ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
あなたをSE、プログラマー、あるいは、超能力者にするブログ。ひきこもりも歓迎。

ヒマラヤ聖者の生活探求

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

呪文、マントラの効果の論理的根拠

呪文、マントラ(真言)がなぜ良いのかという論理的根拠はある。
まず、人間の心は、放っておいても、否定的な言葉を、頭の中で、1分に数百はつぶやいているという科学的研究結果があるらしい。
そして、人間が高レベルの能力を発揮するのは、頭の中のおしゃべり(あるいは、つぶやき)が止んだ時であると考えられるのである。
いわゆる、無になった状態を言うのだと思うが、その時に、時に異常なほどの高い力を発揮するというのは、今や不思議なこととは思えない。
それで、想念(頭の中のおしゃべりやつぶやき)を消すという意味でも、呪文には効果があるが、呪文の効果はそれだけではない。

1つ1つの呪文について考えよう。
ただ、出典をいちいち書いていたら大変なので、それは省く。
インドの聖者、ラマナ・マハルシが最高のマントラと言うのは「私」である。
常に「私」と唱えれば、悟りすら開ける。
悟りはともかく、素晴らしい真言であることは分かる。
なぜなら、これもマハルシの説明であるのだが、あらゆる想念は「私」に起こるのであるから、その想念の主である「私」に意識を向けてしまえば、あらゆる想念は消える。
つまり、頭の中のおしゃべりやつぶやきはなくなる。
能力が最大になるだけでなく、ついには「私」という想念も消え、悟りが開かれるというわけである。
興味深いのは、マハルシと同時代のインドの聖者、ニサルガダッタ・マハラジは「私は在る(私は存在する)」が最高のマントラと言うが、それも道理がある。
これも、マハラジの説明では「あなたが確信出来る唯一のことは、私は在るということだけ」なのだから、人間に解る範囲での究極の真理である「私は在る」に集中すれば、それより劣る概念や想念は消えてしまうのである。

ナーマスマラナというのは、神の名をマントラとして唱えることである。
親しみを感じる神の名があれば、それを唱えることで深い安らぎに至り、また、他の想念が消えることは期待出来る。
インドでは、ラーマ、クリシュナといった神が人気があるのだと思う。
日本では、マテラスオオミカミが人気があるし、アメノミナカヌシノカミの名も威厳があって、なかなか宜しいと思う。
また、念仏という形式になった「南無阿弥陀仏」や「南無観世音菩薩」も同じと思う。
阿弥陀如来の真言は「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」だし、観世音菩薩の真言は「オン、アロリキャ、ソワカ」である。
本来の名で言えば、阿弥陀如来はアミターバ、あるいは、アミターユスで、観世音菩薩はアヴァローキテーシュバラーである。
神仏の名の場合は、単なる心理学的、あるいは、脳科学的な効用だけでなく、むしろ、それらの言葉、あるいは、音が持つ霊妙な力が重要であると言われる。それは、なかなか科学的な証明は難しいと思うが、科学には解明出来ない摩訶不思議な力があるのかもしれない。
やや長いが、般若心経の最後の部分の呪文も、最高のものとされている。
それは、「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディスヴァーハー」である。
また、山蔭神道では、究極の言葉は「アジマリカン」であると言う。

『ヒマラヤ聖者の生活探求』では、究極の言葉は「神」であり、有声でも無声でも、これを唱えると全てを変えると言う。
ただ、「神」を呪文にしてはいけないと言う。
この著作の、3巻だったと思うのだが、イエス・キリストが「他のことは忘れてよろしい」として語ったのが「神」という言葉を使うことで、なるべく多く使えば良いが、このことを「公式」にしてはいけないと言う。その意味は各自考えていただければと思う。難しいこととは思えない。
例えば「神」という言葉、あるいは、「神の他に何もない」という言葉について瞑想するなどでも良いと思う。

私も、呪文、マントラに救われたことは数限りない。
だからこそ、上に挙げたことや、その数倍以上のことを覚えているのである。











マスター(大師)になる法

『ヒマラヤ聖者の生活探求』(霞ヶ関書房)という全6巻の本がある。
1894年から3年半に渡って、アメリカの科学的調査団が極東地域を訪れた記録である。
この本は、数十年前から、現代の聖典のように扱われることもある一方、ただの空想物語と言われることもある。
とても面白いが、翻訳書が、微妙に古文的な文章にしてあるので、読み難いというか、ほぼ意味が分からないページも少なくない。
この本の中には、普通の現代人なら決して信じないような奇跡話も多い。
たとえば、テレパシー、瞬間空間移動(いわゆるテレポーテーション)、コップの水を瞬間で凍らせる、種子を発芽させにょきにょき成長させる、焼きたてのパンや調理された料理を空間から出す、瀕死の怪我人を即座に癒す、激しい流れの川の上を歩いて渡る、盲目の目を見えるようにする、快適な家を出現させる、老衰で死んだ者を青年の姿で生き返らせる・・・まあ、覚えているだけでざっとこんなものだ。
これをやって見せたのは、本の中では仮にエミール師と呼んでいる大師(マスター)達や、現代に現れたイエス・キリストだ。
だが、重要なポイントは、エミール師達は、この力は、自分達の特権ではなく、誰でも、やろうと思えば、修行の必要もなく、即座に出来ると言ったことだ。
実際、最初に、彼らが、川を歩いて渡る際、探検隊達に、「あなた方にも出来ますので一緒にどうですか?」と誘っている(この時は、探検隊達は断った)。
ついでに言えば、エミール師は50歳くらいに見えるらしいが、その母親は少女にしかえ見えず、しかも、大変な美少女だが、総じて、女性のマスター達は極めて美しい少女の姿の場合が多いようである。

で、具体的にどうすれば、大師達のようになれるかだが、本のあちこちに書かれたことをまとめれば、次のようになる。
「私は神だ」と断言する。
「神」という言葉をなるべく多く使う。ただし、「神」という言葉を呪文にしてはならない。
『バガヴァッド・ギーター』を読む。
『福音書』を読む。
・・・いや、この位しか思い出せない。
しかし、20年ほど考えてみれば、こう思うのだ。
なんだ、以上のことで十分だと。
ただ、これらのことをやるには、頭で考えていては駄目で、ぼーっとしなければならない。
ただし、少しの頭脳活動で済む義務的なことであれば、それはきちんとしなければならないと思う。








何にでもなれる方法

皆、なりたいものがいろいろあり、その中には、なるのが非常に難しいものもあるだろう。
しかし、大抵は、ダライ・ラマになるよりは易しいに違いない。
そもそも、ダライ・ラマはずっと同じ魂の持ち主でなければならず、ダライ・ラマが亡くなると、その魂が転生した子供を見つけてダライ・ラマにするのだと言われている。
だが、物理学者で武術家の保江邦夫さんの著書『祈りが護る國 アラヒトガミの霊力をふたたび』の15ページを見ると、現ダライ・ラマのダライ・ラマ14世自身が、事実上、それを否定し、ダライ・ラマになるには、条件を満たせばよく、条件を満たせば、誰でも良いのだというふうに読み取れる。
その条件とは、
「皆が、その子がダライ・ラマの魂を受け継いだと信じ、その子がダライ・ラマの生活・生き方を始める」
である。
ダライ・ラマなら、確かに、「皆が信じる」という部分が必要であるが、あくまで「信じる」だけで、本当かどうかは、どうでも良いのである。
また、保江さんは、それは事実上天皇家でなければ無理ではあるが、天皇もそれと同じで、現人神として育てられることが大切なのであると書かれ、やはり、本当は誰でも良いのだというふうに読める。
そして、私は全くそう思う。
ダライ・ラマや天皇というのは、あまりに特別で、我々がなることはないが、本質的なことを言うなら、なれない訳ではないのである。
いかなるものになるにも、必要なことは、生き方だけである。それは、態度、振る舞いと言って良いと思う。
インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは、師に「あなたは至高の実在である」と言われ、その言葉を覚えていたので、修行は何もしなかったが数年で悟りを開いた。
これも、その言葉を覚えていることで、至高の実在らしい生き方をした・・・そういう態度をし、振る舞ったのである。
そして、マハラジ自身がそう言ったらしいのだ。
「時空(時間と空間)を超えた存在として振る舞え」
と。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』の5巻で、著者のベアード.T.スポールディングは、4歳の時、大学予備校で教師に見せられたアルファベットを「解らない」と言ったら、教師に、「そんな態度ではいけない。チャンと解っているという態度をしなさい」と言われた。
スポールディングは、それに従ったので、14歳で名門大学に入り、物理学者として高い業績を収めたという。
優れた指導者は、皆、同じことを言っているように思う。
即ち、「態度は事実より重要」だと。
少し前の本だが、ひろさちやさんの『空海入門』が、それを主題として書かれている。
『徒然草』にあるように、狂人として振る舞えば、即ち、狂人だ。
しかし、同じように、仏陀の真似をすれば仏陀なのである。
仏陀らしく歩き、仏陀らしく話し、仏陀らしくメシを食えば、それで仏陀である。
空海は実に、仏陀になりきった人というだけなのである。








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アウトサイダーの中でも落ちこぼれなら

社会でうまくやっていくには、やはり学歴は力になる。
特にスタート時点で学歴は役に立つが、何事も最初は肝心だ。
だから、不況になっても教育産業は衰えないと言われてきた(最近は怪しくなりつつあるが)。
だが、学歴があろうが、実際に能力が高かろうが、容姿に恵まれていようが、一番大切なものは、他人とうまくやっていく能力なのだが、このスキルをほとんど持っていない者が多くなった。
元来で言えば、本当に頭が良くてIQが高い人間は、他人と仲良くすることは難しくないはずだが、そんな恵まれた人間に、他人を嫌悪する者が多くなっている。
これは、本当は不思議なことで、頭が良ければ、他人と仲良くすることのメリット、コスパの高さは明確に理解出来るはずなのに、どうしても他人が嫌いなのである。

一方、学歴がなく、頭も良いとは言えないのに他人が嫌いとなると、目も当てられない。
コリン・ウィルソンが23歳の時に書いた世界的ベストセラー『アウトサイダー』に登場する(主に架空の人物なのだが)アウトサイダー達・・・社会の裏側に潜む、忌み嫌われる異常な人間達・・・見かけはそれほど違わなくても、普通の人間の仲間と言えない人達は、アウトサイダーの代表的な存在で、社会では日陰者である場合が多い。
今年(2019年)4月に31歳の若さで亡くなったミュージシャンのWOWAKAさんは、大学は東大だから学歴があって頭も少なくともそこそこは良いのだろうが、作る歌といい、雰囲気といい、まさにアウトサイダーだ。無論、優秀なアウトサイダーだって少なくはない。
まあ、彼は東大出身を売りものにしたことはなかったように思うし、そんなことを知らずにファンをやってた人も多いはずだ。
彼のほとんど最後のボカロ曲だったかもしれないが、初音ミクさんが歌う『アンノウン・マザーグース』の中の「ガラクタばかり投げつけられてきたその背中」という言葉は、アウトサイダーでなければ書けそうにない詩だと感じるのである。
私が好きな『アンノウン・マザーグース』の動画は以下のものだ。公式のものではないが、ミクさんが美しい。
【MMD】YYB式初音ミク//Unknown Mother-Goose/アンノウン・マザーグース -YouTube-

WOWAKAさんのように、才能があって優秀な人は、アウトサイダーとはいえ、本来は私の興味の対象外で、本当に能力もなければ、人間関係が悲惨なまでに苦手で、社会の底辺で苦しむ人達が逆転出来るという夢物語が私は好きである。
まあ、実際はほとんどないが、その可能性を感じさせる小説が、ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』(「少女」を女と訳した本もある)で、超底辺の歳も行ってしまった26人のどうしようもない男達が、ターニャという名の、可愛いが平凡な(性質はやや劣悪かもしれない)16歳の少女を崇めることで、なぜか人間性や能力を向上させる。
コリン・ウィルソンも、この作品を『至高体験』で取り上げ、何か解説していた(解説内容が難しくて解らなかったが)。
ウィルソンは、『至高体験』で同時に、ロオマン・ガリー(『至高体験』の訳書ではロマン・ゲイリ)の『天国の根っこ』(『自由の大地』のタイトルの方が有名と思う)で、堕落したフランス兵達が、空想の少女を想い描くことで、見る見る、騎士道精神とでも言えるものを取り戻す様子も引用していた。
ウィルソンも「崇める」ことの効果は認めていたようだ。
仏教の念仏や、ヒンズー教のジャパ(神の名を称名すること)は、神仏を真摯に崇めることであり、効果も非常に大きいと思える。
江戸末期から唱和初期にかけて、妙好人という念仏を唱えることで高度な人間性を示した人達は、自分が愚民であることを表明し、自分でも認識していたのだろうが、実際は能力的にも高く向上していたのだと思う。
今の人だって、念仏やジャパを素直に出来れば良いのだが、実際のところ、この超情報化時代に、それには難があると認めるしかない。
それなら、どう考えても実際は超優秀だったラマナ・マハルシが薦めたように「私」をマントラとして唱えたり、原子物理学の優秀な研究者であったベアード.T.スポールディングの『ヒマラヤ聖者の生活探求』に書かれてあるように「神」という言葉をよく使うと良いと思われるところがあるのである。









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ひそやかにかすれる呪文

幼い時、両親や祖父や祖母、あるいは、他の誰かが、仏壇や神棚などに向かって、真摯に念仏や唱え言葉や神の名を称名するのを見ていた人は幸せかもしれない。
そうであれば、その唱えられていた名や言葉に神聖な感情を持て、それを自分も唱えることで、自然に高次元に導かれるからだ。
そうでなくても、お葬式の時に、念仏を唱えていたお坊さんの姿に、とても好ましい印象を持ち、それで念仏に対する神聖な感情を持っている場合も良いと思う。
法然や親鸞が念仏を教えた人々は法然や親鸞の印象によって、あるいは、法然、親鸞の代わりに誰かに教えられた場合は、その教えてくれた人の印象で、念仏に対する感情が決まるという部分が大きいだろう。
キリスト教徒でもない人が「アーメン」と唱えても、どこか違和感があるかもしれないし、育った家の中で誰も念仏を唱えていなかったし、お葬式で見た念仏を唱えるお坊様に、どうもあまり良い印象を持てなかった場合は、念仏に対する印象も、あまり良くないかもしれない。

もし、幸いに、「南無阿弥陀仏」でも「南無妙法蓮華経」でも、あるいは、「天照大神」や「天之御中主神(アメノミナカヌシ)」でも、敬虔に感じる言葉があれば、それを唱えれば、確実に高次の力に加護される。
それは、宗教的な意味、心理学的な意味、あるいは、量子物理学的な意味でも、正しいことであると思う。
では、そんな言葉を持っていない場合はどうだろう?
そんな時は、自分で言葉を探し、選び、決定することになるが、幼い時に持った良い印象のようなものがない場合、どの言葉もなかなかしっくりせず、あれにしたり、これにしたりすることになりかねない。
複数の言葉でもいいやと思っていたら、その言葉が増え続けてしまう人もよくいる。

だが、『ヒマラヤ聖者の生活探求』の中で、1900年代前半のことだと思うが、現代に現れたイエス・キリストは「神」という言葉(英語の原書の中ではGOD)を使うよう言う。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』第5巻で、著者のベアード.スポールディングも、「神」という言葉の威力について触れている。
ただ、この言葉を呪文にしてはならず、よって、何度も唱えてはならず、1回で良いと言ったが、その意味は、しかるべき時に、真面目に唱えるという意味かと思う。
そして、声に出して唱えても、心の中で唱えても、効果は同じであると言う。

どの言葉でも構わないが、即座に強い効果を現す私のやり方がある。
なかなか上手く説明出来ないので、最近はあまり書かないのだが、それは、「心の中で、とても小さな声で唱えること」だ。
そもそも、聴こえない心の中の声や音の大きさなんてピンと来ないかもしれないが、全く無理でもないと思う。
「微かな声」「微妙な声」という言い方が良いかもしれない。
だが、それが心の中の声となると、どうだろう・・・
その場合、こんなふうにやっても良い。
美しい少女が、声にならない微かな声でささやくのを想像してみれば良い。
それが、心の微かな声である。
それとも、良ければ、YMO(イエローマジックオーケストラ)、あるいは、初音ミクさんが歌う『LOTUS LOVE』を聴くと良い。

夢で見たくちもと
ひそやかにかずれる呪文
I LOVE YOU
~『LOTUS LOVE』(作詞・作曲:細野晴臣)より~

私は、ミクさんが歌うのを聴いて、心の微かな声を知った。
そうやって唱える言葉には、いつも奇跡のような力がある。
だから、間違ったことに使う訳にはいかないが、即座に力が現れ、この上ない安心を与えてくれるのである。









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