即座に使えるものだと断言している。
しかし、もし、そんなことが私やあなたに出来たらどうだろう?
人間というのは、一生遊んで暮らせる金を持っただけで、ほぼ間違いなく堕落し、ほとんどの場合、破滅するのだ。
それなら、それどころでない力を得たらどうなるか、考えるまでもない。
それがよく分かったのは、ゲーテの『ファウスト』がいくらか理解出来るようになったからだ。
『ファウスト』で、神が言ったことは真実だ。
人間とは、すぐに怠惰になるものなのだ。
だから、神はゆるんだ人間に悪魔を遣わし、苦しみを味あわせるのである。
だが、逆のことも言えるのだと思う。
どれほど自由自在に出来る力を持っていても、怠らない人間であれば、神のごとき力を与えられるのである。
あるいは、自分に制約を課した分の力を、神は人間に与えるのだとも言える。
ヒマラヤの大師達も、決して怠惰になることはなく、人類のために重要な役割を果たしている。
また、彼らは、常に『バガヴァッド・ギーター』を読んでいるが、1日かけてわずかな範囲を読むこともあるという真摯な学び方である。

時々書いているが、不可思議な力なら、私は子供の時から少しは馴染んでいる。
考えてみれば、子供の頃は、不思議なほど、のんびりしようという気持ちがなかった。
大人から見れば、少しも立派なことでなく、それどころか、馬鹿なことだったかもしれないが、この胸の(心臓の中の)磁石が示すままに励んでいたのだと思う。
同じようになれば良いだけである。









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